第4話

 当日は雨の音で目が覚めた。窓の外を見ると、遠くの方で稲光がしている。僕が早めの昼食を摂って家を出る頃になると、雨や雷は止み、曇り空が広がっていた。

 スマートフォンで地図を確認しながら、僕は相沢さんのいる研究所へ着いた。思っていたよりも大きくて白い建物に面食らい、ますます緊張した。入り口を通り、受付に向かう。

「すみません。今日、相沢透さんと約束がある早瀬晶と申します」

 受付嬢は笑顔で言った。

「早瀬晶様ですね。少々お待ち下さい」

 そう言うと彼女は電話を掛け始めた。

「こちら、受付の宮脇です。早瀬様がお見えになりました。……はい。かしこまりました」

 受付嬢は受話器を置き、再び僕に笑顔を向けた。

「早瀬様、お待たせ致しました。こちらを首にお掛けになって下さい」

 僕は彼女から『GUEST』と書かれた入館証を受け取った。奥にあるエレベーターに向かって手を差し出しながら彼女は案内をしてくれる。

「あちらのエレベーターから四階へ上がっていただきますと、助手の高村がおりますので彼が応接室までご案内致します。そちらで相沢をお待ち下さい」

 僕は受付嬢に礼を言って、入館証を首に掛けながら奥へ進んだ。エレベーターに乗り込んで四階のボタンを押し、到着するのを静かに待つ。『四階でございます』というアナウンスと共に扉が開いて出ると、そこには白衣を着た一人の男がいた。

「早瀬晶さんですね?」

「はい」

「私、相沢の助手をしております高村と申します。一度、応接室へご案内します」

 僕は高村さんについて行った。応接室の扉を開けて、高村さんは僕を中へ招き入れた。

「相沢を呼んでまいりますので、こちらで少々お待ち下さい」

 高村さんが出ていってから五分ほど待っていると、扉が開いた。白衣を着た相沢さんが入ってきた。僕は相沢さんの姿を確認すると、緊張が少しほぐれた。

「早瀬君、来てくれたね。体調はどうだい?」

「良好です」

「そうか、良かった。別室に先輩と奥さんがいる。行こうか」

 僕は相沢さんに続いて応接室を出た。歩きながら相沢さんは言った。

「実は二日前に先輩の病状が悪化してね」

「えっ! 大丈夫なんですか?」

「最初はどうなるかと思ったけどね。奥さんから連絡がきて病院へ行ったんだけど、その日は辛そうだったよ。でも、次の日には落ち着いていたから今日の朝まで様子を見て、ダメだったら外出禁止って担当医の方と相談したんだ。それで今日、朝、担当医が大丈夫だと判断したから、君に連絡する必要はなくなったんだよ」

 僕は胸を撫で下ろした。

「そうですか……。落ち着いたなら良かったです」

 話していたら、廊下の奥の部屋に着いた。扉を開けて中に入ると、高村さんともう一人の助手らしき男、簡易ベッドに横たわる秀介さんとそばに寄り添う弥生さんがいた。そして、部屋にはまるで病院にあるMRIを二台も置いたかのような大きな装置があった。

「先輩、奥さん。早瀬君が来てくれました」

 秀介さんが横たわったまま、首だけを動かして僕を見た。弥生さんは僕に会釈をした。

「こんにちは、早瀬君。来てくれてありがとう」

「今は、体調のほうは大丈夫ですか?」

「うん。とりあえずはね」

「先輩が大丈夫なら、すぐにでも始められますよ」

「それなら、今のうちにやろう」

 秀介さんは弥生さんの手を借りながら、ゆっくり起き上がった。相沢さんは助手の二人に指示して装置を作動させた。相沢さんはその装置の傍らに立って言った。

「これが、私が助手や技術者の方と開発した病気を交換する装置です。先輩と早瀬君はこちらにそれぞれ横になって下さい」

 僕は言われた場所に横になった。それは酸素カプセルに入るかのような筒状のものだった。

「上の扉を閉めますね。カプセルの中が暖かくなりましたら、交換が始まりますのでそのままの姿勢でじっと動かずにいて下さい」

 高村さんは僕が入ったカプセルの扉を閉めた。僕は狭い空間でじっとしながら、不思議な気分になった。これから病気を自分の身に宿すと考えると現実感がなく、実は夢でも見ているんじゃないかとさえ思えた。

 僕は扉の顔の位置にある窓から部屋の様子を伺った。助手や相沢さんの動く様子がチラッと見える。そのまま待っていると、ウーという機械音と共に少しずつカプセルの中が暖かくなってきた。いよいよだと感じ、僕は深呼吸した。

 しばらくすると、胃の辺りに違和感を覚え始めた。病気が自分の身体に移ってきているのを感じると、僕は徐々に苦しくなった。ウーという音が消えると、カプセルの中が冷めていくのが分かり、カプセルの扉が開いた。

「早瀬君、大丈夫……?」

 相沢さんが覗き込んでいた。

「少し苦しいです……」

 痛みでうまく起き上がれない僕に相沢さんは手を貸してくれた。僕がゆっくり起き上がると、秀介さんの声が聞こえた。

「俺は大丈夫だ。早瀬君は?」

 隣のカプセルを見ると、秀介さんも起き上がって弥生さんに尋ねていた。

「先輩、痛みはありますか?」

 弥生さんの視線を受けて相沢さんが訊くと、秀介さんはかぶりを振った。

「いや、全くない。普通に動けるし、違和感もない」

「では、無事に交換出来ましたね」

 僕は二人のやり取りを聞きながら、胃の痛みを感じていた。今はまだ落ち着いている方なんだろうが、これが悪化したときの痛みを考えると恐ろしく、同時に病院を離れて研究所まで来た秀介さんに感服した。

「先輩はもう大丈夫です。近いうちに担当医の方に検査していただいて、異常がないのが認められれば退院出来るようになるでしょう。早瀬君は病院へ急ごう。私が連れていくよ」

 僕は相沢さんに支えられて立ち上がり、カプセルを出た。秀介さんを見ると彼はもう先にカプセルから出ており、弥生さんに支えられることもなく、自力で立っている。僕は、自分は本当に胃ガンになったんだと実感した。

 助手の二人は相沢さんの指示に従って、装置の電源を切った。僕は相沢さんに付き添われて佐々木夫妻と共に病院へ向かった。

 相沢さんは病院で僕の胃の痛みを訴えた。僕はCT検査を受け、病室のベッドで横になっていた。

 十分後、相沢さんが僕の病室を訪れた。

「担当医の先生から検査結果を聞いたよ。胃ガンだ。あとで先生が来た時に家の連絡先を聞かれるから、ご家族にも知らせがいくよ」

「……はい。秀介さんと奥さんは?」

「自分の病室にいる。健康体になったとはいっても、まだ数日は病院にいることになる。君はこれから大変だが、私も様子を見に来るよ」

「ありがとうございます」

 その時、誰かが病室の扉をノックした。扉が開くと白衣を着た四十代くらいの男が女の看護師を連れて入ってきた。

「早瀬さん、お身体の具合はどうですか?」

「怠いですけど、落ち着いています。でも時々、お腹の辺りが痛くなります」

「そうですか。検査結果が出ましたので、ご家族の方にご連絡を取りたいのですが、連絡先を教えていただけますか?」

 僕は看護師からわたされた小さなメモに家の連絡先を書き、返した。看護師は僕に礼を言って一礼し、病室を出て行った。

「私は早瀬さんの検査を担当した川田です。何かありましたら、お手元のナースコールで看護師を呼んで下さい。ご家族がいらっしゃいましたら、また改めて伺います」

 そう言って川田先生は僕と相沢さんに会釈し、『失礼します』と言って出て行った。相沢さんはそばにあった椅子に座った。

「疲れてる?」

「……そうですね」

「ご家族が来られるまで少し眠るといいよ。今の状態なら、痛みで眠れないことはないだろうし」

 僕は相沢さんの言葉に甘えて目を閉じた。


 次に目を覚ました時には、病室に母さんの姿があった。僕と目が合うと驚いたように少し目を見開いた。

「晶……! 大丈夫っ!?」

「うん。とりあえず、今は」

 僕の言葉を聞いて、母さんは少しほっとしたようだ。

「病院から連絡があって、急いで来たのよ」

「うん。相沢さんが連れてきてくれたんだ」

 僕は視線を窓際にいる相沢さんに向けた。

「ちょうど、君のお母さんとその話をしていたところだよ」

 母さんは相沢さんに向かって頭を下げた。

「息子を病院まで連れてきていただいて、本当にありがとうございます」

「いえ、とんでもないです」

 病室の扉がノックされた。看護師が入ってくる。

「失礼致します。早瀬晶さんのご家族の方ですね?」

 母さんは頷いた。

「今から担当医の川田からご説明があります。よろしいですか?」

「わかりました。晶、ちょっと言ってくるから」

 僕が頷くと母さんは相沢さんに会釈をし、看護師について病室を出て行った。

「これから君のお母さんは胃ガンの話を聞くことになるだろう」

 胃ガンと聞いた時、母さんはどう思うだろう? あまりにも急なことで信じられないだろうか。それとも、ショックで何も考えられなくなるだろうか。

「それから君のお母さんが来る前、先輩の奥さんが来て帰ったから、また先輩の見舞いに来た時に君の様子を見に来ると思うよ」

「そうですか」

 これからまた、母さんは病院に来ることになる。でも、秀介さんが退院すれば、奥さんはしばらく病院に来る必要がなくなる。交換して変わったのは自分達だけじゃない。

「それじゃ、私は研究所に戻る。また来るよ。先輩の病気、引き受けてくれてありがとう」

 相沢さんが退室してしばらくすると、母さんが病室に戻ってきた。

「あら、相沢さんは?」

「帰ったよ」

「そう……。ねぇ、晶……」

 母さんは目が泳ぎ、そわそわしているようだった。僕にはそれが、言葉を選んで何とか冷静に話そうとしているように見えた。

「あのね……しばらく、入院することになるんだって。検査で、気になる箇所があるみたいで……はっきりわかるまで、まだ時間が掛かるみたいなのよ。だから……もう少し待ってね」

 母さんは僕と目を合わさずに訥々と話した。母さんは僕がまだ病気を知らないと思っている。母さん自身はまだ受け止め切れていないんだろう。今日はそのまま僕に話せないようだった。

「うん。わかった」

 僕は何も訊かなかった。母さんには心の整理が必要だろう。

 僕は母さんを見かねて言った。

「母さん、飲み物が欲しい」

「えっ? あぁ、そうね。……うん、買ってくるわ。お茶でいい?」

 僕が頷くと母さんはバッグから財布を取り出して、病室を出て行った。

 母さんは今、僕の前にいるのはつらいだろうな。

 一時的なものとは言えず、僕はただ黙って見送ることしか出来なかった。

 これから、母さんは病院を訪れる日々がまたやってくる。そう考えると、僕は自然と兄貴の顔が浮かんだ。兄貴も家に帰ってきたら、ここにも来るだろうか。父さんとばあちゃんはどう思うだろうか。明日は兄貴の誕生日だっていうのに。

 僕は腹部の不快を感じながらそう思った。

 母さんはなかなか戻ってこなかった。



                            ー続ー

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