第14話

 暑い空が赤く色付く中、ぼんやりと自転車を走らせていた。

 お金を取りに行く事も忘れて、真っ直ぐに家に向かっていた。

 その時は、兎に角津々木(つづき)さんと会うのは、もう止めようという事だった。大辻(おおつじ)君があそこまで私を思ってくれているのなら、私も気持ちを決めないといけない。

 大辻(おおつじ)君は、私にとって勿体無い人だ。他人に不安を抱く私が唯一心許してもいいと思えた相手だった。

 私は、どうしてこんな早い時間に家に帰って来たのか。多分、あの事が私を混乱させていたのだと思う。

 スーパーでのファーストキス。

 場所はアレだけど、何か良い思い出になりそう。


 家に入る前に鍵が開いてる事をまず怪しまなければならなかった。

 ドアが閉まり切ってなかった。

 ちゃんと締めなかったのかしら。

 私は、普通にドアを開けて中に入った。

 靴を脱いで数歩進むと、男がリビングで立っているのに気付いた。

「おかえり」

 ぞっとする声だった。酒臭い息が鼻を突き、汗臭い体臭が私の周りにまとわりつく。

 五十くらいの浅黒い中年男性だった。初めて見る。ガタイが良く、手足が丸太のように太い。酒のせいか少し顔が赤みを帯び、蛇のようにいやらしく口角を上げて、私の体から目を離さない。

 男は、回り込みながら玄関を背にして、私の逃げ場を無くした。

「何ですか」

 私は、平気を装ったが、声は明らかに震えていた。

「いやあ、お母さん待ってるんだけど、なかなか帰って来なくてね」

じりじりと距離を詰めて来る。明らかに嘘。

私も距離を取って下がる。でも、狭い部屋だ。すぐに窓に追い込まれた。

「お母さんは、まだお店だと思います。電話しましょうか?」

「電話なんかしなくていいさ」

 男は、もう一度私の体を上から下まで舐め回すように見た。

「お小遣いに困ってるんだろ。ほら、一万円渡すから」

 ポケットからくしゃくしゃのお札を出して来た。

「渡すから、何ですか?」

「少し座って話そうか。実は君のお母さんのことで困っていてね」

「私は、あの人の事なんか、分からないです。本人に直接話して下さい」

必死で男の横をすり抜けキッチンのテーブルにしがみ付く。私達は、テーブルを挟んで向かい合った。

「そんなに、離れてないで、こっちに来なさい」

 強引に回り込もうとする男。

 私は、男から視線を外さずに後ろ手に流し台の引き戸を開けると、適当に包丁を掴んだ。

「おいおい」

 男は、明らかに焦りを見せた。

 腰は引けているが、両手に持って刃先を相手に向ければ、どんな大男でも威圧出来る。

「危ないな。そんなもの置きなさい」

 形成逆転。私が一歩近づくと、男も一歩下がった。

「そこをどいて! でないと、あなたのお腹に突き刺すわよっ」

 適当に振り回し、男を威嚇する。

「この、クソ女っ。いいか。お前は、母親に売られたんだぞ。俺は、お前の母親に金渡したんだ。大人しく抱かれろ!」

 私の母親もクソ女だ。自分の娘を金の為に売る鬼畜がこの世にいようとは。あの女は、私の敵だわ。

 男が椅子を持ち上げて、私に突進して来る。包丁から身を守る為に力技を使う。

「きゃあっ」

 私は、椅子と一緒に床に押し倒されてしまった。

 男の手が椅子の横から襲って来る。私の細腕を掴む男の手の平は汗で濡れていた。男の体は椅子で大半が見えない。夕暮れの闇が迫る中、芋虫のような五本指が椅子の向こうに沈む暗闇に引きずり込もうとする。まるで、恐怖映画のような激寒のシチュエーション。自分が何の目的で襲われているのか分からなくなる。

様々な恐怖が全身を駆け巡る。

 私は、思い切り両足を上げて、椅子ごと男を蹴り飛ばした。

「わあ!」

 椅子の角が男の額に命中して、男は尻餅を突いた。後先を考えていられない。私は、包丁を両手で握り締め、全体重を掛けながら、男の腹に向けて倒れ込んだ。

「うわっ」

 包丁がフローリングの床に跳ね返され、手首をひねってしまった。男は、間一髪体を横向きに逃れていた。包丁が転がって行く。私と男は、争いながら手を伸ばした。

 先に包丁を掴んだのは男だった。

「ぐへへ……」と、勝ち誇った顔を私に向けて来た。

 私は、男が包丁を持ち替えている間にすばやく立ち上がって、玄関に向かった。

「こら待て!」

 男が私の足首を掴む。

 膝をついた私は振り返ると、凄まじい形相の男の顔目掛けて思い切り蹴りを入れた。

「ぐわっ」

 重低音の叫びを後にして、私は飛び込むように玄関のドアにすがり付いて外に出た。

 全力で抵抗したアドレナリンを含む汗と恐怖体験をした冷や汗がない交ぜに噴き出る肌に、昼間の熱を含んだ空気が触れた時、私はひとつ安堵の息を吐いた。

 でも、家の中から届く男の怒声に弾かれて、私は一気に階段を駆け下り、全力で走り出した。

 買い物帰りの主婦、帰宅中のサラリーマン、ウォーキングに勤しむ高齢者夫婦。それらが投げ掛ける様々な表情を気にしていられない。後ろから、あの男が追い掛けて来る恐怖が私の足を動かす。

 途中で休み休みしながら、私は駅前の公園まで一気に辿り着いた。着いた時には心臓が口から出そうになっていた。

 何とか、いつものベンチに座り込み、後から男がついて来ていない事を確かめた。

 全身汗だらけ。滝のように流れ落ちるとは、この事か。

 手足の震えが止まらない。

 また、すぐそこに男が来ているかもしれないという恐怖も消えない。誰かに助けを求めないと。でも、その辺りにいる他人もあの男の仲間かもしれないという不安が脳内を占めていた。自分にとって、安心出来る人。

 私は携帯を手に取り、まだ落ち着かない指でメールを打った。

 この時の選択が私の運命を分ける事になった。

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