聖エルザ Daydream Believer〈夢追娘〉

松枝蔵人

  聖エルザ Daydream Believer〈夢追娘〉

Prologue

Prologue Golden Slumbers ―― サイアクのうたたね

 おふくろの背中は広くて、たくましくて、そしてあったかい。


 ……はずなのに、今は鍛え上げられた筋肉がキュッと固く緊張し、おまけに冷たくジットリ汗ばんでいる。

 いったいどうしたっていうんだろう?


 支えてもくれないのは、でも、いつものことだ。背負ってるってことは、何かしてて両手がふさがってるときだからだ。抱っこしてあやしてくれたこともないけど、そんなことあたしだって期待していない。おんぶしてもらいたければ、自力でぶら下がればいいのだ。


 そういえば、なんだかジリジリ後ずさっているような気もする。

 おふくろが何をしてて、その向こうで何が起こっているのか、どうしても知りたくなった。

 あたしは肩にかけた手にせいいっぱい力をこめ、モソモソと身体を持ち上げていく。


 ――と、そのときだ。

 おふくろの手がいきなり肩越しに伸びてきて、あたしの両腕をガシッとつかんだ。

 と思うと、あたしはサッとかがんだおふくろの頭の上をアッというまに越え、軽々と宙に舞っていた。


(おふくろが……あ、あたしを投げた……ブン投げたっ!)


 なんてこと!

 だけど、驚いてる間にも、あたしの小さな身体はクルクル回転しながらものすごいスピードで飛んでいく。えらく暗い空間だが、冷たい空気を切り裂いていく感覚は恐ろしいほどはっきりわかる。


 向こうから何かが迫ってくる。

 急速に大きくなっていくのは、ボーっと白く浮かんだ人の形をしたものだ。なんだか奇妙な形の衣装をまとっているみたいだ。

 そして、その顔がどアップになったとき、あたしの心臓はこんどこそ止まりそうになった。


 とても人間とは思えない。額からは二本の凶々しいツノを生やし、クワッと頬まで裂けた口からは尖ったキバをむき出し、眉間に深いシワを刻んだ両眼が燃えるような怒りをこめてこちらをにらみつけてくる……




「あっ」

 思わず上げた自分の声が、どこか別の世界のほうから聞こえてきた。


 同時に、身体がビクンと勝手に反応して、つんのめるように両足で床を蹴っていた。

 ガシャガシャガシャンと何かが激しくぶつかり合う音がしたと思うと、あたしの下で「ぎゃあ」っとひきつぶれたような悲鳴が上がった。


 ハッとして顔を上げる。

 ボカンと驚いた表情やあきれた顔、思わずプッと吹き出すヤツ……教室じゅうの視線があたしにむかって注がれていた。

 なんと、あたしは前の女生徒の頭上を飛び越え、三列前の度の強いメガネをかけた男子を下敷きにして床の上にはいつくばっていたのだ。


 あたしの机と椅子は倒れ、教科書とノートが派手に散乱している。巻き込まれた者は机にしがみついたり、椅子からずり落ちたりしてて、列はひどくいびつな形に曲がっていた。

 大騒ぎになっていないのが不思議なくらいの惨状だ。あたしの蹴りをあやうく食らいそうになった女の子は、恐怖の表情を顔に張りつけたまま隣の男子に抱きついている。


「……だいじょうぶなのか、宇奈月?」

 声をかけてきた古典の教師も、心配しているというより、むしろ何が起こったのか理解できずにとりあえず何か言ってみたっていう風だ。


「あ、いや、まあ、ハイ……顔、洗ってきます」

 その場を取りつくろう余裕さえなく、あたしは逃げるようにフラフラと教室を出た。


 無人のトイレで顔を洗い、それでも足りない気がしてショートカットの頭にザバザバと水をブッかけた。

 やっと少し人心地がついて、あたしは鏡をのぞきこんだ。

 まだ肩で荒い息をしている自分が映っていた。ズブ濡れだからってこともあるけど、なんてひどい顔をしてるんだろうと思う。


(とうとう授業中の居眠りにまで出てきちゃった……)


 そうなのだ。同じ夢をこのところくり返し見ている。

 どういうわけでああいう状況になったのか、前後のつながりはよくわからない。


 最後に出てくる恐ろしい鬼女の相貌は、今なら能とかで使うハンニャのお面だってわかっている。だけど、たとえ知ってたって、夢で出っくわしたときの生々しいおぞましさはけっしてやわらぐわけじゃない。


 いや、おふくろの背中にかじりついていた頃のあたしなんかに、そもそもそんな知識はありっこない。そのときの光景がトラウマみたいになっていて、あの場面に遭遇するたびにパニクってどうにもならなくなってしまう。


 真夜中に汗だくで跳び起きたりすると、もう怖くてなかなか寝つけなくなる。やたらに居眠りするようになったのは寝不足も大きな原因だった。


 そう、それに……

 おふくろがあたしを投げた――


(まさか、あの人がそんなことするなんて……!)


 

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