第八話 冥界の深き底で(前編)


 暗闇の中で目が覚めた。


 上に延ばした俺の手が堅い板に触れた。重苦しい圧迫感。自分が狭い場所に横たわっているのがわかる。

 俺の周りを囲んでいるのは冷たい感触のする木の箱だ。棺桶。直感的に俺はそう思った。


 記憶が戻って来た。

 そうだ。いつものダンジョンへの探検で、俺は・・・。

 あれは不可抗力だった。敵に剣を振ろうと踏み込んだ足が何かに滑べったのだ。いくら訓練しようと、戦いを数こなせばいつかはこういう瞬間が訪れる。

 なんということの無かったはずの敵が、恐るべき死神へと変わる一瞬。


 俺は狭い棺桶の中で、そっと自分の首筋に手を当てて見た。首筋の横に開いた小さな傷跡はまだそこにあった。

 月影のような一流の忍者でなくても、運が良ければ相手に致命傷を負わせることができる。今回はたまたまその相手が俺だったというわけだ。

 蓋を開けようと、俺はふたたび手を延ばした。釘付けされていなければ良いが・・。

 重い。その棺桶の蓋はひどく重く、俺の力でもわずかしか動かなかった。

 息を調えて俺はもう一度手を延ばした。

 俺の手が触れる前に棺桶の蓋が横に開き、なんとなく見覚えのある顔が上から覗きこんだ。

 痩せぎすなひどく陰気な感じのする男だったが、俺はどことなくこいつに好感を覚えた。普通、陰気な感じのする男に俺は嫌悪感を覚えるのだが。

「やあ、ドーム。あんたか」そいつは言った。

 この男には確かに見覚えがあるのだが誰だか思い出せない。

 そいつの助けで、俺はこの陰気な棺桶から抜け出した。

「誰だったかな? 俺を知っているようだが」

「判ってるよ、あんたが覚えていないのは。俺の名はカロンだ。まあ、酒でも飲みながら説明しよう」

 それを聞いて俺の咽がごくりと鳴ったのは、仕方のないことだよな?

 カロンが連れて行ったのは窓から暗い空の見える小部屋だった。

 星も月も見えない夜空だ。雲でも掛かっているのだろうか?

 カロンは俺の視線を追うと、暗い空に目を止めた。

「ここでは時刻は問題では無い。噂に聞く太陽とやらが登ることも無い。冥界にあるのは永遠の薄闇だけだ」

「やはり冥界なのか。俺は死んだのだな?」

 俺は自分の首筋の傷を撫でながら言った。

 そうでは無いかと思うことと、実際に知ることの間にはギャップがある。

 信じ難いことに俺は少しショックを受けていた。

 俺の神経はこんなに細かったのか?

 カロンが俺の前に酒を置いた。黄色い色をした見たことのない酒だ。俺は地獄についての物語を思い出した。そこで食物を食べると・・。

 俺が手を出さないのを確認してからカロンはにやりと笑った。

「ドームよ。お前さんが考えていることは判るよ。いつもそうだからな。

 冥界について何を聞いているにしても、そういうことは起きない。

 ここは冥界の中でも特殊な場所だからな。まあ、ゆっくり飲みな。俺の話を聞く間に」

 カロンは自分の椅子に深く身体を預けた。それを見て、俺も酒に口を付けた。

 温かくした濃厚な酒だ。凄く甘いが、嫌味では無い。なんという酒だろう?

 カロンは話始めた。

「お前さんとは初めてでは無い。お前さんはここに何度も来ているのさ。

 キリアやシオンもこことは馴染みだよ。この間はキリアが来ていたな。胸に大穴が開いていた。あれはきっと手練れの剣士の仕業だな。綺麗な傷口だった。

 一回も死んだことの無い冒険者なんてモグリさ。

 これが普通の世界、つまり真の世界から来た人間ならば、一部の例外を除いて冥界から帰ることは出来ない。しかしお前さんたちの世界は違う。

 ダイ神やカドルト神の力で死からの蘇生が可能だからな」

「真世界? 知っているのか?」俺は驚いて尋ねた。

「キリアからその話は聞いたよ。ドーム。それに」カロンは窓の外へ顎をしゃくった。「あの丘の向こうは、真世界の人間用の冥界だ。

 実を言うと、この辺りは冥界の中に作られた比較的に新しい地域なんだ。

 地獄の渡し守りを務めるカロン一族の中でも一番の若造の俺が担当しているぐらいだからな」

「若造には見えないな。何歳なんだ?」

「三千歳とちょっとだ」カロンは眉一つ動かさずに答えた。

 その返事を聞いて俺はげんなりした。

 この男と年齢を張り合えるのは、キリアぐらいのものだろう。良くは知らんが・・。

「話を続けよう」カロンはそんな俺の気分を見抜いたようだ。

 この男の眼光の鋭さに俺は気付いた。あながち年齢の話は嘘では無いかも知れない。

「本来、冥界からは何者も戻れない。だけど、お前さんたちの世界の人間は違う。

 蘇生呪文のダイやカドルトが失敗した時に初めて、冒険者は真の死を迎える。

 それまでは冒険者はこの地、冥界の辺境、つまり練獄で時を過ごすことになっている。

 判ったかい?

 お前さんは、以前にここに何度も来ているのさ」

「だが俺はそれを覚えていない。何故だ?」俺は尋ねた。

「それが掟なんだ。冥界には秘密が多い。その中には生者には伝えないほうが善いものも多い。だからこそ、誰もここでの記憶は現世には持って帰れない。

 生き返る時には奇麗さっぱり忘れちまうのさ。それともう一つ。完全に死を迎えて、死の門を抜ける時にもな」

「死の門?」俺は酒のおかわりを要求した。

「死の門だ」

 カロンは椅子の背後から、とんでも無く大きな酒壷を取り出して、俺の前に置いた。

 なるほど。以前に俺に会ったというのは本当らしい。でなければこれほど大きな酒壺を用意するはずがない。

 酒だ。酒だ。タダの酒が壷一杯。なんだか俺は無性にうれしくなった。やれ、死んで良かった。

「現世では、人間は女の門を通って生まれ、棺桶の中に納まって人生を終える。

 ここ、冥界では丁度逆だ。

 人間は棺桶の中から生まれて、死の門か生の門で生涯を終えるのさ」

「生の門? それに女の門から生まれるとはどういうことだ?」

「ああ、忘れていたよ。ドーム。あんたの世界では出産という現象は無いんだな。忘れてくれ。

 さて、生の門と死の門はこの世界の出口だ。

 二つの門のどちらかを通った者は次の世界に生まれ出る。

 死の門を選べば霊界へ、更なる輪廻へと巡ることになる。

 生の門を選べば、生き返ることが出来る」

「そんな便利な門があるならば皆が生き返るだろうに」

 俺は疑問に思った。

「ところがその門は二つともそっくりで、しかも位置をしばしば変える。

 門を見分けることができるのは、蘇生神カドルトの様な特殊な役目を担った神々だけだ。しかも生の門が人間の目の前に現れるのは本来は極めてまれなことなのだ」

「二つの対極に位置する門の一方だけが良く出現するとはどういうことだ?

 論理から言えば、同確率でないといけないはずだろ?」

 そこまで言ってから、俺は変なことに気付いた。

 どうして頭が熱くならないんだ?

 シナリオ摩擦効果とやらはどうした?

 戦士である俺がこんな理性的な言葉を吐いていいのか?

「いい質問だ。ドーム。こう考えて欲しい。

 紐を堅く結ぶのと、その結び目を解くのとどちらが簡単だ?」

「勿論、解くほうだ」俺は即答した。

「何故だ?」カロンが怪訝な面持で聞いた。

「剣で切れば、あっと言う間だ。そう言えば俺の剣は?」

「まだ現世だろう。剣は折れたわけじゃないからな。お前さんは死んだが。

 しかし、ドーム。お前さんがゴルディアスの結び目を知っていたとはな」

「ゴルディアスって誰だ?」

 一瞬カロンは沈黙した。

「まあ、その話はいい。では、ドーム。お前さんの手元に剣は無い。結び目はどうする?」

「剣が欲しい。俺は剣士だ。だから剣が欲しい。そうしたら結び目は俺が切ってやる」

「剣のことは忘れろ」

「むごいことを言うな。カロン」

 カロンは深い深いため息をついた。この仕草、まるでキリアじいさんそっくりだ。

「剣は忘れろ。お前は素手で結び目と戦わなくてはいけない。さあ、結ぶか、解くか、どっちが簡単だ?」

「それなら、結ぶ方が楽だ」

「それでいい。ドーム。

 数字を掛け合わせるのは簡単だが、それを因数分解するのは大変だ。自然界には、一方へは用意に動くが、戻るのは大変という事象が存在する。

 それが時の流れ、世界の動きを作り出すのさ。ドーム。

 この生の門と死の門も同じことだ」

 つまり生の門より死の門の方が多いことで輪廻の歯車が回転するということだ。

 確かに皆が皆、生き返っていたのでは新しく来たものの入る余地が無くなってしまう。

 ふむ。不思議だ。奇妙にカロンの言うことが理解できる。

 俺はこの疑問もカロンに聞いて見た。カロンは即座に答えた。この男の知識には限りは無いのだろうか?

 さすが歳を取っているだけはある。

「ここではシナリオ摩擦効果は存在しない。

 冥界はそれ自体が意志を持った、強力で独自性を持った存在だ。

 お前さんのウィザードリイ世界の法則はここには影響しない。

 蘇生に関する問題以外は…。

 ドーム」

 カロンは俺の目を見据えて言った。

「それがあんたの真の特質なのさ。あんたは本当は賢く理知的な存在なのさ」

 俺が?

 戦士である、この俺が?

 理知的?

 それは何かの間違いだ。

 カロンは俺の目の中に疑惑を見て取り、深い溜め息をついて説得を諦めた。

 どことなく・・キリアを思わせる仕草だ。

「いつもと同じだな。ドーム。強情さもまたお前さんの特質さ。

 まあ、良い。伝えることは皆伝えた。

 後は好きな所に行っていい。好きなことをしていい。

 その酒壷の酒は尽きることが無い。生き返るまでの期間、ここでずっと飲み続けてもいいぞ」


 俺はその言葉に従うことにした。

 確かに酒壷の酒は幾ら飲んでも、無くなることは無かった。

 最高だぜ。


 それから俺はしばらくカロンの館で過ごした。

 カロン(奴の一族は皆カロンという名なのだろうか?)の住む、この石作りの館は恐ろしく風化した建物で、陰鬱な永遠の薄闇に覆われたここの風景に溶け込んでいた。

 館の中央に例の棺桶の並ぶ部屋があり、カロンは新しい客が到着する度に、棺桶を開けに行くらしい。もっとも俺が来てからは、新しい客が来ることは無かったが。

 館の周りには、俺以前に到着した客たちがたむろしていた。こいつらも、やがて生き返る日を、ここで待っているらしい。

 俺は余り彼らに近付かないようにした。俺は社交的な方じゃないし、こうして一人で酒を飲んでいるのが一番良い。

 暇にあかせて、俺は彼らを遠くから観察した。彼らはとても無気力に見えた。

 この陰鬱な風景の下で長い間暮らしていると誰でもああなるのだろうか?

 少なくとも過去に冒険者であった限りは、活動的な人間であったに違いは無いのだが。

 ああ・・考え事をしても頭が熱くならないのはとても奇妙な感じだ。

 食い物や酒は館が魔法か何かで無限に供給しているようだった。食事の時刻になると、館の周りに置かれたテーブルの上に、出来たての湯気が上がる料理が忽然と現れるのだ。

 雨は降らないが、風はときどき吹いていた。太陽も出ないし、月も星も無いと、時間の経過が全然わからなくなる。

 大体の所、ここにいる人々は、ここでの暮らしに満足しているようだった。

 何も足止めする者はいないのに、誰も館を離れて辺りを探って見ようと言う考えは起こさない。俺はそんな彼らを眺めながら、酒を飲んで日を過ごした。そして・・・。




 そして・・・或る日。彼らの中の一人が俺に近付いて来た。

 無気力な日々の中でも好奇心と言う奴は勝手に燃え続けるものらしい。その男は俺の横に無言で座ると、持参した杯を俺に差し出した。

 酒壷の中の酒は無尽蔵だ。分けることに異存は無い。俺は並々と酒を注いでやった。

 ひどくくたびれた男だ。戦士と言うには筋肉がついていないし、魔術師と言うには瞳に知性が見られない。

 恐らくは盗賊を職業としていた男だろうと俺は睨んだ。

 杯を持つ手が見事に奇麗でしかも細い。繊細な指は盗賊の条件の一つだ。

「あんた、新顔だね。俺はゾック。盗賊だ」尋ねもしないのに男は俺に言った。

「あんたもここに流れ着いたのかい。この地獄の穴に」

「酒に食い物。俺には天国に思えるがね」俺は答えた。

「地獄さ。千年に渡り変化の無い天国は地獄と等しい。

 どこに行くあても無く、ここで暮らすのが拷問で無くて一体なんだ?」

「それならば出て行けばいい。カロンはこの館を離れるのは自由だと言ったぞ」

「それを本気で信じているのか?

 地獄はその本質において、欲深ものだ。一端取り込んだものを離したことは無い」

 ・・・それ以上、話すことに飽きたのか。男は俺の下を離れた。

 きっと俺の飲んでいる酒が食卓に魔法で現れる酒と同じ物なのか確かめに来たのだ。


 ここでの時の流れがどんなものかは俺は知らない。

 だが千年もの間、同じ酒を飲んでいては、それは飽きるだろう。

 千年?

 あいつはそんなに長い間、ここにいるのか?

 俺は男の言ったことを考えて見た。


 館を離れることが許されない?

 地獄は欲が深い?

 カロンは嘘を言ったのだろうか?

 奴はここから俺が出て行くのを妨害するつもりだろうか?


 いざとなれば力づくで出て行かねばなるまい。

 それから俺はカロンの事を思い浮かべた。初めて会った、いや、俺が死んでここに来たのが合わせて何度目かは知らぬが、今回初めてカロンに会った時に、カロンは棺桶の蓋を軽く開けた。この大きな酒壷を片手で俺に差し出した。

 見かけは痩せた貧相な男にしか見えないカロン。

 彼の中に眠っているのは恐るべき年齢だけでは決して無い。

 俺はもう一度、手元の酒壷を持って見た。

 両手ではなんなく抱えられる。だが、片手では無理だ。それほど酒壷は重かった。腕の筋肉を膨らませることも無く、これほどの重量を片手で持てるとしたら、カロンはもちろん人間ではない。人間の形をした何か、だ。

 筋肉がたくさんついて力持ちの奴は実はそれほど恐い存在では無い。彼らの体重自体が重りとなるからだ。だが、あの細身でこれほどの力があると、その動きは凄いものとなるだろう。

 今の俺には剣が無い。

 ああ、オーディンブレードさえ腰にあれば、こんなに不安ではいなかっただろうに。

 俺はしばらく考えて見た。素手では恐らく勝ち目が無い。ならばそっと静かに姿をくらませるのが最上のやり方だ。だが、黙ってこの館を離れるのは間違いだと、俺の直感が告げた。

 カロンは一族と言った。カロンとの決着を付けずに、ここを離れれば追っ手がかかることも考えられる。カロン以外の館の管理人はまだ見たことが無いが、それがカロン一人だけだという証明にはならない。

 それに戦士は前に立ちふさがる者を乗り越えてこその戦士だ。盗賊ならこっそりの逃亡もありだが、戦士がそれをやっていいはずがない。

 いみじくもカロンが言った通り、俺は依然として強情なのだ。


 それで、俺はカロンの所に酒壷を返しに行った。対決は早いほど良い。


 カロンは右の眉を上げる表情を作ると俺を無言で見つめた。

 俺もカロンの瞳を見つめ返した。消えることの無い松明の揺らめく明りの中で、カロンの瞳がぞっとするような色に輝くのが俺には見えた。

「酒はもう良いのか? ドーム」カロンは冷たい口調で言った。

「酒はもういらない」俺は答えた。背筋を緊張させて。

 カロンは恐ろしい力を持っている。どんなに狂暴な亡者が来ようと、負けないだけの力をカロンは持っている。これが彼の一族の特質なのか、それとも冥界の魔法の力の由縁なのか、俺にはわからない。

 ・・・ああ、剣! 俺のオーディンブレードさえここにあれば・・

 俺はそっと拳に力を込めて後を続けた。

「カロン。俺はこの館を出る。生の門を探しに行こうと思う」

「何故、旅に出る。ドームよ。

 現世で誰かが蘇生呪文を掛けてくれるのを待てばいいでは無いか?」

 氷結呪文マダルトを思わせる冷たい口調だ。

「俺はもう十分待ったと思う。今は行動を起こすべきときではないか」

「冥界の時の流れは現世とは違う。現世ではお前の属するパーティはまだ街に帰っていないのでは無いか?」

「カロンよ。この館の周りにいるのは死んだ冒険者たちだな?」

「その通りだ」

 カロンが椅子の上で身体の位置を変えた。俺は慎重にカロンとの距離を計った。カロンが飛びかかってきて掴まれたら最後だ。

「俺は知っている。俺が死んだ時点で、ギルガメッシュの酒場の冒険者は俺も含めて二十人いた。

 俺の他の十九人はまだ生きている。とすれば」

 俺は問題の核心に触れた。

「ここにいる彼らが生き返る望みは無い。彼らは知らないがすでに彼らの身体は消滅したのだな?

 彼らはすでに死の門だけしかくぐれない存在なのだな?」

「そうだ」カロンは椅子の両脇を僅かに握り締めた。

「ここにこのまま何もせずにいれば、俺の身体も消え去るだろう。

 俺は自分で自分の未来を切り開くよ。カロン。俺はこの館を出る」

 俺は緊張した。館を離れるのは自由だと、カロンは以前に俺に言った。

 だが、それが本当だという証拠はどこに無い。カロンはこうも言ったではないか?

 ・・・人々が死の門をより多くくぐることで世界は流れる・・・と。

 カロンが椅子から立ち上がった。そして俺の方へつかつかと歩いてくると両手を広げた。俺は逃げる暇も無かった。それほどカロンの動きは淀みが無かった。

 カロンの顔に笑みが浮かび、俺を力強く抱擁した!

「そうだ!

 それでいい。ドーム。館を離れるんだ!

 生の門を見つけるんだ!

 ここで待つことは、生きる希望を失うことだ。ドーム。

 希望を失った者はあいつら見たいに無気力な者となる。

 ドーム!

 お前さんがその選択をして良かった。気にいった友達がクズになるのは見てられないからな」

「ちょっと待った」俺はカロンの腕を振り解きながら言った。

 どうも男に抱き付かれるのは好きでは無い。

「じゃあ、俺がこう言い出すのを待っていたのか?」

「掟でな。亡者にヒントを与えることは禁じられている。

 例え現世で蘇生の呪文を唱えようが、本人に生きる自覚が無い者を生き返らせるほど冥界は甘くは無いのだ。蘇生呪文が失敗するのはそういう理由なのだ」

「ゾックはお前さんが離れるのを許さないと」

「あいつはいつもそういうのさ。本当はあいつにはここを離れるだけの勇気が無いからなのだ。ゾックはすでに自分が生き返ることはできないのだと気づいてはいるが、それを認めることができないのだ。だから俺があいつを縛り付けたためと、そう思い込みたがっている」

 何と返せばいいのやら。俺は無言だった。

「今度は本当にひやひやしたぞ。いつもならとうの昔に旅立っているはずだからな。いつかはお前もここに居座るのかも知れない。だがそれはもっと先でいい。俺はいつも、お前やキリアの冒険をここから見ているのだ。

 生の喜びを知ることのできない俺にとって、お前たちは俺の生まれ変わりそのものなんだ」

 俺はカロンの目を見つめた。奇妙な光が宿るのは、彼の種族の特性なのだ。勝手な思い込みを捨てればそこにあるのは、優しい友情だとわかる。

 カロンは・・・俺の真の友達だった。

 残念だ。以前にここに来た時の記憶が無いのは。生き返ると、ここでのカロンとの記憶も消えてしまうのは。


 俺には自分も知らない親友が冥界にいる。そういうことだ。


 そして最後にもう一つだけ、聞いておきたいことがあった。

「カロン。一つだけ教えてくれ。ファイサルという名に覚えはないか。短い顎髭を生やした…」

「クジラのファイサルか。もちろんよく知っているぞ」

「知ってる!? クジラ? そりゃいったい何て通り名だ」

「あいつはクジラのように酒を飲むので俺が名付けた」

「クジラって何だ?」

「キング・ドラゴン並みにでっかい魚のことだ」

 ああ、と俺は納得した。ファイサルは俺の剣と酒の師匠なのだ。ドラゴン並みに酒を飲むぐらいはやってのける。

「まさかファイサルはここに?」

 少なくともこの館の中では、俺はファイサルを見かけなかった。

「いや、ここにはいない」カロンは首を横に振った。

「あいつ、ここの酒を飲み尽くしたんだ。それでもう酒が無いと言うと、つまらんとつぶやいて出ていった。地上に帰っていないのか?」

「帰ってない。お師匠さま。ファイは蘇生に失敗した」

「なんとそんなこともあるのだな。少なくとも俺は知らない。そういうことになっているとは初めて知った」

 ああ、お師匠さま。無限に湧き出るはずの酒をすべて飲み尽くすなんて、あんたは一体何をやったんだ?


 それ以上、カロンと話すことは何も無い。

 俺はもう2、3日、館に留まると、永遠に薄闇の覆う荒野へと出発した。




 カロンの話に依ると、生の門の位置はカロンでさえも知らないそうだ。あるいは話すのを禁じられているのかも知れない。だから俺は自分でそれを探し出さなくていけない。

 人間が門を見つけるのでは無い。門が人間を見つけるのだと、カロンは言った。

 冥界は現世の運命の流れの調整を行う。現世で処理しきれない様々な因果を冥界は処理するのだとも。そうやって全ての重さを捨てた者のみが、生の門を見つける。それが掟だと。

 いくらシナリオ摩擦効果から逃れて、頭が冴えているとしても、さすがにこれは俺にはわからなかった。


 考えるよりは行動するのが簡単で手っ取り早い。それが戦士ってものだ。

 俺はお手軽にやることにした。つまり目標を作って後は何も考えずにまっすぐに進むのだ。

 薄暗い天蓋の下にはこれも暗い地平が広がっている。カロンの館の一番高い塔から眺めた時に、その地平線に一箇所だけ不自然に飛び出た所を見つけておいたのだ。

 奇妙にも時々身震いする地平線の上に、わざとらしく見えるように作られたでっぱり。

 絶望の石版。カロンはそう説明した。なんでも地獄の神が天界から追い落された時に、世界に対する恐るべき呪祖の数々を書き記したものらしい。

 その石版に書かれた言葉は只の言葉では無い。この冥界そのものを構成する力だそうだ。その一部でも己の魂を焼かれることなく現世に持って帰れたならば、恐らくは最強の魔術師となるだろうとカロンは断言した。

 ・・・キリアが聞いたらよだれを垂らすこと請け合いの話だ。

「キリアならば、その通り、絶望の石版に出かけた事があるよ。

 目を血走らせてな。絶対に根源の神々に関係があるとか叫びながら。

 まあ、結果は知らんが、地上で大騒ぎが起こったとも聞かんから失敗したんだろう」

 カロンは笑いながらそう言っていた。

 俺もキリアがそこまで強力な呪文を使ったとは聞いたことが無い。

 まあしかし、キリアの狂いっぷりは冥界でも有名なのか。俺は呆れた。

「かって実際に、あの石版の言葉を地上に持って帰った者がいる」カロンは続けた。

「名はオーディンと言う。知っているな?

 オーディンがここに来た当時は、まだ神では無く只の魔術師だった。奴は一端、自分を仮死状態に置くことで冥界を訪れ、石版の文字を自分の身体に直接刻み込んだ。そうやって地上に言葉を持ち帰ったのだ。これなら忘れることは無いからな」

 ここでカロンは笑った。目は笑っていなかったが。

 それほど、石版の示す力の誘惑は大きいのだろう。俺には旨い酒の方がいいが。

「真似するなよ。ドーム。

 オーディンは蘇生した後も1年の間、生死の境を迷ったのだ。奴が生き延びることができたのはその異常なまでの力に対する渇望ゆえだ。だが生き延びたものの奴は狂った。その結果が主神であるチュールを追い落とし自分が主神となることだったのだ。そして最後には自分自身と共に世界を滅ぼすという未来を描き、実行しようとした。

 一度、発すれば街一つをも瞬時に焼き尽くす『絶望の言葉』。それを身体に刻めばどうなるかは判るだろう。冥界は決して気前の良い所では無い」

 ここまで言うと、ちらりとカロンは酒壷を見た。

「この酒壷や食物は実体があるように見えても、全て幻影だ。

 冥界の食物は身体を強めることは無いし、酒は酔いを引き起こすことは無い。

 冥界の炎は・・・」

 カロンの話は尽きることは無かった。

 幻影でも良い。俺は出立までの間、酒を飲み続けた。



 そういうわけで俺は一人、絶望の石板目掛けて暗い荒野を歩いていた。

 すでにカロンの館は見えないほど、俺は距離を稼いでいた。前方に微かに絶望の石版のシルエットが見えていたが、ちっとも大きくなったようには見えない。それほど遠くにあるようには思えなかったのだが、冥界では距離というものが何か少し違うものなのかもしれない。

 その暗い荒野の中に小さな炎がちらちらと目に止まる。

 あまり炎には因われるなよ、とカロンは俺に忠告してくれていた。俺は自分の進路に現れた炎のみに注意を向けることに決めていた。

 炎。すなわち・・焚火である。カロンの説明に依ると。

 俺の前に一つの炎が現れた。いきなりと言っても良い。つまり、この焚火の主は俺を待っていたということだ。俺が逃げられない様に今まで炎を俺の目から隠していたというわけだ。

 俺はためらわずに炎に近付いた。びくびくするのは性に合わない。

 焚火の傍で待つ相手と話すことは、冥界からの脱出には非常に重要とも聞いていた。まったく相手にしなくても駄目、し過ぎても駄目ということだ。

 焚火の主は・・・見なれた顔・・ボーンブラストだ!

 やはり殺されていたか、ボーン!

 俺は無言でボーンブラストの向いに座った。奴はうつむいたままで俺を認めた。ボーンの発した声は、暗いこの冥界の大地にふさわしいものだった。

「久しぶりだな。ドーム」

「会えると思っていたぜ。ボーン。元気か、と尋ねるのは変だな」

 同じ亡者同士、俺はひるまなかった。

「そうでも無いさ。見ろ」

 ボーンは自分の両手を差し出した。奇麗な傷一つ無い手。

 こいつの手がこんなにすらりとしていたとは今の今まで知らなかった。

「冥界まではさすがの呪いの手袋も付いて来ることは無いんだな。

 蘇生すれば相も変わらず、あの手袋の苦痛と一緒だろうけど。

 このままの方が良いのかもな」

 俺は無言でこの言葉を聞いていた。

 すでにギルガメシュの酒場は冒険者の定員である二十名で一杯になっている。つまりボーンが生き返る余地は無い。

 きっと月の民はボーンを処刑した後、すぐにその死体を破壊したのだろう。

 急がなくては、俺も生き返るチャンスを失うだろう。

 急がなくては。

「優しいんだな。ドーム」ボーンの声が俺の物思いを断ち切った。

「俺がもう生き返れないだろうことは、薄々俺にも判っているのさ。

 月の民が俺を生き返らせるとしたら、それは拷問のためだろうしな。

 実はもう何度も生き返らされては月の民に私刑にされているんだ。

 最近、俺が生き返らされ無いのは、きっと蘇生呪文が失敗したということだろう。なにより肝心の俺が生き返ろうとしていないからな。

 まあ、仮に月の民が俺を解放したとしても、お前達を裏切った以上、ギルガメッシュの酒場に帰れるわけもない。俺はもうどこにも行きようが無いのさ」

「ボーンブラスト」俺は言った。

「お前に謝らなければならん。俺の心無い態度がお前を傷つけ、あんな状況に追い込んだとしたら。ボーン。俺は謝らなければならん」

「よしてくれ」ボーンは遮った。

「もはや、どうでも良いことだ。それに裏切ったのは、俺だ。もう、いいんだ。行きな、ドーム。時間を失うな」

 俺はボーンの焚き火、奴の執念、燃える思いを越えると歩き始めた。

 背後から声が聞こえた。

「最後に一つ聞いておきたいんだが。ドーム。会計士を雇う気はないかね?」

 会計士? そりゃいったい何だ?

「いいんだ、ドーム。ただの冗談だ」


 この平原では怨みや愛を持った者は、自分の思いを燃やしながら相手を待つ。それがすなわち焚火なのだ。

 ボーンが燃やしていたのは、俺やキリアへの怨みの炎だろうか?

「ドーム」ボーンが背後からまた呼びかけた。俺は振り向いた。

 確かに俺のすぐ背後にあるはずのボーンの焚火は消えていて、ボーンの姿も無かった。

「覚えておけ。ドーム」ボーンの声だけが俺の耳に届いた。「冥界で背後を振り返った者は、そこで得た物を失うのだ」


 後は荒野を吹き渡る風の音だけ・・・



 次に俺の出会った焚火は、恐ろしく巨大なものだった。これは一体・・・


 炎の前に座っていたのは、明らかに戦士と判る良く発達した筋肉を持った大男だった。俺はその顔を良く見たが、誰だか思い出せなかった。

 大きな発達した顎が男の力を示している。力を出すたびに歯を食いしばる結果、戦士の顎は大きく発達する。女性の剣士があれほど男っぽく見えるのはそういう理由がある。

 この男は、きっと山をも動かすほどの怪力を発するだろう。

 男が右手を上げた。無惨にも男の右の手首から先は切株の様に断ち切られている。利き腕の喪失。戦士としては致命的な傷だ。

 だが、男の瞳の中にある何か強烈で温かなきらめきを俺は見て取った。

「あなたは誰だ?」俺は尋ねて見た。

 何か、この男にひどく親しみを覚える。

 何かとても懐かしい様な。

「私はお前を良く知っているぞ。ドームよ」男は言った。深い力を感じさせる声。

 俺は男の正体を直感した。これほどの声を持つ存在は・・神に間違いない。

「私はチュール。戦神チュールだ」

 チュール?

 何度も聞いた名だ。オーディン神と同じ世界の神。

 俺は身構えた。

 オーディン神に復讐を頼まれたのだろうか?

 俺を倒せと。

「勘違いするな。ドームよ。私こそが本物の戦の神。戦士の神だ。それゆえに、戦士たるお前に忠告を与えに来た」

 チュールは己の手の無い右腕を差し出した。

「この手をどうして失ったか、知っているか?」

 俺は首を横に振った。

「かって、わしの住んでいた世界にはフェンリルと呼ばれる怪物が存在していた。

 この怪物は世界そのものを食い尽くす力を持っていた。

 そこで神々はフェンリルを繋ぐ魔法の鎖を作り出した。

 判るか? ドームよ。

 フェンリルでさえも切れない究極の鎖。グレイプニル。お前も何度か目にしているはずだぞ。

 そして、これで問題は解決したように見えた。

 たった一つ、誰がフェンリルを繋ぎ止めるか、という問題を残して・・・。

 判るか? ドームよ。

 そこで神々はフェンリルを挑発した。この鎖を切れるか、と。

 魔法の鎖に罠を感じとったフェンリルは、挑戦の際に人質を要求した」

 俺はチュール神の顔を見つめた。そして、その右腕を。

 チュール神は俺に頷いた。

「そうだ。そしてわしは、この右手をフェンリルの口の中へと置いた。

 神々が鎖を解かぬ時には、わしの右手を食いちぎれとな。

 ドーム。これが、わしが右手を失った理由だ」

 チュール神の目が大きく開かれた。

「だが、ドーム。話はそれだけでは無かった。

 罠はフェンリルのみにかけられたのでは無く、わしにもかけられていたのだ。

 ・・・そもそもの発案者のオーディン。あいつはこの結末を予想しておった。

 フェンリルが何を要求するかも。このわしが、それを受けるかどうかも。

 判るか? ドームよ。

 当時あの世界の主神は私であった。

 だが右手を失ったことで、私の力の大部分は失われ、世界の覇権はあ奴、オーディンの物となった。

 すでにあの世界は滅び、わしはここ冥界で、遥か昔に滅びた神として細々と存在している。

 では、ドーム。私はフェンリルに右手を差し出すのを拒むべきであったのか?」

 俺は無言であった。

 俺ならばどうするだろう?

 利き腕を失えば・・戦士の人生は終りだ。失うのは手だけではない。自分の全存在を失うのと等しいのだ。

 完全治療呪文マディも、この種のケガには効き目がない。魔法の契約が関わるせいだ。どうやっても失った手首が再生することはない。

 もし魔法が効くとすれば、そもそもの賭札自体に意味が無くなるからだ。

 だが・・もし、この挑戦を受けなければ・・・例え五体無事であったとしても・・・。

「それで良いと・・俺・・はそう思う」俺はチュール神に答えた。「遣らねばならぬ事から身を引く者はすでに戦士では無い。そう俺は思う」

「その選択でいいのだな? ドーム。

 もしかしたらお前の答えを確かめるために、わしはお前の右手をここで要求するかも知れんぞ」

 俺は自分の右手をチュール神へと差し出した。

「戦士の神であるあなたには俺の選択が判ると思う。

 俺は今、シナリオ摩擦効果が無くなって戦士らしく無いが、それでも、この判断は変わらない」

 チュール神は大きく笑った。なんという豪快で快活な笑いだ。

 これが主神としての地位を追われて、冥界へ住まわざるを得なくなった者の態度なのだろうか?

「それでいいのだ。ドーム。戦士はそうで無くてはならない。

 戦士を決めるのは技では無い。腕を失ってもわしは依然として戦士だ。そして戦士の神でもある。

 戦士を決めるのは武器では無い。剣を持たずともお前は依然として戦士だ。

 戦士を決めるのは、その戦いへの意志と行動だ。

 ドームよ」

 チュール神の顔が厳しくなった。

 まともに俺の目を覗き込む。チュール神の瞳の中に遠く星々が見えた。この冥界には決して輝かないはずの星々が。

「お前にもやがて選択の瞬間が訪れるであろう。

 私がこの右手を賭けた瞬間と同じ様に。

 だが、恐れるな。やるべきことをやれ。戦士は絶望の中に希望を見つける者だ。

 利き腕を失っても私はやはり戦士のままである。

 逃げれば、利き腕の代わりに、己の魂を失うことになっただろう。

 ドームよ。お前は私の言葉を覚えてはいられない。それが冥界の掟だ。だが、お前の戦士としての魂には、私の言葉が刻み込まれる。かってオーディンが自分の身体に言葉を刻んだように」

 チュール神は、ここで一息ついて続けた。

「ドームよ。またいつか。この地で会うかも知れんな。私の言葉を忘れるな。ドーム」

 チュール神は己の残された左手の指を噛むと、俺の右手にそれを押し付けた。血で綴られたルーン文字が俺の右手の上に刻まれた。飛び出た矢のシンボル。チュール神を表すルーン文字。

「神よ」

 俺は自分の右手に刻まれたルーン文字を見つめながら言った。これがいったい何のためなのかは判らないが、何らかの魔法の行為であることだけは理解した。

「ファイサルという男をご存じですか?」

「酒飲み男のファイか」どことなくユーモアをたたえた目でチュール神は答えた。「知っておるも何も、それ、お前の後ろにいるではないか」

 俺は慌てて振り返った。そこには誰もおらず、風だけが荒野に吹き渡っている。顔を戻すと、巨大に燃え盛っていた炎は消え去っていて、チュール神の姿も闇に消えていた。

 後には言葉が一つだけ。

「忘れるな。 ドームよ。お前は戦士なのだ」


 忘れるものか。チュール神。勇気ある戦士の神よ。



 次の焚火はまた普通の人間のものの大きさだ。熱の無い炎の明りの中に浮かび上がった顔は・・・。

「待っていたわ。ドーム。随分長く」スーリは微笑んだ。

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