第25話

 東京で八月に入って十五日間も雨が降り続いたのは、七十七年ぶりだったらしい。

 クローバーは本来秋から冬にかけて咲く植物だ。きちんとした名前はシロツメクサ。涼しい土地柄に群生する性質上、寒さには比較的強いが暑さには弱い。

 その日、俺が目を覚ますと窓際のクローバーがしおれていた。雨に煙る東京の蒸し暑くじっとりとした気候のせいか、俺が水をやりすぎたせいか。見るからに弱々しく、いくつものか細い茎を土の上に這わせる姿に、絶望的な展開を察知した俺はただ泣いた。手の上の鉢と、視界の両端に入り込む色素の薄い長い髪が小刻みに揺れた。

 やがてキッチンから罵声が飛び交う。

 俺の人格を根底から否定する、いくつもの呪いの言葉。耳をつんざく甲高い声の持ち主は俺の母親だった。彼女から発せられた、見えない凶器は俺の心をぼろぼろに消耗させた。俺は植物すら満足に育てられない、どうしようも無い人間だ。そう自責の念を抱かせるには十分な威力で、それらは俺に次々と投げつけられた。このまま家を飛び出して、ナイフみたいな雨にしたたかに打たれた方がましだった。そうすれば良かったとすら思った。

 暗闇から俺の母親の不気味に白い腕が伸びてきて、その瞬間、横顔に鈍い痛みを覚えた。白い腕は続け様に俺の亜麻色の髪の毛を摑んだ。驚いた俺の小さな身体は床に横たわり、あっという間に彼女の支配下に置かれた。そのままの姿勢でしばらく俺は家中の床を引きずられて回った。俺にぶつかった弾みで、テーブルの上にあったお気に入りの皿が割れた。構わず彼女は俺の髪を摑んだまま家の中を周回した。元は皿だった筈のガラスのかけらは、一瞬にして白く輝くシロツメクサとなり、噓みたいに連なって咲いた。俺は母親に引きずられながらそいつらを横目で見た。ああ、咲いてるな。枯れたのは気のせいだったのか、と自分でも驚くぐらい冷静に思った。そのまま、永遠に続くと思うくらい長い時間が経った。気がつくと俺は草原に寝転がっていて、隣で佇むシロツメクサに心配そうに見つめられていた。視界には絵の具を溶かしたような雲ひとつ無い青い空が広がって、涼しい風が俺の頰を撫でていった。何もかも大袈裟で、張りぼてでできたみたいに噓臭いその世界に不思議と俺は安堵した。遠くの方で慟哭が響き渡り、いつの間にか現れた檻の中に母親がいた。鎖で壁とつながった手錠をはめられて、彼女は自由を奪われてうずくまっていた。

「お母さん」

 そう言って俺は目を覚ました。頰を伝う涙に、俺は泣いていた事を教えられた。これはヨリコの夢だった。幼かった彼女と、彼女の母親が過ごした一日。いつかヨリコの部屋で聞いた哀しい記憶が、悪夢となって俺を飲み込み、追体験させた。

 夢が見せた内容はそれだけではない。訪れた安曇野に俺の母親はいなかった。いたのは俺の知らない、車いすに乗せられた変わり果てた女だった。何を言っても空虚な視線を投げるだけで言葉は返ってこなかった。俺は黙ってその場を立ち去った。俺はついに名乗ることはできなかった。自分がただただ、悔しかった。話したいこと、聞きたいことはたくさんあった。いじめられても守ってくれて嬉しかったこと、差別の原因だった自分の容姿も、大好きだったこと、一緒に居られて幸せだったこと、親父と三人でロンドンアイに乗れたらどんなに素晴らしいかということ。

 俺は弱虫だ。全部、言えなかった。捨てられて憎んでいるとも、誰よりも愛しているとも、生きてくれているだけで幸せだと思ったことも、彼女にひとかけらも伝えられなかった。

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