第18話 遭遇

 八尾比丘尼子講演会会場。


「このように発見からおよそ十年たった今でも、人魚の生体はほとんど分かっていません。なぜ日本周辺の海だけに暮らしているのか。なぜ、ここ数年で都市伝説扱いだった人魚が多く発見されるようになったのか。そして最大の謎はその容姿。人魚と言う未知の生命体の起源は一体何なのか。


 また、この不可思議な容姿のせいで抱えている問題もあります。様々な動物たちの生活圏に人間たちが乱入することで倫理的な問題が発生することは珍しくありません。しかし、人魚と言う種族は今までに類を見ない倫理的・道徳的な問題を抱えています。伝説通り、上半身は人間の身体、下半身は魚という衝撃的な姿。つまり、キメラを連想させる姿。またメスに至っては野生の猿と同様に胸を曝け出しています。人魚の上半身の様子は類人猿よりも我々のようなホモ・サピエンスの姿に近く、教育的な問題も抱えています。つまり、人魚は今まで発見された動物の中でもとりわけ特殊な立ち位置にあり、未だに人類に受け入れられていないのです。


 私はそんな人魚と共存できる世界を目指したい。たとえ何十年掛かろうと、私が死んだ後であろうと人魚が人間と友好的な関係を築き、お互いが暮らしやすい世界になることを祈っているのです」


 八尾比がそう締め括ると、会場内から拍手喝采が贈られた。網野の隣に座っている天海の隣に座っている船越でさえも、ゆっくりとしたテンポで手を叩いていた。


 深い一礼を終えた八尾比がステージから退場すると、場内の客明かりが点灯し、各々席を立っていった。


「わざわざ講演会で話す内容なのか甚だ疑問だが、掲げる理想や人々に聞かせる演説は相変わらず立派だな。八尾比博士は」


 網野、天海、釣井が椅子から立ち上がる中、まだ座ったままの船越がステージを見つめながら口だけを動かした。天海は彼に退席を促す代わりに言った。


「素直に素晴らしかったと言えばいいじゃないですか」

「素直に感動しているし、素直に褒めているつもりだが? 唯一残念だったのが、なぜ網野や釣井と席が並んでいるのかということだ」

「不思議ですよね。もらったペアチケットは違うのに」


 網野も最近は船越のあしらい方のコツを掴んできていた。本人は不満そうだったが、こうして流しておけばいいのだ。


「所長、行きますよ。八尾比先生にお会いするんでしょう?」


 天海が八尾比の名を口にすると、船越はようやく腰をあげた。


 人魚学会の著名人が集まる講演会といえど、誰もが終演後の八尾比に会えるわけではない。しかし船越は人魚学会の要の施設・MMLの所長という大きな肩書きがある。その権力と地位によって彼は八尾比と会うつもりなのだ。網野は会うのは所長だけで、自分たちは理由もなく会えないだろうと思っていたが、天海の力で船越に同行できることになったのだ。天海もまだ若いが、メディアにもよく登場する著名人である。


 階段を登り、四人は大講堂を出る。そのまま楽屋へと通じる廊下へ。廊下へと繋がる角の前にはガードマンが立っていた。


「MML所長の船越だ」

「存じております。八尾比博士の楽屋は手前から三番目のお部屋でございます」

「話が早くて助かるぞ」


 と、船越はガードマンの横を通り過ぎていく。


「所長ってあんなに男らしい人でしたっけ?」

「黙れ。聞こえるぞ」


 釣井の耳打ちをそう制したが、網野も同感だった。珍しく所長の威厳のある姿を見た網野ら三人は口を半分ほど開けながら、彼の後ろに続いた。


 目的の扉の前に着き、船越がノックをしようと軽く拳を握ると、勢いよく扉が開く。


「−−ますよ! おっと!」


 その扉は船越の顔面に当たり前のように命中し、彼は鼻を両手で抑えながら床に転がって悶えた。

中から出てきた恐ろしい形相の長身の女性は、自分が誰か倒してしまったと気づくと、表情がロボットのように切り替わった。優しく心配するような目つきに変わると、


「失礼しました! って、船越じゃない!」


 と、倒してしまった人が知人であることにも気がついた。


 綺麗に着こなしたパンツスーツは彼女のスタイルの良さが際立っており、長く艶のある黒髪も一つに結ばれている。いかにも仕事ができるキャリアウーマンという風貌だ。


 そんな彼女の声に船越も相手の正体に気がつく。


「……汐入さん」

「ああ! え、もしかして、汐入って、あ、いや、汐入さんってもしかして、セイレーンの……」


 釣井が横で唐突に大声を出したので、網野の方が跳ね上がる。鼓膜が破れそうだった。釣井は網野の耳など心配しておらず、八尾比の楽屋から現れた女性に興奮気味だった。


「あ、よくご存知ですね。いかにも、セイレーンの社長・汐入しおいり麻里まりです」

「わ、わ、やっぱり! 私、セイレーンの商品大好きです!」

「ありがとうございます」


 網野の横を飛び出した釣井は勢いよく汐入の手を取り握った。そのような釣井の行動にも動揺した素振りを一切見せず、優しく微笑み応える汐入の姿は一流企業の社長たるに相応しい姿だった。


「釣井、八尾比博士のことは知らなかったのに、セイレーンの社長は知ってるのか」


 網野は小さな独り言のつもりだったが、天海には聞こえていたようで彼は苦笑いした。


「昔っから、ヘビーセイラーだもんね。でもいいじゃん。釣井らしくて」

「まあ、それもそうですね」


 釣井がここまで喜ぶ姿はあまり見たことがない。人魚学者として講演に来ているので、少しズレている気はするが、この講演会に来て良かったと思っていることだろう。


「おい、お前たち、少しは心配したらどうだ」


 痛みが落ち着いてきたのか、船越が上半身を起こす。鼻を押さえる手も片手だけになっていた。


「さっき謝ったでしょう。それに鼻血が出てないなら平気よ」


 釣井はいつの間にか汐入にツーショットをお願いしており、汐入も写真を撮られながら船越に答えていた。


「汐入さん、あなたまだいらっしゃるの?」


 と、八尾比により再び楽屋の扉が開かれると、次は扉の角が船越の足に当たる。勢いはなかったものの、当たりどころが悪かったようだ。「小指!」と言いながら、再び悶絶していた。


 怯えた表情の八尾比を見た汐入は、楽屋から出てきた時の顔つきに戻る。


「いえ、ただファンサービスをしていただけですよ。私も次のスケジュールがあるので。それでは八尾比博士。改めて、また」


 そう八尾比に言い残すと、釣井らには笑顔で会釈しながら網野らが来た方向へと歩いて行った。最後に見せた笑顔がどこか恐ろしく、釣井の興奮も冷え切ったようだった。


「あら……船越さん。あ、天海君に網野君。釣井さんも来てくれたのね……。ありがとう」


 八尾比は今になって、網野らの存在に気がついた。網野らが「お久しぶりです」と挨拶をすると、天海は続けて尋ねた。


「セイレーン社長、汐入社長とお知り合いだったのですか?」

「え、ええ。まあ」


 不躾でも立ち入った質問でもないように網野は感じたが、八尾比は歯切れ悪く答えた。


「知り合いなどと言う関係ではない。お前たちは知らなくていいことだ」


 船越は補足をし、壁に手を当てながら立ち上がった。


「……それよりも、よくもこの俺に招待状を寄越さなかったな」

「あ、それは……つい、うっかり。この歳になると、どうしてもそういう小さなミスはあるのよ。許して頂戴」


 どこか取り繕うような笑顔。どう考えても違和感があった。網野は横目で天海や釣井を見てみる。天海はもちろん、釣井でさえも八尾比の様子を上手く飲み込めていないようだった。しかし、だからと言って網野らに何かができるわけではなかった。上層には上層のいざこざというものがあるのだろう。どこの界隈でもあることだ。しかし、露骨に目にすると気分が良くないのは確かだった。


「お詫びに、ゆ、夕食をご馳走しましょう。もちろん天海君たちも。前々から、またお話したいと思っていたところだしね」

「食事。まあ悪い気はしない。いいだろう」


 この空気感が続いたまま食事は正直気乗りがしなかったが、網野らが断ることによって八尾比が船越と二人で食事になるのは嫌だろう。それに、八尾比と話せる機会も多くない。断るべきじゃないと網野は考えた。当然、天海も同じ考えで、網野ら三人も八尾比に甘えることにした。

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