第22話

 東京の夏は身体にまとわりつく蒸し暑さだということを、三十五年目の人生にして俺は初めて知った。 

 大型の業務用クーラーが危なっかしい機械音を立て、これでもかとうなる喫茶店で、俺は冷め切った紅茶を飲み干した。店内に設置された大型テレビでは、クラウドバーストの日本武道館での初来日公演をアナウンサーが興奮気味に実況していた。千鳥ケ淵の日本武道館周辺には大勢のファンが詰めよせ、さながら黒山の人だかりだった。約八千枚のチケットは発売後一分で即完売したのにも関わらず、夏休みで暇を持て余しているのか、スターを一目見ようとティーンエイジャーが駆けつけている有様だった。追っかけの奴らが放つ熱狂が、ますます日本の夏を暑苦しいものに変えているようで、俺はひどくうんざりした。ため息の向こう側に一人の男が立っているのが見えた。奴は、迷うそぶりも一切ないまっすぐな足取りで入り口からやってきて、俺の前に座った。

「おひさしぶりです」

 久々にロンドン訛りの英語を聞いた。照り付く日差しを物ともせずに、その男は汗ひとつ流さず実に涼しげだった。バラ色の頰にすべすべとした肌、薄い金髪は驚くほどまぶしく、俺の前でかすかに揺れていた。

「まさかお前が俺に会いに来るなんて」

「僕もまさか東京で会えるなんて、驚きましたよ、先輩」

 デーモンはますます美しくなっていた。天使も悪魔も、こいつの前ではみんな揃って骨抜きになりそうだと思うくらい、神々しい美を持っていた。

 俺が癇癪で職場を辞めてからしばらくして、デーモンは昔なじみの誘いに乗ってローディーの副業を始めた。本人曰く、元々、音楽の素養があったわけでは無いが、持ち前の愛嬌の良さと端正なルックスで人気のローディーとなったそうだ。

 俺は奴の身の上話を鼻で笑いながら追加の紅茶を頼んだ。

「自分で言うのもなんですけど、俺ってどこに行っても偉い人に気に入られちゃうタイプで」

 デーモンはアイスコーヒーに付いていたストローの袋をねじりながら話を続けた。

 やがて仕事ぶりが評判を呼んで大手のイベンターに声を掛けられ、本業のシステムエンジニアよりも多忙になり、ローディーに本腰を入れるために辞職を申し出たという。

「お前なら歌手としても一世を風靡しそうだけどな、バック・ストリート・ボーイズみたいにな」

「先輩、たとえが古いですよ、それを言うなら今だったらワン・ダイレクションでしょ」

 俺の精一杯の皮肉もむなしくデーモンは笑い転げた。やっぱり、こいつにはかなわない。内心、俺はこいつの事はいけ好かない野郎だと思ってはいるが、目の前で屈託無く笑われると、憎めなくなる。デーモンの圧倒的な美貌の前には、男の俺でも性別すら吹き飛ばして降伏せざるを得ないほどだった。笑顔と機知に富んだ会話は、相手にコミュニケーションの楽しさをもたらした。天性の人たらし、とでも言うのか。もし仮に理性を失いかけるくらい泥酔していたら、うっかりやってたかもしれない。それは冗談とは言え、とんでもない野郎だとつくづく感心した。

 鈴の音みたいな涼しげな笑い声が店内に転がった。店中の女が笑い声の主に釘付けになっているようだった。先程からピンクがかった視線が、まれに見る金髪の西洋イケメンに熱く注がれているのをじっとりと肌で感じた。

「俺、今は、来日公演中のバンドにくっついて日本中を回っているんですよ」

 女どもが放つアピール光線には微塵も構わず、デーモンは続けた。ストローの袋はデーモンの指元で蛇になったり、ただの紙切れになったりしていた。

「先輩も知っているでしょう? クラウドバースト。今かなりキてますよね」

 すごいクールですよね。

 俺も好きなんですよ。

 俺、ほんとラッキーだなって自分で思いますね。

 だってこんなイカしたバンドをすぐそばで堪能できるんですよ。やばくないですか。

 褒めちぎる言葉が弾丸みたいに迫ってくる。こんなにはしゃぐデーモンを見たのは初めてだった。システムエンジニアとして要領よく働く奴からは、とてもじゃないけど連想できない変貌ぶりで、フランクな言葉遣いもかえって新鮮な驚きだった。

 金色に輝く髪をワックスでまとめ、几帳面にアイロンのかかったスーツに身を包んだかつてのサラリーマンはどこにもいないと悟った。俺の目の前にいる男は、アディダスのくたびれたパーカーとジーンズをけだるげに着込み、紫色のビビットなデザインが施されたナイキの古ぼけた運動靴を履き、長い足を狭いとばかりに投げ出して座っていた。たった約半年で、オフィスワーカーの清潔感や小奇麗さを投げ捨てた、肉体を酷使する現場でよく働く男に変貌していた。

「日本武道館はビートルズが演奏してから、音楽に関わってる人間には特別な場所じゃないですか。ここまで来るのは並大抵の事じゃ無いのに、クラウドバーストは、あっさり明日、あそこに立つんですよね。まるで、当然みたいな顔して舞台袖からステージへと出て行くんだ」

 一呼吸置いて、デーモンは顔に手をやり、そしてゆっくりと口を開いた。

「デビューして、異例の速さでキャリアの頂点に立った。俺たちみたいな人間にとっても特別な出来事だ。きっと、明日は人生で最高な一日になりますよ」

 奴は音楽やそれに携わる者への愛と敬意を、口ぶりからそれなりに漂わせてそこにいた。ひとしきり感想と自慢をぶちまけたのち、デーモンは紙切れを俺に差し出して見せた。

「バックステージパス。これ、俺からの餞別として先輩にあげます」

 俺、先輩のこと、割と好きだったんですよ。

「何が餞別なんだか」

 俺はもう、お前の先輩なんかじゃねぇよ。

 俺は両手を肩よりも上にやり、手のひらを天井に向けるしぐさをお見舞いしてやった。

 デーモンは、猫みたいに目を細めて、にっこりとほほえんだ。やわらかで穏やかな笑みだった。俺と揉めたあの日の狡猾さや小賢しさは微塵も見当たらなかった。俺はその憎たらしい笑顔に心の中で中指を突き立ててやった。

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