第2話

                  9

 シャンデリアの下の座り心地のよいソファーに、小柄な若い女と痩せた白髪の老女が対座していた。毛足の長い絨毯が敷き詰められた広い書斎には、この二人しか居ない。その書斎の奥の壁には、きじの大きな水墨画が飾られている。二人の間の低いテーブルには純白の布が掛けられ、その上に色とりどりのカットフルーツが盛られた皿と、ガラス製の綺麗なティーカップ、その横に細い銀製のフォークが載った金縁の取り皿が置かれていた。

 汗に湿ったブラウスの上に少し厚手のジャケットを着た若い女は、神妙な顔を老女に向けていた。

 その凛とした老女は、若い女の目を見て、厳しい顔で話している。

「――それは、とても危険なことよ。それだけは忘れないようにしなさい。いいですね」

「はい……」

 少し下を向いた若い女は、コクリと頷いた。そのまま、膝の上に視線を落とし、彼女は沈黙する。

 老女はテーブルの上の大皿に手を伸ばすと、大きなフォークとスプーンで、そこに盛られたフルーツの中から桃の欠片を取り、自分の取り皿の上に載せた。彼女はその取り皿を膝の上に置いて、細いフォークで桃片を突き刺すと、上品に口に運ぶ。甘く澄んだ味を楽しんだ老女は、さっきマンゴーを食べていた時よりも素直に褒めた。

「やっぱり、桃は美味しいわね」

 顔を上げた若い女は、正面の老女の顔を見て口を開いた。

「あの……」

 老女は膝の上の取り皿にフォークを置き、若い女の顔をじっと見つめる。

 少し視線を落とした若い女は、首をすくめて遠慮気味に老女に尋ねた。

「どうして瑠香さんとは、お会いになっていないのですか。十年も」

 老女は膝の上の取り皿をテーブルの上に戻しながら言った。

「どうしてかしらね」

 若い女はその老女の動きを目で追いながら、彼女に更に尋ねる。

「会長さんは瑠香さんと田爪博士の結婚に反対されていたのですか」

 姿勢を正した老女は、目を瞑り、首を横に振った。

「いいえ。あんな良い人は他には居ないわね。私は今でも納得しているわ。瑠香にはもったいなかったかもしれないわね」

 若い女は視線を少し横に向けた。

 老女の後ろに広がっている壁一面の本棚は、あらゆる分野の専門書で埋められている。向こうの入り口のドアの横まで続くその本棚の中段のせり出した棚の上には、幾つかのポートレートが額に入れて並べられていた。若い女はその中の一枚を見つめる。それは、髪の長い美しい女性の写真だった。彼女の視線に気付いた老女が尋ねた。

「あの子のことが気になる?」

 慌てたように、すぐに老女に視線を戻した若い女は、小さな声で答えた。

「あ……いえ。ただ、優しそうな方だなあと思って」

 老女は横を向き、棚の上のポートレートを見つめながら言った。

「ああ見えて、結構、気の強いところもあるのよ」

 若い女は再び写真に目を遣った。写真の中の美しい女性は、笑顔が寂しそうだった。口角は上げていても、物憂げな目をしている。

 若い女は反対側に顔を向けた。部屋の奥の雉の絵は強そうで勇ましく、荒々しい目をしていた。

 若い女は少しだけ眉を寄せた。

 怪訝そうな横顔を見せている若い女に老女は言った。

「お腹が空いているのでしょ。遠慮せずに、もっと食べなさい。水気のある物を食べないと、また具合を悪くするわよ」

「あ、はい。すみません。じゃあ、もう少しだけ……」

 若い女は自分の前の取り皿を手にすると、大皿の端からメロンの欠片を取って載せた。その取り皿を膝の上に置いた若い女は、それを見つめたまま小さな声を発する。

「あの……」

 老女は若い女の顔を見つめた。若い女が顔を上げたのを確認すると、笑顔で頷いて見せる。それを見て少し安心した若い女は、老女に尋ねた。

IMUTAイムタを作ったGIESCOジエスコって、ストンスロプ社グループなのですよね」

 老女は目を丸くして見せて、若い女に返した。

「随分と話が飛ぶのね。それも取材のテクニックかしら」

「いえ。――すみません……」

 頭を下げた若い女は、申し訳ない様子で下を向いた。

老女は片笑みながら言う。

「まあ、いいわ。新人記者さんだということで、大目に見てあげましょう」

「はあ……」

 若い女は上目で老女を伺った。老女はティーカップを手に取り、ハーブティーを啜っている。

 若い女は細いフォークを握り、膝の上の取り皿からメロンの欠片を口に運んだ。控えめに咀嚼しながら、もう一度老女に目を向ける。

 老女はティーカップをテーブルの上のソーサーに静かに戻すと、体をソファーに戻しながら言った。

「そうよ。GIESCOジエスコは我がストンスロプ社が研究機関として設立した子会社。それがどうかしたの?」

「――えっと……」

 急いでメロンを飲み込んだ若い女は、唾も飲み込んでから、老女に尋ねた。

「田爪博士は、どうしてGIESCOに入らなかったのですか。彼は科学者ですし、お嫁さんの養母さんは、ストンスロプ社の会長であられるのに……」

 老女は口元に笑みを浮かべながら答える。

「私がストンスロプ・グループのトップであるから、距離を置いたのでしょう。そして、彼が我々と距離を置いたから、瑠香も私から離れていった。そうするしかなかったのね。決して私たち親子の間に何かあった訳ではないわ。私も瑠香も全てを理解した上で、そうしているの」

 テーブルの上に取り皿を戻した若い女は、更に尋ねた。

「ストンスロプ社と田爪博士の間で、何かあったのですか」

「いいえ。何も無かったわ。直接的にはね」

「間接的には、何か軋轢があったということですか」

 老女は少し間を空けると、若い女の顔を見て逆に尋ねた。

「田爪健三が誰に助けられていたのかは、調べたの?」

「あ……ええと、高橋博士ですか」

 若い女は頭に浮かんだ人名をそのまま口にした。

 老女は首を横に振る。

「それは共同研究者の一人ね。ライバルでもあったけど」

 若い女は少し考えて、また浮かんだ人名を挙げた。

「赤崎教授でしょうか。殿所教授も」

 老女は再び首を横に振った。

「彼女たちは、彼らが研究していたタイムトラベル理論の基礎となる『AT理論』の提唱者。まあ、彼らを科学者として育てたのは彼女たちだから、その意味では助けてはいるわね」

 若い女は考えた。ふと視界に入ったポートレートに再び目が行き、思わず言った。

「あ、瑠香さん……ですか」

 老女は姿勢を正したまま、若い女の目を見据えてゆっくりと語った。

「いい。人間はで生きているの。社会は人と人との繋がりでできている。ということは、一人の人間には必ず繋がりのある人間が存在するのよ。何かの事実を知りたければ、まず、その繋がりを手繰ること。それが真実を知る近道よ」

「……」

 若い女は老女が言わんとすることを汲み取ろうと、老女の目を見て必死に考える。

 老女は若い女に目を瞑って頷いて見せると、続きを話した。

「赤崎教授と殿所教授は、NNC社から研究の支援を受けていたの」

 若い女はキョトンとした顔で訊き返した。

「あのAB〇一八を造ったNNC社ですか」

 老女は首を縦に振る。

「そう。研究費や研究に必要な機械類の提供を受けていたわ。だから、高橋博士が仮想空間での実験を言い出した時も、NNC社が政府に対して口添えして、比較的簡単に実験の許可が下りたの」

 若い女は老女の顔を覗くように見て、言ってみた。

「会長さんも……ですよね」

 老女は再び目を閉じて頷く。

「――そうね。ストンスロプ社もIMUTAの使用を二つ返事で了承したわ。私としても自分の養女の夫がしている研究を邪魔する理由は無かったわね。正直、実験の許可を下ろすように裏で積極的に政府に働きかけてあげたのは、事実ね」

「瑠香さんと田爪博士のために……」

 若い女の問いに頷いて答えた老女は、上げた顔の表情を厳しくして続けた。

「でも、彼らは違ったわ。NNC社は実験によるAT理論の正当性の証明よりも、その実験の準備に必要なことに関心があったの」

 視線を落として考えた若い女は、辿り着いた結論を老女に確認する。

「AB〇一八とIMUTAの接続ですか」

 老女は深く頷いた。

「そう。NNC社の狙いは、我々のIMUTAを自分たちでも利用できる状態にすることだった。我々のIMUTAと自社のAB〇一八を競わせるよりも、相乗りさせた方が企業利益になると考えたのでしょう。それで、実験の準備にかこつけて、二機を接続したというわけ。まあ、別の言い方をすれば、あの実験は『SAIサイファイブKTケイティーシステム』を構築するためのいい口実になったと言うことね」

 若い女は驚いた顔で尋ねた。

「会長さんたちを騙したってことですか」

 老女は横を向いた。

「そうなるわね。当然、我々とNNC社の間の溝は深まったわ。まあ、元々が協力するに相応しい企業ではありませんが」

「それで、どうして田爪博士が……」

 若い女は少し首を傾げた。

 老女は部屋の奥の雉の絵を見つめたまま答える。

「彼は引き継いだのよ。赤崎教授と殿所教授から。もちろん、実際に多くの物も引き継いだわね。立派な理論と多くの知識、高価な機材も。でも、彼はもっと大切なものを引き継いだの」

「――信用とか名誉ですか」

 若い女に顔を向けた老女は、鋭い視線を送る。

「そう」

 そして、目線を下げ一呼吸置くと、再び語り始めた。

「赤崎教授も殿所教授も古い人間です。お二人は、自分たちの研究を支援してくれているNNC社に義理立てして、同社と対立することになった我々と節度ある距離を保つことにしたの。そして、田爪博士もそれを引き継いだ」

 若い女は確認した。

「立場上、会長さんと会えなかったということですか」

 小さく嘆息を漏らした老女は、若い女に言った。

「立場上と言うのは少し違うわね。立場上と言うなら、それは彼個人の問題。NNC社との契約上の問題に過ぎないわね」

 眉間に皺を寄せた若い女は、また尋ねた。

「何か契約をされていたのですか」

 老女はゆっくりと頷くと、若い女の問いに答えた。

「実験のためにNNC社から支給されていた機材は、NNC社や関連企業が開発した最新機器だったわ。例えば、当時実用化されたばかりの可接触式ホログラフィー投影機や、小型のミクロレーザー照射機、新型の記憶法式を採用したバイオ・ドライブ、極限環境対応型の粒子配列ガラス。どれも最先端の物ばかりだった。それらの機材を第三者に分析されて会社の技術情報が流出することを懼れたNNC社は、機材を第三者に渡したり公開したりすることを一切禁ずる内容で機材提供の契約をしていたの。終期なしの契約をね」

「一生負い続ける契約上の義務ってことですよね。でも、機材をむやみに他人に渡したり見せたりしなければいいだけじゃ……」

 若い女の発言の途中から、老女は少し大きな声で話し始めた。

「でもね、世間の人間はそうではない。約束事を守らない人間の方が圧倒的に多いわ。契約だなんて気難しい言葉を使っていても、要は約束事。子供でも約束事は守れるはずなのに、世の中にはそれをしない人間がいる。いいえ、ほとんどの人がそうね。だから法律が必要になる。約束を守らない人間は他人も自分と同じ人間だと思っているわ。他人が守らないから自分も守らなくてもいいと思う。まあ、大抵の人間は、思っていることを認識せずにそうしているものよ。世の中の人が皆、本当に真面目な人間ばかりではないのよ」

 若い女は間を空けずに考えを述べた。

「つまり、博士は世間の人々から誤解されることを避けるために、会長さんと距離を置いた、赤崎教授や殿所教授から引き継いだ信用を傷つけないために、『李下に冠を正さず』というつもりで会長さんやストンスロプ社と接触しないようにした、と」

 老女は、はっきりと頷く。

「ええ。彼はそういう人です。周囲の凡人には理解できなかったのでしょうけどね」

「でも、瑠香さんは、それを理解したのですね。それで、田爪博士と結婚した後は、会長さんと距離を置いた。そういうことですか」

 老女は若い女の目を見て、口角を上げながら大きく頷いた。

 若い女は再び棚の上のポートレートに目を向けて、呟くように言った。

「田爪博士が第二実験で失踪された後も。――なんだか、悲しいですね……」

 思いを巡らせながら若い女はテーブルの上に視線を落とした。

 何も言わない老女に気付き、若い女は老女に視線を戻した。老女は黙ってテーブルの上のティーカップに手を伸ばしている。

 若い女は慌てて姿勢を正すと、すぐに頭を下げた。

「すみません。失礼しました……」

 恐る恐る顔を上げると、老女はハーブティーを啜っていた。

 老女はティーカップを口元に近づけたまま、目線を下に向けて言う。

「瑠香は、それで幸せなのだと思うわ。今も彼を背負って生きている。そういう幸せもあるのかもしれないわね」

 老女は寂しそうな目をしていた。ポートレートの中の女性とよく似た目だった。

 若い女は少し大きな声を老女に掛けた。

「きっと、会いに来てくれますよ。絶対に」

 老女は胸の前にカップを持ったまま、首を少し傾げて若い女に尋ねた。

「どうして? 瑠香とは、まだ会ったことは無いのでしょう?」

 若い女は瑠香の写真を見つめたまま、口を尖らせてボソボソと答える。

「なんだか、そんな気がして……。いい人そうですし……」

 そして老女の方に顔を向けると、張りのある声で言った。

「夫の田爪博士の思いを背負える方なら、きっと会長さんの思いも受け止めておられるはずです。会長さんと同じベクトルを心の中に持っておられるのですから。きっと、契約のこととか、色々なことは解決して、また会長さんに会いに来てくれると思います。夫の思いを大切にするような優しい瑠香さんが母親に寂しい思いをさせるはずがありません。絶対に」

 老女はソーサーの上に戻したティーカップをテーブルに置きながら呟いた。

「そうだと良いわね。そうなれば……」

 若い女は胸の前で拳を握り締め、老女を激励した。

「信じていてあげて下さい。『信じる者は救われる』です!」

 老女は大袈裟に驚いた顔をして若い女を見ると、笑みを抑えながら言った。

「神様とお話しでもしたの? まあ、あなたが救われたのは事実ね。間違えていないわ」

「あ……す、すみません。そうでした。失礼しました。つい……」

 若い女は急いで手を下ろし、顔を赤くして下を向いた。

 老女は少し冷たい口調で言って、若い女をからかう。

「それで、今日は取材に来たのかしら、それとも、伝道活動か何か?」

「あ、いえ……。取材です……」

 若い女は首をすくめ、更に下を向いた。

 老女は口調を穏やかにして言う。

「じゃあ、他に訊くことはないの? 何か関心を持ったこととか」

 若い女は顔を下に向けたまま、上目でチラチラと老女の顔を覗いた。

「えっと……」

 口籠っている若い女に向けて老女は穏やかな表情でゆっくりと首を縦に振ってみせた。

 若い女は思い切って尋ねた。

「さっき仰っていた、バイオ・ドライブとか、粒子配列ガラスって何ですか?」

 老女は呆れ顔で溜め息を吐くと、若い女に言い聞かせた。

「やっぱり、もっとお勉強しないと駄目ね。無学は身を滅ぼすわよ」

「すみません……」

 若い女は、また首をすくめて頭を下げると、恥ずかしそうに下を向いた。

 老女は少し前屈みになり、大皿に立てられた大きなスプーンとフォークを手にした。それを使って大皿の上の切り分けられた果物を適当に取ると、若い女の取り皿の上に載せながら、丁寧に彼女の質問に答えていく。

 若い女は恐縮しながらも、真剣に老女の説明に耳を傾けていた。



                  10

 広い円形の地下空間の隅で、古びたパイプ椅子に座った白髪の男が黄色い線の向こうに立つ短髪の男に銃口を向けている。

 銃を向けられたまま、永山哲也は黙って田爪の顔を見据えていた。

 田爪健三は永山に尋ねる。

「時吉教授については、何処まで知っているのかね」

 永山哲也は淡々とした口調で答えた。

「時吉総一郎。新都大学名誉教授。哲学博士。もとは法哲学の研究者であり、当初は弁護士としても活動していたが、引退後、時間哲学の分野で多数の論文を執筆し、急速に名声を得た人物。子供は三人、孫は五人、奥さんが一人、奥さんの交代要員が二人。地位とお金と女子大生が大好き。ってところでしょうか」

 田爪健三はニヤリと片笑むと、真顔に戻してから言った。

「ふむ。結構。正確な情報に加え、なかなか節度のある表現だ。君は優秀な記者だね」

 永山哲也は口を引き垂らすと同時に両眉を上げて応えた。

 田爪健三は一度深く息を吐いてから、語り始める。

「さて、彼がこの件に介入してきたのは、二〇二二年だ。赤崎教授の告別式に参列された殿所教授に彼が執拗に議論をぶつけていたのを覚えている。場所柄をわきまえぬ失礼な男だ。実に腹立たしい。その直後に時吉が殿所教授との対談集というものを発行したのが最初の介入だった。まあ、対談集とは言っても、彼の虚偽と欺瞞、妄想と誤解ばかりが詰め込まれたもので、さっき言った『告別式での殿所教授との対談』という部分も含めて、どれも否定するにも値しない内容のものだったとだけ言っておこう」

 永山哲也は少ししかめた顔で首を縦に振った。

「ええ、その本は読みました。文面では、それまでのAT理論の説明とは全く違う主張を殿所教授がしているかのように書いてありましたが、僕が調べたところ、実際には、殿所教授は時吉教授に対して挨拶程度の発言しかしていないようですし、そもそも、殿所教授は他人と議論することを好むような方ではない。だいたい、会話の並びと論調の変化が誘導的過ぎて、どこかのライターが創作したものだということが、ありありと分かる内容です。あれは酷い」

 永山の言い方には若干の怒りが込められていた。

 田爪健三は片眉を上げた顔を永山に向ける。

「ほう。さすがに鋭いな」

「まあ、一応、文屋なんで」

 永山哲也がそう言うと、田爪健三は一度だけ深く頷いた。彼は続ける。

「ところがだ、世間は君のように冷静ではなかった。ま、哲学的アプローチから時間概念を紐解くという時吉の手法自体は、決して間違えてはいないし、実際に、的を射た部分もあった。しかし、マスコミは彼の哲学的分析論の考察をすることはなく、彼の弁護士独特の攻撃的な論調と雰囲気そのものに興味を示した」

 永山哲也は細かく首を縦に振った。

「ええ。当時のことは僕も良く覚えていますが、一時期は、どの放送局の番組にも彼の顔が出ていましたよね」

 田爪健三はゆっくりと瞼で頷く。

「そう。それにより殿所教授へのバッシングの風が吹き始めた。バッシングと言っても、AT理論は一般人に容易く理解できる内容のものではないから、その大半は、いや、全てと言っても過言ではないだろうが、まったく反論に値するものではなかった。しかし、赤崎教授という強力な相棒を失った殿所教授には、日々送られてくる数百通の下等なメールの山に対抗するだけの力は残っていなかった。穏やかながらも毅然とした立派な女史であられたが、さすがに九十歳を過ぎておられては、一人で何もかもに対応するのは無理だったのかもしれない。赤崎教授とは同郷の親友でもあられたそうだから、その親友を亡くした空虚感も彼女の死を早めてしまったのだろう。また、赤崎教授の方が若干年上であられたということもあり、生前は赤崎教授の方がマスコミ対応をなされることが多かったのだが、殿所教授としては、赤崎教授の死後の不慣れなマスコミ対応がご老体に相当のストレスであり、それによる過労が祟ったのではないかとも、一部で報じられた」

 田爪健三は口を閉じた。その口を一文字にして強く歯を喰いしばった後、大きく溜め息を吐いてから、彼は話を続けた。

「かくて、同年の秋に殿所教授は亡くなられた訳だが、時吉の攻撃は終わらなかった。その後も引き続き、各種のマスメディア上で亡きお二人を侮辱し続けたのだ。二人と言ったが、時吉は生前の赤崎教授とは面識が無かったので、その矛先は、ほとんどが殿所教授に向けられたものだった。そして、その負担と反駁の責任は、殿所教授の下で学んでいた高橋君に重く圧し掛かったのだ」

 田爪健三は計測機の上の砂時計を逆さに返し、流れ落ちる砂を眺めながら話を続ける。

「このAT理論というものは、もともと陰と陽の二つの側面を持っていた。そもそも、元は量子物理学の研究者であられた赤崎教授と、数学者であられ、同時に仏教哲学の権威でもあられた殿所教授が、互いの弱点を補いつつ相互に補完し合うことで、まるでお二人が奏でるアンサンブルのように美しく仕上げられたものが、赤崎・殿所理論としてのAT理論なのだ。どちらが陰であり、どちらが陽であるかは、単なる表現の問題であって、あえて明言する必要は感じないが、ただ、先ほど述べたように、過去に戻っても未来を変えられないとする論と、過去に戻れば未来を変えられるとする論のその双方を要素として本来的に含んでいた。そう、まるで男児と女児の双子を孕んだ妊婦のように。強いて言うならば、前者の否定論が陰であり、後者の肯定論が陽というところだろうか。そして、前者がパラレルワールドの否定であり、後者がパラレルワールドの肯定だ」

 永山哲也の表情が強張った。いよいよ始まった。いや、また始まった。彼が若い頃に何度も耳にした議論だ。彼自身も思考したり、議論したりした経験がある。そして、その時の経験から、彼はその話題に辟易していた。この案件に取り掛かった時も、なるべくこの議論に意識を傾けないように注意して、思考を避けていた。他の記者たちも同じだった。――新人の若い女を除いては。

 ここにやって来た永山哲也は、田爪健三と対面する以上、ある程度の覚悟はしていた。しかし、できればこの話題を回避したかった。だから先ほども念を押したのだ。この不毛とも思える議論に話しが流れないように。だが、どうもそうはいかないようである。田爪がこの話を適当に述べるはずは無かったし、話の流れでも必要と思われる部分であるようだ。そして何より、永山哲也は今、田爪健三に彼が右脇に抱える大きな銃の先端を向けられている。永山哲也に拒否権は無かった。

 彼は内心では渋々としながら田爪に言った。

「パラレルワールドの肯定……高橋博士が唱えていらした説ですね。田爪博士が唱えていらしたのが、否定説」

 田爪健三は大きく頷く。そして語り始めた。

「そうだとも。さっきも説明したが、パラレルワールド肯定論者どもは実に奇妙なことを言う。例えば、もし君が『過去』へ戻ったとすれば、その『過去』は、君が一度通り過ぎた『過去』とは既に違う別の『過去』なのであって、その瞬間から新たな未来に向けて別の方角に時間軸は進行し、到達したその『過去』の時点を起点とした、君が過去へ旅立つまでの既存の『過去』の流れへは永遠に到達することはできないと言うのだ。だから、君が『過去』に向けて出発した時点、すなわち、この『現在』には絶対に到達しない。つまり、過去へ送った物体には二度とお目にかかれないという訳さ」

 田爪健三は永山を軽く指差しながら続ける。

「一方で、過去に移動した君がその後に進んで行く時間軸は、到達した『過去』の時点を出発点とした新しい別の時間軸であって、もう一つの世界、いわゆるだということになるのだよ」

 何度も聞いたそのフレーズを、永山哲也は疲れた顔で口にした。

「もう一つの世界……ね」

 田爪健三はそんな永山に厳しい視線を送りながら、深く頷いた。

「そうだ。もうひとつの世界だ」

 永山哲也は溜め息を吐いて頭を掻く。それを見た田爪健三は顔をしかめた。彼の話は続く。

「だが、時間というのは『取得』と『放棄』だ。放棄されたものは、そこに積もる。そこから新たに何かが生まれる訳ではない。そこに積もり、固定される。それが『過去』だ。つまり、過去に戻っても、未来から過去にやって来たという事実が既に『過去』として存在しているはずであって、その上に新たに放棄された『有』が積もっていくはずなのだ。そして、『未来からやって来たという過去』を前提として次の『過去』が続いていく。ということはだ、『未来』から『過去』に出発する時点で、『到達したという過去』が既に存在しているはずなのだ。だとすると、時間は常に一本軸。パラレルワールドなど存在しないし、『過去』に送った物は今ここに『過去』からの遺物として存在しているはずだ。『過去』に戻っても、現在までの過去である『未来』を変えることなどできない。時間は固定されている。そして、それは主観に左右されない。ここが重要だ」

 田爪健三はそう強調して、床を強く指差した。

「私は今、二〇三八年にいる。私にとって『今』であるこの『現在』は、この二〇三八年だ。だが、例えば今から二十年前の二〇一八年は『過去』だ。私にとっては。二〇一八年に生きている人間にとっては二〇一八年が『今』であり、『現在』だ。二〇三八年は『未来』。同じように、二一〇〇年は私にとっては『未来』だが、二一〇〇年に生きている人間にとっては『現在』だ。このように、一つの時間点であっても、表現する人間の主観によって意味が変わってくる。これではいけない。安定性がないし、考証する上で基準にならない」

 田爪健三は困惑顔の永山から視線を外すと、椅子の背もたれに深く背をつけた。

「さっき私は、時間は固定されていると言った。そう、『過去』とは既に過ぎ去った時間だ。放棄されたもので、固定されている。ならば、『未来』から見て『過去』である現在も、『過去』である以上、固定されているのではないかね。その『未来』も『更に先の未来』から見れば『過去』だ。ならばやはり、その『未来』も固定されている。つまり、決まっているのだよ、『時の流れ』というものは。未来を変えることなどできない。そんな希望は、ただの妄想だ。もうひとつの世界など、存在しない」

 田爪健三は静かに、呆れ顔で首を横に振った。

 呆れ顔をしているのは永山哲也も同じだった。国民的議論にまで発展したこの話は、それこそ過去に嫌と言うほど聞いた。だから、彼もまた、田爪とは違う趣旨で首を小さく横に振った。

 視界の隅で動いた永山の頭部に反射的に銃口を向けた田爪健三は、厳しい視線を彼に向けた。

 永山哲也は動きを止め、一瞬、息を呑む。

 田爪健三は鼻から強く息を吐いて銃口を下ろし、再びパイプ椅子の背もたれに身を倒した。彼はまた語り始める。

「とにかく、AT理論は、これら二つの一見して矛盾するかのような結論を並列的に含み持っていた。そして、この点を外部から誇張的に指摘し、さも致命的な論理破綻要素であるかのように強調したのが、時吉教授だったのだ。時吉の当該の指摘は、『時吉提案』と名付けられ、世を騒がせた。君くらいの年齢なら、よく覚えているだろう」

 永山哲也は、今度は慎重にゆっくりと頷いた。

 田爪健三も安心した顔で頷いて返し、話を続けた。

「なに、私にしてみれば、本来的な『将来の研究要素の一つ』に過ぎないのだが、彼には違った。高橋君には。どちらかというとパラレルワールド肯定論に親和性を帯びていらした殿所教授に師事していた高橋君は、AT理論の否定は、パラレルワールド肯定論の否定であり、我が師の否定であり、畢竟ひっきょう、自己の否定と捉えたのかもしれない。あるいは、メディア向けのショー的な論争に持ち込みたがった時吉に誘導されたとも言えるだろう。何であれ、こうして、この頃から高橋君は熱烈なパラレルワールド肯定論者となり、その急先鋒として、過度にメディアに露出するようになっていった」

 田爪健三は深く項垂れて首を左右に振ってから、すぐに顔を上げて語り続けた。

「否定論と肯定論は陰と陽であり、一枚のコインの裏と表のような一体的関係であったから、高橋君が展開する『パラレルワールド肯定論』の肯定は、直接に『パラレルワールド否定論』の否定でもあった。ところが、私は二〇二一年の時空間逆送実験の時に、その現場で起きた現象とデータの内容から、パラレルワールドが存在しないという事実を演繹的に知ったのだ。あの帆船模型のデータを仮想空間に送るボタンを押したのは、私だ。意図的に時間を計ってボタンを押した訳でもなく、それに合わせようと急いだ訳でもないことは、私が一番分かっている。時間の流れは決められているのだ。間違いない」

 永山哲也が田爪の目を見ながら言う。

「主観的心理要素は、主体であるあなた自身が知っているし、あなたしか分からないことだ。だから、あなたは確信できる。しかし、他者には分からない。つまり、パラレルワールド否定論の否定は、あなたの信用の否定となる。そういうことですね」

「そうだ。そうだとも。いいぞ。いい。理解が早い。君は賢いようだ」

 田爪健三は永山に何度も人差し指を振って強く頷くと、その手を下ろして話を続けた。

「だから、私としては、どうしても高橋君の主張を受け入れる訳にはいかなかった。そして何より、科学者としての良心がそれを許さなかった。彼の主張は真実とは違うから。私はそう信じていた」

 田爪健三は一度天井を仰ぎ見てから、永山の方を見た。

「君は、ハイゼンベルグの不確定性原理というものを知っているかね」

 永山哲也は首を横に振った。

「いいえ。――すみません。勉強不足で」

 素直に頭を下げた永山に、田爪健三は穏やかな口調で言った。

「そうかね。いや、構わんよ」

 そして左腕を載せた横のテーブルに少し体重を掛けて、永山の目を見ながら説明した。

「量子力学の中心をなす原理でね、ワーナー・カール・ハイゼンベルグという学者が二十世紀初頭に唱えたものだ。二つの物理量が極めて小さな領域に在るとき、その物理量の片方の測定精度を高めれば高めるほど他方の物質量の測定は不確定になってしまうというものだ。つまり、同一の系にある二つの物理量においては、両方とも厳密に正確な測定値を得ることは、原理的にできないのだよ。例えば、粒子の世界においては、同一の粒子の位置と運動量を同時に測定することはできない。それは、物質の本質が粒子でもあり、かつ、波動でもあるという量子力学の基本概念に由来するものなのだが、私と高橋君の関係は、この二つの物理量の関係に似ていた。他方が正しいと証明されれば、他方がされない。他方の説明がなされれば、もう一方の説明が不十分となる。しかし、本当の真実はというと、双方の説はどちらも真である。それがAT理論の本質だから」

 それまで仕方なく聞いていた永山の顔は、真剣になっていた。

 永山哲也はあの当時の、いや、さっきまでの自分の浅くいい加減な理解を恥じた。それは彼の脳裏に多くの事が廻ったからだった。いま田爪が話したことは、単にAT理論に限った話ではないと永山哲也は感じていた。かつて憲法改正が論じられ、保守派と革新派が対立した時も、政権交代が叫ばれ、二大党派が対立した時も、経済対策や社会問題の解決が議論され、知識人たちが吠え続けた時も、この話と似たような事態が生じていたのかもしれない。そして、どの時でも、自分はいい加減で偏頗な思考に囚われていたのではなかろうか。

 彼は過去を疑い、自己を疑いながら、真っ直ぐに田爪の顔を見つめていた。

 田爪健三は永山の内心を見透かしたように頷いてから、また語り始めた。

「だが、世間の人々は、そんなことはお構いなしだ。難解な理論について学習して理解に近づこうともせず、ただ、まるでボクシングの観戦でもするように、我々の議論を見物した。そして無責任にも、どちらが正しいだの、どちらのどこが間違いだの、各々で勝手な論争を始めたのだ。勝手に論争をしておきながら、その争いの炎で我々を照らし、そこにできた二つの影のそれぞれの上に更に支持の列をなして並び、隣の列の者と稚拙で無意味な激しい議論をした」

 永山哲也は少し目線を落として言った。

「メディアの影響が大きいのでしょうが、当時、国中がこの議論に沸きましたからね。老若男女を問わず、職場でも、学校でも。正直、ウンザリでした。当時の僕としては……」

 永山哲也は罪を告白する罪人のような顔で、下を向いたままだった。

 そんな彼を田爪健三は鼻で笑った。しかし、彼の目は笑っていない。ただ冷たく、悠々と過去を見つめていた。

 田爪健三は片笑みながら言った。

「そういう影響を作る必要があったのだよ。人々の意識を他に向ける必要があったのさ。本来の仕事を国民に反対されずに進めるためにね」

「本来の仕事……その頃と言えば……遷都のことですか?」

 覗き込むように顔を向けた永山を見ながら、田爪健三はゆっくりと言った。

「――まあ、いい。話を戻そう」

 永山哲也は黙って田爪の顔を見つめていた。

 田爪健三は視線を永山から逸らして、話を続ける。

「とにかく、こうして我々は、学問上の対立者としての立場を学問とは何らの関係を有しない人々によって決定付けられ、その議論は度々メディアで大々的に報じられた。我々は互いの名誉と良心のために、いつも全力で論戦を交わした。それがどのような場であろうと、どれだけの人が嘲笑しようと、われわれは戦い続けた。そういう運命を決定付けられたのだ。大衆によって」

 少し語気を強めた田爪健三は、今度は静かに声を落ち着けて言う。

「そんな頃だった。二〇二五年、あれが起こったのだよ」

 田爪健三は、ゆっくりと巨大な時計台に目をやった。彼の視線を追って永山哲也もそれに顔を向ける。

 その地下空間の奥にそびえ立つ巨大な塔は、まるで、天に向って伸びているかのようであった。それはある光景を永山に思い出させた。衝撃的で恐ろしい光景を。

 田爪健三は大きく溜め息を吐くと、永山に発言を促した。



                  11

 青い空には雲ひとつ浮かんでいなかった。しかし、それは幼い頃に見た青よりも薄い。朧朧とした淡青で覆われた視界を、突如、小さく見える一機のヘリコプターが横切った。その自衛隊のヘリコプターは、回転翼で風を切る音とエンジン音を引き連れて、遠くに見える山脈の向こうへと飛んでいった。白い自転車に跨ったまま暫くその方角を眺めていた制服姿の若い巡査は、額の汗を拭い、その手に握っていた制帽を頭の上に載せた。両手でしっかりと制帽の角度を整えた彼は、足をペダルの上に載せ、その自転車を漕ぎ始めた。坂のアスファルトが熱気を揺らしている。巡査は立ち漕ぎして坂を上った。子午線の通過を目指して昇る太陽が彼の背中を強く照らしていた。

 坂を上り終えた巡査は、自転車を停めて辺りを見回した。周囲の住宅街には誰も歩いていない。晴天が続いたゴールデン・ウィークの後半初日ということもあり、近くの幹線道路はひどい渋滞であったが、そこから一歩入ったその住宅街は別世界のように静かで閑散としていた。若い巡査は民家の塀に挟まれた狭い道路へとハンドルを切り、定められた巡回路どおりに自転車を漕ぎ進めていく。

 彼がゆっくりと自転車を漕いでいると、その先に路上駐車している一台のミニバンが見えた。巡査は自転車を止め、地に右足をついた。手で制帽の角度を整えながら周囲の風景に目を遣ると、やはり住宅街の中は静かだった。前に伸びる道路には他の車は走っておらず、並ぶ民家の植木の枝葉が塀の中から外を覗いているだけだった。ある民家の庭ではTシャツ姿の中年男が脚立に跨り、剪定バサミで庭木の手入れをしていた。男は首に掛けたタオルでしきりに汗を拭きながら、慣れない手付きで迷いながら枝を落としている。その向かいの民家の前に、そのミニバンは停まっていた。巡査が自転車を漕ぎ始めると、その車の運転席と助手席のドアが開き、夫婦らしき男女が降りてきた。続いて後部座席のスライド・ドアが開き、中から小学生くらいの兄弟が飛び降りてきて、横の家の門へと駆けていった。門の所には初老の夫婦が出てきていて、門扉を開けて笑顔で孫たちを中に招き入れた。

 巡査がそのミニバンの近くまで来た時、後部座席のスライド・ドアを閉めて、無線式のキーホルダーで車に施錠していた若い父親と目が合った。その男は路上駐車を制服警官に見つかって、ばつの悪そうな顔をしていた。若い巡査は右手を制帽のツバに添えると、笑顔で彼に敬礼して挨拶し、そのまま車の横を通り過ぎた。一礼した男はホッとした顔で巡査を見送った。

 巡査はその後も住宅街のパトロールを続けた。彼が家の前の路上を掃いている老女に挨拶して横を通り過ぎた時、急に辺りが暗くなった。重苦しい湿気が周囲を突如として包んだかと思うと、虎が喉を鳴らすような音が上から聞こえた。彼の制帽のツバを小さな何かが一度だけ叩く。巡査が上を向くと、目に一粒の水滴が落ちてきた。彼は自転車を止め、目を拭ってから再度見上げた。どこから沸いたか知れない、どす黒い雨雲が真上に固まっている。自転車のハンドルを握る彼の手の上に一滴が落ちた。続いて、不規則に間隔を空けて無数の雨粒が落下を始めた。巡査が慌ててペダルを踏もうと前を向くと、近くの家のエアコンの室外機が何かで叩かれるような音を鳴らして停止した。彼が反射的にそちらに顔を向けると、今度は後方で同じ音がした。振り返ろうとした巡査の視界の隅で、強い光が一瞬だけ走る。巡査がそちらに顔を向けると、送電線の上を青い小さな稲妻が波打つように走っていて、先の方の電柱の上で他の電線から走ってきた同じ稲妻とぶつかって火花を上げていた。巡査は路上で電線を見上げている老女に、家の中に入るよう指示し、慌てて肩の無線機に手を掛けた。その時、住宅街の奥の家の屋根が向こう側から強い光で一瞬だけ照らされ、続いて大きな爆発音と衝突音が続けざまに鳴り響いた。巡査はその方角を呆然と眺めた。後ろから老女に問い掛けられて我に返った巡査は、自転車のハンドルをしっかりと握ると、サドルから腰を上げた。彼はペダルを踏み込みながら、肩から外した無線機を口元に運び、応答を呼びかけた。その無線機は応答も雑音も返さなかった。無線機が使用できないと判断した巡査は、それを肩に戻し、サドルから腰を浮かせたまま、光と音が発せられた方角へと急いで自転車を走らせた。

 まだ午前中であるにもかかわらず、辺りはかなり薄暗くなっていた。突如始まった大雨の中、巡査はずぶ濡れになりながら、懸命に自転車を走らせた。やがて、車一台分の道幅の細い通りから少し広い道路に出た。巡査は肘を張ってブレーキを握り、自転車を急停止させる。水飛沫が立った。濡れた顔を拭いながら右を見ると、民家の塀に挟まれた二車線道路の先に、大きな幹線道路が見えた。左右に行き交うどの車もライトを点けて走っている。巡査は視界の左隅に赤い色を捉えた。視線を向けると、正面の家の低い塀の向こうから赤い傘を差した中年の男が、下着姿の上半身を乗り出して外の様子を覗き見ていた。

 巡査はその男が見ていた方角と同じ、左の方向に顔を向けた。

「ああ!」

 巡査はその光景に声を上げた。

 雨に打たれる路面を真っ直ぐに奥まで伸ばした二車線道路の先の、T字路の突き当たりの所で、積み重なった金属の塊が、あちらこちらから白と黒の細く長い煙を上げていた。

 巡査は塀から覗き込んでいた下着姿の男に叫んだ。

「すぐに警察に通報して下さい!」

 そして彼は、急いでその方向に自転車を漕いで行った。下着姿の中年男は、制服姿の警官に言われた言葉にキョトンとしていた。

 その歪な塊は塔のように立っていた。一番下には平らに潰れたスクラップが敷かれている。横に黒い円形の物が転がっていた。タイヤだった。金属塊の下で潰れている物は自動車だと分かった。巡査は自転車から飛び降り、それをその場に放り捨てて走った。おそらく乗用車だったと思われる潰れた金属の上には、更にもう一台の車だったであろう物が載っている。その残骸は大きい。おそらくトレーラーの牽引用トラックだろうと思われた。運転席の部分は、そのトラックが牽いていたはずのトレーラーのフレームが突き刺さり、激しく破壊されていて、原型を留めていない。その車両は突き当たりの民家の庭に正面を向けていると思われた。トラックに突き刺さっている鋼鉄の太いフレームは、どれも四方八方に反り曲がっていて、その途中でタイヤが空回りしている。その上には、銀色の大きなコンテナが斜めになって圧し掛かっていた。外壁を細かく波打たせて変形させたコンテナは、後ろの扉部分だったあたりを四列させ、天に向けて広げている。それはまるで、これから花弁を広げようと膨らんだ百合の蕾のようだった。

 巡査は制帽を外して濡れた髪をかき上げると、顔を手で拭ってから制帽を被り直し、一度深く息を吐いた。そして、降りしきる雨の中、急いでトラックの運転席らしき位置の方へと回った。

 トラックの下の乗用車は、その上のトラックとトレーラー、コンテナの重みで完全に押し潰されていた。隙間の至る所から地表の黒いアスファルトの上に、濃い赤色の粘液を幾筋も垂らしている。その下に溜まった黒に近い赤色の液体は路面の雨水と混じって薄まり、朱色になって四方に滲み広がった。

 巡査が下の方を観察すると、歪な金属の重なりの隙間から人間の腕が一本だけ出ていて、指先を下に垂らしていた。それは巡査からすぐに届く距離であったが、彼はその手に触ることはしなかった。

 巡査は腰のベルトからライトを外してスイッチを入れた。その薄い光でトラックの破損した運転席の隙間を照らす。中は車体の壁を突き抜けたトレーラーのフレームで埋められていた。光を動かすと、それらの間に人間の肩が見えた。真っ黒に焦げた肩の先の腕は、曲がったハンドルを掴んでいる。

「大丈夫ですか」

 巡査は返事を期待することなく、声を掛けた。ゆっくりとライトを動かし、肩の奥を照らす。彼が予想したとおり、頭部は無かった。

 巡査は助手席側に人が居ないか確かめようと、運転席部分を貫通している鋼鉄の太いフレームに手を掛けて、中を覗いた。

「うわっ」

 巡査は驚いて手を引いた。その鉄柱は凍ったように冷たかった。巡査は一歩だけ後ろに下がり、手に持っていたライトで、事故車両の上で斜めになって先端を空に広げているコンテナの、外れかけた壁と壁の隙間の奥を照らした。背伸びをして中を覗くと、大きく壊れた機械が見えた。赤や黄色の千切れたコードも見える。日の丸が印刷された翼のような物もあった。ガラスが割れ、ひっくり返っているのは、戦闘機の操縦席のようだ。その上に卵形の物体が載っていて、その横で筒状の物が「く」の字に曲がっている。その筒状の物の先端には見覚えがあった。戦闘機のジェットノズルの部分だ。どれも分解されて格納されていたのだろう。巡査はライトの角度を変えた。傘を幾つも重ねて串刺しにしたような物が見える。コンテナの内側の壁は均等に細かな皺を寄せていた。眉間に皺を寄せた巡査は、中をもっとよく観察しようと、顔を前に出しコンテナの外壁に左手を触れた。

あつっ!」

 巡査は反射的に手を引いた。先ほど感じた冷感を念頭に置いていた巡査の脳は、予想外の真逆の感覚に過度に反応し、彼に痛みすら伝えていた。巡査は思わず右手に握っていたライトを落として、そのまま左手を庇った。彼は再び、そこから一歩後ろに下がる。左手を火傷しなかったかと気にしながら、重なっている事故車両を改めて観察した。これほどの大事故であるにもかかわらず、発火はしていない。不自然だった。

 巡査は怪訝な表情で首を傾げると、落としたライトを拾おうと身を屈めた。朱色の水たまりに手を入れる。不快な感触だった。しかめ面で手を動かしていると、彼の手に何かが触れた。動きを止めた巡査は、屈んだまま周囲を見回した。彼の足下の朱色の水溜りの中には、曲がったナンバープレート、割れた車用芳香剤の瓶、コードが千切れた無線のマイク、女性用の靴の片方などが散乱していた。立ち上がり、生温く粘り気のある水溜りの中から拾った物を確認していると、彼の背中を強い光が照らした。彼の前に降り注いでいた雨粒が金色に光る。少しだけ振り向いた巡査は、ずぶ濡れのズボンのポケットに右手を入れたまま、体を光の方に向けた。

 まぶしい光源の奥に赤い点滅が確認できた。



                  12

 永山哲也は薄暗い足下に何かが無数に落ちているのに気付いた。彼はその場にしゃがんで、そのうちの一つを拾い、そのままそれを天井の薄い光にかざしてみる。彼の経験では、それは干からびた白い花弁であった。永山哲也は少しだけその匂いを嗅ぐと、すぐに鼻から遠ざけ、左手の指先で丸めたその塵を、しゃがんだまま部屋の中心に向けて投げ捨てた。そして、立ち上がりながら言った。

「二〇二五年九月二十八日。忘れもしません。あの黒く大きなキノコ雲は、隣の県にいた僕の部屋からも見えました。今でもはっきりと覚えています。しかし、政府の発表では、あの爆発はここの武装ゲリラによる核テロ攻撃であるとのことでしたが。その証拠としてゲリラからの挑発文が刻まれた耐核性の『メッセージボード』が爆心地から発見されたはずですし。あの核テロ事件と、高橋博士と博士の論争と、何か関係があるのですか?」

 永山の怪訝を募らせた表情を見ながら、田爪健三は首を深く縦に振る。

「ある。あり過ぎるよ。君は何を言っているのだ。いいかね、よく考えてみたまえ。おかしな点がいくつかあるから。まず第一点はこうだ。あの核テロ攻撃は我々の実験拠点を標的にしたものだった。偶然にも、私も高橋君も放送局からの急な呼び出しを受けていて、私は出勤していなかったし、高橋君は妻と子供たちを連れて県を離れていたから、爆発には巻き込まれなかった。それに、あの場所はプロトタイプのタイムマシンを発射するための初期実験場だったから、爆発以前から半径数キロメートルの範囲は危険区域に指定されていて、民間人の居住と立ち入りが禁止されていた。さらに、当日は日曜日だったうえ、偶然にも、出勤している者は誰もいなかった。というのは、当時はまだ民間の大企業が主体となっての実験だったから、警備や保守は専門業者への一括外注でやっていたのだが、あの日はその業者で大規模な労働ストが決行されていてね、誰一人も施設に足を運んでいなかったというのだ。お蔭で死傷者はゼロ。随分と出来過ぎた話だとは思わないかね。ああ、そうだ。まあ、居住制限などの法律的支援を国から受けてはいたが、民間としての研究事業であった以上、土地の取得など諸々の手続的な活動にも限界があった。それで、あんな山奥に在ったのだ。法律上の制限があったとはいえ、我々が働く施設は周囲に建物一つ無い山奥に在ったのだよ。通勤に片道三時間だ。三時間だぞ、三時間」

 田爪健三は、永山の方に太い三本の指を激しく立てて見せた。その手を下ろした彼は、興奮を抑えるように深呼吸をすると、静かな口調に戻して続けた。

「ともかく、これらの事情が重なり、最大公約数的に幸運を呼んだ訳だが、結果として、大地は大きくえぐられてしまった。当然、実験施設も消滅だ。――そうだ。あそこは今、どうなっているのかね」

「爆心地ですか。爆発当初のままです。巨大なクレーターの中心に、融けかけて曲がった電波塔が立っているだけ。数年前に取材で行ったことがありますが、周囲の森も荒れていて、ひどいものでした。きっと、今はもう通れないでしょうね。爆発以来ずっと政府が立ち入り禁止区域に指定したまま放置されていますから」

 田爪健三は肩を落として息を漏らす。

「そうか……相変わらず杜撰だな。あの時の調査も随分と杜撰だった。政府は当初、我々の実験の失敗や施設管理上のミスを疑ったが、例の金属板、『メッセージボード』とやらが見つかってからは、一転して南米の反政府テロ組織による核テロ攻撃だと認定した。爆発の原因を綿密に調査することよりも、国際社会への対応に意識を傾けるようになったのだ。ところで、君、ああ、永山君、その頃君は何をしていたのかね?」

「えっ。あ、僕ですか?」

 永山哲也は、自分の顔の中心を指差した。

 戸惑い顔の彼を見て、田爪健三は少し笑いながら言った。

「そうだよ。君以外に、この部屋に誰が居るんだね」

「はあ。――まだ娘が小さくて、一緒にキノコ雲を見て驚いて……。ああ、そうそう、思い出しました。たしか、その日は異動後に初出勤する日の前日で非番だったのですが、急遽呼び出されまして。着任の挨拶もできないまま、社会部で最初に係わった仕事が、あの核テロ事件でした。といっても、先輩方のお手伝い、下働きってやつですがね」

「幾つだった」

 田爪健三は、椅子から少し身を乗り出して尋ねた。

 永山哲也は即答する。

「二十五です。もう少しで二十六って時でした」

 田爪健三は鼻で笑うと、永山に再び左手の人差し指を振りながら言った。

「そのぐらいの年齢は、そういった仕事を経験するべき時期だ。それでいいんだよ」

 永山哲也は苦笑いしながら、首を横に振る。

「いやあ。それはどうでしょう。だって、博士が二十五歳の頃は、ええっと……」

 永山哲也は、ジーンズの後ろのポケットから手帳を出したが、すぐに戻して、言った。

「そうか。AT理論が赤崎教授と殿所教授によって発表された年が、博士が二十五歳の時でしたよね。最先端科学の研究所の花形研究員と、ネット新聞の地方局で社会部雑用係。これって、差が有り過ぎるんじゃないですか」

 永山哲也は、目の前の男の華々しい経歴と自己とのギャップに辟易し、少し項垂れた。そのまま身を屈めた彼は、さっきの塵の一つを拾い、部屋の中央へ力を込めて投げる。

「まだ、第一の話は終わっていない」

 永山の様子を眺めていた田爪健三は、はっきりとした口調でそう言った。

 永山哲也が田爪に顔と意識を向けると、彼は険しい顔で話を続けた。

「誰かが、あの日を狙って核爆発を起こした。死傷者を出さずに施設を破壊するために。そうでなければ、あんなに偶然が重なること自体が不自然だろう。確率論的にも、あれだけの事実が偶然に重なることはゼロに近い。意図的に人が居ない時を狙ったもの、いや、そういう状況を作ったのかもしれんが、とにかく、あの実験施設への攻撃のみが犯人の目的だったと考えるのが自然だと思うがね。そして、そうだとすると、時空間移動関係の研究に対し、その研究内容そのものに対して、強い憎しみと阻止の目的を持っていた人物あるいは集団が犯人だということになる。ところが、ここのゲリラ共には、それらが無い」

 田爪健三は右に抱えた銃の先端で永山の後ろのドアを指し示しながら、首を左右に振った。そして、顔の前に左手の二本の短い指を立てる。

「第二に、政府はここのゲリラの仕業だと決め付けたが、何か明確な証拠でも在るのかね。君も私も例の金属板の存在は知っている、というか信じている。政府がその存在自体は公表したからね。しかし、君はその金属板そのものを見たことがあるかね?」

 永山哲也は首を横に振った。

「いいえ。確かに。政府は爆発後の緊急会見で一度だけ、金属板の存在と内容を口頭で発表しただけで、その後は、放射能汚染の可能性を理由に、現物が公表されたことは無いですね。今まで一度も。あ、この点はその当時、徹底的に調べました。なんせ、下働きでしたから。――あれ以降、公文書からも、その存在が消されていますね。不思議なことに」

 永山哲也は眉間に皺を寄せ、鋭い視線でそう語った。

 田爪健三は彼の表情を満足そうに観察しながら、何度も頷く。

「よろしい。よろしい。それでいい。だが、よく覚えておきたまえ。不思議なことをするのが『権力』というものなのだよ。この点は、次の第三の点に係わってくるがね」

 田爪健三は、今度も力強く三本の指を立てた。

 永山哲也は眉をひそめる。

 田爪健三は手を下ろすと、両手で銃を握り、膝の上に前屈みになって話を続けた。

「つまり、なぜ、地球の反対側まで来て、日本の軍隊は戦争をしているのか。これが第三のポイントだ。そして、この疑問は、日本と同じように協働部隊に派兵している全ての国に対しても成立する、実に平均化された疑問点なのだよ。それでは、その謎について検討してみよう。まず、敵とされている彼らは、ゲリラ軍の兵隊たちは、元はただの一般市民だった人間たちだ。大都市から逃げてきた難民や、人里離れた小さな村の住人だった人々が大半だ。確かに、あの爆発が起きた二〇二五年前後のゲリラたちは、熱帯雨林帯に潜む賊どもがその中心メンバーだった。政治的主張は口先だけの、ただの山賊だ。だが、その規模は多めに見積もっても、せいぜい今のゲリラ部隊の百分の一程度だったろう」

 田爪健三は永山の方に目線を送り、語り続けた。

「戦争により街が破壊され、村は孤立し、多くの人間が職を奪われた。財産も身分も、生きていくべき場所も失った。その彼らの多くは生きるため、家族を養うためにゲリラ軍に『就職』した。そして『仕事』として戦っている。そうだ。この戦争がゲリラ部隊を大きくしていったのだ。だから、戦争前から彼らが協働部隊と互角に戦えるほどの勢力だった訳ではない。それ以前のゲリラ軍は今の彼らとは全く違ったのだ。単なる山中の小集団に過ぎず、実力も財力も実に貧弱な組織だった。当然、技術力も無かったはずだ。実際、十年前の二〇二八年時点でさえ、ここの連中は戦闘用ロボの開発どころか、操作すらもできなかったのだぞ。もう戦争は始まっていたのに。話にならん。こんな奴らが核兵器を作れるか? 入手できるか? 使えるか? 現実的に、冷静に、客観的に考えてみなさい」

 田爪健三は体を起こし、椅子の背もたれに深く背中を押し当てて永山を見据えた。

「結論を言えば、つまり、こういうことだ。この戦争は、核テロ攻撃を行ったゲリラ軍を掃討することを大儀名分として引き起こされたものだが、その真実は、全くの言いがかりだったということなのだよ。あんな核テロ攻撃を当時のゲリラ連中ができたはずがない」

 田爪健三は強くそう主張した。

 永山哲也は驚いた顔をしない。彼は冷ややかに言った。

「だから、彼らに手を貸すのですか」

 古びたパイプ椅子の上の高級スーツの男は静かに目を閉じると、暫く黙っていた。

 やがて目を開けた彼は、険しい顔をして、逆に永山に対して質問してきた。

「君は私を論駁しに来たのかね。取材に来たのかね。それとも……」

 永山哲也は質問をやめなかった。

「博士は、この戦争の理由が何だとお考えなのですか」

 田爪健三は、また目を瞑ると、少し考えて、小さく溜め息を吐いた。

「まあ、いいだろう。もう少し話をしてあげよう。あの核テロ事件以降の、私と高橋諒一という男の人生について……」

 田爪健三がそう言っている途中から、錆びた鉄柵の向こうに置かれた長テーブルの上の機械たちが急に小刻みな音を発し始めた。ある機械は急速に上下を繰り返す折れ線グラフを画面に表示し、また、ある機械は針を猛烈な速度で左右に往復させながら、その下から細かな縞模様で真っ黒になった帯状の記録紙を吐き出している。永山の方から見て右端の機械から、強烈なアラーム音が発せられた。それと同時に、置かれている砂時計の横の機械の側面にいくつかのデジタル数字が赤く電光表示され、毎秒ごとに数を減らしていく。

 機械の振動でテーブルから砂時計が落ちそうになった。田爪健三はその砂時計を左手で掴むと、それを背広の左のポケットに押し込みながら、冷静に、それらの計測機器を見て回った。

 手際よく確認を終えた彼は、不恰好で奇妙な銃を両手で抱えたまま永山の方に駆けてくる。彼は永山を少し後ろに押して言った。

「ヤツが来るぞ。下がっていなさい」

 その後、田爪健三は銃を抱えたまま、広い円筒形の空間の奥の暗闇へと走っていった。



                  13

 雨は降り続いていた。そのパトカーは巡査をライトで照らしながら、ゆっくりと走ってきた。路上に倒れている白い自転車の前で停車し、エンジンを止める。ライトが消え、左右のドアが開き、中から制服姿の二名の警官が降りてきた。

 巡査はそのパトカーの近くまで走り、雨に打たれたまま背筋を正して二人に敬礼した。濡れ鼠の巡査は、雨粒に顔を打たれながらも、直立して敬礼を続ける。開いた助手席のドアを握ったまま口を開いて事故車両を見上げていた年配の警官に、彼は言った。

「ご苦労様です。先ほど自分が付近を巡回しておりましたところ……」

「ああ、待て。今、合羽を着るから」

 助手席側のドアを閉めた中年の男性警官はそう言って、今度は後部座席のドアを開け、車の中に屈んだ。

 運転席側から下りてきた若い警官はビニール傘を広げると、積み重なった事故車両を下から上に眺めながら、呟いた。

「ひでえな、こりゃ。このゴールデン・ウィーク中の事故の中じゃ、ワースト・ワン間違いなしじゃねえか……」

 その警官は、雨の中で直立している巡査に気づき、彼に言った。

「おい。その自転車を除けてくれ。本部には連絡したか」

 巡査は再び敬礼して、口の前に雨粒を散らしながら、答えた。

「いいえ。自分の無線機が故障中のようであります。申し訳ありません」

「チッ。ったくよお、何やってんだよ」

 若い警官は面倒くさそうに運転席の中に半身を入れて、無線機のマイクを握った。

「こちらコウキ三号。事故現場に現着……なんだ、まだ使えねえのか。どうなってんだ」

 その若い警官は、不快な雑音しか発しない無線機での通信を早々に諦めて、マイクを元の位置に戻した。そして車から上半身を抜いて出すと、ズボンのポケットから折り畳まれた携帯電話を取り出し、それを開きながら、傘を握った手で運転席のドアを閉めた。

 反対側で白い雨合羽を着終えた中年の警官がフードを被りながら愚痴を溢す。

「くそ。さっきまで晴れていたのにな。何で急に降ってきたんだ」

 ビニール傘を差している若い警官は、携帯電話をいじりながら言った。

「ほんと。今日は六件目ですよ。だからゴールデン・ウィークの警邏けいらは嫌なんです」

 中年の警官がパトカーの赤色灯越しに若い警官に尋ねた。

「無線は。まだ駄目か」

「ですね。ケータイも駄目です。圏外になってますわ」

 若い警官は携帯電話を折り畳むと、濃紺のズボンのポケットに仕舞った。

 中年の警官は周囲を見回して、溜め息を吐く。

「だから、もう少しゆっくり運転しろって言ったんだよ。こんな時に一番乗りしても、大変なだけだろうが」

「すみません。――応援が来るのを待ちますか」

「そうもいかねえだろ。現着一位が何もしていませんでしたじゃ、後で始末書を書く羽目になっちまう。ほら、いいから、早く合羽を着ろ。規制線だけでも張っとくぞ。トランクもさっさと開けろ」

「もう開けてます」

 若い警官は無愛想に答える。舌打ちした中年の警官はパトカーの後ろに回り、浮いたトランクのカバーを持ち上げた。

 自転車を近くの家の塀に立て掛けた巡査は、ずぶ濡れのままパトカーの後ろに走ってきて、トランクの中を覗き込んでいる中年の警官の横に立った。その中年警官は雨合羽越しでも分かるほどに強いオーデコロンの匂いを漂わせていた。巡査は鼻を啜ると、背筋を正して敬礼し、大きな声で言った。

「報告します。自分が第一で臨場しました。自分は……」

 その甘い匂いのする中年警官は左手でトランクのカバーを支えたまま巡査の方を向き、制帽の隙間から滴る雨水に細めている彼の目をにらみ付けながら言った。

「あ? 第一で臨場? 最初に到着したのは俺たちだろうが。ハコもんの下っ端アヒルが偉そうなことを言いやがって。向こうでニンジンでも振ってろ、コラ」

 彼は交番勤務の制服警官であるその巡査を侮辱した。彼の言う「ハコもの」とは交番勤務の警察官を指し、「アヒル」とは制服警官を指していた。

 中年の警官は、「ニンジン」と称した赤い棒状の誘導灯を押し付けるように巡査に渡すと、再びトランクの中を覗き込んだ。巡査は誘導棒を受け取り、黙っていた。濡れて体に張り付いた水色のワイシャツの袖口から雨水が滴り、強く握られた彼の拳を伝って下に落ちた。彼の横に、雨合羽を着終えた若い警官が現れた。その警官は目の前の巡査の肩に手を当てて彼を横に押し退けると、トランクの中で探し物をしている中年の警官に言った。

「いやあ、あれ、駄目ですね。救急車、どうします?」

 ずぶ濡れの巡査は、誘導棒を握り締めて歯を喰いしばりながら、その場を立ち去った。

 中年の警官はトランクの奥を探りながら答える。

「知らねえよ。無線も携帯も使えねえなら、救急車も呼べねえだろ。それに、生きていたとしても、どうしようもねえよ。俺たちは医者じゃねえからな。くそ、規制テープはどこにやった。新しいのを入れとけって言っただろうが」

 癇声を上げた中年警官の横に若い警官も仕方無さそうに並び、トランクの中を一緒に探し始めた。

 ずぶ濡れの巡査は手に握った誘導棒のライトを点けながら、無惨に積み重なった二台の車両の前を通り、T字路を左に進もうとした。すると彼は、その事故現場の目の前の家のガレージと隣の家との間の塀の角の所に、幼女が一人で立っているのに気づいた。その子は幼稚園児くらいの年齢で、水玉模様の薄い黄色のシャツの上から少し大きめのオーバーオールを穿いていて、自分の体の半分くらいの大きさの熊の縫いぐるみを胸の前で抱きしめていた。降りしきる雨の中、巡査と同じようにずぶ濡れのまま、そこに立って、積み重なった事故車両を見上げている。その子が胸に抱いていた熊の縫いぐるみは水を吸い、その子と同じように毛を体に貼り付けていた。その上を包んでいた彼女の華奢な腕は細かく震えている。

 巡査は誘導棒の電源を切って、その子の方に歩み寄ろうとした。その時、背後から香水臭い手が巡査の肩を押した。

「てめえ、何やってんだ。目撃者の聞き込みは、こっちの仕事だろうが。さっさと向こうの角で交通誘導を始めろよ。こっちに車が入って来ちまうだろ!」

 巡査は頭を下げると、黙って向こうの方に歩いていった。

 白い合羽を着た中年警官は少女の前にしゃがみ、笑顔を作ってその子に問いかけた。

「ん。お嬢ちゃん、どうしたのかな。風邪ひいちゃうよ」

 少女は黙ったまま動かなかった。

 合羽姿の中年警官は話しを続けた。

「お嬢ちゃん、もしかして、この事故を見てたのかな」

 少女は一度だけ、少しだけ首を縦に振った。

 警官は続けた。

「じゃあ、どっちの車が先に出てきたか、分かるかな。おじさんに教えてくれないかな」

 少女は口を利かなかった。ただ、胸元の縫いぐるみを強く抱きしめている。縫いぐるみから雨水が滴った。

 中年の警官は不機嫌そうに一度舌打ちすると、その子から縫いぐるみを取り上げ、それに氏名が書かれていないか調べた。何の記載もされてないことを確認した彼は、それを少女に返した。少女は反応せず、受け取らない。警官は縫いぐるみを塀の横に置き、もう一度、優しい口調でその少女に問いかけた。

「じゃあ、お嬢ちゃんのお家はどこかな」

 少女は事故車両を見つめたまま、その小さな指で事故現場の目の前の家を指した。

 合羽姿の警官は少女の指した方に一度だけ顔を向けると、再び少女に言った。

「ちょっと、パパかママを呼んできてもらえるかな。お巡りさんが、教えてもらいたいことがあるんだ」

「……」

「パパとママは何処かなあ。お出かけ中かな?」

 中年の警官がそう言うと、少女はゆっくりと手を上げた。震えているその小さな手の先の、短く小さな指は、真っ直ぐに、目の前の積み重なった事故車両を指していた。

「え……」

 中年の警官は言葉を失った。動揺した彼は、すぐに次の質問をした。

「えっと……あの、お嬢ちゃん、お名前は?」

 少女は事故車両を指差したまま答えず、動かなかった。

 その子の小さな指先から雨水が滴る。

 中年の警官は、もう一度尋ねた。

「お名前は何かな。お、な、ま、え。分かる?」

 少女は前を指差したまま黙っていた。

 合羽姿の警官は舌打ちをして立ち上がった。すると、彼のしかめた顔を強い光が照らした。警官は手で光を遮りながら光源をにらんだ。

「まったく、あの馬鹿が。こっちに車を入れるなって言ったのによ。何やってんだ」

 その光源の後ろから、また別の光が射した。その光が前の乗用車の輪郭を明瞭にする。

「あーあ。まったく、次から次へと……」

 合羽の警官は、ゆっくりと進んでくる車列の方に赤い誘導棒を振りながら歩いていった。

 少女は塊を指差したまま、雨に打たれて立ち尽くしていた。



                  14

「いったい、どうしたのです? 何が起こっているのですか」

 鳴り響く警報音の中、永山哲也は田爪の背中に向けて大声で尋ねた。

 田爪健三は全く反応することも無く、この円形の部屋の奥の壁の方に走っていく。

 突如として天井の照明の光度が上がった。永山哲也は瞼を下げて目を細める。さらに、クッション材の壁の前の床に印された黄色い大きなバツ印の辺りを幾つかのスポットライトが数方向から照らした。それにより、そこから遠く離れた場所に立っている永山哲也にも田爪の姿がはっきりと見えた。田爪健三は息を切らしながら、そのバツ印の近くに置かれた鉄製の台に向けて一直線に走っている。永山哲也は眩しさに耐えながら周囲を見回した。空気が流れていた。地下の閉鎖空間とはいえ相当の広さと高さがあるので、内部の空気が流動しているのは当然だが、それは明らかに自然な対流よりも強く、不自然だった。再び田爪に目を遣る。ようやく鉄製の台の階段まで辿り着いた田爪健三は、左手の高級腕時計を気にしているようだった。乱れる呼吸を必死に整えながら、階段を上っていく。

 部屋の中の空気の流れが更に激しくなった。風が無秩序に舞う。永山の足下の花弁の塵が巻き上げられた。永山哲也は顔を覆った腕越しに、それを目で追った。巻き上げられた塵は強い風の流れに乗り、一箇所に向かっていく。それは、この円形の部屋の中心ではなく、永山の横の鉄柵のずっと向こう側の、ある空間に向かって流れていた。その空間は揺らめいていて、時折、火花のようなものを発している。その真下には、床の上に印された赤色の三角形があった。

 永山哲也は強い風に飛ばされないように踏ん張りながら、再び田爪の方に目を向けた。田爪健三は、さっきまで永山に向けていた不恰好な銃を右の脇に抱え、左手の腕時計と、そびえ立つ時計台の文字盤を見比べながら、あの鉄製の台の上に立っていた。

「んん。んんん。さては、また割り込んだか!」

 田爪健三は愚痴っぽく言い放った。そして、肩からベルトを外し、その不恰好な銃の床尾を右肩に当てて、左手で銃身を支えて据銃した。黒い手袋の右手の指を引き金にかけて少し腰を落とし、構えた銃の先端を黄色いバツ印の辺りに向け、頭を銃身に添える。何かに照準を合わせているかのような体勢だった。彼は、ふと銃身から顔を離し、乱れた呼吸を抑えながら、大声で永山に叫んだ。

「永山君。その黄色い、線から、下がっていなさい。そして、目を閉じるんだ。最初の閃光は強烈だから、直視すると、確実に目を……」

 その時、赤い三角印の真上で、強烈な閃光が走った。雷鳴のような轟音と耳を突く高音が同時に響く。その瞬間、空間から突如として、弾丸の形をした巨大な物体が飛び出してきた。

 全長十メートルほどのその物体は、飛び出してすぐに、長く延びた「別の壁」の先端に側面を軽く接触させ、そのまま、その「別の壁」沿いに、壁との間に火花を散らしながら、猛烈な勢いで一直線に進んだ。高速で進むその物体は「別の壁」の三分の一ほどの地点で、底の面をコンクリートの床にも接触させると、不快な摩擦音と新たな火花を発しながら、さらに「別の壁」沿いに直進を続けた。そのまま「別の壁」の端まで来ると、先端をクッション材の右端にぶつけ、今度は、この部屋の壁の弧に沿う形で進行方向を左に変える。そのクッション材に右側面を押し当てながら、壁に沿ってカーブを描いて進み、徐々に減速した。白煙に包まれた物体は、丁度クッション材の左端の部分の所で穏やかに停止した。

 永山哲也は顔を覆っていた両腕の隙間からその物体を観察した。風に流れた煙の間から見えるその物体は、白く塗装されていた。進んできた方向を基に表現するならば、進行方向の部分、すなわち物体の前の部分は、細く丸みを帯びた円錐形になっている。物体の後ろの部分は直径五メートルほどで、全体が巨大な噴射ノズルの様になっていた。それは、まだ赤く輝きながらチリチリと音を立てていて、かなりの高温を保っているようだった。こちら側に見える物体の左の側面には日本国旗が印されており、その横にいくつかのアルファベットと数字、日付らしきものが記されている。その下の部分には縦長のハッチが取り付けてあった。それ以外に、その物体の表面には何も無い。窓も、翼も、ライトも。

 やがて、舞っていた白煙が飛散すると、その物体と床との接触部分が姿を現した。その物体の真下には、床に描かれた黄色いバツ印の端が見えていた。

 永山哲也は顔の前に持ち上げたままだった両腕をダラリと下ろし、言葉を漏らした。

「そんな馬鹿な。なぜ……」

 すると、その物体が少し揺れるような動きをした。中からゴソゴソとした音と、微かに人の声が聞こえる。しかし、遠くにいる永山には聞こえていない。円形の広い部屋の中には警報音が鳴り響いている。彼は台の上で据銃している田爪に大声で問いかけた。

「博士。いったい、どういうことですか。これは……」

「シッ」

 田爪健三は、今度は銃身から顔を離すことなく、音を発しただけだった。永山には届いていない。しかし、永山哲也は一瞬口を噤んだ。それは、矢倉の上の田爪健三が頭を銃身に添えて、銃の先に据えた「物体」をにらんだまま、焦点を「物体」の側面のハッチに合わせていることが、永山にもはっきりと分かったからだった。

 永山哲也は思わず呟いた。

「あなたは、一体何を……」

 永山哲也は、今、目の前で起きたことや、視線の先にある「物体」の正体に意識を運ぶよりも、今、田爪がしていることが気になって仕方なかった。田爪健三は、その物体の真横に位置することになった鉄製の台の上で大きめの不恰好な銃を構え、明らかにその銃口をその物体の左側面にあるハッチに向けている。永山の直感的な推測が正しければ、それはとんでもない事態だった。

 永山哲也は床の黄色い線を越えて踏み出すと、その「物体」に向かって一直線に走り始めた。その時、そのハッチが鈍いガスの噴射音と共に下に倒れて開いた。床に斜めに立て掛けられたその縦長のハッチの裏面には、細い階段が備え付けられていた。ハッチで閉じられていた部分には、厚手の装甲の奥に、人間一人がやっと通れるほどの幅で、大人であれば相当に屈まなければならない程度の高さの通り口が設けられていた。その奥から数人の声が、今度は、はっきりと聞こえた。

「よし。開いたぞ。ちょっと待ちなさい。音が鳴っている。うるさいなあ」

 鳴り響く警報音の中、全速力で走りながら、永山哲也は必死になって叫んだ。

「駄目だ! 出るな! 出てきちゃ駄目だ!」

 彼の声は警報音にかき消され、その「物体」の中には届かない。中からの声は続く。

「まったく、何なんだ、この音。到着用の施設があるなら、ちゃんと説明すればいいのになあ。ああ、狭いから順番に。ショウタロウ、お前から先に出なさい」

 その「物体」の側面に開いた通り口に視線を集中させながら走っていた永山哲也は、視界に飛び込んできたものに驚愕した。その狭い通り口の中から、黒のスーツの袖から出た大人の手で両脇の下を支えられた、ぶかぶかのダウンジャケットに包まれた幼い男の子が姿を現したのだ。

 永山哲也が声を上げる。

「出すな! 子供を中に入れろ! 危ないぞ!」

 両足をバタバタとさせてはしゃぐ幼い男の子は、大きな両手に挟まれて、その物体の装甲とハッチの繋ぎ目の部分に着地させられた。男の子は、その両手が離れたのをいいことに、一人でたどたどしく歩き始め、斜めのハッチの階段を一歩ずつ下りていく。

 その男の子がようやく階段の中程まで来たとき、一筋の光線が男の子の顔を緑色に照らした。その瞬間、若干の量の霧状の物体と共に、その子が履いていた小さなズボンと着ていたセーター、そして、その子を包んでいたダウンジャケットが宙に舞った。

 その男の子は消えた。

 

 永山哲也は脱力したように走る速度を落とした。そのまま、泣き出しそうな顔で立ち止まる。すると今度は、黒いスーツの男がその小さな通り口から這うようにして出てきた。永山哲也は台の上の田爪を見る。彼はハッチの方を狙っていた。ハッチの階段の二段目くらいの所に両手をついたスーツの男は、通り口から両足を引き抜き、手をはたきながら、その長身の体を真っ直ぐに立たせた。永山哲也はその場から叫んだ。

「逃げろ!」

 鳴り響く警報音に迷惑そうに耳を押さえながら、男は階段を更に二段ほど下り、落ちていた小さな靴の片方と子供用のダウンジャケットを拾い上げると、靴を持っている手で自分の腰を叩きながら言った。

「うーん。狭い、狭い。腰が……。こらっ、ショウタロウ。何処に行った。勝手に……」

 緑色の光線が、ワイシャツの襟から出ていた彼の長い首に照射された。その瞬間、その大きな黒いスーツの上着と長いズボン、それらに包まれる形でワイシャツと下着、そして子供用のダウンジャケットと小さな片方の靴が、さっきと同じように宙に舞い、今度はすべてハッチの下に落ちた。高級ブランド物の革靴が彼のソックスを飲み込んだまま階段を転がり落ちていく。

 円形の部屋の中心に近い位置で、永山哲也は呆然と立ち尽くした。するとまた、物体の中から、今度は甲高い声が騒々しく聞こえてきた。

「もう、狭いわね。ほら、リナちゃん、早くしなさい。機体からは直ぐに離れるよう説明を受けたでしょ。あなたあ。ちょっとお」

「ちょっと待ってよ、ママ。このヘルメット、髪が挟まっちゃうの。それに、この変なユルユルの靴下。だから嫌だって言ったのに。ホントにみんな履いてるの?」

 永山哲也は再び駆け出した。彼は喉が割れんばかりの大声で叫ぶ。

「外は危ない! 中に戻れ!」

「え、なに? 何の音なのよ、これ。ちょっと、あなたあ。バッグくらい持ってよ。こんなに狭いなんて聞いて……」

 金髪の派手な化粧の女性が、片方の手に有名ブランドのバッグを握り締め、もう片方の手に高いヒールの靴を吊り下げながら、四つん這いの姿勢で、その小さな出入り口からゴソゴソと姿を現した。毛皮のコートと共に腰から上をハッチの階段の上に投げ出すと、その毛皮の裾がハッチと機体の間に挟まったのに気付き、必死にそれを解こうとする。

 永山哲也は走りながら、「物体」の方に向かって叫んだ。

「体を戻せ! 中に隠れろ!」

「もう、誰よ。無茶言わないでよ、引っ掛かってるのよ。見れば分かるでしょ」

 女は着ていたコートの裾を力ずくで引き抜くと、階段の一段目にスカートから出た片方の足をついた。ヒールを提げた手で出入り口の一辺を掴み、髪を直しながら体を起こす。

「やめろ!」

 永山が大声で叫んだ。もちろん、彼は彼女に対して叫んだ訳ではなかったが、その金髪の女は階段の下に散乱した夫と息子の衣類に気付くことなく、永山の方に顔を向けた。そして、そのままの高さの視線で、少し辺りを見回しながら言った。

「なによ。この時代なら、もっとちゃんとした……」

 女の右側頭部に緑色の光が当たった。その瞬間に一瞬で彼女の肉体は霧状になり、着ていた毛皮のコートも、有名デザイナーが作った衣服も、その中の補正下着も、真珠のネックレスも、ダイヤの指輪も、ヒールの高い靴も、高級ブランドのバッグも、全てがハッチの階段の上を滑り落ちていった。それとほぼ同時に、その機体の中から最後の一人であろう若い女が、下を向きながら、しきりに髪をかき上げて這い出てきた。

「もう、うるさいなあ。ママあ。何で髪型まで昔に合わせないといけないわけ。この髪、パラパラして気持ち悪い」

 その「物体」に辿り着いた永山哲也はハッチに掴まり、その上の若い女に叫んだ。

「戻れ! 戻るんだ!」

 若い女はハッチの下の永山に気付き、四つん這いのまま短いスカートを素早く手で押さえて、声を上げた。

「きゃっ! 到着していきなり覗き? ママあ、だから短いスカートは嫌だって……」

 若い女が頭を上げると同時に、まだあどけない顔の中心を緑色の光が照らした。それと同時に彼女は消し飛び、彼女が着ていた制服のブレザーと短いチェックのスカートと下着だけが、着ていたそのままの形でするすると落下して、ハッチの階段の上に広がった。

 その「物体」の中で、宙に舞った白のルーズソックスが転がった革靴の近くにゆっくりと落ちた。

「そんな……。なんてことを……」

 全てを見ていた永山哲也は、力無く床に崩れ落ちる。

 鉄製の台の上の田爪健三は満足気な顔で頷きながら呟いていた。

「大丈夫。いつも通りだ。これでいい」

 田爪健三は、使用した光線銃の各部位を確認しながら、鉄製の台の階段を堂々と下りてきた。そして、その大きめの不恰好な銃のベルトに右の腕を通すと、それを重たそうに右肩に担ぎ、そのまま、壁際に置かれたカフェテーブルの所までゆっくりと歩いていく。

 警報音が鳴り止んだ。照明が暗くなり、スポットライトも消えた。

 その地下空間は再び薄闇と静寂に包まれた。



                  15

 降り続く雨の中、合羽を着た中年警官が必死に誘導棒を振っていた。彼は自分を照らす強い光を手で遮りながら、光源に向かって叫ぶ。

「おおい、止まれ。警察だ。止まれ。事故なんだよ。止まれって」

 一目で高級車であると分かる幅の広い大きな黒塗りの自動車が彼の前で停止し、ライトを消した。その高級車の後部座席のガラスは左右も後ろも全て黒くスモークが掛けられていて、運転席との間も黒いガラスで仕切られていた。

 白い雨合羽姿の警官は、その物々しい黒塗りの高級車を見て呟いた。

「こんな時にスジ者の車かよ。ツいてねえなあ……」

 合羽の警官は溜め息を漏らすと、その車の運転席の方に歩いて行き、サイドガラスを丁寧にノックした。運転席にはサングラスを掛けたスーツ姿の若い男が座っていた。彼がサイドガラスを下ろさないので、警官は大きな声で言った。

「すみません、戻ってUターンしてくれませんかね。ここは通れないんですよ。そのままバックしてもらえませんか」

 運転席の男は皮の手袋をした手でハンドルを握ったまま、事故車両を見つめている。

 中年の警官は少し強めにガラスを叩き、語気も強めた。

「おい、聞こえているのか。窓を開けなさい。君……」

 警官の横顔をまた光が照らした。その高級車の後ろに黒いバンが止まる。更にその後ろにも数台の黒いバンが一列に並んで走ってきて停止し、列を作った。

 警官はそれを見て嘆いた。

「ったく、次から次に。大渋滞じゃねえか。どうすんだよ」

 大きく溜め息を吐いたその中年警官は、振り返りながら呟いた。

「くそ、パトカーを動かすか。面倒く……」

 振り返った彼の視線の先の積み重なった事故車両の向こうに、バックで侵入してくる大型トラックの姿が見えた。慌てた警官は握っていた誘導棒を大きく振りながら、事故車両の方に走った。警官は立ち尽くしている幼女の横を走り過ぎていく。その中年警官が踏みつけた水溜りから雨水が飛び、幼女の顔を濡らした。それでも、その子は動かなかった。

「おおい、止まれ。駄目だ、駄目だ。ここは今、進入禁止だ。戻れ!」

 自分たちが乗ってきたパトカーの前を通りながら、そう叫んだ中年警官は、一瞬だけ右を向いてから、もう一度右を見た。もう一人の若い警官が合羽姿のままパトカーの運転席に座っていた。

 苛立ちを募らせた中年の警官は、今度はそちらの方に叫んだ。

「おい! おまえ何やってるんだ。規制テープをそっちに張っとけと言っただろうが!」

 パトカーの中の若い警官は無線機のマイクを握り締め、しきりに何かを通信している。

 中年の警官が左を向くと、さっきバックしてきたトラックは斜めに道を塞いで停止していた。それを見た中年警官は、また右を向き、肩を上げてパトカーの方に歩いていった。すると、道路の端に止めていたパトカーの横の反対車線を再び大きなトラックがバックで進んできて、パトカーの少し向こうで止まった。

「ちょっと、おい! 何やってんの! それじゃ、車線の逆走じゃないか。パトカーの近くで何をやってんだ。警察をナメてんのか!」

 左側車線の上をバックで進んできて停止した大型トラックの運転席に向かって、その中年警官が怒鳴っていると、今度は右側の車線を同じような大型トラックがバックで進んできて、パトカーの後ろに間隔を空けて停止した。

 中年警官はまた声を荒げた。

「それはそれで逆走だろうが! 何のつもりだ!」

 彼が、こちらに荷台の背面を向けたまま道を塞いで並ぶ二台の大型トラックの方に向かおうとすると、背後でパトカーのドアが開き、中から若い警官が顔だけを出した。

「無線が繋がりました。雑音ばかりで、よく聞き取れませんでしたけど、とにかく、半径五百メートルに綱を張れって」

 振り向いた中年の警官は、眉間に皺を寄せて、頭を傾けた。

「はあ? ご、五百? 正気かよ。ここから半径五百メートルを立ち入り規制しろっていうのか」

 若い警官は、座席に座ったまま答える。

「ええ。事故車両のユーゴウ(車両所有者照会)をかけたら、すぐに母屋(県警本部)から緊急無線が入ってきて、そうしろって。サツチョウ(警察庁)からの指令らしいです」

「サッチョウ? 東京からか」

 若い警官は頷いた。

 中年の警官は溜め息を吐いて舌打ちすると、困惑した顔で周囲を見回しながら呟いた。

「そんな無茶なことを急に言われてもなあ。だいたい、何でサッチョウが……」

 中年の警官が何かを言いかけた時、斜めに横の道を塞いでいたトラックの荷台のシャッターが上がり、その中から白い繋ぎの合羽や白衣の上から白いレインコートを羽織った人間が何人も出てきた。白い合羽の男たちは荷台から工具やビニールシートを手際よく次々と降ろしていく。白いレインコートの人間は雨の中、全員が緑色のサングラスのようなものを顔に掛けていて、手には銀色の分厚いアタッシュケースを提げていた。彼らが事故車両を取り囲むと、その中の一人がパトカーの方に向けて手で合図した。すると、背後から大きなエンジン音が響いた。中年の警官が振り向くと、パトカーの後ろで並んで道を塞いでいたトラックの、それぞれの荷台の後部扉が斜めに倒れていて、その上を中型の重機がゆっくりと降りてきていた。驚いた中年の警官は少し後退する。ドアが閉まる音が幾つも聞こえた。中年の警官がまた振り返えると、さっきの黒塗りの高級車の後ろに一列に並んでいる黒いバンから黒いスーツ姿に黒いネクタイと黒い手袋をして黒いサングラスを掛けた男たちが次々に降りてきていた。彼らは黒い傘を差して、周囲の家々に散っていった。

 中年の警官は、合羽のフードの上から頭を押さえて言った。

「なんだあ、こりゃあ。どうなってんだ」

 パトカーの中の若い警官が携帯電話をいじりながら、彼に言った。

「今、同期の奴に尋ねてみましたが、なんか、カクヒ(最上級極秘事項)みたいっすよ。この事故ったトラック、自衛隊への納入品を積んでいるみたいですね。あら、また電波が繋がらなくなった。さっきは通じたのになあ。まさか、壊れてないだろうなあ、チクショウ」

 若い警官は折り畳んだ携帯電話を丹念に覗き込んでから合羽のポケットに仕舞った。

 中年の警官が深刻な顔で尋ねる。

「カクヒって、おまえ。俺たち警官にとっては大事おおごとじゃねえか。どういうことなんだ」

 若い警官はパトカーから降りてきて、フードを被りながら首を横に振った。

「よく分かりません。母屋からの指示は、ただ立ち入り規制をしろってだけですから」

「ああ? なんだそりゃ。じゃあ、こいつらは何なんだよ。サッチョウの連中か?」

 しかめた顔で周囲を見回す中年の警官の横で、若い警官は両肩を上げた。

「さあ。この人たちの邪魔はするなと、上からのお達しです。たぶん、この事故車両の後ろを走っていた、運搬品の製造会社の連中じゃないですか。この大破したトラック、渋滞を避けて向こうの幹線道路からこっちに入ってきたみたいですから、他の車とはぐれたのかもしれませんね。だから慌てて駆けつけたんでしょ。運搬品を回収するために」

「運搬品を回収? 現場検証もしてねえのにか」

 若い警官はフードの頭を中年の警官の耳元に近づけて、小声で言った。

「現場検証は無理ですね。なんか、本部の方にもサッチョウから連絡が来ていて、刑事課も交通課も動きが取れないそうです。同期の話じゃ、どうも、運んでいた積荷が運搬中に誤作動したんじゃないかって」

 彼から頭を離した中年の警官は、怪訝な顔をして尋ねた。

「なに積んでたんだ」

 若い警官は一度、周りを見回してから、再び小声で答えた。

「だから、自衛隊への納入品だって言ったじゃないですか。しかも、極秘輸送品らしいですよ。たぶん、アレじゃないですか。ほら、あっち系の新聞に載っていたでしょ。ストンスロプ社が開発した例の新型戦闘機。CCSとかEボムを搭載しているとかいう」

「しーしーえす? いーぼむ? なんだそりゃ?」

「衛星通信妨害システムとか、電磁波爆弾ですよ。非致死性の戦略破壊兵器。通信妨害したり、電子機器だけを使えなくしたりする兵器です」

「……。ああ、なるほど。だから無線や携帯が使えねえのか。その兵器からの電磁波でやられたんだな。事故の原因も、それか……」

 そう言った中年の警官と共に事故車両を眺めながら、若い警官は細かく頷いた。

「でしょうね。こういうことになるから、野党の奴らがいろいろ言っていたんですよ。だから上も、表沙汰にはしたくないのかもしれませんね」

 中年の警官は再び舌打ちすると、肩を落として嘆いた。

「どおりで、わざわざサッチョウが出て来る訳だ。ったく、厄介なのに出くわしたなあ」

 若い警官は、また小声で進言した。

「とにかく、ここはこの人たちに任せて、俺たちは早いとこ向こうに移動した方が良くないですか? これ以上に関わると面倒そうだし」

「あ、ああ……そうだな……」

 頷いた中年の警官は、さっきの少女を探した。

 複数の作業員が往来する雑踏の中、彼女の前にはスーツ姿の初老の男が屈んでいた。少女の上に傘を差し、黒革の手袋をした反対の手で少女の濡れた髪を拭っている。

 嫌な金属音が鳴った。中年の警官が音の方に顔を向けると、事故車両の周囲でいくつもの火花が散っている。白い繋ぎの合羽を着た男たちが回転式のカッターで反り曲がったトラックのフレームを切断していた。

 中年の警官は少女の方に視線を戻した。スーツの初老の男が熊の縫いぐるみを少女に手渡していた。彼はそのまま彼女を抱き上げて黒塗りの高級車へと向かった。車の横では、さっきの運転手が黒い手袋をした手で後部座席のドアを開けて待っている。

 初老の男が少女を車の中に入れると、中から白く細い腕が彼女を抱き寄せた。

「どうします?」

 若い警官に再度尋ねられて、中年の警官は視線の向きを変えた。事故車両の周囲には既に鉄パイプの支柱が何本も立てられ、その間にビニールシートを張り巡らして、目隠しがされ始めていた。それを見つめたまま、中年の警官は半ば呆然とした顔で答えた。

「そうだな……。とりあえず、そこの大通りの車を止めるか」

「でも、これじゃあ、パトカーを動かせませんけど」

 若い警官に言われ、中年の警官は苛立ったように声を荒げた。

「分かってるよ。見りゃ分かるだろ。こいつらのせいで、どの道も塞がれちまってるじゃねえか。歩いて行くしかねえだろうが、歩いて!」

 彼はパトカーの後ろのトラックの間を、ブツブツと愚痴を溢しながら歩いていった。

「畜生、五百メートルかよ。かったりい……」

 若い警官もそう吐いてから、彼の後についていく。

 金属を切断する音は鳴り響いた。

 白い合羽を着た人間が動き回る事故現場を、冷たい雨が容赦なく叩いていた。



                  16

 カフェテーブルの前まで歩いてきた田爪健三は、テーブルの上のティーカップを覗き込んだ。カップの中に少しだけ中身が残っているのを確認すると、そのカップを手に取り、ゆっくりと啜ってから、横の小さな椅子に腰を下ろす。ソーサーの上にカップを戻した後、彼は上着の左のポケットから砂時計を取り出した。それをテーブルの中心に静かに置き、そのまま、ガラスの中で流れ落ちる砂粒を眺め続ける。暫らくして、田爪健三は深く溜め息を吐いた。右肩に担いだ銃を降ろし、今度はそれを左手に持ち替えて、右手で銃身を支えた。その銃口を「物体」の横で床に両手をついている永山の方に向けて、彼は言う。

「さて、どうするかね。このままインタビューを続けるかね。それとも、この無駄なインタビューはここで終わりにして、君も彼らと同じように塵と化すかね。その様子では、どうもこれ以上、私の話を聞く気力は残っていないように見えるが……」

 散乱している衣類や靴、バッグの前で、永山哲也は床についた両手の間に頭を垂れたまま、右手のレコーダーを、それが割れんばかりに強く握り締めた。レコーダーの裏面の角には、彼の娘が「お守りに」と貼ってくれたキャラクターのシールが光っている。永山哲也には家族がいた。妻と娘がいた。彼はここで消失する訳にはいかなかった。

 永山哲也は顔を上げる。そして激しく田爪をにらみ付けた。彼が田爪に向けた目は恨みと憎悪に満ちていた。

 田爪健三は永山のその視線を受け付けず、片笑みながら言った。

「いいね、その調子だ。それでこそ記者だ。すばらしい。実はね、君には聞いてもらわねばならんのだよ。私の話をね。だから早く立ちたまえ。立つんだ。立て!」

 田爪健三は強く言った。それでも、永山哲也はそのまま田爪をにらみ続けた。

 田爪健三は遠くの永山に手招きしながら、今度は穏やかな口調で言う。

「とにかく、こちらへ来たまえ。そこは寒いはずだ。機体の表面温度が暫らく低下し続けるからね」

 確かにその通りだった。彼が今はっきりと「機体」と称したその物体は、後方のノズルのような部分はチリチリと音を立てながら薄く赤光と煙を吐いて灼熱を下げる様を表しているのに、側面の外壁の表面には氷の膜が張り始めていた。空気中の水分が温度差で気化し、周囲に白い薄もやを漂わせている。上の方から斜めに倒れているハッチにも氷が張っていた。そこで冷やされた空気が冷風となって下りてくる。床に散らばっている被害者たちの衣類を白い靄が隠していった。

 田爪健三は小さく笑ってから、言った。

「地下とは言え、ここは暑いからね。クーラーの代わりになって丁度いいだろう」

 永山哲也は拳を握り締めたまま歯を喰いしばり、ゆっくりと立ち上がった。それを見た田爪健三は片頬を上げる。彼は永山を指差した。

「しかし、君は足が速いね。驚いたよ。結構な距離なのに、あっという間だ。若いと言うのは羨ましいねえ」

 永山哲也は返事をしなかった。ただ黙って田爪をにらんだまま、ゆっくりと彼の方に歩いてくる。

 田爪健三は砂時計に視線を向けた。そして、砂を落としきったその砂時計の上下を返すと、こちらに歩いてくる永山に視線を戻し、そのまま話し続けた。

「ま、とにかく。その機体が何であるかは、もう察しがついているはずだ。だが、問題は『何であるか』ではなく、『どうしてか』だ。それについては後ほど話そう。この銃の威力も分かっただろう。光線銃だからね。何かを飛ばすわけではない。光を当てればいいのだよ。だから、滅多なことでは外さない。君も変な動きはしない方がいいよ。さっきの連中のように、霧状になって消えたくなければね」

 田爪健三は銃の先端で永山を指した。

 永山哲也は田爪の少し前まで歩いてくると、そこで立ち止まった。彼は怒りに頬を震わせ、拳を握り締め、唇に力を入れながら、田爪に問い質した。

「何故、あんな惨いことを。しかも、あんな幼子や若者まで……」

 田爪健三は片眉を上げて逆に問い返す。

「大人や老人なら、消しても問題なかったかね」

 永山哲也は声を荒げた。

「あの人たちが、いったい何をしたと言うのです! どうしてあんな目に……」

「それを、話そうと言っているのだよ」

 田爪健三は永山の目をにらみながら、語気を強めた。

 永山哲也はにらみ返す。

 田爪健三は大きく息を吐くと、短く舌打ちして、永山に指を向けた。

「どうやら君も分かっていないようだね。それでは何も考えずにSF小説を読んだりSF映画を見ている連中と同じではないか。『誰が』『どうやって』、そのようなことばかりに目を向けている。君は記者なのだろう。物書きだ。そんなことじゃ、いかん。実にいかん。『なぜ』に目を向けねば。なぜ私がこのような行為をしたのか、それをちゃんと理解できなければ」

「どう理解しろと言うのですか」

「ここまでの話で分からんかね。なら、この先の私の話も聞くべきだ。この時点で分からんということは、君も奴らのような『消されるべき人間』と同じ資質を秘めているということかもしれんからな。それを確かめたいのだよ。君がどこまで私の話を理解できる人間であるかを。大切なのは、理解だ」

 田爪健三はテーブルに右肘を載せ、黒い手袋をした右手で支えた銃身の先を永山に向けたまま、静かに続けた。

「とにかく、順を追って話そう。その方が、話が混乱しないからね。さっきはどこまで話したかな。ああ、核テロ爆発まで話したのだったな。そうだ、そうだ。そうだった」

 そのまま、田爪健三は永山と視線を合わすこと無く、再び淡々と語り始めた。

「あの核テロ爆発の後だ。政府は正式に時空間移動実験を国家事業として運営することを閣議決定した。表向きは危険な実験を政府が安全に管理するとのことだったが、実際にはタイムトラベル事業に絡む莫大な価額の利権をにらんだ独占の下準備というところだったのだろう。タイムトラベルが実現すれば、その渡航費用は相当に高額だろうし、その全額が国に入ってくれば、長年の財政赤字も一気に解消する。国内経済も潤う。そして、実際にそうなった」

 永山哲也には理解できなかった。田爪健三が何故こうも淡白に話を続けられるのか。ついさっき、彼は四人の人間を消し去ったばかりなのに。永山哲也には、田爪の目が機械のレンズのように冷たく無機質に感じられた。永山の背中に汗が浮く。

 田爪健三は右手を銃身から離すと、左手の人差し指は引き金に掛けたまま、銃の先端を下げ、その重い光線銃を床に立て掛けた。そして、黒い手袋をした右手で頭の白髪を後ろに流して整えながら深く息を吐き、再びゆっくりとした口調で話し始めた。

「少し話が飛んだかな。どうやら時間が無くなってきたようなので、どうも気が焦っていかん。――とにかく、知っての通り、二〇二六年には、政府により『国家時間空間転送実験計画管理事業』が正式に立ち上げられ、時空間の移動実験は完全に国家の管理下で行われることが法律で規定された。そして、私と高橋君は政府の上級公務員として、その管理局の主任研究員という待遇で招聘しょうへいされたのだ。ああ、他にも政府内から官僚が一人、この管理事業を立案した津田という男が入っていたな。津田つだ……下の名前は忘れたがね」

 永山哲也は黙っていた。

 田爪健三は肩を上げて、おどけた様な素振りで永山に尋ねる。

「誰だったかな。あの顎の割れた男。プライドだけが高く、頭の悪い……ええと、津田、津田、津田……」

 田爪のわざとらしさに永山哲也は少し苛立ちながらも、仕方なさそうに口を開いた。

幹雄みきおです。津田幹雄。彼は今、司時空庁しじくうちょうの長官です」

「しじくうちょう?」

 田爪健三は聞き返した。

 永山哲也はじっと田爪の目を見ていた。

 田爪健三は軽く首を傾げると、永山に言った。

「十年も戦地にいると、限定された情報しか入ってこないのでね。どうも日本の内政事情が分からん。ちょっと君、詳しく説明してくれないか。その何とか庁について」

 永山哲也は怪訝な顔をした。そして、少し間を置いてから、やはり田爪とは目を合わせずに、説明を始めた。

「あなたと高橋博士がいなくなってから、管理事業組織は再編され、正式に『司時空庁』という独立した官庁としてタイムトラベルを一手に管理することになりました。二〇二九年のことです。現在まで、毎月一回実施されているタイムマシンの発射事業は、そこが執り行っています。タイムトラベルに関する研究をしている学者や研究成果の管理も。そして、そのタイムトラベル事業による収益成果により、今では国家財政を好きに動かせるほどに強大な権力を掌握する機関となりました。庁内にはSTS(Space Time Security)という実力部隊もあり、陰では情報収集のための諜報部門も持っているという話も……」

「分かった。もういい」

 田爪健三は広げた右手を上げると、その黒革の手袋の手で永山を指差す。

「そこのトップが彼なのかね」

「初代長官は与党系の代議士が形だけ務め、その後すぐに時吉教授にポストを譲ることになりました。時吉総一郎が体調不良により長官職を辞すると……まあ、表向きはそういうことになっていますが、実際は金銭スキャンダルが原因です。彼が長官職を退くと、その空いたポストに就いたのが津田幹雄。辛島からしま政権下で現在二期目を務めています。近々、任期満了が迫っていますが、次の長官はよほどの功績が無い限り、そう長くはないものと目されている一方で、津田幹雄は次期政権での閣僚入りが確実だと噂されています」

 田爪健三は険しい顔で頷いた。

「そうかね。たしか管理局時代は、彼も我々と同じ上級職だったかな。ただし、彼の管理局での当時の仕事は、我々を『管理する』ことだったがね。科学の発展に功績を残したとは言えん男だな。しかも、入局当初の彼は私と同じパラレルワールド否定論者だったのだよ。ところが、時の情勢を見て肯定論者に鞍替えした。日和見的な男だと思っていたが、そうか、閣僚入りが噂されるようにまでなったかね」

 田爪健三は右手の肘から先をテーブルの上に乗せていたが、中指でテーブルの板を叩くと、演説調で、こう続けた。

「そう。この本質的でありながら無意味な議論が、その後も局内に深刻な勢力対立を生んでしまった。私と高橋君の時間論的パラレルワールドに関する学術論争が激化すればするほど、否定派に属するか、肯定派に属するかは、津田のような官僚はもちろん、そこの一般局員たちにとっても将来をかけた死活問題となっていった。彼らにとっては結局、田爪派か高橋派かという、将来の出世のための派閥問題でしかなかったのだよ。実にくだらん。そんな殺伐とした状況に、彼は、高橋君は終止符を打とうとしたのだ」

 永山哲也は田爪の顔を見て、少しだけ右手のレコーダーを彼の方に向けた。

 田爪健三も永山の方に顔を向け、少し声のボリュームを上げる。

「二〇二七年。彼はついにタイムマシンを完成させ、処女航海にこぎつけた。しかも、そのパイロットに自ら名乗り出たのだ。彼が言うには、こうだった。もし、パラレルワールドが存在するという自分の説が正しければ、今この現在に自分が現われることはなく、タイムマシンが到達した時点から別の未来へと進んで行くので、我々とは二度と会うことは無いだろう。しかし、万一、自分が間違っていたならば、この世界のどこかに、『過去』に戻った自分が存在しているはずであり、その時は、ここへ堂々と現われよう」

 永山哲也はゆっくりと田爪に言った。

「そして、高橋博士は旅立っていった。一年前の二〇二六年に向けて。いわゆる『第一実験』ですね」

 田爪健三は首を縦に振る。

「そうだ。彼は勇敢だった。妻を捨て、子を捨て、地位を捨てて、彼は行った。自分の師匠のため、学問のために彼は行った。いや、家族を捨てた訳ではない。家族と自分と学説の名誉のために行ったのだ。真実を解明し、人々に未来を作るために。そして、私は思い出した。彼が骨の髄まで学者であったことを」

 田爪健三は呆れ顔で片笑んだ後、悲しげに一息吐いてから続けた。

「一方、私には、同じことはできなかった。当時私には妻がいた。瑠香がいた。だから、高橋君のような選択はできなかったのだよ」

 永山哲也は田爪の目を見て言った。

「だが、結局あなたも、翌二〇二八年にタイムマシンに乗ることになる」

 田爪健三は苦笑いをすると、今度は少し間を空けてから頷いた。

「そうだ。高橋君が『過去』へと旅立った後、政府は関係機関の総力を投じて彼を探した。もし彼が二〇二六年に無事に到着し、かつ、私の否定論が正しければ、彼はこの一年間、この世界のどこかに存在していたはずであり、最悪、不慮の事故などで死んでいたとしても、生きていた痕跡が何か在るはずだから。私としては、二〇二一年の仮想空間での実験で、パラレルワールドは存在しないという確信を得ていたし、高橋君は正直で誠実な人間だと思い込んでいたので、彼は戻ってくるという自信があった。だから、彼の出発日から数日経過しても平然としていた。彼のことだから、出発前の自分に偶然出会ってしまう危険を避けるために、あえて遠方に身を潜めているのだろう。だから到着に時間が掛かっているのだ。政府の人間がありとあらゆる方面に捜索網を敷いているのだから、きっとそのうち見つかるに違いない。その時には彼の間違いを責めることなく、彼の勇気と苦労と功績を称え、シャンパンの一本でも共に開けようってね」

 永山哲也は静かに言う。

「ところが、一年たっても高橋博士は現われなかった」

 一度目を瞑った田爪健三は、その目を見開いて、興奮気味に答えた。

「現われないどころではない。政府が血眼になって探しても、髪の毛一本の痕跡も見つからないのだ。彼が出発した瞬間の全データと、その後、数十回行われた質量再測定、それから保存法則など諸々を精査しても、それどころか、精密に調べれば調べるほど、時空間の移動に彼が成功していることは明らかだった。問題は『その後どうなったか』なのだ」

 田爪健三は、右手でネクタイを緩めながら続けた。

「私は焦った。私の否定説が間違っており、彼は今、『別の現在』で生きているのではないか。だとすれば、いくら待っても彼が我々の前に現われるはずがない。彼は違う時間軸上にいるのだから。いや、待て。彼の作ったマシンは時空間移動にのみ対応したシンプルな設計で、安全上の対策は全くと言っていいほど施されていなかったではないか。だから時空間移動した直後に何らかの要因で大破したに違いない。そして、電子基盤の接触障害や何らかの工学的トラブルが重なれば、そこから再度、別の時代に飛ばされてしまうことは、あり得る。かなりの偶発的事情が天文学的数字を分母とする確立で重ならければ、そのような稀有な事態は起こり得ないはずだが……。いいや、私は科学者だ。いかに稀有であろうとも、完全に否定できる証拠が無い限り、理論上考え得るものを排除する訳にはいかない。それが科学者の良心なのだ。そうだ、そうに違いない。きっとそうなのだ。彼はどこか別の時代にいて、いつの日か、この現在の世界で、何らかの古文書の記載に彼の存在を示す内容が見つかるかもしれない。いや、見つかるはずだ!」

「あなたという人は……」

 永山哲也は冷たい視線を田爪に送った。

 田爪が今言っていることは、先ほど彼が二〇二五年の核テロ爆発について述べた論旨とは真逆だった。ご都合主義の何物でもない田爪の論理に、永山哲也は大きな不快と違和を感じていた。そして、精一杯の軽蔑の意を彼に示したつもりだった。ところが、それは田爪には全く届いていなかった。

 田爪健三は、眉間に皺を寄せる永山を鼻で笑って、話し続けた。

「私はこのように信じ続け、そうあって欲しいとさえ祈り続けたよ。しかし、現実は残酷だった。時が経つにつれて、高橋説が正しかったに違いないという噂が局員たちの間で広がっていった。そのうち、局員たちの私を見る目は冷ややかなものとなった。そう、今の君のような目だ。そして、ついには視線すら合わせなくなった。噂は管理局の外にも広がり、他人は私を、いい加減な学説を唱えて同僚を死なせた男だと罵り、陰口も叩くようになった。私は彼を恨んだ。高橋君を恨んだ。奴がやりたかったことは、こういうことだったのだ。実験が成功すれば、私はこのように扱われる。もし、実験に失敗して、私の言うとおり、この世界に奴が戻ってきていたとしても、奴がそのまま何処かに潜伏して姿を現さなければ、やはり私はその状況に陥れられるのだ。はめられた。私は高橋の奴に完全にはめられた。私がここを追われた後、奴は悠然と姿を現すに違いない。畜生。畜生……」

 田爪健三は、握り締めた右手でテーブルの上を強く叩いた。永山哲也は眉をひそめて、その様子を見ている。

 深く息を吐いた田爪健三は、少し静かになると、また語り始めた。

「そして審判の日はやってきた。二〇二八年二月。上層部から私に、作成中のタイムマシンの最終テストをするようにと命令が出た。内容は、二〇二七年の第一実験の日に、その場所に行けというものだった。それで一応、テストパイロットの募集はしたが、誰も応募はしてこなかった。中には私の方から頭を床にこすりつけて懇願した相手もいたが、けんもほろろに断られたよ。当然だ。第一実験は全局員をあげての壮大なセレモニーの後で、局員全員が見守る中で実施されたが、誰もそこに、私が二〇二八年からやって来るのを見た者はいないのだから」

 遠くを見つめて短く空笑いをした田爪健三は、右手の親指で自分の胸元を突きながら、続けた。

「結局、私自身が乗り込むことになった。実験日は三月末日まで延ばしてもらった。君の想像のとおり、マシンの調整や整備、データの管理まで、すべてを私一人でしなければならない状況になっていたからだ。だから、必要最低限の安全対策と脱出装置を組み込むことしかできなかった。もう少し時間があれば、機体の強度設計を根本から見直すことができたのだが、それだけは悔いが残っているよ。ただ、一つだけ運が良かったのは、AT理論を応用したクァンタム・ガン、つまり『量子銃』の試作品が、某国の兵器製造会社から私と亡高橋君のもとに送られてきていたことだ。外国の企業だから、こちらの内部事情は分かっていないようで、当時、AT理論の権威として名を轟かせていた私と高橋君が所属する管理局に、試作品の量子銃をチェックしてほしいと送ってきていたのだよ。そして、それを密かにタイムマシンに積み込むことができた。そう、ほら、この銃さ」

 田爪健三は、横に立てていた不恰好な銃を持ち上げて見せた。

 永山哲也は目の前で四人の命を奪ったその光線銃を誇らしげに見せる田爪を蔑視した。

 田爪健三は膝の上に置いた「量子銃」を眺め回しながら、言った。

「多少いじってはあるが、こいつがオリジナルでね。あの時に私がタイムマシンに積んで持ってきたものだ。そして、今、上でゲリラ軍の兵士たちが使用しているのが、これのコピー。まあ、レプリカみたいなものだ。簡易版だよ。ただし、私が改良し、設計したのだから、威力と性能は抜群だ。上から響いてくる音で分かるだろう」

 永山哲也は眉をひそめたまま、冷たく言った。

「それで、何があったのですか」

「ふむ」

 田爪健三は、自分の成果に永山が何の反応も示さないのが不満だったのか、口を引き垂れた。だが、そこで立ち止まらない。彼は説明を続けた。

「ついに、その日はやってきた。二〇二八年三月三十一日金曜日。午前十一時二十七分。そう、『第二実験』の日時だ。私は、自分が信じた理論理解に基づいて設計したマシンに乗り込み、その内部から発射ボタンを押すことになった。行けるはずも無い二〇二七年に向かって。まさに自分の死刑執行ボタンを自分で押すようなものだ。そして、私は自ら設計し製造したタイムマシンと、この命を使って、『自分の理論が間違っていたこと』をこれから証明するのだ。ナンセンスだろ。私は震える手でスタートボタンを押した。ああ、一つだけ、妻の瑠香に別れの挨拶ができなかったことだけが悔やまれたが、あんな不様な姿を見せずに済んだだけでも良かったのかもしれない。今となっては、心底そう思うよ」

「それで」

 永山哲也は冷たく突き放す。

 田爪健三はその冷たさを意に介さずに、それ以上に冷たい目をしたまま、話を続けた。彼は、指輪をした左手を広げて言う。

「真っ白さ。ただ真っ白な世界。痛みも苦しみも無い、完全な無の世界を、ほんの一瞬だけ感じることができた」

 田爪健三は急に、左手の太く短い人差し指を精一杯に伸ばして、天井に向けて真っ直ぐに立てると、クルリと素早く回して振り下ろし、そのまま足下の床を指差した。こう言いながら。

「そして、気がついたら、ヒュッ、ドボン。ここさ。今、私と君がいる、ここ。当時はあの天井から二百メートルくらい下の所まで貯水されていてね。つまり水深百メートルだ。焦ったよ。焦ったが、助かった。事前に搭載していた安全装置のおかげで、機体が水圧で大破してもパイロットは脱出カプセルに包まれた。私の計算どおり。当然、カプセルの気密設計も完璧だったから溺れずにも済んだ。ああ、当然、誰かに撃ち殺されることもね」

 田爪健三はニヤリとして量子銃を構えて見せた。

 永山哲也はそれを無視して、本論を尋ねる。

「それは、どういうことなのです。過去に行ったはずのあなたが、何故ここに。何が起きたのです? あなたの身に」

 田爪健三は、立てた左手の人差し指を左右に振りながら、舌を鳴らした。彼は片笑みながら言う。

「違う。違うよ。前半の鋭さはどうしたのだね、永山君」

 そして、深く長い溜め息を吐くと、顔を上げ、笑みを浮かべながら、こう説明した。

「単純な話さ。失敗したんだよ。いや、正確な言い方をすれば、間違えていたのだ。私も高橋君も。自然界の法則は正に神のみぞ知るってやつだな。結局のところ、私も高橋君も、ずっと間違いの上に間違いを重ね続けていたのだ。いや、もしかしたら、AT理論そのものが間違えていたのかもしれない。あるいは、いや、実はその可能性が大きいが、私たちの理解が間違えていたのかもしれない。まだ私も確信を持てていないのだが、この十年の中で幾度も繰り返した再計算によれば、どうやら、基本的な計算の当てはめにミスがあったようだ。私はそう推測している。だから、タイムマシンの設計そのものにも問題があった。いや、欠陥だらけだった。その結果として、私も高橋君も時間の壁を乗り越えることができなかったのだよ。私たちは単に空間移動をしたに過ぎない。しかも地球の反対側の地下三百メートルの場所にね」

 田爪健三は両手を広げ、舞台から観客に呼びかけるように演じた。

「はーい、お客さまあ。時計の針はそのままでございまーす。方位磁石と地図帳のみご用意くださーい。今は今。二〇三八年七月二十二日でございまーす。――永山君、これが真相さ」

 田爪健三は片笑みながら、永山を鋭くにらみ付けた。



                  17

 ビルの中の廊下で、白い戦闘服と白い甲冑・兜で武装した兵士たちが、光沢のある上質生地の黒い背広を着た男とブランド物の薄茶色のスーツを着た女を囲んでいた。

 背広姿の男は割れた顎を上に向けて、誇らしげに言う。

「ここからは男の仕事だ。ははは」

 スーツ姿の女は、胸の前で手を組み合わせて言った。

「勇ましい。素敵ですわ」

 女に笑みを見せた男は、勢いよく振り返ると、胸を張って歩き始めた。

「よし、行くぞ。残りの一人がどこかに潜んでいる。警戒を怠るな」

 姿勢よく速足で廊下の先へと歩いて行く割れた顎の男を、女は見送った。

 男は割れた顎を上げ、遠くを見据えたまま、無機質な壁に挟まれた長い廊下の中央を速足で進んでいく。その後方の壁際を、男の進行先に機関銃の銃口を向けて構えた兵士たちが腰を落として小刻みなリズムの足音を立てながら進んだ。

 一行が曲がり角にさしかかると、後方から兵士の一人が先頭の背広の男に声を掛けた。割れた顎の男は立ち止まり、振り返る。その兵士が駆け寄ってきて、男の前に出た。彼は男に言った。

「角の先に国防兵がいます。私から先に。誤射されるといけませんので」

 割れた顎の男は頷いた。その兵士は壁沿いを進み、角の手前で壁に背をつけて立ち止まった。そこから曲がり角の先の兵士に向けて大声で叫ぶ。

「第五小隊ユニット・イレブン、曲がるぞ。こちらは司時空庁STS第七分隊。味方だ」

「了解、STS。ゆっくり出ろ」

 兵士は慎重に角から身を出すと、その先に合図を送り、続いて背広の男に手招きした。

「どうぞ。大丈夫です」

 男は再び速足で歩き始め、その角を曲がった。廊下の先には迷彩柄の戦闘服の上に深緑色の鎧を装着した兵士たちがカービン銃を構えて立っていた。男は割れた顎を突き出してその兵士たちの間を通り過ぎる。その後に続く白い戦闘服の兵士たちは、緑の戦闘服の兵士たちに軽く敬礼しながら通っていった。

「くそ。なんでこんな大袈裟なことになったんだ。相手は、たかが記者連中だけだったはずじゃないか。どうして国防軍まで……」

 割れた顎の男が歯軋りしながらそう言うと、横を歩く白い戦闘服の兵士が答えた。

「コードレッドの発令後は実戦態勢ですので、相応の対応にはなろうかと」

「そんなことを言っているんじゃない。把握している記者たちの他に、誰が我々の実験を邪魔しようとしているのかと言っているんだ!」

「現在、索敵を実施中で……」

「もういい!」

 男は苛立ちを露にした。彼は横を歩く兵士に向けて、立てた人差し指を振りながら言う。

「とにかく、彼女の護送はしっかり頼むぞ。何としても安全に移動させるんだ」

「はっ」

 敬礼した兵士に男は念を押した。

「だが、気をつけろ。この事態は、あの女の仕業かもしれん。おまえらの何倍も頭の切れる女だ。何かを企んでいる可能性もある。背中にも用心するんだ。いいな」

「了解しました」

 その兵士はそう返事をしたが、後ろの兵士たちは皆が不満そうな顔をしていた。

 その後、彼らはそのビルの玄関ロビーに出てきた。ガラスの自動ドアの外には、黒塗りの高級リムジンが停車している。

 STSの兵士の一人が白い兜に左手を添えて、周囲の仲間たちと通信した。

「長官が乗車する。周囲を固めろ」

 リムジンの周りに立っていた白い戦闘服の兵士たちが、ロビーから出て来る男に背を向けて機関銃を構え、警戒態勢をとる。男は兵士たちの背中の間を進んだ。

 ドアが開けられたリムジンに男が乗り込むと、兵士の一人がドアを閉めた。男を乗せたリムジンは白い戦闘服の兵士たちを乗せた戦闘用車両に続いて走り出し、その後に同じく白い戦闘服の兵士たちを乗せた戦闘用車両が続いた。車列は高速でアスファルトの上を走っていく。

 男は割れた顎を車窓に向け、外の景色を眺めた。滑走路の上で幾つもの炎の塊が黒い煙を立てている。その周囲には緑色の戦闘服を着た国防軍の兵士たちが展開し、据銃して警戒体勢をとっていた。

 男はドアに肘をつき、爪を噛んで言った。

「アイツめ、いったい何を企んでいる。何が目的だ。なぜ拒否しなかった。本当は何を証明しようとしているんだ!」

 男は革張りのシートを拳で強く叩いた。そのまま宙を見上げ、ネクタイの上に留めた親指ほどの大きさの機械に慌てて手を伸ばし、スイッチを押した。彼の左目が白く光る。

 彼はネクタイの上のイヴフォンから脳内に送られる信号を頼りに相手と通話した。

「ああ、これは、これは。大臣。どうしました。予算修正は上手くいったと……」

 男の顔が急に曇った。

「はい? どういうことですか?」

 眉間に皺を寄せた彼は、怪訝な顔をして言う。

「確かに、本日、実験を実施する予定ですが。いったい、どこからその情報を……」

 高級リムジンと前後の戦闘用車両は、先端から海上に長いレールを伸ばす巨大な大砲のような形の建造物の横を通り過ぎ、岸辺に建つ大きく高いビルに向かって走っていった。



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