第2話 喫茶店

 夜、長らく親しんだあの家を離れて最初の夜となる。しばらくは慣れたこの街で過ごそうと思うが、その後はこの街から離れるつもりだ。そうでもしないと、お嬢のことを考えてしまいそうで、辛くなるかもしれないと思ったからだ。

 なじみのあるはずのルフナンドの街も、夜に歩くのは初めてだった。

ルフナンドの街は商業が盛んである。街の特産品と言う物はないが、馬車の数が大陸で一番多く、海にも面していて、大陸最大の港がある。さらに、十年前発明された炸裂鉱を燃料とする列車を初めて実用化し、大陸中に貨物を運べるようにした。

 交通の便がいいからか、ここには全国から様々なものが流れてくる。それを扱う商人も多くこの街にやってくる。それに乗じ、さまざまな店が開店し、街は大きく発展を遂げている。

 昼間に比べては静かだが、夜でもこの街の喧騒は消えないらしい。あちらこちらから、声が聞こえてくる。

 いつも夜はお嬢様の世話をしていて、外には出たことはない。このような新しい発見は面白いように感じる。

 しかし、これも自由になったから。そう思うと、気分が良くなくなってくる。

 上を見上げればきれいな満月が神々しく光っている。これを彼女と見ることができたならば、今はどんなに幸せだろうか。

「いけない」

 また、彼女を思い浮かべてしまった。それではいけない。もう会えない人のことを考えても仕方ないのだ。

 何も考えないように、下を向きながら歩くことにした。

 飛び交う人の声、船の出向する汽笛の音、聞こえてくるものすべてを、意識的にただの雑音に替え、興味のないものに変換していく。

 そうすれば何も考えないで済むのだ。そのようにすればいつしかお嬢へ気持ちも向かなくなるかもしれない。

 何もない暗い道。そこを歩いている。とりあえず今は歩いて行けばいいのだ。何も考えず、いや、宿には向かわなければいけないか。                

向こうから小さな泣き声が聞こえた。歩きながらそこにゆっくり近づく。そこには小さな女の子がしゃがみ込んでいた。

「大丈夫?」

 と、声をかけると、その女の子は顔をあげ、

「暗いのが怖いの……」

 と、私の手を握る。もう十二歳だと言うのに、全く世話の焼ける人――、

「うわあ」

 はっとなって顔をあげた。泣いていたはずの彼女は、ここにいるはずもないのに見えていた。

どうやら今の対処方法は効果がないらしいことが分かった。私は無意識に彼女へ思いが行ってしまうようだ。もうこれではどうにもできない。しばらくは、こんな状況が続きそうだ。

 ふと周りを見る。広がっているのは知らない景色。

「嘘……」

 当たり前のことだろう。ろくに前も見ずに歩いてきたのだ。どこに自分がいるかも把握できていない。それなら迷う。子供でも分かることだ。

 困った。これでは帰り道も分からない。来た道を戻ろうかと考えていたが、後ろを振り返ると少し先から真っ暗で何も見えない。あてもなく戻ろうとすればそれこそ遭難してしまう可能性もある。

 こうなると、誰かに道を尋ねるしかない。しかし、この道は人通りも少なそうで、このままでは誰にも会えない気がする。

 周りにある建物は一件。目の前に灯りのついた、大きめの木造民家がある。そこにいる人に、道を聞いてみるべきだろうか。

 そんなことを考えていたその時、その家のドアが開き、中から人が出てきた。

 女の人だった。髪は薄い紫色で、黒いローブを身にまとっている。童話に出てくる魔女をイメージさせるような姿だ。

「そこのあなた」

 その女は間違いなくこちらを見て言っている。

「は、はい」

「んふふ」

 女は笑みを見せる。どうも、いい笑顔とは言えない、背筋が凍りそうな怪しい笑顔だった。

「迷っているのでしょう?」

「え?」

「いらっしゃい。あなたのような人は大歓迎よ。中に入って」

 それだけ言って、女は家の奥へと消えていく。

 行くべきだろうか。何か怖い。

 しかし、今の状況は好機ともいえる。これで帰りの道を聞くことができる。

 固唾をのんで、その家の中に入ろうと決心する。

「失礼します」

 家の中に広がっていたのは、先ほど見た灯りとは思えないほど、ほのかにしか光っていない照明。そして女の後ろには大きな木製の棚が三つ。そして前の横に長い机の向こう側には、椅子が数個並べられているだけだった。

「どうぞ、座って」

 女に言われるがまま、指し示された椅子に座る。

「……うわあ」

 座り心地が最高だ。体に何の負担もかからない。こんな椅子はルフナンド邸でも見たことがない。

「あら、椅子でもう驚いているの。かわいいわね」

 女は背にある棚からグラスを出した。

「何にしましょうか」

 女はまた何か始めようとしているようだ。先ほどから笑みをずっと浮かべ続けていて、正直薄気味悪く感じる。その気持ちがどこから出てくるかわからないが、どうにも好きになれない。ここもそのせいか、素晴らしい椅子があっても、居心地が悪く感じる。

 早めに用を済ませて出てしまおう。

「あの、道に迷っていまして。少し道をお訪ねしていいですか?」

 女はまた、んふふと笑って、

「分かっていますよ。あなたは迷っているのでしょう。これから歩む道に」

 という答えを返してきた。言いたいことは通じたのだろうか。それにしては妙に含みのあるような言い方だ。

「まあ、ゆっくりしていってください。今外に出てもただ迷うだけ。

ゆっくり温かい飲み物を飲みながら、少しお話をしていきましょう」

「いえ、その、道だけ教えてくだされば自分で帰れますから。……あと、飲み物は要りません。急いでいるので」

 そう言って立とうとした。しかし、足はなぜか言うことを聞いてくれなかった。どれだけ力を込めても立ち上がれない。

「あ、あれ?」

「そう焦ってはだめ。言ったでしょう、お話しましょうって」

 怖い。

不気味な現象、そして女の底の知れない言葉。どうしても恐怖が抑えられない。

 もしかしたらこの人は、本物の魔女なのだろうか?

「私は、残念ながら魔女ではないわ」

「え、なんで」

「なんであなたの心の声が分かったのかって。んふふ」

 女はまた笑った。

「私は、そういう人間だから。それができる、いいえ、それしかできない人間だからよ」

 そう言って、女はホワイトブラウンの液体が入ったグラスを前においた。

「さあ飲んで。心が温まるわ」

 そのグラスを手に取り、ゆっくりと口をつけた。流れ込んできたのは柔らかな甘味と、ほんのちょっとの苦み。それが絶妙にあっている。

「ミルクココアっていうの。おいしいでしょ」

「はい」

 もう一度、一口目よりも多く、それを口の中に流し込んだ。喉を通ると、本当に体が温まっていくかのような、そんな感覚がした。

「初めて飲みました」

「当然よ。それはこの世界にはまだ存在しないものだもの」

「え……」

 どういうことだろうか。

「口が滑ったわ。今のは忘れて」

「は、はあ」

 と開けた口にもう一度、ミルクココアを口に含んだ。

「……少し落ち着いたみたいね。私も軽く自己紹介しておこうかしら。私はこの喫茶店を経営しているの。そうね、マスターとでも呼んでちょうだい。こうやって来てくれたお客さんと話すのが趣味ね」

「喫茶店?」

 それなりに教養はあったつもりだが、初めて聞くその言葉に、訝しげな顔をする。

「こんな風に、お客さんにお茶を出して、ゆっくりしてもらうことを目的とする店のこと。まあこれもあなたは知らなくても無理はないわ」

 女はまたも笑った。

「それじゃあ、あなたのことも教えてもらおうかしら。リュシエルさん。あなた執事だったみたいね」

 名前も、職業も言い当てられた。まだ教えていないにも関わらず。心が読めるというのは本当のことらしい。

「別に私が何も言わなくても、全部読めるからいいのでは?」

「あら、気付いちゃった?」

 女はまたもや、んふふ、と笑い、

「でも、あなたの口から出た言葉が聞きたいの。感情が伴っていて聞いていて楽しいから」

 問いに対して、答えを返す。

「そうですか。じゃあ、そうなんですね」

 女の気味の悪さは増していくようだったが、先ほどから話しているうちに、少しだけ安心感が感じられるようになってきてい。まあ、それでも、いまだ恐怖心がなくなっているわけではない。この謎の喫茶店に居たらどうなるのか、まったくもって想像がつかない。

「それじゃあ、執事のあなたについてもっと知りたいわ。あなたがどうして執事になって、そんな風に生きてきたか。私、すごい興味があるわ」

 今日であったばかりの、まだ特に仲良くもなっていないこの人に、なんでも話してしまうのはあまり気が進まない。しかしマスターと顔を合わせると、なぜか言わずにはいられないような気分になった。

気味が悪い。これもこの女の魔術なのではないかと思ってしまう。

「まず、このような格好をしていますが、私は女です。気付いてましたか?」

「んふふ。それはもちろん。あなたのような可愛い女の子を、男と間違えるはずはないわ。でも確かに、その服も顔も、世間一般的には、カッコいいの部類に入るかもしれないわね」

「まあ、男を演じなければいけませんでしたから。……いや、本当に心は男なのかも……」

「あら、おもしろいこと言うのね」

 私は、マスターに自分のことを話し始めた。

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