第24話 望み

 簾越しに窓から射し込む夕日が、床に赤と黒の格子模様を投げ掛けている。

 斎殿ウィルカ・ファシの自室の寝台の上で、トウリは膝を抱えてその影格子に目を落としていた。

 夜が来る。

 その存在が色濃くなればなるほど、トウリは耐えるように膝を強く抱きしめる。夜は静かに冷えていき、影格子の輪郭を溶かして、闇にすべてを沈めていく。刻一刻と近づく夜とともに高まる意識は、あの満月の夜に肌を越えて侵された、少女の身体の熱さだった。

 膝が震える。忍び寄る夜気の寒さのせいではない。それは怯えが生んだ震えであった。


あなたを愛していますカンパ・ムナイ


 あの夜、そう耳元で囁いた少女の声は、彼が手を差し伸べたいと思った、痛みを抱えながら幸せに怯えるように身を引こうとする、儚げなあの少女の声ではもうなかった。それは触れ得た幸せを離すまいと、全身をもって彼を求める女の声であった。

 トウリは怯えた。恵みを与えるものムガマ・オ・トウリとして、その身を万民のためにルアオ・イ・オムに捧げることこそが、彼の使命であり運命であり、疑うことなき存在の意義であった。そして神託は下り、次の新月ヤナ・キリャ雨雲の祭りルアオ・ライミの時へと至る。それは彼がずっと待ち望んでいた喜びの時であった。それなのに、人々のために無垢なる心をもってルアオ・イ・オムに捧げられるべき心身が、一人の少女に穢されている。甘く爛れた官能がトウリの脳裏を鮮烈に焼き、肉体は悦楽の虜となって少女の白い肌に組み敷かれる。それは背徳であった。トウリは抱える膝に刻まれた刺青を見る。ムガマ・オ・トウリとしての証である刺青。全身に施されたこの刺青を見る度に、彼は自身の罪を見る。その罪悪感がトウリの身体を震えさせる。

 彼女はその罪を見抜くように、残酷にトウリを犯した。数を重ねれば重ねるほどに、その罪が自身の存在となってトウリに深く刻まれていくのを喜ぶように、彼女は何度も何度もトウリを犯した。

 それは肉の鎖だった。抗えば抗うほどに肌に食い込んでいく鎖のように、彼女の白い手足はトウリの身体に絡み付き、彼の心を背徳で縛るのだ。

 トウリは傷付いた。罪の意識が重い鈍痛となって心を締め付け、理性は彼女を拒絶すべきだと何度も告げていた。

 しかしであった。同時にトウリは、たとえそれが肉の鎖であったとしても、その繋がりが断たれることを恐れる感情が、自分の中に潜んでいることに気付いていた。

 彼女は――ファラーレは、いつも翠緑苑コメ・ムヤの草木の陰でトウリの訪れを待っていた。そして彼が姿を現すと、その黒い瞳は咲き開く紫弁しべんの花にも似た輝きを浮かべ、その白い指は優しい音色の二弦琴リュリュトを奏でるように彼の背中を抱き、その紅い唇は芳花の招きに誘われた迷い蜂に褒寵ほうちょうの蜜を与えるように彼の唇と口づけを交わすのだ。

 その瞳が、その指が、その唇が縛ろうとする官能の鎖の中に、トウリは自分を求める彼女の、身を焼くような悲しみに満ちた切願を感じていた。

 それは鎖であっても、崖から垂れ下がった命綱のような鎖であった。トウリという崖上の杭に、運命のすべてを委ねてぶら下がる少女の鎖であった。そしてその鎖は決して太いものではなく、いつ千切れて落ちてしまってもおかしくない、弱くか細い鎖であった。そこから伝わる少女の重さが、トウリの心に深く鎖を喰い込ませ、彼を夜の底へと招くのだ。


「私は――」


 しかし、彼女の姿はもう翠緑苑コメ・ムヤにはない。王が帰還されたからだ。王は毎夜、彼女を召しているという。


「――どうしたいのだろうか」


 もう鎖は切れてしまったのかもしれない。王が神託を受けて宮殿に帰還され、自分も彼女も、元々の役目に戻った。彼女は王の妾妃コヤとして生き、自分はムガマ・オ・トウリとして、この身をこの地の安寧のためにルアオ・イ・オムに捧げるのである。それだけのことであるとトウリは自分に何度も言い聞かせた。

 けれどもトウリの感情は鎖に引かれるように、彼女の姿を翠緑苑コメ・ムヤの夜の底に求めている。

 顔を上げると窓に夕射しは絶え、部屋に染み渡る影の色が夜の訪れを教えていた。

 そのとき戸を叩く音がした。


「トウリ様」


 ハッと顔を上げる。閉じた戸のむこうから聞こえたのはチェスカの声だった。トウリは心を落ち着かせるように、深呼吸をしてから答えた。


「どうしましたか?」

「お少し、お話ししたいことがございます。お部屋に入れていただいても構いませんでしょうか?」


 そう言われて怪訝に思いながらもトウリは燭台に火を灯し、戸を開いてチェスカを招き入れる。


「ありがとうございます」

「お話とは何でしょう、チェスカ」


 深々と礼をするチェスカに、トウリは椅子を差し出しながら訊ねる。


「トウリ様の将来についてのお話です」


 差し出された椅子を手で制し、チェスカは真剣なまなざしでトウリの顔を見て言った。


「将来?」

「そうです。トウリ様は、何をお望みですか?」

「望み……?」


 質問の真意がわからず戸惑うトウリに、チェスカが重ねて問う。


「トウリ様が、将来に望むことです」

「それは、この太陽の地インティ・パチャの恵みと安寧のため、ルアオ・イ・オムにこの身を捧げ――」


 ムガマ・オ・トウリの将来は、その身をルアオ・イ・オムに捧げること。そのために生まれ、そのために生きてきたムガマ・オ・トウリとしての望みは、それ以外にはありえなかった。

 しかしチェスカは首を横に振り、その答えを遮った。


「それ以外の望みです」

「それ以外?」

「そうです。例えば――」


 そこでチェスカは一度目を伏せて、その凛とまっすぐ横に引かれた眉にかすかな曇りを浮かべた。しかし、すぐにそれを払うように再びトウリの顔を見て言った。


「ムガマ・オ・トウリとしてではない将来があったとしたら」


 チェスカの言葉にトウリの目が見開かれる。


「それは――」


 どういう意味であるのか。ムガマ・オ・トウリではない将来。想像の外にあったその存在が、重い棍棒でも叩きつけられるような衝撃とともに眼前に現れた。

 考えたことなどなかった。それは考える意味も必要もないことだったからだ。ムガマ・オ・トウリに与えられた運命とその意味はあまりにも重要で自明なものであり、それ以外の将来が自身に存在するということなど、想像することもできなかった。

 気付けば足は一歩、二歩と後ずさり、トウリは背後にあった寝台にぶつかって、その上に腰を落とした。そこに追い迫るようにチェスカの足が進む。


「そのような将来があれば、トウリ様は何をお望みになられますか?」

「どうしてそのようなことを?」


 トウリがチェスカを見上げる。燭台の灯りを背にしたチェスカの表情は、深い影に隠れていた。だが、その瞳だけは凛然と光り、何かの答えを求めるようにじっとトウリを見つめる。


「知りたいからです」


 チェスカが言う。


「それを知れば、私の為すべきことも定まります」


 トウリは動揺に視線をさまよわせた。ムガマ・オ・トウリではない将来。唐突に現れたその道の先は、あまりにも広く果てしない空白で、トウリはその想像の茫漠の前に立ちすくんでしまう。


「私は――」


 惑うトウリの前でチェスカは膝を折り、その手を取って優しい瞳で答えを待つ。


「トウリ様のお望みになるままに――」


 触れた手から伝わる人の温もり。その感触が広い空白の先に一点の像を浮かばせる。


「もし……、もし私がムガマ・オ・トウリでなかったならば……」


 自分が何を望んだか。自分が何に苦しんでいるのか。あの満月の夜に差し伸べた手は何を掴もうとし、そして何を掴んだのか。

 暗く冷たい夜の中に、自分の手を縋るように掴む白い少女の手があった。それは手を放してしまえば、目覚めのまどろみの中で夜とともに消えてしまう、浅く儚い夢のようなか細い手であった。それがどれほど残酷で悲しい夢であったとしても、その夢が消えてしまったとき自分は涙を流すだろう。

 それを知ったトウリは、自然とその言葉を口にした。


「彼女を……ファラーレを救いたい――」


 それを聞いたチェスカは、幼子が立ち上がる姿を見守る母親のような微笑みを浮かべ、力強くうなずいた。


「心得ました」


 そしてトウリの手を引いて立ち上がった。


「では、トウリ様。ファラーレ様にお会いしましょう。場所はいつものように翠緑苑コメ・ムヤの池のほとりです」


 チェスカの言葉にトウリが目を丸くする。


「どうしてチェスカがそんな……、それに何故そのことを――」

「いつでもトウリ様を見守りしておりましたゆえ」


 にこやかに微笑むチェスカに、トウリは自分の顔が羞恥で赤くなるのを感じた。そんなトウリの表情を愛おしむようにチェスカは彼の頬に手を触れる。


「とてもよいお顔ですよ、トウリ様。……いえ、ムガマ・オ・トウリでないならば、お呼びするお名前も変えなければなりませんね。トウリ様がムガマ・オ・トウリになられる前の、古いお名前がございます」


 チェスカがトウリの目線まで顔を下げる。その言動に理解が追い付かないトウリは、その目を窺うように覗いて問う。


「チェスカ、あなたは……?」

「あなたの幸せを願うものです」


 そう答えるチェスカの微笑みが、トウリには恵みを与えるものムガマ・オ・トウリとして人々に与えるよう教えられた、隔てなき愛のように感じられた。


「トウリ様の本当のお名前は――」


 チェスカがその名を告げる。

 こうして彼は、ムガマ・オ・トウリでない自分に出会った。

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