Ep.1 HARUNA 4

 あたしは、降りしきる雨の中を、市ヶ谷のほうから外濠公園沿いの裏道を全速力で駆け上がった。


 深川の家に行った日からぱったり悪夢を見なくなり、かなり体調がもどってきていた。雲行きがかなり怪しかったのに、「ちょっとくらい濡れたって平気だ」と調子に乗ってロードワークに出てしまった。まもなくポツポツと大粒の雨が降りはじめ、飯田橋の手前でとうとう引き返すハメになったのだった。


 雨脚はぜんぜん弱まる気配がなくて、路面が白く泡立って見えるほどだ。

(おっと――)

 ようやく聖エルザのレンガ塀にさしかかって安心したせいかもしれない。塀際に汚い布の袋のようなものが置いてあるのに気づかず、つまずいて転びそうになった。

 反射的にふり返ると、そのかたまりがモソッと動き、すり切れたウォーキングシューズがはみ出した。


「だ、だいじょうぶ?」

 呼びかけると、よれよれのコートのフードの下からのっそりと首がもたげられた。残り少ない白髪が、雨で落武者みたいに後頭部にべっとり張りついている。顔は日焼けしたように黒ずんでいて、どう見てもホームレスにしか見えない。しかもかなりの高齢だ。


「ねえ、こんなとこで寝てたら死んじゃうよ……」

 言いかけて、もしかしたらそれが冗談にならないかもしれないと気づいた。

(どうしよ……)

 裏門はすぐそこだが、まだ部活の時間の真っ最中で、授業中より人眼が多い。女の子たちに見られたら、まちがいなく悲鳴の大合唱になるだろう。

 かといって、パパやママに無断で見知らぬ人をログハウスに入れるわけにもいかなかった。


(そうか! あそこならいいかも――)

 あたしはホームレスのおじさんをなんとか立ち上がらせ、やせ細った身体を抱えるようにしてログハウス専用の通用口から構内に入った。二人ともずぶ濡れなのがさいわいして、ひどい臭いもあんまり気にならない。


 建物の裏をぬうように移動して、だれにも見つからずにエルザハイツまでたどり着いた。

 父親のローレンスがずっと学園内との行き来に使っていたという、秘密の入口から物置に入る。ここは鍵は必要なく、開け方の要領さえわかれば出入りできるのだ。


 あたしは手早くタオルでおじさんの頭を拭いてやり、何枚もの毛布で身体をくるんだ。

 物置には、代々の寮生が後輩のために残していった衣類や寝具があるし、防災グッズとか緊急用の食糧などの収蔵庫にもなっている。


「ここは……?」

 おじさんは、キョロキョロと不安そうにあたりを見回した。

「聖エルザ学園の中だよ。安心して」

「聖エルザ……そうか、またここに来てしまったのか」


「また、って?」

「昔、ここに勤めていたんだよ。入れてもらえないのはわかっているのに、気がつくとついフラフラとこのあたりをうろついてしまっているのだ」 

 ちょっとボケが入っているらしいおじさんは、感傷的な声で言った。


「先生だったの!」

「ああ。生徒も校舎も、何もかも素晴らしい学園だったなあ。なのに……なのに、私は……」

 あわれっぽく言うと、おじさんはいきなりガタガタと震えだした。後の言葉がつづかない。身体がすっかり冷え切ってしまったらしい。


 いくらホームレスだって、聖エルザに関係があった人だというなら放っておくわけにはいかない。こうなったら、できるだけのことはしてあげよう――あたしはそう思った。


 廊下に首を出すと、寮が閉鎖されているエルザハイツはシーンと静まりかえり、人の気配はまったくなかった。

 足元のおぼつかないおじさんの手を引き、あたしは大浴場のある三階まで昇った。


 空き家になったエルザハイツは、今は緊急時の宿泊施設になっていて、思ったとおり、いざというときすぐ使えるように、水やガスも止められていなかった。さすがに大きな浴槽にたっぷりお湯を張るわけにはいかなかったから、代わりに湯加減を熱めに調節したシャワーで我慢してもらうことにした。


 見ちがえるようにきれいになったおじさんは、あたしが物置から見つけてきたフリルのついたパジャマを着て、風呂場から出てきた。

 あたしは笑うのを必死でこらえた。


「あ、ありがとう。あったかいお湯で身体を流すなんて、いったいどれくらいぶりだろう。生き返った心地がするよ。キミのような親切な生徒にめぐり会えるとは……やっぱりここは聖エルザだなあ」

 あたしの手にすがって古い急な階段をそろそろと降りていきながら、おじさんは感激のおももちでグスッと鼻をすすり上げた。


「雨はまだ降りつづきそうだよ。衣服は洗って乾燥機にかけとくから、今夜はきゅうくつだろうけど物置に泊まってね。明日、校門が開く前に脱け出させてあげる」

「いいのかね、そんなに世話になって……」

「遠慮なんかいらないよ。お腹がすいたら、非常食のカンパンとかカンヅメでも食べて。……そうだ、いざっていうときに役に立つと思うから、防災バッグをひとつあげる。薬品とかいろいろ便利なものが入ってるし、食べ物をつめられるだけつめていけばいいよ」

 後でパパとママに報告すれば、きっと許してくれるだろう。あたしは当然のことをしているだけだ。


「な、なんて優しいんだ。そういえば、私が学園を去るとき、キミと同じように一人だけ『残りたければ残っていいんですよ』と言ってくれた少女がいたなあ……ああ、たしか織倉美保という名前だった。彼女は若くして学園長になったと聞いたが――」

「その人なら、あたしの母さんだよ」

「おお、それは嬉しい偶然だ! では、キミの名は?」

「宇奈月春菜」

「なに? では、あの子は、白雪和子の仲間だったあのひょうきんな男子生徒と結婚したというわけか。そうか、そうだったのか……」


 そういう誤解が生じるのは当然だったけど、あえて説明するのは面倒だし、真実はけっして明かせないのだ。

 それより、ボケかけているこの老人が、姫をはじめクルセイダーズの名を苦もなく思い出したことが不思議だった。


「じゃあ、あなたの名前は?」

「名乗るほどの価値などないが、これだけよくしてもらったのだからね。私は……森崎という者だ」

〝もりさき〟……

 どこかで聞いた憶えがある気がするが、すぐには思い出せそうになかった。


 あたしの手と階段の手すりにすがってようやく一階まで降りきると、おじさんはどこからかレンズの端が欠けたメガネを取り出してかけ、階段の上をふり返った。

「はて……あんな大きな風呂場が三階にあるなんて、ここはいったいどの建物だね?」

「忘れたの? 女子寮のエルザハイツだよ」

「エ、エルザハイツだって!」

 あんまり大げさな驚き方だったので、あたしのほうがビックリした。


「そんな、まさか……ここは焼け落ちたはずだぞ。もうずっと、ずっと前に……」

「な、何言ってるの?」

 と、そのとき――

 あたしたちが見上げているまさにまっ正面で、ピカッとまぶしい光がひらめいた。二階の窓いっぱいに、エルザタワーのメタリックな側面が白々と輝いているのが見える。そこに反射した雷光が、階段ホール全体を青白い光で満たした。


(ここだ――)

 あたしは、その一瞬に覚っていた。

(この広い階段ホールこそが、あたしがハンニャの面の人物を目撃した場所――あの悪夢の舞台になった場所だったんだ!)

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