大切に思うからこそ離れてあげたいと思う。

心を寄り添わせた相手だからこそ、豹変させてしまうのが恐ろしい。

ただの人間として生きる事が最も幸せだ。

その幸せを逃さないで欲しいと願っている。

しかしそれが『自分は必要とされていない』と思わせてしまうとは。

「……何年生きても駄目じゃな……」

すっかり気落ちして黒曜は溜息をこぼす。

姫として生きた頃はただ周りが合わせてくれ、人外の存在になってからは、狩られ、忌まれ、訝しまれ、碌に人付き合いが出来ていない。

五百年生きて、相手に心を伝える術すら持っていない自分に呆れ返ってしまう。

良かれと思って、手放して傷つけた。

託した先でも、きっと実子との間で、色々辛い事があったのだろう。

中太郎の孤独を思うと溜息が止まらない。

溜息を出さないと胸が塞がってしまいそうだ。


『助けてもらった恩返しも、色々と食べさせてもらった物の対価も返しておらぬからの。妾は金などないから、労働で返そう。その先の事はまた後じゃ』

黒曜を捕らえると宣言した中太郎と、二つの尾を限界まで膨らませた左太郎が真正面からやりあおうとしたのを、そう言って黒曜は止めた。

問題を先送りにしただけだが、少しの間、借金返済を理由に堂々と一緒に居られる。

その間に、どれだけ中太郎の事を大事に思っているか伝えねばならない。

中太郎が必要ないのではなく、大事だから離れたいのだと、誤解のないように伝えなくてはいけない。

そう張り切ったが、肝心の中太郎が仕事に行ってしまった。


なればとりあえず中太郎の住まいを綺麗にして暮らしやすくしようと思ったのだが、兎に角、彼の屋敷は広い。

黒曜の庵などたったの二間なのに、この家は八つも部屋があり、何と風呂が個人宅に付いている豪邸だ。

男性の一人暮らしのための家とは、とても思えない。

「こくよ、さま、ここ、さんるうむ」

ゴロンゴロンと黒曜の前を転がっていた、人間の生首に小さな手足の生えた、何とも奇妙な妖が教えてくれる。

「硝子張りで明るい部屋じゃの。……埃と硝子の曇りを拭けば、さぞ清々しいことじゃろう」

「ほこり、こくよ、さま、きらい、か?」

「ほほ、妖にとっては埃などあってもなくても同じような物じゃろうが、人の体には毒じゃ。綺麗にして、そなたらのご主人を喜ばせてやろうではないかえ」

黒曜はハタキを取り出し、せっせと上から埃を落とす。

黒曜を真似て、生首の妖や、一抱えある雲丹のような妖、腰ほどの大きさの毛むくじゃらの妖がハタキを振る。


小洒落た半洋館のこの館は、その外観に反して、内部はお化け屋敷だった。

とにかく色々なところに妖が住んでいる。

力の強い妖も、もちろんいるが、大半は半端な妖力で、放っておけば他の妖に吸収されてしまいそうな者たちだ。

「あるじ、の、ため、やる!!」

知能も妖力に比例して低いが、皆、中太郎の事を好いている。

やり方さえ教えれば、皆、熱心に聞き、働いてくれる。

黒曜はそんな彼らに家の手入れや、人間に必要な事を少しづつ教える。

「ふふふ、そなたらは本当に主人を好んでおるのぅ」

熱心に黒曜を真似る妖たちを見て、彼女は笑う。

少なくとも、この妖たちは中太郎を慕い、中太郎を必要としている。

中太郎には、この子たちが見えないのだろうか。

黒曜は一人憂う。

「あるじ、おれ、たすけて、くれた。やさしい。すき!!」

生首は、その落ち武者らしき顔に相応しい重低音の濁った声だが、話す言葉は可愛らしい。

喋らない雲丹や毛むくじゃらも、賛同するよに跳ねたり頷いたりしている。


「こくよ、さま、も、ここ、すむ。たのし。うれし」

小さな手足で雑巾をかけ始めた生首は無邪気に喜んでいる。

「うむ。少しの間じゃが、仲良くしてたも」

黒曜も床を拭きながら笑って応える。

「…………すこし?ずっと?」

中太郎がずっとと言っていたのか。

黒曜は切なく笑う。

「ずっとは無理じゃ。妾はそなたらの大事なご主人に厄災を届ける者じゃ。……少しの間だけじゃ」

雲丹が何かを言いたげに跳ねる。

毛むくじゃらも何やら生首に話しかけている。

何やら伝えたい事があるらしい。

「あるじ、こくよ、さま、いない、かなし。あるじ、こくよ、さま、ずっと、あいたい」

「うむ……」

黒曜は拙い説得の言葉に苦笑する。

「実を言えばの、妾もずっと一緒にいたいのじゃ。しかしそれではあの子が幸せになれぬ。あの子には人としての幸せを逃してほしゅうない」

小さな手足がグラグラと生首を動かす。

「あるじ、こくよ、さま、いっしょ、しあわせ。べつ、しあわせ、ない。こくよ、さま、あるじ、と、いっしょ。いちばん、みんな、しあわせ」

生首は少ない語彙で一生懸命説得を試みる。

「うむ………。そうじゃのう……。妾が只人であったなら……何はばからずあの子と一緒にいてやれるのじゃが……残念ながら妾は呪われし身の上。長い目で見ると、妾が側にいない方があの子は幸せになるのじゃ」

黒曜は雑巾を絞りながら寂しく微笑む。



「黒曜様の言う『幸せ』って何なの?」



「ひゃっ!!」

突然入ってきた声に驚いて黒曜は、絞った雑巾をバケツの中に取り落としてしまう。

「中太郎……帰っておったのかえ」

部屋の入り口で体を壁に預けて、中太郎が立っている。

褐色を帯びた目が憂いげに黒曜を見ている。

「あるじ、かえった。かえった」

その足元に子犬のように妖たちがじゃれついている。

「掃除、有難う。今日はもうゆっくり休め」

そう言って中太郎は妖たちを部屋の外に送り出す。


「おかえり、中太郎」

そう言うと、彼は物憂げながら、少しはにかむ。

「ただいま、黒曜様。……相変わらず、妖に懐かれやすいね」

少しいじけたように付け加えるので、黒曜は唇を隠して笑う。

「これは中太郎の人徳じゃ。そなたが住みやすいように掃除をしておると言ったら、皆が付いてきた。皆、そなたの為に何かやりたいのじゃ」

黒曜は掃除を中断して、皆の雑巾をバケツに入れる。

「もう少し日が落ちてから帰るかと思っておったので、まだ夕餉の支度もしておらんのじゃ。少々待ってたも」

そんな黒曜に中太郎は小さな溜息を零す。

「家の中を磨き抜いて、美味い料理も作る。……凄腕の家政婦さんだね。働き者過ぎて……借金なんてすぐに返せそうだね?」

言外にさっさと出て行きたいから頑張っているのだろうと責める中太郎に、黒曜は苦笑する。

「仕方ないじゃろう。この家は広い割に掃除が全くできておらぬ。妾が来た以上、こんな埃っぽい所で中太郎を寝かせるわけにはいかぬ。食物もただ食べれば良いと言うものではないしの」

「………やっぱり昨日の夕餉は不味かった?」

「いや、その……馳走になって何じゃが……やはり出汁や味付けは必須と言うか………まぁ、妾に任せてたも」

黒曜は迂遠にそう言う。

昨日出されたのは味噌汁とご飯と焼き魚だったのだが、ご飯は芯があるのに焦げ臭く、味噌汁は出汁が入っていなくて泥のようで、魚は可食部分がほぼ残っていない黒焦げだった。

食べなくても死ぬ事はない黒曜は良いが、黒曜より頭三つは大きい中太郎の体を支えるには問題の多い内容だった。


「妖たちが作ってくれるんだけど、まぁ、あれはちょっと人間用ではないかもね」

ちょっとではなく、全然人間用ではない。

中太郎は少し笑って、黒曜が持ち上げていたバケツを横から持っていく。

「妖といえば……右太郎と左太郎は?」

「左太郎がすっかりヘソを曲げてしまっての。マタタビ酒を持ってまた箱庭に入ってしもうた。右太郎は何とか左太郎を宥めてくれると言っておったが……先程覗いたら池の中島で宴会をしておった。あの箱庭、余程居心地が良いのじゃな。」

階段を降りて、流し場に汚水を捨て、黒曜は雑巾を洗う。


「黒曜様、石鹸を使いなよ」

手を入念に水で流していると、横から手に泡をつけた中太郎が黒曜の手を包む。

「サボンかえ。良い匂いがするの」

中太郎は丁寧に黒曜の指に指を絡めて洗う。

「便利な物じゃな。ここをひねれば水が出てきて、サボンもすぐ使える。……昔はお殿様でも出来ぬ生活じゃ」

感心する黒曜に中太郎は笑う。

そして綺麗に泡を流したら、また丁寧に手巾で手を拭いてくれる。

少しその手巾はよれている。

「洗濯もしようと思ったのじゃが、桶や板が見当たらんでの」

「洗濯は通いの者に任せているから良いよ」

拭き終わった手巾をカゴに投げて、中太郎は黒曜の手を引く。


「美味しい金平糖を買ってきたんだ」

見ればテーブルに高価そうな箱が置いてある。

中太郎はそれをビリビリと開けて、星を一粒黒曜の口の中に押し込む。

「………!!」

上品な甘さが口の中に広がる。

「甘〜い、でしょう?」

顔を輝かせる黒曜に中太郎は笑う。

「凄いの!これは美味しい!!こんなに美味しい金平糖は初めてじゃ!!」

コロコロと口の中を夢中で転がす黒曜の頬を、中太郎は撫でる。

「美味しいだろう?京都から問屋が仕入れた最高級品だ」

それを聞いて、黒曜はピタリと止まる。

「……お高いのじゃな?」

「今日の黒曜様の働き分ぐらいの値段かな」

罪のない顔で中太郎は笑ってみせる。

「……借金を常に増やしていくのはどうかと思う」

「増やさないと、黒曜様が逃げるでしょう」

中太郎はぬけぬけと笑う。


これは中太郎の調子に巻き込まれてしまう。

「中太郎、ちょっと妾の話を……」

黒曜は額を押さえて、話を切り出そうとする。

「さっきも聞いたけど、黒曜様の言う『幸せ』って何?」

しかし中太郎は黒曜の言葉など全く聞いていないような顔で、疑問をぶつけてくる。

「どんな感じが俺の『幸せ』だと思ってる?」

重ねて聞かれて、黒曜は腕を組んで考える。

黒曜の考える人の幸せ。

「そうじゃな………気の利く愛想の良い嫁を迎えて、可愛い子供達に沢山恵まれて、飢えず、大病をせず、年老いて、子供や孫たちに見守られながら天寿を迎える……という感じかの」

言っておいて、黒曜は深く自分で頷く。

それは何という理想の一生だろうか。


「死ぬ所も『幸せ』なんだね、黒曜様は」

そんな黒曜を中太郎は笑う。

「……死なんと終わらんじゃろう?」

黒曜が首をかしげると、中太郎の苦笑が深くなる。

「普通は結婚したとか、子供に恵まれた所で、めでたしめでたし、になるんだよ。……黒曜様はそうやって死にたかったんだね」

そう言って、中太郎は次の金平糖を黒曜の口に放り込む。

借金がまた増えてしまったと思いつつ、黒曜は上品な甘味に蕩ける。

困りながらも美味しさに頬を緩ませる黒曜を見て、中太郎は微笑む。

「何で黒曜様の考える俺の幸せには、黒曜様がいないのかな?」

そして切なげに呟く。


黒曜は慌てて金平糖を噛み砕いて飲み込む。

「ち、違うのじゃぞ!!妾は中太郎のことを必要ないとか、そんな事は全く思っておらぬぞ!!寧ろそなたが大事で……」

「うん。聞いてた。………聞いてたよ、黒曜様」

慌てる黒曜の手を中太郎が包む。

直接触れるという事は、心からの言葉を告げようとしているのだろう。

「ねぇ、黒曜様は死ねない事ってそんなに重要?俺は貴女と同じ時を生きられない。だから一緒にいられないの?」

「違う。いや、違わなくないが………妾はこの呪われた身じゃ。妾はの、妾のこの呪いがそなたを狂わせるのが何より恐ろしいのじゃ」

黒曜は左手を自分の手を包む手から取り出して、中太郎の手の上に重ねる。

「すまぬ……妾は弱いのじゃ。妾は知らぬ者に殺されたり、狩られたり、切り刻まれる事は、そう怖くないのじゃ。いや、痛いし、出来ればそんな目には会いたくないがの。しかし……良くしてくれた隣人が不老不死に取り憑かれて狂う姿……それは今でも夢に見る程辛い」

もう黒曜の手では、もう包みきれなくなった、大きな手を黒曜は撫でる。

「殊、中太郎は可愛くての。七年も一緒にいて少しづつ大きゅうなって、出来ることも増えて、どんどん賢くなって行く姿を見て……だから妾はそなたを狂わしとうない。妾はそなたを狂わせてしまったら、この先死ねぬ体を延々と嘆き続けなくてはいけなくなる。それが恐ろしいのじゃ。そなたが幸せにならぬ未来だけは見たくないのじゃ…………許してたも」

そして黒曜は中太郎の頬も撫でる。


頬を撫でた手を中太郎が手に取って自分の頬に押し付ける。

「俺はね、もう既に狂っているよ、黒曜様」

そして優しい笑顔で黒曜を凍らせることを言う。

「黒曜様の考える幸せはね、俺にとって、全然幸せじゃない。俺は黒曜様だけが欲しい。黒曜様が側に居てくれる以外の幸せはないんだ。黒曜様が居ない十年間……どうやったら貴女に必要としてもらえるのか、側にいてもらえるのかずっと考えてた」

その手に力が篭る。

彼の唇が震える。

「妖にも負けない力を身につけた。貴女の疎んだ力を封じる術を作り上げた。必死に、貴女だけを追ってきた」

泣きそうな顔の中太郎に、黒曜は何も言う事が出来ない。


「不老不死は要らない。でも黒曜様にいて欲しい。俺が生きるには貴女が必要なんだ」

震える唇が言葉を紡ぐ。

その言葉はストンと黒曜の心に落ちた。

姫でもなく、見鬼でもなく、不老不死の化け物でもない。

ただの『黒曜』が欲しいと。

そんな言葉、今まで聞いた事が無かった。

「貴女を生涯で一度しか悲しませない事を約束する。だから……貴女の永遠の一部を俺にください。俺を生かすために貴女の永遠のほんの何十分かの一を俺に分けてください」

心の声と彼の声が一緒に聞こえる。

褐色の瞳は少し水分を含みながらも、真っ直ぐに黒曜を見ている。


「一度は……悲しむのかえ?」

「俺は貴女より先に死ぬ。貴女を悲しませたくはないけど、悲しむほど惜しんでくれたらと思うんだ。……惜しんでしまう程、幸せな時間を貴女に与えてみせる」

ああ、この子は自分より後に生まれたのに、自分より先に逝くのだ。

そんな事、既に知っていたのに、何故か今、それが現実なのだと理解する。

遠くにあった認識が色を帯びて、目の前に広がる。

七年、一緒に暮らした彼を手放す時は辛かった。

それでも彼が幸せになるためだと自分に言い聞かせられた。

ここで頷けばその何倍もの時間を共に過ごし、喪失の痛みはそれに比べ物にならない物になるだろう。

そして、その時の別れは彼を永遠に失うだけの別れなのだ。


救いはない。

「………甘えん坊に育ったものじゃのぅ」

しかし黒曜にこの震える手を解く術はない。

他でもない。

彼は『黒曜』を求めてくれたのだ。

黒曜は腕を広げる。

「……甘やかす人が悪いんだよ」

黒曜の首筋を暖かい雨が伝う。

黒曜よりもう随分と大きくなってしまった青年が、小さい頃のように黒曜の肩に顔を埋める。

「仕方ないのぅ。責任とって、もう妾なんぞ要らんと言われるまでそばにおるかの」

癖のある髪を黒曜は撫でる。

「………うん。ずっといて」

汽車の中で意地悪をしてきたとは青年とは思えない、子供のような返事に、黒曜は笑う。

「でも妾の厄災がそなたにかかりそうな時は責任放棄するぞえ」

「俺が黒曜様を守るから。……そんな日は来ないよ」

力強い、大きな腕が黒曜を強く抱く。

守るよ、絶対守るよ、と、その腕からも心の声が響く。


何やら胸の奥がこそばゆい。

喪失の日は恐ろしい。

豹変の恐怖も残っている。

しかしこの心の声は尊い。

「………出来るだけ長生きしてたも」

黒曜は暖かい涙を流し続ける、大きくなり過ぎた愛し子を抱きしめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る