第20話 アールグレイに愛を溶かして

 修学旅行から帰ってきて、またいつもの日常が始まる。

 あれから、まだ咲奈の元には薔薇の招待状は来ない。

 

 谷崎さんは忘れてしまったのかしら。

 そう思い始めた頃、それは咲奈の元へと届けられた。


 「三島さん、これ。落ちていたわよ。」

 「え・・・?」


 振り返ると、千が微笑みながら立っていた。そして “落ちていたもの” を咲奈に手渡した。


 薔薇の招待状。


 ついにすべてが終わる。


 「ありがとう・・・谷崎さん・・・それ、私の大切なものだったのよ・・・。」

 「そう、よかった・・・ちゃんと貴女に渡せて。」


 大切な招待状。

 最後の招待状。


 最後の真夜中の秘密のお茶会が始まる。


 深夜24時。

 薔薇の温室。


 「お招きありがとう・・・谷崎さん。」

 「どうぞ、三島さん。」


 咲奈はゆっくり歩きながら天井を見上げた。

 満天の星空。今日はあの日のように月の光が差し込んでいる。


 咲奈は席に着くと、千はいつものようにポットから紅茶を注ぐ。


 「いい香りでしょう? アールグレイ。私、大好きなの。特別な日しか淹れないの。」

 「特別な日・・・。」


 千は、紅茶を淹れ終わると自分も席に着いた。

 そしてクッキーをどうぞと言うのだ。


 もう、千はそのクッキーは投げるなどしない。咲奈は地面に這いつくばって食べることもない。

 どれほど辛かったか。悔しかったか。悲しかったか。


 でも、それが今へと繋がっていると思うと奇妙なことこの上ない。

 あれほど歪んだお茶会は・・・二人の歪んだ想いを育て合ったお茶会はもうない。

 今となっては・・・大切な時間・・・いや、違う。


 「私、最初・・・このお茶会が辛かった。大好きな谷崎さんに酷いことをされて、でもやっぱり谷崎さんを見たくて。二つの想いが合わさって歪んだ感情になっていくの。色々分からなくなって・・・ただ、谷崎さんを見ていたいことだけはわかっていて。」

 「・・・・・・。」

 「今は・・・変わったわ・・・この時間が怖い。」

 「怖い・・・? いつ終わるか分からないから?」

 「それはもう昔の感情。今は・・・谷崎さんが私といることが怖い。」


 何を言い出すのだと言わんばかりに千は咲奈を見つめた。

 それに対して咲奈は珍しく千から目線を逸らして下を向きながら話すのだ。


 「私といると谷崎さんは駄目になってしまう。谷崎さんが・・・輝きを失ってしまう。それなのに、私は谷崎さんとここでお茶会を続けたいと思ってしまう。怖い。私は間接的に谷崎さんを貶めている。だから、私も早く終わらせたい。」

 「・・・三島さんは言っていたわよね。私が輝かなくても見ているって。結局あれは嘘で、貴女も素敵な谷崎千が好きだったの?」


 咲奈は目に涙をためてようやく千を見つめた。

 だが、その時見た千の顔はどうだったか。咲奈よりもずっと辛く悲しそうな顔をしている。


 「違う・・・私は谷崎さんが好き。だから、谷崎さんの想いを優先したい。私のわがままで谷崎さんを私と同じ目に合わせたくない。好きだから。好きだから。好きだから。今は不思議とそう思うようになった。」

 「三島さん・・・?」

 「谷崎さんはみんなを見て。私だけが谷崎さんを見ているから。谷崎さんは私なんてもう見ないで。好きだから。私は谷崎さんが好きだから。誰よりも好きだから。」


 咲奈はゆっくりと立ち上がると、千に歩み寄る。そして千の頬に触れた。

 今までは咲奈の方が千の一挙一動に身体を震わせていたのに、咲奈が千に触れると彼女は肩をびくりと震わす。それどころか、手も唇も震えている。

 その震えを止めてあげるかのように咲奈は千に口付けた。

 

 震えを止めるかのように・・・だが、千の震えは止まらないし咲奈までも震えてくる。


 怖い。この時間が怖い。

 

 きっと、それは二人とも。


 千の頬に添えている手の震えがようやく止まったところで咲奈は唇を離した。


 「誰にも見てもらえなかった私を・・・見てくれてありがとう。だから・・・谷崎さん、お願い・・・これから私をもう二度と見ないで。」


 咲奈は力なく自分の椅子へと戻ろうとした。が、その時、千に腕を掴まれた。


 「怖い、私は失脚するのが怖い。みんなに見られなくなるのが怖い。三島さんを認めれば、私は貴女と立場が逆転するに決まっている。私は失脚してしまうくらい弱くなる。怖い。みんなに見られなくなるのが怖い。」

 「わかっているわ。だから、もう・・・。」


 咲奈がそう言いかけると、千は掴んだ腕を思い切り引き寄せて今度は自らが咲奈に口付けるのだ。

 先ほどの咲奈のものとは違い、深い、熱い。これはいつだったか千がしてくれたものに似ている。


 アールグレイの香りってこんなに良い香りだったのかしら。

 クッキーの味なんてもう忘れてしまったけれど、甘かったのかしら。

 あの時、谷崎さんに頭からかけられた紅茶ってこんなに熱いものだったかしら。

 わからない。

 どうだったのかしら。


 ・・・いつもこうだ。

 一番大切な時に咲奈はどうでもいいことをぽつりぽつりと思い出すのだ。

 多分、頭が追い付かないほど幸せな時だから。

 今されていることも千のことも、客観的に見ることができない。そのことだけを考えるなんてできない。

 大切な時ほど、いつもこうだ。何もかもの考えが止まる。ただ、どうでもいいことだけが思い浮かぶ。


 今までの私ってこの時間、何をしていたのかしら。

 これからの私ってこの時間、何をするのかしら。


 またどうでもいいことを考え始めた頃、千は唇を離して咲奈を思いきり抱き締めた。


 「谷崎さん・・・?」

 「私、怖い。失脚するより怖い。このお茶会がなくなるのが怖い。みんなに見られなくなるより三島さんにいつか見られなくなってしまうのが怖い。大切な人を見ることができなるのが怖い。そんなことしたらすべてが終わってしまう。本当に大切な人に見られなくなってしまったら私はこの世界からいなくなってしまう。本当に大切な人を見ることができなくなってしまったら、私がこの世界にいる意味がない。」

 

 千は咲奈を揺さぶりながら訴える。初めて見る千の表情。初めて見る千の涙。


 「三島さん、私を見て。お願い、私を見て。ずっと見て。お願い、三島さんを見つめさせて。ずっと見つめさせて。嫌よ、もう大切な人がいなくなってしまうのは嫌よ。すべてが終わってしまう。」

 「谷崎さんは私をこれからも見てくれるの? 私は谷崎さんを見てもいいの・・・?」


 咲奈の言葉に千ははっとして我に返える。冷静になってようやく自分の取り乱しように気づき、情けなくなってしまった。

 それを誤魔化すかのように、千は咲奈から手を離すと 「座って。」 と、席へ帰した。

 咲奈も言いたいことはたくさんあるし、聞きたいこともたくさんある。


 でも、席に着けばお茶会は始まるのだからそんなことは聞くことはできない。


 落ち着きを取り戻した千は角砂糖のポットに手を伸ばした。が、また手が震えだして蓋を閉めたのだ。


 「ない・・・角砂糖もない・・・もう全部私が使ってなくなってしまったのね。角砂糖がないと・・・紅茶が飲めない。甘くないと・・・私は紅茶なんて飲めないのよ。そんな主催者のお茶会なんて誰も来ない・・・。」


 咲奈は座れと言われたが、また席を立って千の元へと歩み寄った。

 そして、千の紅茶の入ったカップに手を浸した。

 

 「何をしているの・・・三島さん。もう飲むなってこと?」

 「角砂糖の代わりに私の想いを溶かすから。」

 「それって、甘いの・・・?」

 「わからないけど・・・谷崎さんが・・・。」


 咲奈の言葉を聞き終える前に千は彼女の手を取って舐めた。


 「私だけじゃわからない。三島さんも飲んで。」


 千はそう言うと、咲奈のカップを引き寄せて今度は自分の手を浸す。

 そして、浸した自分の手を咲奈に差し出すのだ。


 「三島さん、私の想いが溶けたら・・・どうなるの。」


 カップにぽとりぽとりと雫を落としながら千は手を差し出す。

 咲奈は躊躇うこともせず、それを舐めあげた。

 二人はお互い差し出された手を舐め合いながら紅茶を味わう。


 深夜24時。

 薔薇の温室で。

 

 二人は紅茶を飲むのだ。

 お互いの手に伝い落ちる紅茶。


 「きっと・・・甘いわ・・・谷崎さん。」

 「よかった・・・これで、私ずっとここで飲めるのね。」


 二人の真夜中の秘密のお茶会。

 アールグレイに二人の愛を溶かして。


 それは、多分きっと甘い。

 ずっと甘い。


 第一部  完

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