Ep.4 KOKKURI

「チェッ。また怒鳴られちまったよ……」


 ボクは電話がてら散歩に出て、久しぶりに海岸の遊歩道のあたりまで行ってもどって来た。

 リンコアネキが好き勝手に改装した後の宇奈月医院を海側から見るのは、だから初めてのことになる。

 ボクはクラシックな洋館らしい建物が気に入っていたから、二階まで吹き抜けになった総ガラス張りの診察室の外観を複雑な想いで眺めた。


 今も建物のあちこちに監視カメラが設置されたままだが、昨年の事件が終結してからは、プライバシーを侵害するようなカメラはスイッチが切られているようだし、ヤスジローは、たまに〝のぞき〟の趣味を満たす程度にチェックしているだけらしい。


 だけど、さっきアネキが言ってたように、本当にCIAだのアメリカ軍だのに狙われているんだとしたら、相当厳重な警戒体制を、すくなくともこの建物の周辺だけでも敷いてもらわなくちゃならない。

 オトシマエに怒鳴られたのは行く先も告げずに家を出てきてしまったからだけど、電話するのにわざわざ医院の外まで出てきたのは、水谷やヤスジローに混み入った相談を持ちかけなければならなかったからだった。


 ボクはガラス壁に面したテラスから入った。

 アネキはボクが出ていったときと同じく、優雅にタバコをくゆらせながらパソコンに向かっている。違っているのは、灰皿が山のようになっているところだけだ。


「のんきにどこ行ってたの。ホラ、これ見て見て!」

 ボクがこんなにアネキの身の安全を心配してるというのに、本人はまったく気にする様子もなく、得意そうにラップトップを指さした。

 何を示すグラフかわからないが、生体から得られた数値だとしたら異常なのは明らかだった。一か所が完全に水平になっているのだ。ゼロということだろう。


「これもやっぱりあの男のデータかい?」

「そう。彼の、いわば感情の起伏を時系列的にまとめてみたの。上下動にほとんど幅がないのはプロであるなによりの証拠だけど、それにしてもおかしいと思わない? 彼は一時的に完全に意識を喪失した状態だったってことになる。たとえ眠っているときだって、人はだれでも感情の動きを止めることはできない。だから夢を拒むのも無理なわけ」


「すると、男には何が起こったんだ?」

「まさに異常事態ね。長期間にわたって、よほど強力な睡眠薬を投与されていたとか……」


「時系列と言ったよね。それ、いつくらいのこと?」

 アネキがグラフ下のバーをドラッグすると、画面がズームアップしてフラットの期間の幅がずっと広くなる。

「人の記憶は、当然のことながら時間が経つにつれて薄れるし、前後関係とかもどんどんあいまいになっていくものよ。だからはっきりとは特定できないんだけど……そうね、およそ十二、三年前ってとこかしら」


 十二、三年前……

 ボクの脳裏に何かひっかかるものを感じたけど、国際的な舞台で暗躍するような男なら、どんな大きな事件や紛争に関わっていたっておかしくない。


「CIAのエージェントだったら敵に洗脳されたとか、軍人なら瀕死の重傷を負って昏睡状態だったとか、そういうことかな?」

「かもね。でも、さらに奇妙なのは、空白の前後でほとんど精神状態に変化が見られないことなの。ふつうに考えれば、精神障害やトラウマが残ったり、すくなくとも異常な状態からの回復を示す曲線が見られるはずよ。なのに、そう……それこそ、その期間の分だけ、消しゴムで消したみたいに、記憶がそっくり欠落しているってこと」


 まともな社会生活を送っている者なら、そんなことはありえないだろう。本人に自覚がなかったとしても、家族や周囲の者との関係が以前どおりに続くはずがない。それは本人の精神状態にもかならず何らかの影響として返ってくるはずだ。


「たとえば、極秘任務で単独で異国に潜入してて、都合の悪い事実を知ってしまい、その間の記憶をそっくり消されて送り返されてきた……って、そんなスパイ映画かSFみたいな展開だったってこと?」

「もしかして、周囲も本人も承知の上で行われた人体実験の被験者だったとかね」


 リンコアネキの眼が少女のようにキラキラ輝き、生き生きとせわしなく動いている。興味をかきたてる対象を見つけたときに見せる昔ながらの表情だ。

 アネキと結婚した男たちは、きっとこんなところにだまされたにちがいない。そういうときの彼女の頭の中では、たいがい恐ろしいアイディアやとんでもない企みが渦巻いているというのに。


 ボクはアネキを現実に引きもどそうと、話題を変えた。

「今夜、聖エルザからさっそく水谷が来てくれるそうだよ」

「えっ。水谷って、あの日本人離れした、たくましくて苦みばしった――」

 アネキの表情が別の意味でパッと輝いた。

「そう。聖エルザ防衛軍を極秘に結成して、ずっと学園を守っていたんだ。頼りにするとすれば、あいつ以上に最適な人間はいないけど……」

 言いながら、ボクはどうもイヤな感じがしてきた。


「前からぜひ一度会ってみたいと思っていたのよ。じゃあ、彼が私の警護をしてくれるの? てことは、昼も夜もってことよね。だって、敵はいつ襲ってくるかわからないんだもの」

「あのねえ、あいつはチクリン校長の片腕で、ダンナでもあるんだよ」


「チクリン……て、小栗まなみのこと? まさか、そんな。何かの間違いよ。彼には、もっとずっと成熟した、大人らしいムードとカラダの持ち主でなくちゃつり合わないでしょ」

「そういう問題じゃなくてさア……まいったな。何かあったら、こんどこそボクはチクリンに呪い殺されちゃう――」


 そこでちょうどボクのスマホが鳴った。もう一人電話しておいた相手、ヤスジローだ。スピーカーにして応答した。

「ああ、宇奈月センパイ。さっそくだけど、調べてみたよ。宇奈月医院をチェックするのはずいぶん久しぶりだね。内部のカメラは、リンコさんに言われて全部オフにしてあるから、手がかりになるのは出入口と駐車場だけなんだ」


「車はちゃんと映ってただろ?」

「もちろんさ。だけど、センパイの見込みはハズレ。ナンバーを陸運局のデータで調べても該当する番号がないのさ。高速のETCや付近のコンビニのカメラにも映ってない。つまり、病院から出るたびにプレートを付け替えてるってこと。徹底したプロの仕事ぶりだね」

「やっぱりな。念のために男の映像を見せてくれるかい?」

「お安いご用――」


 ところが、気軽に引き受けたわりにはなかなか届かない。どんな面倒な要求でも数秒でこなすヤスジローにしては手際がよくない。

「あ、ゴメン。スマホじゃ見にくいから、リンコさんのPCに送ったんだ」

 ラップトップをふり返ると、例のデータのウィンドーがいくつも開いている上に、たしかに医院の駐車場の画像が割り込んでいる。


 すると、アネキがみるみる血相を変えた。

「こ、このパソコンにはメールのアプリなんて入れてないわよ。じゃあ、私のパソコンをハッキングしたのね!」

「まあ、そういうこと。セキュリティが甘々だからね。大事なデータが大量に入ってるらしいから、建物の万全な監視システムも含めて、後でぼくがまとめてお手伝いしてあげるよ」

 ヤスジローが例によって子どもみたいな明るい声で言う。


 アネキはショックを受けてくたくたとイスに座り込んだけど、ボクの眼は送られてきた画像にクギづけになっていた。

「これじゃ、かろうじて小柄な体格らしいとわかるだけで、人相もなにもはっきりしないな」

「そうなんだ。出入りのたびに、この男はすばやく野球帽とダブダブのジャケットを身に着けてるってこと」


「ちょっと待って。診察室では、そんなうっとうしい格好してたことはないわよ」

 アネキが口をはさむと、ヤスジローも慎重な声になって言った。

「てことはつまり、この男には秘密の監視カメラの位置もバレてるし、内部ではカメラが作動してなかったことも気づかれてたんだ。やっぱりスゴ腕だよ」


「たしかに。カメラには、かならず帽子のツバで顔を隠したところが映ってるが……」

 ボクには、なぜかその点がひっかかった。

「うつむいて顔を見られることを徹底的に避けてるよね。それか、横顔によっぽど個人を特定されてしまうような特徴が……例えば大きなアザがあるとか?」

 ヤスジローの質問に、アネキはあっさり首を横に振った。

「もちろん、愛想笑いなんかされたらかえってゾッとするような容貌だった気が……でも、ごくふつうのさえない中年男だったわ」

 リンコアネキには、好みのタイプ以外はちゃんと注意する価値もないのだろう。


「それにしても、つねにカメラのほうを向いてる。ずいぶん挑戦的な態度だよね」

 ヤスジローの言うとおりだ。

「ほら、チラッと眼が見える。こっちをあざ笑ってるんだわ」

 ようやくアネキも相手の恐ろしさがわかってきたらしく、神経質に腕をさすっている。


「なんだ、そうか――」

 ボクの頭にひらめくものがあった。


「姉さんは心理やデータの面倒な分析は得意かもしれないけど、だれでも気がつきそうなところを見過ごしてるよ」

「どういうこと?」

「ヤツにはカメラに正対する必要があったんだ。そうすることで、画像をチェックするヤスジローやボクらからは隠せるものがある。特徴のある体型さ」


「そういえば、リクライニングのチェアに寄りかかるのがちょっとつらそうに見えた……」

「背中が奇妙な形に曲がっていたんじゃないか?」

「え……ええ。まさにそうよ!」

「てことは――」

 ヤスジローの声が上ずった。彼も気づいたのだ。


「やっぱりね。こいつはスナイパーなんかじゃない。かつて『若』の右腕だった男、双極拳の陰の座の使い手、柴田という男だよ」

 ボクは確信をこめて言い切った。

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