幼日の姉姫⑥

 甘く、切ない時間が過ぎていく。猿渡と夏月は顔を上げる。互いに見つめ合い、泣き腫らした顔を見て、二人で笑った。


「夏月……」

「! 春彦……!」


 タイミングを見計らって、二人に歩み寄る景たち。はじめに声をかけたのは、夏月の夫である春彦だった。


「全部……見てたぞ……」

「! …………その、ごめ……」

「謝るなっ!」


 夏月にしてみれば己の不貞を目撃されたのだ。そんな弁明の余地など欠片もない今、謝ることしかできず、謝罪を口にしようとしたとき……。桂は、吼える。


「謝るんじゃない! それは、彼に失礼だ!」

「!?」


 春彦からの予想だにしない言葉に、夏月は驚いた。


「俺は……知っていた。出逢ったときから、お前がずっとどこか違う所にいると……そう思ってた……」

「……私は……」

「それでも、俺はそんなお前を愛した! そんなお前を! 好きになった……」


 夏月は、ただ次の言葉を待つことしか出来ずにいた。


「お前が俺に対して向けてくれた好意や愛情は、嘘のないものだった……。だから……良く頑張ったな」


 そう言うと、桂は夏月の頭を優しく撫でた。

 桂こそ辛いだろう。しかし、それでも夏月を攻めず、受け入れた。よく頑張った、辛かったなと……。

 夏月は、一度止んだ涙がまた溢れ出す。こんなにも自分を愛し、こんなにも理解してくれている人がいるのだと。

 

 景には、そんな夏月の感情がとても輝いて見えた。夏月だけじゃない、猿渡も桂も、この三人が揃っているからこそ輝いて見える。一人の想いが繋がり、絡み、広がる。そんな美しい光景を景は目の当たりにしていた。


「名取さん……すみません。必ず戻るように言われてたのに……」

「全くです。けれど、僕が見つけ出すよりもいい結果だと思います。貴方が見つけたから、心から本音をさらけ出すことができたんだと思います」

「猿渡さん……私、何だか……」


 空気に充てられて、朱音はぽろぽろと涙を流した。それを見た景と猿渡は二人で笑い、朱音が泣き止むのを待つ。


「猿渡さん。これを……」


 景はそう言い、茶色い封筒を猿渡に手渡す。その中身は依頼料だった。


「これ……どうして」

「僕は依頼を達成することは出来ませんでしたから。それはお返しします」

「いやだって、なっちゃんを見つけてくれたじゃないですか?」

「僕は依頼を受ける時に言いました……昔一緒に遊んだ姉のような女性を捜してほしいのか?と……。今日、猿渡さんがあった女性は、きっと昔に遊んだ姉のような人ではなかった筈です。今日会ったのは、紛れもなく貴方が愛した女性でした。」


 景の言葉に猿渡は目頭が熱くなる。


「それに、見つけたの僕じゃありません。朱音さんが導き、猿渡さん自身が見つけた。だから、今回僕の依頼は失敗に終わりました」


 景の言っていることは屁理屈だと猿渡は思った。そもそも景がいなければここまでたどり着くことなんて出来なかったと。だが、猿渡はえて口には出さなかった。景の意図を汲み取ったのだ。


「名取さん……俺、あの家族に負けないくらい幸せになります……」

「そうですね。きっと貴方なら、それも難しくはないかもしれませんね」


 猿渡は景に握手を求め、景はそれに応じた。ありがとうございます。猿渡はそう告げ、夏月に最後の別れを告げに再び歩みを進めた。


「朱音さん、猿渡さんが戻り次第帰りましょう」

「……はい。何だか、悲しいような、でも暖かい気持ちで、私良く分からないです」

「ふふ、最大の恋と最高の失恋……」

「え?」

「朱音さんの後に、桂さんが言っていました。人生の最大の愛は猿渡さんが奪ったんです……そして、人生の中に一度あるか分からない、美しい失恋をしました……。きっとそれが、ここにいる全ての人に伝わったのでしょう」


 朱音は景の言葉の意味を何となくだが理解していた。

 理屈で分からなくても心が理解する。そんな、人の想いの輝きがあるのだと。



~後日談~


 依頼を終えた二日後、だがしやなとりには来客があった。


「名取さん、先日はどうもお世話になりました」

「いえいえ、僕は何も……。先日も謝罪いたしましたが、改めて申し訳ありませんでした」

「そんな、頭を上げて下さい! あの日のおかげで妻は前より明るくなれたと思います。心のつかえが取れたって言うんですかね?」


 来客は桂春彦であった。あの後、別れを終えた猿渡と共に帰る前。景は桂から後日話がしたいと言われていた。その時に駄菓子屋を経営しているという話をしたら興味を持ったのだ。


「いやぁ、いい雰囲気のお店ですね。懐かしいですよ。私がいたところは田舎でしたから、しょっちゅう買い食いなんてしてました」

「ありがとうございます。昔からあるお店なので、そう言ってもらえると嬉しいですよ。ところで、桂さんは普段から一人称は私なんですか?」

「はい。セールスマンをしてるせいか染みついてしまいまして……」

「あの日、夏月さんに喝を飛ばしたときは俺でしたから、少し気になっていたんですよ」

「ははは。お恥ずかしいところを見られてしまいました」


 夏月に対して声を荒げた時の事を恥じる桂。しかしそんな彼に景は……。


「僕はあの瞬間の桂さんは素敵だと思いました。夏月さんを想って、恋敵である猿渡さんを想って、あんなことが言えるなんてかっこいいですよ!」

「そんな! あの時は夢中で……。でも、まあ正直悔しいですよ。私じゃあ一生かかっても猿渡君には勝てないかもしれない、そう思うと少し苦しくなるっていうか」


 自分と猿渡を比べ、どちらが夏月に相応ふさわしかったのか。そんな自問自答繰り返していた桂に景は言葉を掛ける。


「僕には人とは違う変わった感性があります。それは、人の想いを影として視る事ができる。そんな僕の目には、夏月さんの強い想いがちゃんと桂さんに繋がっているという事です」


 突拍子のない事を言う景に半ば驚いた桂だが、笑って受け入れた。


「面白い事を言いますね。名取さんに言われると本当にそんな気がしますよ」

「あはは、信じる者は救われるです。前向きに行きましょう!」

「そうですね……。そうだ! あの後、猿渡君はどうしたんですか?」

「猿渡さんはお仕事ですね。今は工場に勤めているみたいですが、お金が貯まったら本格的に勉強してみるそうです」

「そうですか。一度話を聞いてみたかったです」

「昔の夏月さんについてですか?」

「はい、妻はあまり過去の事は話したがらなかったので」

「今ならきっと話してくれますよ」


 景の言葉に桂は少し気持ちが軽くなった。桂自身、ずっと誰かに打ち明けたかったのかもしれない。心の奥底では、不安が隠れていたのだ。

 そんな静かな空気の中、お店の扉が開く。カランと小気味のいい音が店内に響く。


「おはようございます名取さん」

「多田君ですか。今日はお休みの筈ですよ?」

「別に遊びに来てもいいじゃないですか。どうせ暇なんだし……あれ、お客さんがいる……」

「全く、僕は暇ではありません」

「それは、失礼しました……。ん? 名取さん、お茶も出してないんですか!」


 多田の指摘に景は焦った。


「あ、忘れてた! 直ぐに用意しますね」


 そう言って景が持ってきたものは……。


「名取さん……。これ、こどもビールじゃないですか」

「いやー、お茶切れてて……」

「私は別に構いませんよ。子供の頃は飲んでみたくても、親が許してくれませんでしたから久しぶりに飲んでみたいです」

「本当ですか! 桂さん素晴らしい人です! 聞きましたか多田君!」

「いや、気を使ってるんですよきっと……」


 もはや、上機嫌の景を止めるものはおらず、店内のあちこちから適当な駄菓子を持ってくる。そこには、何故か多田も参加させられていた。


「おほん! 桂さんのお悩み解決の前途を祝してかんぱーい!」


 景、桂、多田の三人は昼間から酒盛りのように、駄菓子とこどもビールで盛り上がった。話題には事欠かず、ゆっくりと時間は流れる。

 

 同じ空の下、どんなに離れていても、一度紡いだ想いは残っていく。嫉妬も後悔も願望も優しさ、温もり、悲しみや喜びだって。

 残して、遺して、乗り越えた数だけ人は強くなれる。今日も誰もが想いを抱いて前へ進むのだろう。


 その人にとって特別な想いと出逢う為に……。

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