アルバートとアラハバキ

樫ノ木 ジャック

1 ソーラークィーン

 シルバーグレーに、銀のティアラを飾った青いワンピースすがたのエリザベス女王たちは、光に吹かれて右手を胸の高さできらきらと瞬かせていた。

 窓辺に立ち並ぶソーラークィーンたちだった。

 拘束されていた感覚から覚醒した長澤ゆかりは、握りしめていたカッターナイフを右手からはなした。落ちたカッターナイフは、床に伏せてあったスマホとぶつかって、カチッという音を室内にひびかせた。キッチンに立つ彼女の背後を、元パパのタチバナが横たわっている。理由は分からなかった。記憶にあるのは、百体目のソーラークィーンを、スマホでポチッたときまでのことだった。

 元パパはそのことを痛罵してきた。そして彼女の左手にあったスマホを、「目を覚ませ!」と払い落とした。

 スマホを拾い上げようと腰を落とした。画面にあったのは、「お買い上げありがとうございます」と表示された商品の購入サイトだった。素知らぬ態度を見て憤慨した元パパは、スマホから引き離そうと両肩を背後から引っ掴んだ。

 ポチッたことに罪悪感などまるでなかった。ついつい押しちゃうだけなのだ。

 感覚刺激がひかった。呼び起こされたのは恐怖記憶だった。条件反射は、全身に防御の態勢をとらせた。うずくまった態勢で落ちたスマホを左手に拾い上げた。すばやくカメラモードに切り替えた。それを元パパに振り向けた。口元から「ポチッ」というオノマトペが漏れ出た。

 彼女には後の記憶がなかった。虚を突かれた元パパは、引っ掴んでいた長澤の両肩を押しはなした。ゆらゆらと立ち上がった長澤は、スマホを元パパに差し向けたまま、電子レンジが置かれたキッチンボードに歩み寄った。レンジを背にした長澤の右手が後方に伸びてゆく。ペンケースをまさぐった。後ろ手が捉えたのはカッターナイフだった。

 呼び覚まされた恐怖記憶は、防御から戦闘態勢をうながした。

 長澤の手にあるカッターナイフのスライダーが、カタカタカタと替刃をすべらせる。

「何してる?」

 タチバナが不安げな声を投げかけてきた。ふと「刺せっ」の声がきこえた。

 長澤の右手がすうっと真上にのび、カッターの刃がその先端でひかった。伸び上げた全身が回転軸となって、身体がくるりとまわった。目に浮かび上がったレーダースコープが、標的を捕捉した。

「な、何する気だ?」

 元パパの声が裏返った。後ずさりする標的にむけて、カッターナイフが大きな円弧をえがいて振り下ろされた。

 一撃目が元パパの左頬をかすめた。空を切った長澤の身体が大きく傾く。態勢を立て直した長澤は、ふたたび右手を頭上高くに振り上げた。二撃目は、逃れようとする元パパのトレーナーの背を裂いた。つんのめるようにして前方に倒れ込んだ元パパは、すぐに振り返り後方に両手を立てた。そして、両足で床を漕ぐようにして後ずさりした。

「止めろ。気は確かか」

「正気だぜ。それがどうした?」

 言い返してきた長澤ゆかりの声色に元パパは戦慄した。低くしゃがれたバリトンに変わっていたのだ。何者かが憑依したかのような声色だった。

 右手で、カッターナイフをくるくるとハンドスピナーさせながら、長澤は、「立てよ」と左手で手招きした。背を丸くした戦闘態勢だった。地上に舞い降り、獲物を捕捉しようとする猛禽類の構えだった。倒れ込んだ者が態勢を立て直すには、身体を横にひねったり、両腕を支えにしたり、蓄勢をためる動作が必要になる。その隙を突こうというのだ。常人が思いつく戦法ではなかった。

 シンクの隅に追い込まれていたタチバナが、両膝を立て、流し台の淵に右手を伸ばす。立ち上がろうと全身に力を込めた。直後、ふたたびカッターナイフが振り下ろされた。一撃は元カレの左首筋を引っ掻いた。

「ぎゃっ!」

 声を上げ、シンクの内側にくずおれた元パパは、両目を丸く見開いたまま右手で首筋を押さえ込んでいる。指の隙間から鮮血が滴り落ち、排水溝に吸い込まれてゆく。死を恐怖した元パパは、ようやく反抗の意識を芽生えさせた。恐怖と憤怒とを相克させた顔になって長澤めがけて突進してきた。しかし、長澤はひらりと身をひるがえして反撃を交わすと、すれ違いざま、今度は右首筋をさあっと引っ掻いた。タチバナは白目になって倒れ込んだ。うつ伏した全身がひくひくと震えている。動きが途絶えたのはそれから十五秒後のことだった。

 倒れた元パパの周囲を、赤い影がカーペットの図案のようにひろがっている。長澤ゆかりはふと我に返った。室内を無数の白いまだらがゆれていた。ソーラークィーンたちが瞬かせる、白い手袋の照り返りだった。右手に握りしめているものに気づいた。鮮血に汚れたカッターナイフだった。おもわずつぶやいた。

「やだ。私、どうしちゃったのかしら?」

 ――――


 初動の機動捜査隊員と入れ替わり、現場に入った今北刑事は、鑑識からの立ち入り許可が出される間、周囲に目を配った。生成り色を基調とした室内は意外にも整然とした佇まいだった。斬殺現場であるならば、大量の血液がぶちまけられた凄惨な光景を生じさせるものなのに、静ひつとした穏やかな空気につつまれていたのだ。そうさせていた原因の一つが、室内に白いひかりの斑を瞬かせている、窓辺にならんだソーラークィーンたちだった。

 凶器となったカッターナイフがジップロックに封入され、鑑識の許可がおりた。今北がゴム手袋を装着しながら横たわる被害者に歩み寄る。しゃがみこんだ。のばした右手を被害者の顎にあてがい左右にふった。凝視する目が鈍くひかった。首元にひらいた左右二つの切り口は、共に縦に深い一本線を描いていた。

「あの妙齢な娘の手口とは思えねえよなぁ」

 後方に歩み寄ってきた茂木(もてぎ)警部補の声だった。指摘に呼応するかのように、今北は声の主を振り仰ぎ、

「頸動脈に沿って深く掻き切っています」と告げて、切り口に目顔をおくりこんだ。鑑識ドクターの検視によって致命傷とされた創傷だった。

 頸動脈に沿うように大きく切りひらかれた創傷から、噴き出る血を必要以上に飛び散らせないためのプロの手口が疑われた。しかも凶器は、殺傷能力などないに等しいカッターナイフだった。殺しの技量と凶器の殺傷能力とは矛盾するものなのだ。犯人はそうとうの殺人技術を持ち合わせているものだと断定できた。あのか弱き容疑者が、身に付けているとは思えなかった。そしてもう一つ、特異な点があった。事件現場にいて犯人が疑われる長澤ゆかりが、事件そのものを記憶していないことだった。

 茂木が、窓辺に立ち並んでいたソーラークィーンに歩み寄った。一体を手にとってつぶやくように言った。

「案外に困難な事件かもな」

「……」

 今北が押し黙ったのは、茂木の憶測を肯定したからだった。脳裏を、連行されていった長澤の姿が浮かびあがっていた。憔悴しきったその後姿からは、言い逃れをするような、狡猾な人物像は想像できなかった。

「第三者は?」

「機捜の話では、通報を受け現場に駆け付けた時、部屋は施錠されていたということです。開錠したのは長澤本人だったと」

「事件現場には長澤と立花との二人だけだった?」

 問いかけに、今北が曖昧な相槌を返した。茂木は、手にあるソーラークィーンを元にあった場所に戻すと、ベッドルームに目を伸ばした。所狭しと黄色いカートンボックスが積み上げられてあった。

「何だ、それは?」

 自問のことばを呟きながら歩み寄る。《G☆LE》のロゴが印刷されてあった。最上段におかれてあったカートンを両手で引き寄せ、フラップの隙間から中を覗き込む。

「缶詰か?」

 怪訝な声色でつぶやいた茂木は、カートンに貼付されてあった伝票に目をむけた。疑惑を見る目の色だった。積み上げられていたのが、個人の消費をはるかに超えた量だからだった。しかし依頼人名は、すべて長澤個人のものだった。

「彼女、ハイパーショッパーかもしれません」

 背後を今北のこえが立ち上った。

「……?」

「行為依存症の一つです。ギャンブルとかアルコール、過食などとかも、それです」

「彼女の場合は?」

 茂木の問いに、今北は、

「買い物依存」とつぶやくように応えた。

 ――――

「事故ですか、事件ですか?」

 ――私、分からないんです。

「発生時刻を教えてください」

 ――えっ?

「今いる場所を教えてください」

 ――?

「どうしましたか? 今いる場所です」

 ――私、何も分からないんです。気が付いたら目のまえで知人が倒れていて、全然動かないんです。

「事件ですね」

 ――死んでるかも。

「すぐに向かいます。落ち着いて、あなたのお名前を教えてください」

 ――な、長澤です。長澤ゆかり。

「通話は切らずにそのままでいてください。すぐに向かいます」

 ――――

 ブラインドの隙間から、隣接する中央公園の街灯が覗けて見えていた。池袋中央署刑事課にある会議室。テーブルの中央には、ハイレゾタイプの高性能ボイスレコーダが置かれてあった。本庁の通信指令室から持ち込まれてきたものだった。装置に接続されたスピーカーを囲むようにして、召集されていた関係署員たちが、記録された会話に聞き耳を立てていた。自ら一一〇番通報してきた長澤と担当署員とのやりとりだった。

「会話の背後にある噪音を、フーリエ解析してみましたが、第三者らしき人物が、現場にいたことを伺わせる波形は抽出できませんでした」科捜研主任研究員の報告だった。

 周囲を落胆のため息がひろがった。茂木、今北刑事をはじめとする捜査関係者たちのあいだには、「犯人長澤」を躊躇わせる理由があった。第一に、玄人はだしの殺人技術と本人の人物像とが繋がらないこと。二つ目が、本人が偽証しているならば、巧妙な策謀の痕跡が残されているはずなのに、鑑識結果からは、それが見えてこなかったこと。

 そして、「犯人長澤」を躊躇わせる最も大きな理由が、犯行の動機が不明瞭であることだった。茂木は今北にたいして、被害者と長澤との関係の説明をうながした。

「被害者立花巌、双葉商事株式会社新規開発事業部長四十五歳。被疑者長澤ゆかり、青葉学院大学家政学部3年二十一歳。長澤の供述から、二人の出会いは、完全会員制交際クラブでのマッチングであることが分かっています。被害者の立花巌は、長澤が同クラブに登録した一年前、初回に紹介された相手だということです。クラブ側の裏付けもとれています」

 そのあらましから、事件は、所謂パパ活で出会った二人が、何らかのトラブルによって長澤が引き起こしたものと推定された。しかし会議室には「犯人長澤」を推定したくない空気がただよっていた。

 二人残された密室での事件、凶器に残された長澤の指紋。物証と状況証拠、共に「犯人長澤」を確証させるものばかりなのだ。それを否定してくれる痕跡がないのにもかかわらず、「直面している容疑を、対峙する捜査側の人心が、頑なに否定しようとする空気だった。

「事件の一週間前、長澤の方からクラブを介してマッチングの解消を申し出たようです」

「長澤から?」

「はい。クラブ側の裏付けもとれてあります。もし怨恨があったとすれば、むしろマッチングの継続を断られた立花側に強いということになります」

 動機の発生地点は、被疑者と被害者とを双極とするならば、後者側寄りに位置していたことになる。

「金銭問題は?」

 パパ活トラブル要因の筆頭が、パパ側からの女子側への支払い問題だった。茂木の問いに今北は、首を横にふって応えた。

「長澤自身、滞ることなどなく、そのことに不満は持っていなかったと供述しています。むしろ想定以上の謝金を受け、満足していたと」

「ポリグラフは?」

 問いを受けて、科捜研研究主任員が説明をはじめた。

「ベースラインから外れた所見は出てきませんでした。検査結果だけからいえば、被疑者に当時の記憶がなかったこと、つまり一過性健忘状態であったという供述は信用できることになります」

 そこで、会議に召集されていた本庁刑事部捜査一課科学捜査係の高見沢刑事が、クリアファイルを茂木にむけて滑らせた。中に納められてあったプリントを取り出した茂木が、写っている画像に目をそそぎ込む。頭部の断層画像だった。

「MRI?」

 茂木の反応に、高見沢が細面の浅黒い顔をうなずかせて口をひらいた。

「より強力に長澤の供述を裏付けるものだ」

 画像から顔をふりあげた茂木が、同期の高見沢に鋭い眼光をむけた。話のつづきをうながす目顔だった。

「読影を依頼された放射線科医が、解離性健忘症を示す三か所の機能低下の痕跡を確認している」

「事件当時の記憶は、やはりなかった」

 茂木が独り言ちた。自らその事実を受け入れようというつぶやきだった。そこで高見沢が前言を翻すようなことばを発した。

「ただし奇妙な点がある」

「……?」

「突発的に記憶を喪失させている点だ」

「突発的?」

「ウツやストレスなどの前触れなく、忽然と意識を失わせている点を、精神鑑定にあたった警察医が不審がっている」

「詳しく説明してくれ」

「ハイパーショッパー、つまり行為依存症が疑われる長澤ゆかりの記憶障害は、心因的であるはずなんだ。しかし今回の事件については、発症要因が外傷的ショックによるものという矛盾した結果を示している」

「過去に外傷を受けていた?」

 茂木の反応に今北は首を横に振った。

「遡って調べてみましたが、該当するような事故や病歴はありませんでした」

「有り得るのか?」

 高見沢にむけられた茂木の詰問調だった。

 本庁刑事部に所属する科学捜査係の主な役割の一つに、所轄の捜査現場と本庁に設置されてある科捜研、科学捜査研究所とを緊密に仲立ちすることがあった。作業の具体とは、現場が拾い上げてきた証拠物件の矛盾を紐解くことだった。高見沢は、心因性記憶障害であるべきハイパーショッパーが、突発的に記憶を失わせていることの矛盾について、独自に培ってきたネットワークから、それを解く鍵となるものをすでに見つけ出していた。

「これを見てくれ」

 高見沢が、薄い冊子を茂木に向けてすべらせた。

 ――『社会史健忘症についての仮説』

 抜き刷りの論説だった。

「昨年暮れに発行された紀要に掲載されていたものだ。心因性ではない、外傷的要因によって生じる心因的健忘症。……外傷的でありながら心因的、という矛盾が、これで推し量れる」

 茂木が抜き刷りを手にとり、中を流し見た。閉じて返し、裏表紙に目をそそぎこんだ。

「ん? 精神医学ではないな」

 怪訝な声色だった。訝る理由は、発行元の学会名にあった。

《日本社会組織心理学会》

「社会心理学側からのアプローチだ」

「概説できるか?」

 茂木の要請に高見沢は「目を通した程度」と断りを入れてから応えた。

「脳震盪を引き起こさせるような、明らかな力学的衝撃には至らない、微細な振動が断続的につづく場合、特殊な心因的健忘が生じると説明されている」

 聞き耳を立てていた茂木の脳裏を、ソーラークィーンから放たれていた光の白い斑模様がきらきらと瞬いた。

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