ゲイバー

M

「お一人ですか?」

 大阪の、堂山の、古いビルの、三階の、一番奥の店に足を踏み入れたぼくに、だいぶ歳下だと思われる店子が聞いた。店内は賑わっており、お一人様いらっしゃ〜い、とカウンターに通されたときには内心、場違いだな、と感じていた。ボックス席は満員で、カウンター席もぼくの座っているひと席しか空いていないほどで、若くて皺のない声がそこらじゅうから響いていた。

「ここには、初めてでしたっけ?」

 約五年ぶりにゲイバーに足を踏み入れたぼくは恐らく、側から見たら不審者と思われるくらい無愛想だっただろう。若い店子はそんなぼくが怒らないよう、注意深く、言葉を選びつつ接しているのがわかった。

「はい、初めてです」

 ぼくの返答に安堵したのか、若い店子はお店のシステムを説明し始めた。チャージ700円、ドリンク一杯800円、カラオケもよかったらどうぞ。

「何にします?」

「こんな場所に来といてあれですが、すみません、お酒弱いので、何か軽いものをいただけますか」

「軽いもの〜」

 店子が困ったように周囲を見渡した。ぼくは慌てて、

「すみません、じゃあ梅酒ありますか。ソーダで。薄めにしていただけると嬉しいです」

「あ、はい!」

 元気に返事をした店子はぼくのオーダー通りに薄めの梅酒を作ってくれた。

「よかったらどうぞ」

 ゲイバーに来たら最初に店子に一杯奢る、という礼儀を忘れないことは、ここに来る前に過去自分がやらかした失敗から学んでいた。自分の分を作った店子と乾杯し、久しぶりのお酒を喉に通す。

「改めて初めまして。ユウキです」

 若い店子は二重の大きな目を見開きながら自己紹介した。

「お名前うかがってもいいですか?」

「たけしです」

「たけしさん!ありがとうございます!」

 ボックス席からは歓声が聞こえ、カウンターにいる隣の席の子たちはトランプゲームをしている。

 つい最近、誕生日を迎えた。この歳になって誕生日を祝ってほしいとか、特別な日だとか思うこともないのだが、毎日の仕事に忙殺されている日々から一瞬、現実に引き戻された。それは友人からのお祝いメッセージだったり、親戚からの連絡だったり、親からの電話だったり。

 結婚はまだしないのか。帰省する度に両親から聞かれ始めたのは、ぼくが三十路を過ぎた辺りからだっただろうか、それとも姉が出産した頃だっただろうか、もしくは妹が結婚したタイミングだっただろうか。それは両親と顔を合わせるときから、徐々に頻度を高め、最近では電話でも言われるようになった。田舎特有の、先祖から受け継いだ苗字を守っていくのは男しかいないのだという考えと、自分の息子が同性愛者であるということを知らない両親の期待と、子どもの中で唯一結婚していないのがぼくだけだという事実を突きつけたいのかもしれない。

 結婚したくても相手がいないから。いつもそうやって誤魔化してきた。決して嘘ではない。恋人なんて最後にいたのは五年以上前の話だ。それからずっと仕事に打ち込んできた。平日も土日も関係なく、呼び出されればすぐ対応し、責任のある仕事を任されるようになり、充実していなかったと言えば嘘になるくらいに楽しい毎日を過ごしている。

 三十六歳になった。四十路と呼ばれてもいいくらいの年齢になった。地元の同級生はほとんど結婚し子どももいる。大学の同期も奥さんと子どもを養い一戸建を購入した。つい最近まで同じ方向を向いて授業を受けていたあの頃がまだ鮮明に思い出せるのに、全員違う方向を向いてしまった。

 突然怖くなったのだ。独りでいることに。

 人がいるところでお酒を飲みたかった。居酒屋で飲むのでもなく、バーで飲むのでもなく、自分と同じセクシャリティの人たちが集まるところで、自分を慰めたくなったのだ。スマホで大阪のゲイバーを調べ、比較的落ち着いているというレビューを吟味し、行くかどうか散々迷い、店の前を何度も往復し、意を決して扉を開けたのだ。

 元々お酒を飲む方でもなく、知らない人に話しかけるほど社交的でもないぼくが、精一杯の背伸びをしてやってきたのだが、レビューよりも若い層が多く、想像していた以上に騒々しいこのゲイバーで、無愛想な顔をして飲むぼくを前に戸惑う若い店子を見て、今すぐ帰りたくなった。慣れないことをして自分の行動に違和感を覚えるようなことはするべきではなかったのだ。必死に話題を振ってこようとする店子がかわいそうで、この一杯を飲んだらすぐに出ようと決めたのだが、薄めで作ってくれた梅酒は彼には薄めでもぼくには濃いめでなかなか飲み進められない。

 隣でトランプをしている子の肩がぼくの肩に触れた。ゲイバーはとても特殊な場所だと思う。店子と客がよく触れ合うし、それは客同士にも当てはまる。ぼくはその子の邪魔にならないよう身体を縮めてタバコに火を点けた。

 わー、という歓声が聞こえ、隣の男の子がグラスに入ったお酒を一気に飲み干した。トランプで負けた方がお酒を一気に飲むゲームをしていたらしい。ちらっと見えた横顔は深夜を過ぎているのに髭の跡すらないつるんとした顎をしていてその子の若さが伺える。その奥で一緒にゲームをしていた相手の肌にも脂っぽさがなく、見ていて胸の奥が鷲掴みにされたような気持ちになった。

 どこにいても独りなのだと思い知らされた気がした。

 隣に座っていた青年がトイレに立ち、その相手をしていた店子から心配される声が掛けられていた。若さが羨ましいとは思わない。自分も通ってきた道だ。けれど歳をとっていくことが、こんなにも孤独を助長させることになるなんて考えてもいなかった自分を呪いたい。

 タバコの火を消し、ジョッキにまだ半分以上残っている梅酒を見た。帰ろうと思った。

「何飲んでるんですかー」

 ぼくの相手をしてくれていた店子にチェックを申し出ようとしたのより先に、それが自分へ向けられた言葉だと理解したので変な間ができた。隣には先ほどトイレに立った青年ではなく、その奥に座っていた、脂っぽさのない肌をした青年が座っていた。

「あ、これは、梅酒ソーダを」

「え、梅酒ってグラスじゃなくてジョッキで出てくるんですか。なあユウキ、ここってそんな決まりあるん」

 話口調から、彼がこのお店と親しくしているのがわかった。話を振られた店子も、

「そやで、知らんかったん」

 とぼくに向けられていた時の緊張感が解けた声を出している。

「ずるいやん。俺もジョッキにしてや」

「あかん、あんたはグラスで飲んどき。ほら、作ったるから早く飲み」

「お前も飲めや」

「うるさい、ほら、早く飲んで」

 脂っぽさのない肌をした彼は目の前に置かれたグラスを一気に飲み干し、大声で店子との会話を楽しんでいた。

「ほんとすみません、こいつほんまうるさいんですよ」

「うるさい、早よ飲めって」

「僕たち同い年なんです」

 店子の顔と、隣の子の顔を見比べた。

「そうなんだ。いくつ?」

 聞いた後で、年齢を訪ねてよかったのか迷った。

「今年で二十五歳です!」

 そんなぼくの気持ちとは裏腹に、元気よく店子が答えてくれた。普段から一緒に仕事をしている人たちに年齢を聞くことがほとんどないのだが、ここでは気にしなくてよかったらしい。

「あ、こいつまだ二十四なんですけど、来週誕生日なんですよー」

 隣の子は店子を凝視しつつ、

「うるさい、黙れ」

 と声を張っていた。

「来週誕生日なんだ。おめでとう」

「そう、こいつゴムの日に生まれたんですー」

「うるさい、さっさと飲め」

 誕生日が近いということを知ってしまったので、何か一杯奢ってあげた方がいいのか、けれど見ず知らずのおっさんからそんなことをされたら迷惑なのかもしれない。そう思っているうちに話題が誕生日から逸れてしまった。

「お兄さんもゲームします?」

 帰るタイミングを逃してしまい、今チェックを伝えると相手に不快な思いをさせてしまうかもしれないと考え、もう少しだけ座っていることにした。

「うん、なんのゲーム?」

 彼は慣れた手つきで指を突き出し、周りにいた店子たちにも同じ動作を指示した。

「あげっぱ」

 あげっぱ、と聞こえた気がしたのだが、それが何なのか全く理解できていないぼくは、

「ごめん、これどんなゲーム?」

 ぼくの戸惑いを察したのか店子の一人が説明をしてくれた。要するに昔はSMAP×SMAPで指スマと言われていたもので、ただし一度あげた親指は下げることが出来ないというルールらしい。

 十も歳が離れた子とこんなゲームをしている自分に照れた。早々とゲームを上がれたぼくは終わりを見届け、そのゲームの敗者はやはりお酒を一気飲みさせられていたので肝を冷やした。

 時間は既に夜中の二時を過ぎていた。

 そういえば、と先のぼくの隣に座っていた青年はどこへ行ったのか探すと、カウンターの隅で大人しくなっており、

「友達、大丈夫?」

 気になって尋ねると、何やらやりとりをした後、帰り支度を始めた。

「じゃあ気をつけて〜」

 てっきり一緒に帰るのかと思っていた脂っぽさのない肌をした子はぼくの隣に座ったまま友人を見送っていた。

「一緒に帰らなくて大丈夫だったの」

「あ、俺住んでるの加古川なんですよ、もう終電無いので、始発までここで飲みます」

「加古川か。終電も早い時間になくなるよね」

「はい、十一時台には無くなっちゃうんで、ここに来るときは始発まで飲みます」

「始発は何時?」

「五時!」

「すごいね、そんな時間まで飲むんだ」

「はい、でも飲むの好きで、毎週この繰り返しです」

「まじか」

「お兄さんどこ住んでるんですか」

「ぼくはここから自転車で十分くらいのところ」

「めちゃくちゃいいですね!すぐ飲みに来れて!」

「いや、お酒弱いからそんなに出てこないんだけどね」

「もったいない、俺だったら毎日でも来るのに」

「加古川から梅田まで結構時間かかるよね」

「そうですね、でも新快速で一時間くらいですよ」

「あ、意外とそんなもんか」

「はい、新快速止まるんで」

「もうこの辺に住んだらいいのに」

「いや、でも都会には住みたくないんですよ、やっぱり田舎がいいです」

「ふーん」

「俺運転が好きで、毎日運転したい派なんです」

「都会に出たら車要らないもんね」

「それが嫌なんですよ」

 それから仕事のこと、休日の過ごし方なんかを話し、周りのお客さんとゲームをし、カラオケを歌い、ぼくでも何となくしかわからないほど昔の歌を彼が歌えることに驚き、気付けばお店の閉店時間になっていた。

「え、もうこんな時間」

 スマホで確認すると五時を過ぎていた。

「知らないうちに始発の時間になったね」

 あれだけ帰ろうとしていたのにこんな時間まで居座っていた自分に驚いた。

「電車の時間調べた?」

 スマホを操作する彼の横顔は、一晩中飲んでいたにも関わらず相変わらず脂っぽさがなかった。

「見て」

 向けられたスマホの画面を覗くと、始発が五時、その次が六時になっていた。

「一時間も待たないと次がない」

 そう嘆く彼に料金の支払いを催促する店子。ぼくたちは揃ってチェックし、店子に見送られてビルを出た。

「さむ〜」

 五月に入ったばかりの早朝は凍えるほど寒く、ぼくたちは身を縮ませながら歩いた。

「電車までの一時間どうするの」

「どうしよう」

「どこかで時間潰す? 付き合うよ」

 そう言ったものの、この時間に一時間も時間を潰せる場所が思いつかない。

「あ、いいですよ、俺いつも駅で電車待ってるんで」

「こんなに寒いのに大丈夫?」

「この前なんて知らないうちに駅で寝てて、気付いたら昼でした」

「危ないよ」

「いつもそんな感じなんで」

 とりあえず自転車を停めている駐輪場まで向かい、自分の自転車を引きながら、この子をこの寒空の中一人で居させていいのか、けれどもういい大人なのだから大丈夫だろうという気持ちと、もし一時間を過ごすのであれば、ここから一番近い、何も気にせずに過ごせる場所は近くにあることを頭の片隅で考えていた。

「良かったら、うち来る?」

 年甲斐もなく声が震えていた。寒さに身を縮めていた彼と目が合った。たぶん、ぼくの瞳は、彼以上に戸惑いを纏っていただろう。

「え」

 頭の中に言葉が浮かんでこなかった。

「じゃあ、お願いします」

 自転車を引きながら、ぼくはたぶん、ゲイバーで過ごしたあの時間以上に饒舌に喋っていた。五月はまだ寒いね、あ、あそこで若い子たちが喧嘩してる、梅田の朝って感じがするね、ぼくの家梅田を挟んで向こう側なんだけど今の時間だったら駅の中通れるかな、いつもは迂回するんだけどね、たぶん通れると思うからこのまま真っ直ぐ行こうか、ここのお店行ったことある? ここランチすごく安くて美味しいんだ、最近行けてないけど昔はよく行ってたな、このビルの七階にレストランがあるんだけど、そこのかき氷がめちゃくちゃ美味しいんだ、景色も最高なのにオフィスビルに入ってるからあんまりお客さんいなくて穴場だよ、ぼくふわふわしたかき氷が好きで毎年新しいお店探してるんだけど、ここは今まででもすごく良かった、阪急のこの展示って頻繁に変わるから見応えあるよね、あ、そういえば先週まで阪急で吉田ユニの写真展がやってたよ、知ってる? サバンナとかで民族の写真を撮ってる人なんだけど、今回はそういう写真じゃなく、ドラァグクイーンの写真展だったからすごく面白かった、SNSでシェアしてくださいってポップがあったからたくさん写真撮ったんだ、その中に大阪で撮影されたものもあって、これはきっとスカイビルだなと思ってインスタでシェアしたら、友達もこれはスカイビルやなってコメントしてきたからきっとスカイビルだよ、吉田ユニが梅田にいたんだ、そうだ、お腹空いてない? コンビニで何か買ってく?

 頭の中を言葉で埋め尽くすので精一杯だった。今自分に起こっていることを確認する余裕を自分に与えたくなかった。変な下心があるなんて思われたくなかった。緊張してるなんて、感じさせたくなかった。

 マンションに到着し、狭い部屋だけど、というお決まりの文句を並べ、彼をソファに座ってもらう。

「眠いよね? 寝る? その前にどうする、シャワー浴びる?」

 発言する内容が全て変な意味に捉えられないかと心配だった。

「あー、じゃあ、シャワー浴びていいですか」

「うん、タオル用意するね。着替えどうしよう、ぼくのサイズだとちょっと大きいかもしれないけど、待って、今探すから」

「適当なTシャツだけでいいですよ」

「そう? じゃあこれ。お風呂場そっちで、ここにシャンプーとかあって、この中に化粧水とかあるから、全部自由に使ってくれていいから」

「はい、ありがとうございます」

 彼をお風呂場へ通し、シャワーの音が聞こえてから、ぼくは急いで部屋の確認をした。汚いと思われないか、ゴミが落ちてないか、変なにおいがしないか。リセッシュを部屋中に吹り撒き、クイックルワイパーで素早く掃除をした。そして何食わぬ顔でスマホをいじりながら彼が出てくるのを待った。

「ありがとうございました」

 Tシャツにボクサーパンツ姿の彼が部屋に戻ってきたので、あまりジロジロ見ないよう注意しつつ今度はぼくがシャワーを浴びた。

 シャワーから戻ると、彼がテレビを観つつコンビニで買ったおにぎりを食べていた。

「えっと、どうしよう、あの、寝る?」

 もっとスマートな大人になっていたかったと自分を恥じつつ彼をベッドに誘った。横並びで布団に潜り、点けたままのテレビを眺めていると、しばらくして横から寝息が聞こえてきた。

 ほっとしたような、少し残念なような、近頃感じていなかった気分になった。二十四歳の子を前に何しようとしたんだと自分を戒め、テレビを消そうとリモコンに手を伸ばした瞬間、ぼくの動きに合わせて布団が動いたせいで彼が目覚めてしまった。

 ごめん起こしちゃった、と言うよりも先に、彼の腕がぼくの肩に回った。

 顔がとても近くにあった。

 いつも嗅いでいるシャンプーの香りがした。

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