第6話 太陽と蛇

 その日はいつもよりも早い時間に侍女がファラを起こしに来た。怪訝に思う間もなく、侍女は彼女の着替えを行い始める。

 彩り鮮やかなコルナ。金を象眼した管玉の環飾り。金糸の縫い取りがされた紫紺染めの飾り帯。次々とファラの全身を飾り立てていく。さらに侍女はファラの髪を櫛で掻き上げ、璧玉へきぎょくかんざしで結い止める。並べられた小壺や化粧皿からさまざまな薬液が取り出され、肌を塗り、眉を描き、朱が唇に差される。

 いつもよりも入念な化粧がされているとファラは感じた。


なにかあるのイマリャクァ?」


 習いたてのムルカ語で侍女に訊ねるが、彼女はファラと口を聞かぬよう言いつけられてでもいるのか、首を振るだけで何も答えてはくれなかった。

 着替えと化粧が終わると、侍女は跪いてムルカ語で何事か聞き慣れない言葉を言った。そして立ち上がると、普段と変わらない「こちらですキャマン」の言葉とともにファラについて来るように促した。

 宮殿の回廊を進む。ファラは今まで立ち入ることのなかった宮殿の一角へと連れて行かれる。


(どこへ行くのかしら――?)


 彼女は荘厳宮ハトゥ・ル・スラと呼ばれる、この広大な宮殿の一部しか知らない。誰も教えてくれはしなかったし、彼女自身も誰にも訊こうとはしなかったからだ。教えられないことは知る必要のないこと。彼女は今の自分が住む場所にほとんど興味を持たなかった。


(どんな場所に行こうとも、果たすことは同じこと――)


 連れられた先に何があろうとも、ファラは与えられた役割を果たすだけである。それが親に三グルテンで売られてからの彼女の処世であった。だから行く先にそびえる、朱金のいらかに彩られた大屋根を数層にも重ねた豪壮な建物も、彼女の目には馬小屋で相手をさせられた男に渡された、手汗の熱のじっとりとこもった銀貨と同じくらいにくすんだものに見えるのだった。

 この朱金の大屋根の建物へとつながる道に、サタハの姿があった。


「よう。今日は一段とおめかししてかわいいな」

「なにをすればいいの?」


 笑うサタハを横目にファラが訊く。すげない反応に彼は肩をすくめて答える。


「大カパック様が太陽の神殿インティ・カンチャへと巡礼にお立ちになられる。そのお見送りさ」

「インティ・カンチャ?」

「神の住まいさ」


 そこで会話を切り、サタハはファラの背を押して建物の中へといざなった。なにか儀式のようなものがあるらしい。よく見ればサタハの服装も裾袖を朱で飾っただけの白い長衣であり、普段より清廉な印象のものになっている。

 薄暗い建物の中は、大きな柱が左右に幾本も並ぶ柱廊となっていた。その柱を見上げながら、ファラはサタハの後ろについていく。

 豪華な柱であった。右の柱を見る。上の方に金縁に朱を差した三重の円が描かれ、そこにむかい下方から銀縁に緑を差した蔓草の模様が伸びている。太陽にむかって枝葉を伸ばす草木のようにファラには見えた。そしてその蔓草の先端に太陽を背にして金色で描かれた人が立ち、蔓草模様の下に描かれた平伏する人々の群れを見下ろしている。

 左の柱には別の模様が描かれていた。こちらは上方に雲のような渦をまとった大きな蒼緑の蛇が描かれている。しかし普通の蛇ではない。黒い大きな羽を生やし、さらにその顔は人間のものであった。この蛇の顔は下をむき、その先には小さな人の姿があった。子供のように小さく描かれたその人は、周りを囲むたくさんの人々に持ち上げられ、捧げられるようにして蛇へと大きく手を広げている。

 この太陽と蛇の柱が左右に並び、進むごとにひとつの物語を紡いでいるようだった。


「気になるか?」


 ファラが柱を上から下へと見ながら歩く様子にサタハが振り向く。そう言われてファラは、自分が思った以上にこの絵に興味を抱いていることに気づいた。いや、絵にではない。そこに描かれた二人の人の姿に。


(太陽の絵の人も、蛇の絵の人も、どこか……)


 人々を見下ろす人と、人々に捧げられる人。多くの人に囲まれていながら、彼らはなぜか独りに見えた。

 自分と同じように。

 もの思いに無言のファラへ、サタハが呟くように言った。


「これがこの国の姿なのさ」


 どこか自嘲気に言われたその言葉に疑問を返す間もなく柱廊を抜けて、屋内の暗がりがまぶしい陽射しに反転する。

 そしてファラの眼下にその光景が広がった。

 整然と立ち並ぶ数千はいると思える白い服の人々。ファラの出てきた柱廊から二階ほど下がった回廊に囲まれた広場に、彼らはサタハと同じ裾袖を朱で飾った白い長衣を纏って列をなしていた。列の中央には一本の道があり、その中心に大きく豪奢な輿こしが置かれている。金銀の縫い箔をちりばめた長い白木の丸太で組まれた輿には黄金の梁が高く渡され、そこから先ほど柱廊で見た三重の赤い輪と蔓草模様の描かれた三彩織りの鮮やかな飾り布がかけられている。

 少しの声もない人々は微動だにせず、地面に置かれた輿とともに、誰かの訪れを待っていた。


「こっちだ」


 人々の顔がむいている方へとサタハが進む。一際に高い大屋根の下へとむかう。


「この列の一番後ろに加われ」


 連れられた先には、多くの女性がひしめいていた。金銀錦の衣装に着飾った女性たちが集まり、侍女たちの誘導で四つの列を作っていた。


「これは?」

「大カパック様の妃妾コヤの列だ。おまえはその末席になる」


 その言葉に反応するように、後ろに従っていたファラ付きの侍女が彼女を先導した。


「静かにしていろよ。おまえは悪目立ちするからな」


 冗談とも警句ともつかない口調でサタハはそう言い残すと、この場から立ち去った。その背中を見送りながら、ファラは侍女に指し示された最後列に立つ。


貴女が噂のカン・ウェイルヤリ・白い娘ですかユラクゥシュシュ・ラ?」


 ムルカ語でかけられた声に振りむくと、多くの侍女を従えた、他より一段と豪華な衣装を身に纏った美しい女性がいた。

 朱金の錦糸で袖裾をあしらった浅黄染めのコルナ、十数の小粒の碧玉エメラルドを飾った首飾り、耳環に下がる金鎖には紅玉ルビーが揺れ、頭上には華燭の煌めきのように見事な金細工の冠が輝いている。彼女は、まぶたから目尻にすっと引かれた青い顔料に縁取られた目に凛とした涼しさを湛え、ファラを見下ろしていた。

 ファラの後ろにいた侍女が膝をついて頭を下げる。ファラは一拍遅れてそれに続いた。そして覚えたてのムルカ語から、問い掛けられた言葉の意味を探して、たどたどしい言葉で返事をした。


「ファラーレ・コステロと申します」


 頭を下げていて見えない彼女から、ふっと笑う感触が伝わる。


「異国の娘でいながら、礼義はわきまえているようですね。私はトゥパク・ユパンキ様の聖妃ワカ・コヤオクリョ。見知りおきなさい」


 そう言って、オクリョと名乗った女性は侍女たちを引き連れて、最前列へと進んでいった。それでファラは、彼女がこの列に並ぶ女たちの中で最も高貴な人物であることを知った。


(悪目立ちか……)


 ファラは自分の手の白さと、周囲の女たちの褐色の肌を見比べる。そしてこちらを窺ういくつかの視線を感じた。


(お姫様のようになってみても見世物であることは変わらない)


 そう思い、ファラはわらった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る