第2話 飼い猫マオの新しい優雅な生活

 俺は猫になった。


 気がついたら猫だった。目も開かずに寒さに震えていたところを彼女に、正確には彼女に促された連れの男に拾われた。

 俺は保護され、あたたかい寝床と栄養のある食べ物を与えられた。


 俺が目を開けて初めて見たものは、猫のように大きな彼女の瞳、それから白い髪に縁取られた絵のように美しい顔。

 壁画から抜け出してきたのかと思った。

 彼女は壁画の女性に生き写しだった。髪も肌も真っ白で、華奢な細い体で、地味な黒いワンピースを着ていた。


 俺は彼女に会いたかった。


 俺は薄々猫になったことはわかっていた。そりゃわかる。渋い低音、震え上がると言われていた俺の声は(公式)、口を開けばにゃー、まーお。甲高いその声は可愛らしいにもほどがある。

 とにかく眠く、あくびが果てしなく出る。あー、と伸びるといっちょまえにピンクの肉球のついた毛だらけのお手てがぱあと広がる。

 彼女はそれを嬉しがって、何度も俺をくすぐった。彼女に触れられて、俺は幸せで死にそうだった。

 

 そうか、俺は死んだんだ。

 俺はあの時死んで、猫になったんだ。


 彼女に抱きしめられ、俺は初めどうしていいかわからなかった。

 しかし、何度も無条件に愛情を注がれ、見つめられ、微笑みかけられ、俺が思わず喜ぶと彼女は嬉しそうに笑った。


 笑ったのだ。彼女が。


 何百年もただ寄り添い、俺は祈る彼女のそばに立ち尽くすことしかできなかったのに。

 魔王にも神の奇跡はあるのか。神は何て平等なんだ。配下を守ることに汲々としている魔王なんかより遥かに頼もしい。

 奇跡は俺を彼女の腕の中の猫にした。

 俺は彼女の腕の中で溶けていく。

 猫は液体なのだ。


 例えばの話を、あり得ない夢の話をすることがある。

 例えば、生まれ変わったら何になりたいか。


 俺は一応、もっと序列が上の強力な魔王になりたいと言った。

 でも本当は、猫になりたかった。

 誰とも戦わず、殺さず、ほんの少しの手間と愛情を望んで与えられて生きる、誰からも何も奪わない存在。

 その上で祈る彼女を慰めるだけの柔らかさ、あたたかさ、むくむくとした可愛らしさ。そんなものがあったら、俺はもう死んでもいい。


 という願いは叶った訳だ。全く神というものは、もしもあるなら本当に平等で気まぐれだ。


 もし。

 もしも、あの勇者に倒された俺の配下が、望み通りの命を与えられていたら。


 あの時、あの人間の娘との恋を諦めた彼が人間になっていたら。

 新しいものを作り出すのが好きだった彼が、魔物より遥かに無個性で脆弱で数の多い人間の、役に立つものを作り出して喜ばれていたら。

 広い世界を見たいと願いながら職務に忠実に城を守っていた彼が、夢の通りに渡り鳥になっていたら。

 俺に彼らが語った夢が、語らなかった夢が、あちこちで叶っていたら。

 

 想像しているときりがない。

 彼女の膝の上で目を閉じ、確かめようもない甘い妄想を気怠く辿りながら、俺はそのまま眠りについた。

 

 俺と俺の新しい家族を改めて紹介しよう。


 俺の名前はマオ。もと掠奪の魔王で……それはいいか。今は飼い猫としてこの家で暮らしている。毛並みは闇の漆黒、と言いたいところだが、手足の先だけ靴下を履いたように白い。俺はこれが少し恥ずかしく、座る時はなるべく見せないように手足をしまうことにしている。


 俺の飼い主である女性の名前は雨音あまね。俺の見た限り、人間ではなく水妖ウンディーネであるようなのだが、人間の世界で暮らしている。

 彼女の素晴らしさについては話し始めれば明けた年が暮れても終わらないから今は割愛する。だが、例えそれだけ時間を費やしても、幾万の言葉を弄しても、微笑む雨音の輝きのかけらすら伝えられる自信が俺にはない。


 そうでなければ俺は、猫になって飼い主を顎でこき使うつもりだった。魔王だった時分に見た飼い猫というものは、そうした暴虐の王であった。


 それなのに、今の俺ときたら。

 雨音の膝が空いていても、飛び乗ることに躊躇する。今よりもっと小さい子猫だった時でもそうだった。俺の体重で雨音の足が少しでも疲れてしまったらと思うと、気軽に飛び乗ることなどできない。

 しかし俺は、知っているのだ。俺に飛び乗られた雨音がどんなに喜び、嬉しがるか。

 もう城も宝も持っていない、猫の体とこの思いしかない俺だけれど、雨音が喜んでくれるなら、俺は全てを捧げる。


 そんな雨音と同居している男は、確か名前を渋澤しぶさわれんとか言ったか。

 こんな奴の名前まで覚えてやる必要もないのだが、あまりに気が利かないので制裁のために奴に届いた郵便物をぶちまけてやった時に、偶然見えて覚えてしまった。こんなことに使う記憶の容量が惜しいのでできることなら忘れたい。

 屍人還りリビングデッドでもあるまいし、しまらない顔の、背だけ高い男だ。こんな男のどこか良くて雨音は一緒に暮らしているのだろう。雨音のことで、これだけは俺は納得できていない。

 しかし雨音は家事があまり得意でないから(もちろんそこが可愛いのだが)蓮がいると便利ではある。車も乗れるし。その一点で俺は同居を渋々許している。

 配下というより手下という感覚なのだが、俺はもう魔王ではないし、雨音が望むから仲良くしてやらねばなるまい。そんな訳で一応家族としてあげてやるが、もし奴が知ってつけあがるようなことがあれば教育する。あくまで立ち位置は手下だ。


 俺はそんな家族を従え、この世界で生きることになった。

 



 

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