逃亡編

第6章

第27話 仲間

 カーテンを閉め切った暗い部屋の中で網野のスマホの着信音が鳴り響く。バイブレーションによってスマホが机の上を移動し、今にも落ちそうだった。網野は眠い目を擦りながら、ソファから起き上がる。スマホの画面を見ると釣井の名が表示されていた。着信許可を押し、応答する。


『網野先輩! MMLが大変なんです! 死人も出てるし、研究資料も無くなってて。それにティナちゃんもすごく怯えてる!』


 彼女の慌てようも無理はない。あの有様だったのだ。かなりの騒ぎになっているはずだ。死人というワードには多少引っ掛かりはしたが、ティナを怖い目に合わせてしまったのは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。自分の不甲斐なさを恨んだが、一先ずは後輩も安心させなければいけないと、網野は冷静に答える。


「資料なら大丈夫。金庫に入れてある」

『入れてあるって、先輩まさか……私と別れた後、MMLに戻ってたんですか』

「…………ああ」


 網野の返事を聞いて、釣井が何を考えているのか。表情が見えない電話越しでは想像さえつかない。


 網野と玲はMMLを出てすぐにタクシーを拾って、網野の自宅まで避難した。郊外にあるマンションの一室だ。寝ていないこともあり、疲れきっていた網野はそのままソファに倒れ込み、眠りについていた。玲も網野のベッドを借り、今もぐっすりと寝ている。彼も彼なりに疲れたのだろう。


 少し間を空け、釣井が叫ぶ。


『とにかく、早くまたMMLに戻ってきてください!』


 どこか怒っているように感じる声音だった。しかし、今の網野は彼女の望みを叶えてやることができなかった。


「ごめん……今狙われてるんだ。下手に動けない」

『…………何よ、それ』


 怒りから嗚咽に変わる。啜り泣く声さえもわずかに聞こえてきた。


『天海先輩がいなくなって、どうして網野先輩までいなくなるんですか……。全っ然、私を頼ってくれないし……。少しくらい私を見てくれたっていいじゃないですか! もっと頼ってくださいよ! いつも一人で先に進んでばっかりで……、たまには振り返ってください! 一人じゃないんですよ!』


 返す言葉がなかった。「巻き込みたくなかった」なんて言い訳が通じないのはさすがの網野にもわかった。ただ、代わりの言葉が見つからない。彼女の泣き声を聞きながら、網野は黙り込んでしまっていた。


『……ティナちゃんは? ティナちゃんはどうするんですか?』


 最愛の人魚の名前を聞き、彼女が震えている姿が頭にありありと思い浮かぶ。意味のわからない連中に襲われそうになった。あまりにも理不尽だった。自分で守ると誓ったのに。


「もちろん、助けに行く」


 でも今は……。


 どうすればいいのかわからなかった。網野も何が何だか、全くわかっていないのだ。


 奴らが一体何者なのか、どうしてティナが狙われているのか。


 それに玲の人魚化のことも。


『あ、ちょっと』

『網野さん聞こえますか』


 釣井の素っ頓狂な声の後に聞こえてきたのは大波田の声だった、


『俺の同僚が網野さんの研究室で死んでました』

「それは」

『わかってます。網野さんは人殺しなんてできるような人じゃない』


 大波田は淡々と続ける。


『心当たりがあるんです。今夜、話す時間をもらえませんか』


 心当たり? 彼が何を話すつもりなのか見当も付かないが、今はとにかく情報が欲しかった。網野は大波田の提案を快諾する。


『それでは夜の九時。釣井さんを連れて、網野さんのお宅へ伺います。場所は釣井さんが知ってますよね?』

『はい、わかります』

『それじゃあ大丈夫ですね。また必要なものがあれば言ってください』

『あ、私に連絡してくれれば大丈夫です!』

「助かります大波田さん。釣井もありがとう」


 二人に感謝を述べ、通話を切った。


 一人じゃない、か。釣井に言われた言葉を噛み締めた。今になって、自分の周りにはこんなにも頼りになる人ばかりだったと気がついた。


 玲の言う通り、思考の不自由に陥っていたのだ。悪い意味で前しか向いていなかった。もっと周りを見るべきだったのだ。 


 スマホを机の上に置き、玲の方を見る。するとタイミングよく彼は目を覚ました。


「……誰かと話してた?」

「うん。仲間と話してた」

「仲間か。いいね」


 玲は上半身を起こし、腕を天井に向かって突き上げながら伸びをした。体の動きに合わせて服も浮き上がり、腹がチラリと見えた。色白い肌にエメラルドブルーの鱗が生えていた。MMLでは脚を一瞬見ただけだったが、腹にまで侵食しているとは。


「玲、その体をよく見せて」


 玲は腕を伸ばしたまま固まるが、すぐに網野が鱗のことを言っているのだと気がつき、ズボンを脱いだ。下半身が露になると、右脚の脹脛から下腹部までが鱗に覆われているのがわかる。下腹部はまだらといえど、股間周りもそれなりにあるだろう。


「これを見て、母さんや浦田兄さんは惨めだって言ったんだよ」


 彼は自分の鱗が生えた脚を撫でながら話す。


「僕はそんなこと全く思っていないのにさ」


 網野は彼に近づき、鱗の細部までよく観察した。見れば見るほど、偽物とは思えない。爬虫類のような鱗だった。玲は何も悲しくないと言うが、学校ではいじめられたりだとか、他にも生活上で不便を感じたりすることはなかったのだろうか。


「何も困ることはなかったの?」

「まあ、学校ではプールに入れなかったり、喉が乾きやすくなったりくらいかな。高校は行ってないし、大した支障はないよ」

「そっか」

「むしろ、海に近づいている気がして嬉しいんだ」


 確かに初めて玲に会ったとき、彼は自由な海が好きだと言っていた。不自由な陸よりも自由な海が良いと。


「そっか」


 と、二回も同じ返事をしてしまう。彼は全く悲しんでいないのだ。憐れみの言葉など必要ない。それならば一体どのような言葉をかければいいのだ。


 今まで人魚を研究してきた。網野の性格からしてもかなり多様性を認められる考え方を持っている。その二つを踏まえても、やはり人魚化というものは不穏で不気味なものがある。


 ふと、天海が八尾比の脚に鱗が生えていたと言っていたことを思い出した。玲を見てしまった以上、人魚化が存在することは認めざるを得ない。となれば、天海の話を見間違いで済ますことはできなくなる。彼の話も事実であるなら、八尾比も既に人魚化の研究をしていたということなのか?


 人魚化など、人魚撲滅派だけでなく一般人も人類の禁忌だと思うだろう。しかし人魚の有識者からすれば、人と共通する面も持つ人魚の起源に迫る研究であるとも言える。


「……博士たち、一体、何をしようとしているんだ?」

「博士?」


 玲は網野にその言葉の意味を尋ねようとした。


「こっちの話。それに今夜詳しく話すよ」


 夜に仕事仲間である釣井と大波田が来る旨を玲に伝える。その際に玲からの話を二人に共有したいし、二人の話や八尾比の話もその時玲に説明すればいい。


 長い重低音が二人の腹から鳴り響いた。網野も玲も満点すぎるその音に笑い合う。


「インスタントラーメンでも作るか」


 網野が提案すると、玲もいいねと頷く。


「僕はシーフードが良い」

「生憎、この家には博多豚骨しかないんだ」

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