粟野岳温泉

 ここは秘湯の一軒宿ではあるけど鄙びた小さな宿じゃないな。立派な庭もあるし、正面にあるちょっと古めなのは本館かな。さらに左の奥に新館らしい建物まである。泊まるなら本館だよね、


「本館は日帰り休憩用やそうや」


 なるほど日帰り入浴客も多そうだ。これも鹿児島の温泉の特徴みたいで、公衆浴場みたいなものも多いし、宿泊施設があってもメインは日帰り入浴みたいなとこも少なくなさそうな気がする。


「昔ながらの湯治宿も多いな」


 受け付けはこっちの母屋みたいなところなのか。部屋の案内地図とカギをもらって、母屋の勝手口から新館に入るのも妙だけど、新館に立派なフロントとロビーがあるじゃない。新館を作った時にはそうする気だったはずだけど、なんとなく受け付けは母屋対応になっちゃったみたい。


 部屋は普通に綺麗だ。典型的な旅館の部屋の作りで、畳敷きの座敷の窓側に縁側があって、応接セットが置いてあるんだもの。


「風呂やけどカケルは蒸し風呂やめといた方が良さそうや」


 風呂は新館の向かい。本館を横切った反対側。ちなみに本館の右側は自炊棟だって。湯治宿だねぇ。というか、今の時代に湯治なんて出来る方が贅沢かもしれない。宿泊料金は安いけど、それだけの休みが取れるって意味でね。


「自炊で湯治するんはエエけど、買い物はどうするんやろ」


 言われてみれば。近所にスーパーどころか家すら見当たらないもの。全部持ち込みなのかなぁ。さて浴場は三つに分かれてて、まず入ったのが桜湯。木造で脱衣場も板張りで風情があるね。


 浴室は床が石板張りで石造りの湯船で良さそう。これは硫黄泉だね。酸性だから少しピリピリするけど、いかにも温泉って感じだ。これは気持ちがイイ。高千穂峰登山の疲れが取れるよ。


「カケルにも今日はここだけにしておけって言うといた」


 それが賢明そう。温泉って入浴効果もあるけど疲れるからね。次に入ったのが蒸し風呂。和風サウナだけど、床から湯気が吹き上がってるみたい。しっかり汗をかいて、冷水にドボン。サウナもそうだけどこの瞬間が好きだ。


 最後は竹の湯。泉質はアンモニア硫酸塩泉って初めてじゃないかな。鹿児島本土でもっとも酸性度が強いそうで、たしかに肌がピリピリする。いやぁ、満足満足。これぞ温泉の醍醐味だよ。


 それよりなにより年季の入りまくった湯船が貫禄がありすぎる。石造りなんだけど浴室全体が黒っぽい。浴室だけでなくお湯も灰色と言うより黒っぽいもの。匂いも独特で、好みは分かれそう。


「そやけど一番効果がありそうな風呂やな」


 お食事処で晩御飯だけど、一部屋貸切って贅沢な感じ。それだけ今日の宿泊客が少ないってことだろうけど、


「ここの名物の地獄蒸し鶏や」


 蒸し湯の裏あたりに八幡大地獄と名付けられているところがあって、もうもうと湯気が上がってるんのよね。地獄蒸し鶏って、そこの湯気で鶏を一羽丸ごと蒸しあげたものだって。


「二時間半ぐらいかかるそうや」


 こういう蒸し鶏ってお腹に香草を詰めたりするのがポピュラーだけど、どうも表面に塩胡椒だけみたい。それでも美味しいじゃない。これが温泉の力かもしれない。単に蒸しただけじゃこんな味にならないはずだもの。


 お腹じゅうが蒸し鶏に満たされて部屋に戻るとカケルはバタンキュー。疲れたんだろうな。無理もないよ、


「コトリ、ちょっとカケルにキツかったんじゃない」

「悪い悪い、どうも知覧から昔の気分が出てもて」


 だからやめとこうって言ったのに。


「なんやカケルが新兵に思えてもてな」


 そんな感じだった。そうやって手塩にかけて育て上げた兵士を、


「ユッキー、さすがにその続きはやめとこ」


 うん、やめとこう。知覧で十分すぎたよ。それより、


「どうなってるの」

「思た通りや」


 コトリもだったけど、ナガトがプレデンシャル・ホテルに移る時に、ドゥーブル・フロマージュのスタッフを根こそぎみたいに引っこ抜いた話が気になってのたよ。そんな事をすれば、引き抜かれたドゥーブル・フロマージュはガタガタになっちゃうもの。


 腕利きのパティシエはギャラさえ積めば雇えるけど、ホテルのパティシエと老舗のパティシエは立ち位置は少し違うのよね。老舗が老舗である所以は定番のケーキなりお菓子があることなのよ。


 これは和菓子の世界でも同じで、新作も作るけど、不動の定番があるから老舗と名乗れるぐらい。そのために自分の店で、自分の店の味を作れる職人を養成し、受け継がせて行くと思えば良いと思う。


「あの店のシンボルは店の名前通りにドゥーブル・フロマージュやけど、他の店とは一味ちゃうもんな」


 お菓子は料理に比べてもレシピは厳格だけど、それでものノウハウがある。これは大抵は字で書けるものじゃなく、体で覚えるノウハウとしても良いかもしれない。そういうスタッフが突然いなくなれば、


「思うた通り、味が落ちたの評判が広がり始めとる」


 そうなるしかないよね。


「そうなると」

「そうなっとるわ」


 ナガトの真の狙いはパティシエ界の大物になること。それを目指すのは悪いことでも、なんでもないけど、それを自分の腕でなるのじゃなくて、


「他人の褌でなるこっちゃ」


 そのためにドゥーブル・フロマージュのオーナーを巧みに投機の世界に誘い込み、大損させて救済融資をさせとる。そこに乗り込んだナガトは、ドゥーブル・フロマージュの経歴だけを身に着け、


「ゴースト・パティシエを調達して華麗にデビューや」


 利用するだけ利用したドゥーブル・フロマージュは用済みになり、やっぱり救済融資の急な返済を要求されてるよ。


「出がらしは用無しってことや」


 いくら子どものためでも、そこまでやるか。


「上手く行った?」

「簡単や。カネで済む話やからな」


 そこだけはね。でも後始末をキチンとやらないとミサキちゃんにドヤされる。後は賭けだよ。でも信じてる。


「コトリもや。それとやけど・・・」


 それやってやろうよ。エレギオンの女神は自分に火の粉が降りかからない限りノータッチが原則だけど、今回は動くよ。


「コトリも賛成や。そこで相談やけど・・・」


 なるほど! それも禁じ手に近いけど、今回は使うべきだよ。だってだよ、女の子の命の美味しいお菓子を穢したからね。これが許せるものか。エレギオンの女神の怒りを思い知ると良いわ。

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