Episode 3 Elza Heights Dreamin' Again ―― 今ふたたびのエルザハイツ

Ep.3 HARUNA 1

「お……とおさん、なの?」


 あたしのおずおずとした問いかけに、相手はコクリとうなずいた。

「きみからどんな風に見えているのか……まあ、だいたいの想像はつくけど、それはきみが私という存在に対して抱いているイメージの投影であってだね、つまり――」


「めんどうな説明はいいよ。とにかく、ローレンスなんだね?」

「ま、そういうこと。でもね、父親というのは、とりわけ妙齢の娘からどう見られているのかは、どうしても気になるものなんだよ」

 ローレンスは照れくさそうに苦笑しながら言った。

「なら心配いらない。十分イイ男だからさ」


 あたしはウソはついてない。

 あたしが初めて会ったときの生意気な高校生の姿じゃなかった。あたしはたぶん、彼が父親だとわかって以来、ローレンスに想いをはせるとき、知らず知らずのうちに自分なりの父親像を作り上げていたのだろう。


 白河祥子が夢見るように 恋いこがれたイケメンで、あたしが目撃した予備校講師みたいにふぬけたりしてなくて、姫が年下の高校生の外見にもかかわらず心惹かれたほどの知性と魅力にあふれた男性が、理想的に年齢と経験を重ねた一五年後の姿――それこそが、今こうしてあたしの前に立っているローレンスだった。


 でも、まさかここで彼と再会できるなんて、思ってもみなかった。

(え……ここ? ここって……)


 長い廊下がむこうまでつづいている。

 といっても、ローレンスが『記憶の宮殿』として使っていた豪華絢爛なヴェルサイユ宮殿ではない。古びて黒ずんだ木造建築。でも、きれいに磨き上げられた床板や壁が、重厚さと気品を漂わせている。

 見上げると、黒塗りの表示板に『理事長執務室』と彫られた文字があった。


 そうか――聖エルザ。

 現在のあたしにはまだそれほどなじみがなく、こういうたたずまいもドキドキするくらい新鮮に感じられるけど、生まれてからの数年間はここが家も同然だったはず。毎日おふくろやママに連れられてやって来ていたのだから。


 泣いたりちょこまか動きまわって遊んだりすれば、教務室では当然他の先生方の迷惑になる。だから、あたしが忘れているだけで、記憶の底にいちばん鮮明に残っているのは、この管理棟の最上階なのにちがいない。

「じゃあ、ここはやっぱりあたしの記憶の中でいいんだね?」


 あたしがエルザハイツにやって来たのは、こう考えたからだ――

 第一に、これ以上悪夢に振りまわされるのを避けたいなら、夢の中でもがいているより、自分が忘れてしまっている記憶を取りもどすことを考えたらどうだろう、と。


 第二に、しかし、記憶を探すといっても、あたしには、何百年も人格転移を重ねてきたローレンスが精緻に構築した〝記憶の宮殿〟なんていう便利な探索方法はない。

 だけど、〝宮殿〟はなくても、自分なりの入口さえ見つけられれば、もしかしたらその先にある失われた記憶になんとかアクセスしていけるかもしれない、と。


 そして第三に、ローレンスのように自在に記憶に出入りすることは不可能だろうが、〝入口〟というのも象徴的なものだ。それは意識の中に存在する。

 だったら、同じく意識が作り出す夢の世界でなら、その入口に達することができるんじゃないだろうか……


「直接エルザハイツに来て、あなたの隠れ家を身近に感じれば、きっとあのとき見た記憶のドアが見つかると思ったんだよ」

 あたしはローレンスに、自分がここに来ることになったいきさつを手短に話した。


「ずいぶんあぶなっかしい理屈と無謀な計画だな。しかし、それをほぼ直感でさとったのは、さすが私の娘だと思う。それに、直感というのは、それを信じて実践に結びつけてこそ意味を持つ。きみのその行動力には、私もちょっと驚かされるね」


 ほめられれば嬉しくないわけがないけど、あたしだって怖かった。

 なにしろ、悪夢の現場と唯一の希望を託せそうな場所が、至近距離で重なり合っている。もしかしたら、恐怖心が悪夢を増殖させてしまい、二度と脱け出せないような精神の底なし沼のほうに迷い込んでたっておかしくなかったかもしれない。イチかバチかの賭けに限りなく近かったのだ。


 いきなり周囲が光に満たされたと思うと、あたしはブレザー姿のローレンスと並んで走っていて、隅田川にかかる永代橋の上に差しかかったところだった。

 これはよく憶えている。入学試験を受けるために聖エルザに向かっている場面だ。

「そう。きみは夢という回路を通ってここまで到達した。私の記憶の扉のイメージをちゃっかり借用してね。そこを入れば記憶に到達できると、固く信じたから可能になったんだ」


 ローレンスは、ブレザーのすそを颯爽と川風にはためかせながら、あたしの本気の走りにまったく引けをとらない、大きくて優雅なストライドで並走している。

「でも……あなたは、こうやってあたしと会話しているよね。あなたの記憶の中では、昔あった事実を客観的に見られるだけで、そこにいる人たちとコンタクトすることはできなかったはず……じゃあ、あなたはあたしが見ている夢ってこと?」


「いいや。私はきみの夢でも記憶でもない。実在の意識さ。きみの意識が私の記憶を旅したのとちょうど逆――つまり、私はきみの記憶にまねき入れられたのだ」

「すると、あのときあなたは息も絶え絶えにもう無理だって言ってたけど、あたしに乗り移って生き延びられたってことなんだね!」


 ローレンスの死は、あたしが聖エルザに入学するときに起きた一連の事件で、もっとも悲しい出来事だった。


 姫の遺言を手がかりにして探し求めた『恋文屋ローレンス』が、ほかならぬあたしの本当の父親で、あたしを産んだ実の母親が姫だったという事実を知ったのは、彼が転移した『若』とともにエルザハイツの窓から転落していくわずか一〇分ほど前のことだった。

 あたしがちゃんとローレンスの娘だとわかって彼と接することができたのは、そのほんのつかのまの時間にすぎなかったのだ。


 本当の母親というのは、そうとわかった時点で疑いなく身近な存在に感じられる。だけど、父親との関係は、いっしょに過ごした時間や体験、話し合ったことがらが積もっていく中で実感していくものだ。

 ほかに三人も父親がいるあたしは、そのことをだれよりもわかっている。なのに、ローレンスとの時間はあまりにも短かすぎた。


(これであたしは、もう一人の、そして本当の父親ともいっしょにいられるんだ……)

 たぶんローレンスは、嬉しさのあまり舞い上がってしまいそうなあたしの表情に気がついたのだろう。とまどったように視線をそらし、渋い顔をして小さく首を振った。


「残念ながら、生きたリアルな存在とは言いにくい。残留思念という言葉は意味がぜんぜん違うんだが、でもそれと似たようなものかな。きみは私を失いたくないと強く願い、私もやっと本当の父親だと知ってくれた娘と別れるのはたまらなくつらかった。二つの想いがつながって、私の一部がかろうじてきみの中に残ったのさ……そう、〝残留人格〟とでも言うべきか」


「ざんりゅうじんかく……何だい、それ?」

 うち沈んだ口調で言うローレンスに、あたしは急に強い不安にかられて視線を向けた――

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