第11話 残された希望


 魔法が消滅してから、三日の時が過ぎ去った。

 ラングとファガス、それにベスの一行は、妖精の森からもっとも近い位置にある、トバリの街を歩いていた。

 トバリの街は中程度の規模を誇る城塞都市である。ヴォネガット魔法大学を西において、城壁全体がほぼ円形の形に作られている。この地方では最大の物資集積所でもあった。

 ラングたち一行が歩いているのは、都市を構成する迷路の一つだ。両側に三階程度の石作りの建物が並ぶ、曲がりくねった石畳の道である。道は緩い勾配の坂道となっていて、その道をずっと先に進むと、中央市場へと通じる主街道に出ることになる。

 護身のための魔法が消失したために、街の周辺の治安は悪化の一途をたどっていた。高価な魔法の道具を使用することで、盗賊ギルドも警備ギルドもその地位を保っていたのに、いまや安物の棍棒を一つ持つだけで、素人が立派な強盗を名乗ることができるのだ。じきに城壁の中でも、安全とは言えなくなるだろう。

 ベスが手に持っているのは両端に鋼鉄がついた棒だ。武道の心得がある者の見せる滑るような静かな動きで、周囲を警戒しつつ歩いている。もっとも、ラングの巨体を見ただけで、たいていの悪漢は逃げ出す。

 ラングはひょいと気軽に手を伸ばすと、動けなくなっていた荷車を溝から引き上げた。いままで顔を赤くして荷車を溝から脱出させようとしていた男が、目の前のこの巨人を見上げて、呆れたような口調で礼を言った。

「ああ、あんた。すまんね。この荷車のやつが言うことを聞かなくて」

「馬もつけずに、この重さの荷車を一人で?」ラングは尋ねた。

 男は肩をすくめると、ようやく動くようになった荷車を引き始めた。

「こりゃあ、魔法の荷車なんだ。前は馬をつながなくても一人でに動いていたんだがね。あんた。何日か前のあれで、もう駄目さ。それにいまじゃ馬もサマッドも奪いあいの有り様だからね。そうおいそれとは手に入らない。となれば一人で引く以外に手はないのさ」

 荷車と共に男が去ると、ファガスはラングに向けて、一つウインクをしてみせてから言った。

「結局、世界は崩壊しなかったってわけだ。誰も死ななかったし、青空から神々の死体が落ちて来ることもなかった」

 ラングは静かに顔を左右に振ってみせた。

「いや、そう見えるだけだ。実際には崩壊は進行している。さっきの荷車を見ただろう?」

「魔法の代わりに人が荷車を引いていたな」

 ファガスは目を細めて、荷車が去った道の先を見つめた。

 曲がりくねった街路は遠くを見通すことはできない。いい加減な都市計画の結果ではなく、この城塞都市は敵からの防御を主眼として設計されているためだ。

 あの魔力消失の夜、パニックに近い騒ぎが過ぎ去ると、今度は誰もが家の中に閉じこもるようになった。そうして新たな夜を重ねるたびに不安はより深刻なものとなり、都市によっては暴動の噂が流れるところもあるとの話であった。もっともそれさえも、出所のはっきりしない噂である。魔法の遠話器はことごとく沈黙していたからだ。

「この都市が必要とする食料の量は、馬やサマッドだけでは集めきれない。貯えている食料が尽きれば、遅かれ早かれ、この都市でも飢餓がはじまるぞ」

 ラングは説明した。

「王国軍も大騒ぎでしょうね。いきなり魔法の武器が使えなくなったんだから」ベスが指摘した。

「殺気だっているよ。駐留所には近づかないほうがいいな」ラングは頭を掻いた。

「これで敵国の軍隊の魔法が生き残っていたら、大変なことになっていたな。炎の武器は全部駄目だし、石弓の矢は自動追尾しなくなっている。魔法の盾とくればただ重いだけの代物と成り果ててしまっているし、これでは戦争のやりようがない」

「不幸中の幸いってやつだな」他人事のように軽く、ファガスは言った。

 街のあちらこちらに設けられている小さな広場では、十字架に縛りつけられた男たちが喚いている。いずれも腰布一枚だけで、全身に無数の鞭の跡がついている。

「どこかで見た顔だな」ラングはつぶやいた。

 ベスはざっと男の全身を見てから言った。

「盗賊ギルドの連中ですね」

「ああ、そうか」大きな音を立てて、ラングは両手を打ち合わせた。

「こら! 何みてやがる!」縛られたままで男が喚いた。

「おれがドジだから見つかったんじゃねえや。いいかよく聞け!

 おれが夜の仕事をしている最中に、いきなり呪文が解けたんだ。畜生。なんていい加減な隠れマントを売りつけやがるんだ、ここの魔術師ギルドは!

 お陰でおれはここでもう三日の間さらしもんにされているんだぜ」

「ということは法律では明日には解放か」しばらく歩いた後で、ラングはぼそりと言った。

「でも解放された後はどうするのだろ。魔法の隠れマントもなしで、泥棒が成り立つのかな?」

 ファガスは適当に相槌を打つと、周囲の町並みを見渡した。

 あちらこちらで奇妙な事件が起きてはいるが、それでも街は何とか生き延びていた。

 あの事件の夜以来、世界から一切の魔法が消えうせた。

 飛行船は原則として夜の使用は禁止されていたために、からくも墜落の被害はまぬがれていた。普通の船の多くは、魔法で風を呼べなくなったために海上で立ち往生する羽目になっている。それでも賢い船長の中には、きまぐれな自然の風を頼りに、そろそろと船を動かす者もいるという話だ。

 もともとが魔法というものは高価なもので、それほど一般には普及していない。それが今回は幸運として作用した。魔法が消失したからと言っても、すぐに人の死に直結するわけではない。

 森に棲んでいたはずの多くの怪物たちは、あっさりと姿を消してしまっていた。ときおり木々の暗闇の中に何かが蠢いているかのような気配があったが、魔力が存在しない以上、それが実体を持つに至ることはなくなっていた。

 ラングとファガスが調べたところ、今回の事件ではまだ派手な死者も出ていないし、街一つを消してしまうような大事故も起きていない。

 だが、いずれはあの荷車に代表されるような遅滞現象があらゆる面で見られるだろうと、ラングは予測していた。実際の経済と生活の上では、効率というものは決して無視できないのだ。じきに経済のあらゆる面が枯死を始めることになる。それに連れて人口は激減することになるだろう。

 それに魔法生物の問題がある。ミッドガルド界の生物は多かれ少なかれ、魔法にどっぷりと浸って生きて来たのだ。そういった生物の多くが体に変調をきたしている。つまりは病気になっているのだ。魔力がない状況がいつまでも続けば、早晩、多くの生物が死に絶えてしまうことだろう。

 魔法に依存した社会から、魔法に依存しない社会へと世界が変化して行く、その過程の中に自分たちはいるのだと、ラングはそう考えていた。だがその変化は、生物や社会がうまく適応できるほど穏やかではない。これは激変と呼ばれるべき状況なのだ。

 三人が街から戻って来るのを迎えると、バイスターはラングから買い物カゴを受け取った。

「助かります。ラングさま。魔法ビンがどれもおかしくなってしまいまして、中身が全部駄目になってしまったのですよ」

「うちもそうだよ。バイスター」

 ラングはそういうと、椅子に腰掛けてパイプを取り出した。いつもの癖で手を振って魔法の火を呼びだそうとしてから、情けない顔をして見せる。それから懐から取り出した火打ち石を叩いて、火花を作りだした。

「すごく高かったぞ」ファガスが文句を言った。「例の指輪を潰した黄金を全部交換に出すことになった」

「まだ買えただけ幸運だったと思うべきだな」ラングは指摘した。「じきに売るべき物が何もないことに商人が気づくだろう。それに指輪のほとんどが、誰もいない荒野に降ったことも幸運だったな。でなけりゃその黄金さえも受け取ってもらえないことになっただろう」

「ま、それほど悲観することもないさ。森の中には食える木の実もあるし、動物もいる」

 呑気な口調でファガスは言った。

 それはどうかなと、心の中で思ったのはラングだ。街が飢えれば、人々は森へと殺到するだろう。少ないパイを巡っての、浅ましい争奪戦だ。森が養える人数に人々が減るまで殺し合いをするか、あるいはゆっくりとした餓死の道をたどることになる。

 だが、もしかしたらそこまでひどくならないかもしれない。王国評議会の連中も事態を収拾しようと全力を尽くしているだろうから。すみやかに流通経路が整備され、それほどの混乱も起きないうちに、すべてが正しい状態に戻るかもしれない。

 一方には人喰いまでもを含めた悲惨の道があり、一方には何とか文明を保てる道がある。結果はその両極端のうちのどの辺りに落ち着くのであろうか。

 ラングは自分自身の思考の迷路へと落ちこんで行った。とりあえずは様子をみよう。

 用心深いラングは、自分の家の地下に大量の保存食料を貯えていた。保存を魔法に頼らないで済むようなものをだ。今回の事態を予期していたわけではないが、その結果はこの事態でも、ラングの余裕ある態度につながることになった。

 自分とベスと、ファガスとバイスター。それにフェラリオの一家と、パット少女。おっと忘れていた。大いなる森の予言の老婆も計算にいれねばなるまい。これ以上家族が増えるのは遠慮願いたいところだが、助けを求める人々が押し寄せれば、自分がそれを無視できないだろうとはわかっていた。

 ラングは将来、それもきわめて近い将来に起こるであろう事態を考えて、胃が痛くなるのを感じた。

「これからの食品業界は腐敗との戦いか」ラングとは対極の思考にあるファガスはつぶやいた。「魔術師であるおれたちはこれで完全に失業ってわけだな」

 いまのラングにとっては、ファガスのこの楽天主義は救いであった。いつもの自分には似合わぬ軽口を叩いてみる。

「うむ。二人で土木工事でもやるか。わたしが穴を掘り、きみがそこに潜ってパイプをつなぐというのはどうだ?」

 そこまで言ってから、ラングはベスの方を向いた。

「きみは故郷に帰るべきだな。こうなってしまっては、魔術師の弟子を続けることほどの無駄はこの世にはあるまい」

 そのラングの言葉に、ベスはにこやかに微笑んでみせた。

「ラング先生。建設工房を始めるつもりなら、絶対に受け付けを行う人間は必要ですわよ。それも若い女性が」

 どうしてこの女性はラングをここまで気に入っているのだろうと、不思議に思いながらも、ファガスは椅子に深く体を預けた。

 表面にそうみせているほどには、ファガスも内心はお気楽ではなかった。

 魔術師として大成したい。それがファガスの夢だ。世界中から魔力がすべて消失してしまった今では、それは本当の夢物語となってしまった。しかし、どう考えてみても、今度のことの原因は自分が作った指輪ドラウプニルのせいなのだ。禁断のルーン円盤の知識の中から、よりにもよって最強の魔法壊滅兵器を復元してしまったのだから、誰を責めるわけにもいかない。

 ここに至って初めて、ファガスは自分の罪と直面した。

 その通り。今回の事件はみんなファガスが悪いのだ。ちょっとした実験のつもりが、その結果として世界を滅ぼすことになってしまうとは。

 約十秒間だけ反省した後、ファガスは自分に都合の悪いことをすべて忘れ去った。

「いや、しかし、ラングにぶっ飛ばされたときのザニンガムの顔ときたら。おれはすっとしたぜ」ファガスは椅子の上でけらけらと笑った。

「忘れてくれ」ラングはぶすりと言った。

「へ? どうして」ファガスは呆気に取られた。「いいパンチだったじゃないか」

「暴力で問題を解決しようなどとは文明人のやることではない。かっとなったとは言え、拳を揮ってしまうとは。まったくもって自分が恥ずかしい」

 真っ赤な顔でパイプを噛みながら、ラングは答えた。

「そんなものかね」ファガスは答えると、テーブルの上から酒の入ったカップを取り上げた。少しだけそれをすすりこむと、しみじみと言った。

「そういえば、エストリッジ先生は今頃どうしているだろうなあ」

 誰に対して発した質問でもなかったが、ラングはその言葉を鋭く聞き取った。

「予定ではもう1ムーンの間、発掘を続けるという話だったけど、こうなっては古代魔法王国も何もないだろうな」

「マナがない、か」ファガスは誰言うともなくつぶやいた。

 思考が取りとめなくなっている。ファガスの神経は荒縄ほども太いが、今回の事件でショックを受けていないわけではないのだ。

「ああ。完全に魔法は使えない。世界樹を取り巻くあらゆる場所から、ウロボロス・リングと一緒にマナが消滅した」

 ラングもぼんやりと答えた。生涯をかけて研鑚してきた技術が、一瞬で役立たずとなってしまったのだ。ファガスよりも繊細な精神を持つラングの方が、実際には大きなダメージを受けている。

 またファガスは酒をすすりこむ。ファガスは酒に強いほうではない。飲みすぎだとは思ったが、自分では止める気にもならなかった。悪酔い、二日酔い、結構だ。これ以上事態が悪くなるわけがない。

「古代魔法王国の発掘も意味を失ったわけだ。魔法遺物もこうなれば、ただのガラクタ。なんてこったい。俺はエストリッジ教授の生きがいまで奪ってしまったのか」

「おれたち、だ」ラングはファガスの言葉を修正した。

「強いて言うならば、ザニンガムもその中に含まれる。あそこであの男が介入しなければ、フェンリル教徒の供物箱を撃墜できた」

「まったく、とんでもない男だな」自分のしたことは棚に上げて、ファガスはそうつぶやいた。

「ドラウプニル。魔法世界の最終兵器か。たしかに恐るべき兵器だったな。たった一個の指輪でこの有り様とは」

 ラングはそう言うと、その大きな手で目を覆った。

「おれたちも、古代魔法王国の二の舞か」ファガスは椅子の上で足を組み、後ろに反り返った。

「でも、先生」ベスが口を挟んだ。「古代魔法王国って、あの指輪で滅んだのですよね?」

「ああ、たぶんそうだ。魔法に満ちた世界にとっては、あの兵器の効果は致命傷以外の何物でもないからな」

「じゃあ、どうして古代魔法王国が滅んだ後にも魔法が残っていたんです? あの指輪はマナを完全に食べてしまうのでしょ?」

「それは・・」ラングが言いよどんだ。「・・たしかに変だ」

 ベスの問いかけの視線に、ファガスは目をくるくると回してみせた。

 ラングはもたれかけていた椅子から体を起こすと、ファガスに詰め寄った。

「まてよ。あの指輪の魔法、ルーン円盤に描かれていた記述式はどうなっていた?

 マナが尽きた後に、指輪はどうなる?」

「一時的に機能を停止する」ファガスは即答した。自分の製品の魔術式はすべて暗記している。「自分自身を維持するだけのマナを保持したまま機能を停止する。つまり冬眠するわけだ。もしそれでもマナが戻って来なければ、金の指輪という構造はそのままに、マナ食いの魔法そのものが消滅する。つまり飢え死にするわけだ」

「なるほど。実にクリーンな兵器というわけだ。すべてが終わった後には、自動的に消滅するわけだ」ラングは感心した。

「だが、まだ問題の半分に答えただけだ。すべてのマナが消滅した後に、どこからマナが戻って来たのか?」

「指輪にやられなかった、世界の果てからじゃないのか?」ファガスはそう答えてから、はっとした。「ちがうな。ウロボロス・リングの再生速度からして、その場合はマナはすぐに戻って来る。そしてマナが戻って来た時点で指輪は冬眠から目を覚ますはずだ。指輪が餓死したということは、マナは世界のすべてから一度完全に消滅したはずだ」

「ならば、マナは存在できない。いまのおれたちと同じ状況になる」

 ラングは顎の下で手を組んだ。巨岩を思わせる肉の塊。考えるための姿勢だ。

「またもや始祖問題だ。マナはどこから来たのか? マナを作り出すウロボロス・リングはどこから来たのか?」

 バイスターが焼き立てのパンとチーズの盛られた皿を運んで来た。

「あいすみません。このようなものしかありませんので」

 そこで、バイスターは深刻な場の雰囲気に気づき、疑問の視線を投げた。考えこんでいる二人を邪魔しないようにと、ベスが小声で説明する。

「ああ、なるほど」バイスターは声を上げた。「それについては、このバイスターには答えがわかるように思われるのですが」

 ラングの視線が下りた。ファガスの視線は上がる。二人してまじまじとバイスターの顔を見つめる。しかしバイスターの表情には微塵の乱れもなかった。

 こほんと、一つ咳をしてみせてから、バイスターは言った。

「ファガス坊ちゃま。ラングさま。わたくしは魔術師でもありませんし、魔法の素養もありません。しかし政治と軍事に関しましては、多少のことは心得ているつもりです。もしそのような最終兵器を使うつもりならば、わたくしならば、自分の国が被害を受けないようにいたします」

「いったい、どうやって!」ラングとファガス、二人して同時に叫んだ。

 声の勢いに押されて、バイスターは一歩後ろに下がった。

「そのドラウプニルという名の兵器はマナを食べてしまわれるのですよね。虫のように食べ、虫のように増える。もしわたしがその魔法王国の支配者でしたら、虫の手の届かないところに大事なものを貯えておくと思うのですが。虫が滅んだ後に世界を元に戻すためにです」

 ラングの目が大きく見開かれた。ファガスと顔を見合わせた。

「たしかにそうだ。それが答えだ。彼らは魔法を遮蔽する容器を作り、そこにウロボロス・リングを格納したんだ。つまり、ウロボロス・リングを含んだ空間を」

 ラングは説明した。ファガスは感心して言った。

「なんてことだ。バイスター。お前は天才だ」

 滅多に聞けない主人からの賛辞に、バイスターは深々とお辞儀をしてみせた。

「いえいえ、そんなことはありません。わたくしめは一介の執事でございます。

 おや? お茶が切れたようでございますね。ただいま入れなおして参ります」

 バイスターは、テーブルの上からポットを取り上げると、また家の中へと入って行った。

 その後ろ姿を見送りながら、ラングはファガスに言った。

「きみにはもったいない執事だな。バイスターは」

「まったくだ」ファガスも肯定する。「さて、古代魔法王国の復活については結論が出たが、おれたちの状況には何の変化もないな。おれたちはそんな準備をしなかったし」

「準備か」

 ラングは遠い目になった。どうして自分はファガスの口車に乗ってしまったのだろうと、ラングは考えた。あの最初の満月の晩にファガスが実験をすると言った時点で、彼から指輪を取り上げて、有無をも言わさずに叩き潰してしまえばよかったのだ。

「準備と言っても、そもそも魔法遮蔽材なんて作れるのだろうか?

 魔法防御場は魔法を遮蔽するが、それ自体が魔法だから指輪に食われてしまった」

「可能だよ。というより、可能に近い」ファガスは得意げに答えた。

「魔法に反応する特殊な素材を、お互いに目の細かい入れ子の構造にするんだ。そうすると魔法は素材に浸透できるが、結果として浸透速度はカタツムリよりももっと遅くなる。薄い板切れ一枚を通り抜けるのに数年はかかるほどにな。おれのあの指輪入れの箱もそうやって作ったんだから間違いない」

 沈黙が落ちた。

 ラングが静かに、息を押し出すかのように、発言した。

「そ・れ・だ」

「しかし、あれは指輪が外の魔力を食わないようにと作ったんだ」ファガスは説明した。それから言葉を切り、しばし考えた。「たしかにそうだ。方向は逆でも働きは同じ」

「ウロボロス・リングにマナ。すべてはあの箱の中だ!」

 ラングは叫んだ。その声に驚いて、近くの森から鳥が数羽、空に飛び立つ。鋭い牙と未発達の翼を持つ蜥蜴鳥だ。姿勢を安定させる生来の魔法が切れたままなので、ずいぶんと危うい飛び方になっている。それほど飛ばないうちに力尽きたのか、また木の上に舞い降りた。このままではじきに普通の鳥に駆逐されてしまうだろう。

「待て。ラング。待て」ファガスは両手でラングを押し止める格好をした。それから叫んだ。「バイスター!」

「はいはい。ファガス坊ちゃま。ただいまお茶を」

 バイスターがポットを持って出てきた。

「坊ちゃまという呼び方はやめろ。それより、バイスター。あの箱はどこだ?」

「どの箱でしょう?」バイスターは額に皺を寄せた。

「おれが指輪を入れていた箱だ」

「ああ。少々お待ちください」

 バイスターは一端引っこむと、手に小箱を持ってでてきた。

「汚れているのはご容赦ください。パットさまが泥のついたままの手でお触りになられましたので。拭いてはみたのですが、どうしてもきれいにはならないのです」

「これだ」

 目の前に置かれた箱を、ラングとファガスはこわごわと見つめた。

 素材は白の木材と思えた。奇妙な縞模様の浮かぶ透き通った塗装がされている。その蓋はぴったりと隙間なく閉まっていた。

「魔法遮蔽効果のある溶剤を染みこませたんだ」ファガスがささやき声で説明した。「隙間は同じ溶剤を含んだ粘着材で埋めてある」

「信じるよ。きみは天才だ」ラングもささやき声で答えた。ここで大声を出せば、目の前の箱が消えてしまうとでも言うかのように。

「この箱の中に、世界を救うすべての力が隠されているとは」

 ファガスは感心した。それから手を伸ばすと、箱の蓋に触ろうとした。ラングの大きな手が驚くほどの速さで動き、ファガスの手をつかんで止めた。

「何をする? ラング」ファガスがささやき声のまま抗議した。

「恐いんだ。ファガス。わたしは恐い」ラングは答えた。その大きな手はまだ、ファガスの手を抑えたままだ。

「何が恐い? それより、きみが何かを恐がるなんて信じられないぞ」

「世界を救うのが恐いんだ。世界を変えるのが恐いんだ。わかるか? ファガス。

 世界がこうなったのは、避けようがない事故のためだ。わたしたちの意思じゃない。だが、この箱を開けるのは、事故じゃない。意思だ」

「世界を救って何が悪い?」ファガスは口をとがらせた。

「魔法世界か」ラングはゆっくりと言った。

「確かに魔法は便利だ。生活のあらゆる面を便利にする。だが、生きてゆくのに必須というものでもない。魔法がなくても人は生きてゆける。

 魔術師調査局がなぜ存在するのかわかっているだろう?

 毎年のように現れる、ミッドガルド界制覇の野望に燃える魔術師を逮捕するためだ。

 魔術師ギルドと王国の対立は言うに及ばず、光の陣営の究極の炎の武器と、闇の陣営の究極の氷の武器との力の拮抗を考えてみろ。世界を滅ぼしかねない魔法兵器でお互いを脅し合っているこの状況を考えるんだ。

 なあ、ファガス。わたしたちがこの箱を開けるのは正しいことなのか?」

 ファガスは箱にかけた手を引いた。

「しかし、ラングよ。お前も言ったじゃないか。このままでは世界はゆっくりと崩壊に至ると」

「いや、わたしは考え直したのだ」ラングは首を横に振った。

「たしかにいまは世界は混乱している。そしてこれからますます混乱するだろう。だがいつかは安定が訪れる。

 世界戦争のおそれのない安定がだ。

 ラグナロクの来ない世の中がだ。

 この騒ぎのなかで大勢の人間が死ぬかもしれない。だけど全世界の人間が一斉に滅ぶという可能性は消え去る。この蓋を開けることは、現在という観点では正解かもしれない。しかし、未来の観点では大きな失敗、いや致命傷となる行為なのかもしれない。

 全員がまとめて死ぬことのない世界。もしこの世に魔法というものがなければ、それも可能なんだ」

「だけど魔法がなければ、おれたちはただの役立たずなんだぜ。おれたちは魔術師なんだから」ファガスは抗議した。しかし箱に手を伸ばそうとはしなかった。

「ベス?」ラングは言った。

「あたしにはわかりません。先生。あたしには」ベスは首を振った。

 世界を救う魔法の箱を前にして、みんなは押し黙った。

 前回に魔法の箱が開いたときは、そこからは指輪の姿を取った無数の災厄が飛び出した。そしていま、閉じたその箱の中に眠るのは、たった一つ残された希望と言う名の災厄であった。

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