第31話 罪は我らを鎖で結ぶ
「王の印章が必要だ」
逃亡計画を固めていく中で、サタハはそうファラに言った。
「印章を押した
ここ
「……それは王の寝室にあるのね?」
「恐らくな」
ファラはすぐにその在り処を察した。サタハが自分にこの話をする理由が他に考えられなかったからだ。
「王の使う印章は
押された印の形さえ分かれば
「しかし、見つかればそこで全部終わりだからな、姫様」
「……問題ないわ。あの男は私を組み敷くことに夢中だから、たぶんきっと気づかない――」
微かな笑みとともにそう言ったファラのこの直感は言葉とは裏腹に完全なる確信であり、そしてそれは正解であった。
少女の抵抗を暴力で屈服させることに夢中だったトゥパク・ユパンキは、少女の気絶を嘘と見抜けずに眠りについた。この隙を見逃さず、彼の脱いだ衣服の中から
「……まったく、だいそれたことをいとも簡単に」
「必要と言ったのはあなたでしょう」
渡された赤黒い血の印影を見てそうこぼしたサタハに、ファラは肌に刻まれた痛々しい傷痕をルントゥに手当てさせながら事もなげに言った。
「見つかれば逆さ吊りで血抜きの刑の上、一族郎党も皆殺しの重罪なのだが……。まあいい、これで
「打つ手は?」
「
こうしてサタハは
――罪は重ねど
誰が我らを罰しよう
愛は
罪は鎖で我らを結ぶ――
ファラが小さく口ずさんだこの詩が合図であるかのように、サタハはファラから離れて前を歩く厩までの案内の兵士――アトコの背後へと距離を詰めていった。
「しかし、パリャさんも大変でしょう。お子さん二人が
「……ええ、ですが大切な子供たちですので」
「入り用があれば便宜を図りましょう。遠慮せず申し付けて下さい。私も兵役を終えれば家に子供が待つ身であるので」
アトコは親切気にパリャ――と名乗っているチェスカに話しかけている。
「子供とは人生の果報です。この身の労苦も我が子のためと思えば支えとなるものです。私も親の身として、あなたの今の苦労が報われるよう、できる限りの手助けをしたいと思います」
「……ありがとうございます」
胸を叩いてそう快活に話すアトコに打算の臭いは微塵も感じられなかった。ファラは、彼は善人なのだと思った。彼の態度と言葉が親身で正直なものであることは、今まで数々の男を相手にしてきたファラの経験で培われた直感からも確かなものであると感じられた。彼は善き父であり、善意を人に分け与えられる善き人なのだろう。
だがそれも、ファラの選んだ道に転がる石ころのひとつに過ぎなかった。
「さあ、厩はここです。中に
厩舎に着き、アトコが振り返ろうとしたときだった。
「――!?」
突然に後ろから口を塞がれたアトコは、なにが起きたのか理解する間もなく、その喉笛を刃物で切り裂かれていた。
「あ」
地面に倒れるアトコが最後に見たのは、驚きに目を見開く
「中に運ぶ。手伝え」
アトコを殺したサタハが、死体の両脇に腕を通しながら短くチェスカに言う。彼女は青ざめた顔をしていたが、すぐにうなずくと死んだアトコの足を持ち、手早く死体を厩舎の中へと片付けた。
「死んだのですか……?」
地面に黒ずみのように残る血痕を見ながら呟くラパラの耳に、吐息とともにファラの言葉が吹きかけられる。
「だから私たちは生きられる」
甘くも冷たくもないその言葉の色に、ラパラは慄然として固まる。その背中を慰めるようにファラの手が優しく触れた。
「生きましょう。それだけが私の望み――」
「……血が」
けれどラパラはその手から離れてしゃがみ込み、地面に黒々と染みた血の痕に手を置いて祈るように目を瞑り、そして歌った。
――
死者を悼み、悲しみを慰めるその歌は、かつてムガマ・オ・トウリだった頃のラパラが、ファラのために歌った歌だった。
ファラの瞳が微かに揺れた。彼女の手がラパラの背中へと伸びて――しかし躊躇うようにその指先が途中で止まる。その背中は
「
その腕は指先から蔦が絡まるように彼の身体を抱き包み、その息は熱を心へ届かせるように彼の耳元で囁かれた。
「
彼の身体がこの腕からすり抜けてしまわぬように、自分の想いが彼の心に染み渡るように、ファラは強く熱く彼を抱き、請い願うようにその言葉を繰り返しに注ぎ続けた。
ファラのすべては彼であった。それがために彼のすべてを、彼女は全身をもって抱き締め続けなければならなかった。
「……悲しみは
そんな彼女の手にそっと触れた彼の手は、少しひやりと肌に伝わり、
「あなたの悲しみも私が掬う。だから怖がらないで――」
徐々に彼女の熱と混じり合って、優しくその手を包みこんだ。
「
振り向いた彼の顔は慈しみに溢れ、まなざしは抱き縋るファラを
「次の手筈だ。ファラ、荷物から毒と油を――」
アトコの死体を片付けて厩舎から出てきたサタハが、二人の姿を見て足を止めた。それに気づいたファラが唇をラパラから離す。舌から引いた唾の糸が切れるだけの間を置いて、ファラはサタハへ顔を向けた。
「大丈夫。やれるわ」
その瞳は、行く手に立つもののすべてを苛烈に焼き尽くして輝き燃える炎のような光を宿していた。
それは美しい光だった。
けれど、一度燃え尽きたものは二度と燃えることはない。
それは彼女のすべてが燃えている光だった。
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