Prologue. 林の中で

第1話 帰る場所はあるけれど

【――ここは、実力と命が物を言う世界だ】


   ■□■


 アウルにとって、その林は己の庭にも等しい場所だった。


 等間隔で並ぶ木々。道らしき道はどこにもなく、地面には土と草とも苔とも判別がつかないものが茂っている。生い茂る木々の葉が日の光を塞ぐせいか、周囲は薄暗く鬱蒼とした空気が漂っており、歩き続けるだけで精神が参ってきそうな光景だ。

 そんな光景が永遠広々と、果てが見えないまま続いている。開放感と閉塞感。そんな両極端の性質がそこでは共存している。そんな林だった。


 アウルが記憶する限り、この林に名はない。

 いや、あるにはあるのかもしれないが、アウルは知らない。


 しかしそんなのは些末な事だ。林の名など知らなくても、アウルがこの林の中で家族と共に暮らしてきたのは紛れもない事実なのだから。林の名の有無など、その事実を前には塵芥にも等しい事柄だ。


 だがいくら慣れ親しんだ場所とはいえ、全くの危険がないわけではない。

 実際、外からこの林を訪れた者達の中には、そのあまりの広さに帰り道がわからなくなり遭難しかけてしまう者も居る。アウル自身も一度、この林で迷った経験がある。まだアウルが年端も行かない子どもだった頃だ。己の住むこの林の中だけが、自分が目にしているものだけが世界の全てだと、無邪気にそう信じていた、そんな幼い頃の話である。


 一体なぜ、あの時道に迷ったのかは覚えていない。だが多分、と、今ならそう思う。


 そこにある筈の木が散歩に行ってしまったり、岩が昼寝の為に土の中に潜ってしまったり、その程度の変化はこの林じゃなくても普通によく起こる事だ。だがまだ幼く注意力が散漫しがちな当時のアウルには、その変化に気づける力がなかった。それだけの話だ。

 それでもアウルが遭難せずに、なんとか『家』に帰宅できたのは、母の教えがあったからである。


「迷った時は、帰りたいと思う場所を強く願いなさい。そうすれば自然と、貴方が辿り着くべき場所に着く筈よ」


 いつかの母がアウルに教えてくれたその言葉を、アウルは忠実に守った。『家』に帰りたい。大事な家族が、母が待つ『家』に帰りたい。その一心で、こぼれそうになる涙を堪えて林の中を歩いた。


 気がつけば、アウルは『家』の前に立っていた。木々ばかりの世界の中で、ぽつんと立つ小さな我が家。その光景にアウルが呆然としていると、目の前の扉が開き、中から母が現れた。


 母はアウルの姿を認めると、微笑みながら「おかえりなさい」と言った。

 まるでアウルが今家に着く事を知っていたかのように、アウルがきちんとこの『家』に帰りたいと願う事を知っていたかのように、アウルを出迎え、そうしてその体を優しく抱きしめてくれた。

 瞬間、それまで我慢していた涙が決壊したのはいうまでもないだろう。林の中の冷たい空気とは真逆の暖かな母のぬくもりに抱かれながら、アウルは思う存分、そばかすだらけの顔をくしゃりと歪めて泣いた。幼い頃の苦い思い出である。


 以降、アウルは林の中へでかけた時は、いつも『家』に帰りたいと願いながら帰路に着くようになった。


『家』に帰りたい。『家』に帰って、今日あった事を母と話したい。母と暖かなご飯を食べたい。一緒にお風呂に入って、一緒の布団で眠りにつきたい。そんな些細な事を思いながら『家』を目指す。

 それが功をなしたのかどうかはわからないが、あの出来事以降、アウルがこの林の中で迷った事はない。


 なぜ強く願うだけで『家』へ帰れるのか。無論、それはわからない。

 だが、世界とは意外となんでもありな場所だ。木や岩や草が動き、その風景をこちらの意図しないものへ変えてしまように、やってきた明日が今日と同じような時間を過ごせるとは限らない。洗濯物を干したいと考えても空は都合よく晴れないし、夕飯を作ろうとしても手に取った包丁の機嫌が悪ければ野菜のやの字すら切れない時もある。逆に機嫌がいいとまな板を壊す程の切れ味を見せてくるので、それはそれで困りものなのだが。


 思った通りにならない、思いもよらない。世の中、いつだってそんな事ばかりだ。


 ならばその逆の事が起きたって、なんら問題ない筈だ。思った通りにならない事が起こり得る世界なら、思った通りになる事が起こり得る可能性だってあっても良いだろう。


 しかし――……、それならばなぜ、林の外から来た者達は帰りたい場所へ帰る事ができないのか。


 彼等にだって、帰りたいと思う場所があるだろうに。アウルの母の教えは知らずとも、それでも道に迷い、遭難すれば、自然と帰りたい場所を思い描くものではないのだろうか。


 それとも彼等にはないのだろうか。帰りたいと思う場所が。そう強く願うような場所が、彼等にはないのだろうか。


 アウルにはわからない。

 帰りたいと思う場所があるアウルには。

 帰れる場所がないという事が、どんなものであるのかなんて。


 ――だがしかし。


 その逆であれば、なんとなくわかる気がした。


 


 そういう気持ちならば、アウルには痛い程わかる。

 特に……、慣れ親しんだこの林の中を、『奴ら』から逃げる為に全速力で駆けている今のアウルになら――。

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