3. 揺らぎ

「──え」

 手で頬に触れると、何か冷たいものが手に触れた。涙、だった。

 なんのための、何に対する、──、涙なのだろう。

 僕は困惑する。おかしい。こんなの、絶対に、おかしい。


 ざわり。


 また、胸がざらつく。僕はどうすれば良いのか分からず、彼を見る。

 彼は何も言わずに暫く僕を見つめた後、静かに

「帰ろうか」

と、僕の手を掴み、歩き出した。


 家に着く頃にはもう、涙は乾いていた。



 シャワーを浴び、首にタオルを掛けソファにぼんやりと座っていると、彼がリビングと廊下とを繋ぐ扉から顔を出した。

 彼は彼らの、──僕の両親の部屋を見ていたのだ。

 「君のご両親の部屋、見ても良いかな」と、彼が帰り際にぽつりと訪ねてきた時には驚いたが、特段断る理由もなかったので二つ返事で了承したのだった。

 彼は僕の隣に腰掛けると、

「お父さんと君の写真、一枚しかないんだね」

「……あぁ、父さん。父さんは母さんのことしか見てなかったから。二人で話したのも数えられるくらいしかないんじゃないかな」


 父は、母のことを愛していた。小さかった僕から見てもはっきりそうと分かるほどに。母は困った顔で笑いながらも、いつも嬉しそうにしていた。「あなたもこの子の面倒見てよね。寂しがってるでしょう」「見てるよ。なぁ?」

 そう聞かれる度、僕は決まって頷いていた。実際、会話こそしていなかったものの、仕事もしていないのに何故か家を空けることの多かった母より、父とあることの方が多かったくらいだ。

 二人きりでいる時に交わされるのは、「ご飯にするか」「うん」「行ってくる」「行ってらっしゃい」

 そんな、事務的で味気ないやりとりだけ。それでも僕は父のことが嫌いではなかったし、むしろどちらかと言えば好きだった。


「そっか」

 彼は僕の話を聞き終えると、静かにそう呟いた。彼は何故か、僕と目を合わせない。

 それからしばらく沈黙が続いた後、彼は不意にポケットから何かを取り出すと、そこで初めて僕の方を見た。

「さっき、写真立ての中から見つけたんだ。これ、君宛てに」

 僕宛て? 一体どういうことだろう。

 僕はそれを受け取った。表には何も書かれていなかったので、裏を見る。その文字を見た瞬間、全身に戦慄せんりつが走り、心臓がどくんという音を立てたように大きく跳ねた。目尻が裂けそうなほどに目をみはり、僕は震える息を抑えるために深呼吸をする。

 何かに急かされるかのように、震える手で糊付けされたそれを開けていく。


 それは、母から僕宛ての、長い長い手紙だった。

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