鬼いちもんめ

華族たちが好んで住む界隈から離れて、少し便の悪い坂の上に建つ『化け物屋敷』に変化が訪れたのは春くらいからだったからだろうか。


高い塀とそれに絡む蔦、鬱蒼と茂る草。

その先にある、瀟洒な造りの半洋館の建物は、いつも曇った窓が閉められ、薄汚れたカーテンがかかっていた。

如何にもな雰囲気で、人間の住む気配がしない。

それなのに人以外の『何か』の気配はある。

誰もいないのにドアが開いたり閉まったりする。

ふと視界の隅を何かが走り抜けるが、振り返れば何もいない。

誰もいないのに、影だけがある。

もしくは誰もいないのに、話し声だけがする。


怪談には事欠かなかった。

館の主人は物腰だけは柔らかいが、常に表情がなく、目を合わせるだけで肚の底が冷えるような眼光の持ち主だ。

若くして軍人になったのに、あっという間に退役して、今は怪しげな商売をしていると聞く。

女たちは何かと用事を作って訪れたがるが、はっきり言って男の自分は近づきたくない。

しかし金払いが良く、商売の相手として得難い相手なのでそうも言っていられない。



それが少し前から、窓や壁が磨き上げられ、天気の良い日には窓が開け放たれ、美しいレースのカーテンが揺れるようになった。

鬱蒼とした庭は草が刈りそろえられ、洗濯物が風を受けてはためき、その傍の小さな畑で何やら可愛らしい二葉が顔を出している。

門の蔦は何故かそのままだが、門をくぐると、燦々と日の輝く明るい館に生まれ変わっていた。

通路の脇には野花がそれらしく植えられているのが愛らしい。

届けた野菜や魚、生活用品などの料金を、まとめて払いに来る家の主人も、相変わらず何をしているかわからないが、驚く程、雰囲気が柔らかくなった。


そして変化が始まった頃から、不気味な気配以上に気になる存在が現れた。

この屋敷は野菜などを入れた箱を玄関先に置くと、いつの間にかそれは家の中に引きずり込まれる。

一度誤って振り返った時には、箱を引きずる真っ黒な鬼の手首のようなモノを見てしまった。

それからずっと箱を置いたら一目散に屋敷から駆け抜けていたのだが、最近は少し事情が違う。

箱を置いて呼び鈴を鳴らす。

そして門の方に離れると、玄関が開く。

すると小柄な愛らしい女性がその玄関から出て来るのだ。

少し垂れ目の、たおやかそうなその乙女は、箱を覗き込むと、嬉しそうに笑う。

そしてこちらがまだいる事に気がついたら深々とお辞儀をしてくれるのだ。

その所作の一つ一つが愛らしい事。

その後にヨタヨタと箱を持って行く姿など、頼りなく、思わず手を貸したくなる。

『私の屋敷にいる者には決して声をかけないでください。そして私の屋敷の事は他言無用』

取引の最初の頃から厳命されているので近づいたことも、話しかけたことも無い。

しかし彼女の姿を見るのは日々のちょっとした楽しみだ。


少し早い時間に行けば、洗濯物を干していたり、窓を磨いていたりする姿も見ることができる。

少し遅い時間に行けば涎が出そうな旨そうな匂いが流れてくる。

本当に幸運な時は、透き通った歌声を聞ける事もある。

彼女の姿や影を見るのが楽しみで仕方ない。

別に恋などという浮かれた物ではない。

日々の癒し、とでも言えば良いのか。

彼女は一切屋敷の外には出ない。

まるであの屋敷だけで存在できる家の精か何かのようだ。

幽霊と言うには彼女は邪気がなさ過ぎる。

異国の絵本に出てくる妖精のようだ。

町の者は誰も知らない、その無邪気な妖精を覗き見る。

秘密の楽しみだ。



今日も浮き足立って化け物屋敷の門をくぐる。

「………!!」

そして思わず声が出そうになる。

今日は何という幸運か。

あの乙女が通路の花に水をやっている所だった。

桶と柄杓を持って鼻歌を歌いながら水を撒いている。

彼女は自分の存在に気がついたら、すこし驚いた顔をして、次いで涼やかな笑みをこぼし、深々と頭を下げる。

艶やかな黒髪が頭の動きに合わせて、サラサラと肩から流れ落ちる。

愛らしい上に所作が流れるようで美しい。

「あ、ど、どうも。旬の良い奴が入ったんで、お届けに参りました」

彼女はこくんと頷くと、頭を下げながら玄関先を示す。

そこに下ろしてくれとの事なのだろう。


何か言葉をかわせるかもしれない。

そう思って荷物を置いて振り向くと、桶と柄杓が置いてあって、彼女の姿は見えない。

驚いて見回すと……そよぐシーツの下に足が生えている。

そしてこっそりとシーツの脇から彼女は顔を覗かせている。

恥ずかしがり屋なようだ。

仕草は洗練されているのに、やる事が幼くて思わず微笑みを誘われる。

「あ、あの………」

何か話しかけてみたい。

彼女の声を聞きたい。

思わずその誘惑に負けて、声をかけようとした時だった。


「———いつもどうも」

真冬の寒風よりも冷たい声が、背後からかかった。

形ばかりの微笑を浮かべて、主人が館から出てきたのだ。

「ひっ」

その笑顔の恐ろしさに思わず飛び上がる。

目が凍てつく波動を出しているかのようだ。

「いつも貴方の仕事は完璧で助かっていますよ。最初の約束事もきっちり守ってくださっている。……些少の金で貴方のような方と取引できて嬉しく思っています」

それは労いの言葉の蓑に隠れた『最初の約束事を守れないなら仕事を外すぞ』という脅しだ。

その目が彼女に声をかけようとした事を冷たく糾弾している。


一気に現実が戻ってくる。

妖精にかまけて、この仕事を失えば、家計は大打撃だ。

家では赤子が生まれたばかり。

これから更に物入りなのに、この大きな副収入を失うわけにはいかない。

「す、す、すいません。お、奥様にご、ご、ご挨拶をと……」

主人の迫力にその場にへたり込みそうになりながら、必死に頭を下げる。

「奥様……」

「は、は、はい。と、と、嫁いでいらっしゃってから、お、奥様に、ご、ご、ご挨拶もしていないのは、か、かえって、し、失礼かと……」

震えながら必死に弁明をしていてら、ふと、圧力が消えている事に気がついた。


主人は何か考えるように手を顎のあたりに当てている。

先程まで周囲を漂っていた殺気のような物が、あっという間に明るい陽射しの中で氷解している。

「……彼女は奥床しく、人見知りでね。今まで通りお願いします。………彼女の話も外ではしないでください」

そしてこれまで通りする事で雇用継続という宣言が出された。

何故か首を免れた。

「は、はい!!これからもご贔屓に!!」

そう言って一目散に踵を返して門を出る。


化け物屋敷の新たな住人。

輝く黒髪の妖精も、何やら複雑な事情がありそうだ。

しかし食っていくためには触れてはならぬ。

信用第一だ。

後ろ髪を引かれぬわけではないが、全て忘れて化け物屋敷を後にした。

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