第29話 舵を取る

『久しぶり。週末暇? 大学時代みんなでよく通った居酒屋まだやってるんだって。十八時集合ね』


 たったの四文だったが、麻里らしさが滲み出ている文章だった。週末が空いているかどうか訊いておきながら、答える前に約束を勝手に結ばれる。懐かしい感情が体に蘇った。


 当日、約束の場所には麻里以外にもう一人、スーツ姿の男がいた。例の副部長とは違う。一体誰だ、と考えを巡らした。


「変わんないね船越。あ、紹介するね。こちら甥の浦田裕貴。警察官なの」

「こんばんは。浦田裕貴です」


 敬語も使っているし、きちんと挨拶の際に頭も下げてきたのだが、随分とふてぶしい態度だった。よく言えば堂々としているとも言えるのだが、そう思えないほど良い印象は受けなかった。


「いやあ、これでも一応人妻熟女だからね。男と二人きりで飲むのはちょっとってことで裕貴を連れてきたの」

「それ本気で言ってます?」

「一定の層から需要があるのは事実?」

「すみません、帰りますね」

「待って待って冗談だって。船越が全然そういうキャラじゃないのはわかってるから」


 店の中に入り、店主と麻里が久しぶりだどーのこーの、と挨拶を交わす。サービスでもらった唐揚げを食べながら、近況報告をし合い、アルコールも多少回ってきたところで麻里が本題を切り出した。


「実は世界初の人魚研究専門機関・Mermaid & Merman Laboratory、通称・MMLってのが組織されることが決まったの。その運営と建設にうちのセイレーン社も出資することになった。何て言ったって人魚の名前を冠する会社だしね」

「は、はあ」


 話が見えない船越は気の抜けた相槌をつく。


「その所長を船越にやってもらいたいなと思って」

「はあ……は?」

「え、嫌?」

「嫌というか、第一発見者の八尾比でもいいし、それこそ麻…汐入さんでいいじゃないですか。経歴や実力を考えても、間違いなく俺より適任でしょう」

「八尾比博士はできない深い理由があるの。私にはセイレーン社経営がある」


 人魚研究機関の所長。名誉ある称号。船越にとって魅力的な話であることは確かだった。しかし、今の船越にかつての栄光を取り戻すことができるのか自信がなかった。それに加えて話が急すぎる。


 黙り込んだ船越を見て、前のめりで話していた麻里は椅子に浅く座り直す。明るかった表情も一瞬にして恐ろしく冷たい顔に変わった。


「裕貴、写真」


 麻里にそう指示された彼はスマホを取り出し、ある写真を見せてきた。船越はその写真に釘付けになる。少年の写真だった。血色の悪い右脚には痛々しい噛み跡があり、その傷を中心に鱗のようなものが付いている。


「……これは?」


 船越が尋ねると、麻里が答える。


「私の息子。ニュース見ていないのね」

「ええ、最近は見る暇が中々なくて」


 人魚発見以降、海洋関係者は忙しくなった。もちろん船越もその一人であり、毎朝の習慣であったニュース視聴も気づけばしなくなっていたのだ。


「人魚に襲われて、脚を噛まれたのです。そこからまるで人魚のような鱗が広がった。我々海王会は『人魚化』と呼んでいます」


 浦田の説明に出てきた聞き馴染みのない言葉に船越は首を傾げる。


「海王会? 人魚化?」

「海王会は人魚撲滅を願う人々が集まったMML解体を目的とする組織です。人魚化しつつある玲を先導者とし、俺が会長。麻里おばさんが副会長を務めています」


 船越の頭は彼の説明を理解しようと必死になったが、全く言っていることがわからなかった。麻里は自分の会社・セイレーン社が人魚研究機関であるMMLに出資をすると言った。しかしその麻里が所属する海王会はMML解体を目的とする。意味がわからない。ましてや麻里は引くほどの海洋生物好きときている。なぜ人魚撲滅を願うのだ?


「船越にはMMLで息子、玲を人間に戻すために人魚化の研究をしてほしい。八尾比博士も自身が自ら被験体になるということで、参加の意志を示してくれているの。まあ、これが彼女は所長になれない理由ね」


 麻里の目的がわかった気がした。その瞬間、全身に鳥肌が立つ。船越は得体の知れない恐怖感に襲われた。その正体を確かめるべく、麻里に船越の考えをぶつけてみる。


「まさか、そのためにMMLに出資を?」

「そうよ」


 と、たった一言。彼女はそう答える。やはり船越の予想通りだった。しかしまだ理解できないことが一つだけあった。麻里は全ての海洋生物を愛していた。もちろん、その中には危険なサメやシャチ、毒を持つクラゲなども含まれる。その麻里が人魚に自分の息子を傷つけられたことで、人魚を嫌うだろうか。人魚も立派な海洋生物だ。どうして人魚だけが除外されるのか理解できなかった。


「汐入さん、人魚が嫌いですか」


 船越の問いに麻里は目を丸くする。


「何言っているの。当たり前じゃない。大切な大切な息子をあんな惨めな姿にしたのよ。許せるわけないじゃない。生かしておけないわ」


 彼女の瞳に光はなかった。その目を見て、船越はようやく理解していた。麻里は海洋生物たちを愛していたが、それ以上に自分の息子を愛していたのだ。その愛は本人が気づかぬうちに歪んでしまっていた。


 鮫だって人間を襲うことはある。人魚と何ら変わりない。それにも関わらず、自分の子供を傷つけた海洋生物が人魚だったから人魚は嫌い。それはあまりにも麻里らしくない考えだった。もう目の前の麻里は船越が憧れていた麻里ではなかった。


「船越さん、あなただって子供をこんな姿にしてしまう人魚を好きになれないでしょう?」


 浦田が尋ねてくる。


 人魚は浪漫が現実になった素晴らしい生き物だ。その人魚が大好きだった先輩をこのように変えてしまった。今の船越は人魚が、


「嫌いだ」


 そう思った。


 半年後、MMLが完成した。船越は麻里の大学時代の優秀な後輩で、彼女の推薦ということで所長に就任したと公には発表された。


 所長になってから、初めて八尾比と顔を合わせた。麻里に連れられながら所長室に入ってきた八尾比はどこか怯えているように見えた。


「初めまして。船越隆之介です」

「八尾比丘尼子です。よろしくお願いします」


 研究は地下研究所で行うように麻里から言われた。さらに人魚化は間違いなく世間でタブー視されるとのことで、くれぐれも内密に研究を行うよう再三念押しされた。


 研究は玲と同じ右脚に人魚の唾液を注入することから始まった。アナフィラキシーショックを起こす可能性も十分に考えられたが、彼女はそれを受け入れた。


 八尾比は大丈夫と口では言うが、体はかなり震えており顔色も良くなかった。


「無理なら言ってください。急がなくてもいいと思うので」


 と、船越は手に持っていた注射器を机の上に置こうとした。その手を八尾比が掴む。


「……正直言うと、汐入さんの後輩であるというあなたが怖いの」


 彼女は船越と目を合わせないようにしながら呟いた。怖がっている理由が船越自身ではなく、麻里の後輩であるというところに引っかかりを覚えた。


「あなたが悪くないのはわかっているのよ。船越さんだって訳ありなのでしょう?」

「だって、ということは……」

「ええ、私も少々訳ありなの。お互い内容は知らない方が身のためかもね」


 彼女は作ったかのような笑みを浮かると、一度だけ長い深呼吸をした。


「落ち着いたわ。あと、先に謝っておくわね。やはり私はあなたのことを怖がるままかもしれない。だけど決してあなた自身を苦手と思っているわけじゃないから」


 心優しい人だな、と船越は思った。もちろん顔つきや立ち振る舞いから優しさは滲み出ているタイプの人だったが、いざ目の前で見るとより一層それを感じた。


 八尾比が注射器を持っている船越の腕から手を離す。


「人魚化だなんて、浪漫があるわね。彼女たちと一緒に私も海を泳ぎたいわ」


 自分に言い聞かせているのか、本心なのか、船越にはわからなかった。


 それからまたしばらくして、天海という男が入所してきた。マーマンを世界で初めて発見した男であり、成績も優秀。人望も厚く、かつての麻里を見ているようだった。彼は変わらずに皆の憧れのままの存在であってほしい、そう願った。


 翌年、天海の直接の後輩でもある網野という男がやってきた。第一印象は人魚馬鹿だった。人魚を特別に愛する麻里といった感覚だった。研究対象である人魚を識別番号ではなく、名前を付けて呼ぶ異常な愛着持つ彼を見る度に、歪んだ愛を持つ麻里が脳裏にチラついた。どうか道を踏み外さないでほしい、と願った。


 さらに次の年、釣井という女が入った。一言で言うと網野馬鹿だった。大学時代、海洋生物学とりわけ人魚に付いて学んできたとは思えないほど、人魚への知識が浅く、人魚が好きかどうかも怪しかった。しかし網野に自分を見てもらおうと努力する姿勢は目を見張るものがあった。


 皆、思い思いに生きていた。


 船越にはできなかった生き方だった。


 窓を空けると、潮風が部屋の中に入り込んできた。その風は日々の憂いを吹き飛ばしてくれたような感覚がした。


 過去の栄光と麻里と過ごした過去に縛られてきた人生だった。


 もうそんな人生は嫌だ。もっと自由に生きよう。そう誓った。

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