第6話 足りないものを、埋めていく 1


 翌日から、エルはハートフィールド家の執事見習いとして働くことになった。


 とは言えまだ子供なうえに、伯爵家から給金が出ているわけではないため、形だけだ。日に数時間だけ執事長に仕事を教わった後、あとはわたしの部屋でひたすら寝転がり、だらけている。本当にこれでいいのだろうか。


 その中で驚いたのは、エルはわたし以外の人間の前では、信じられないくらいに良い子だったことだ。まるで大人のような口ぶりで話し、どんなことでもさらっとこなしてしまう。


 とても10歳とは思えないと、執事長であるダニーは彼のことをべた褒めしていた。そもそもエルが本当に10歳なのかも、怪しいところなのだけれど。


 正直あの態度だ、働くことも勿論嫌がると思っていた。けれどエルはこの家にいる以上、仕方がないことだと理解しているようで、大人しく働いてくれていて安心した。


 


 けれど今度は、別の問題が発生していた。妹のサマンサがエルを一目見た瞬間、彼が欲しいと言い出したのだ。


 確かに彼は、どんな宝石よりも綺麗で。綺麗なものがなによりも大好きな彼女が、彼を気に入ることなんて少し考えればわかることだったというのに。


 お姉様だけずるいと駄々をこねる彼女に、伯爵夫妻も困っている様子だった。


 いつもならばすぐにサマンサに譲ってやりなさいと言われていただろうけど、流石に可愛い娘に身元のわからない異性の子供を近づけるのは嫌なのだろう。


「サマンサ、欲しいものなら何でも買ってあげるから」

「いやよ、エルヴィスしか欲しくない!」


 義母とサマンサの、そんなやりとりが聞こえてくることも少なくない。彼女に何でも買ってあげるお金があるのなら、とりあえずロドニー様を何とかして欲しい。


 エルはそんなサマンサを上手くかわしているらしく、気にはしていないようで安堵したけれど。


 彼女はその分のストレスをわたしにぶつけ始め、クローゼットの中の服をズタズタにされたり、すれ違い様に突き飛ばされたりと、中々にやりたい放題だった。服は先日余ったお金で買えばいいとしても、痛い思いはあまりしたくはない。


 しばらく彼を諦めそうにないサマンサの様子を見ては、わたしは重たい溜め息を吐いた。




 ◇◇◇




 そんなエルがハートフィールド伯爵家に来て、数日が経ったある日のことだった。


 ルビーと共に今後の作戦会議をしながらのんびりと庭を散歩していると、丁度仕事を終えたらしいエルがこちらへと向かって歩いてくるのが見えた。


「エル、お疲れ様」

「ん」


 遠くから声を掛ければ、そんな返事が返ってくる。


 やがてエルとすれ違うというタイミングで、わたしはずるりと足を滑らせバランスを崩してしまった。前日に雨が降ったせいか、まだ少しぬかるんでいる場所があったのだろう。


 けれどちょうど身体が倒れていく先にエルがいて、安心したのも束の間。エルはそんなわたしをすい、と避けて。


 その結果、わたしは泥の上に思い切り倒れ込んだ。


「お嬢様……! 大丈夫ですか!」

「う、うん。大丈夫、だけど……」


 慌ててルビーが抱き起こしてくれて、わたしはよろよろと立ち上がる。髪まで泥がべったりとついていたものの、シャワーを浴びて着替えればいいだけだ。


 けれど、それよりも気になることがあった。


「……ねえ、エル。なんで避けたの?」

「むしろ、何で俺が抱きとめなきゃいけないんだ?」

「えっ?」

「すっ転んだお前が悪いだろ。泥だらけになるのも汚れた服を洗うのも俺じゃないし、俺は何も困らない」


 そんなことを、エルはさも当たり前のように言ってのけた。


 確かに、わたしが悪い。わたしが勝手に躓いて、転んだだけ。けれどエルがほんの少し手を差し伸べてくれれば、防げたはずだ。とは言え、避けたこと自体が問題なのではない。


 エルは本気で自身の為にならないことなど、何一つする必要がないと思っているようで。それがひどく心配だった。


 ──エルには、何か大切なものが欠けている気がする。


 そしてそれは、間違いなく一朝一夕でどうにかなる問題ではないだろう。そんなことを考えながら、何食わぬ顔でわたしの横を通り過ぎ歩いていく、エルの背中を見つめる。


 ルビーは良い子の姿のエルしか見たことがなかったらしく、驚きつつ、かなり怒っている様子だったけれど。わたしは大丈夫だからと言い、風呂の準備を頼んだのだった。




 泥を洗い流し着替えて部屋へと戻ってくると、自室にはエルの姿があった。彼はどうやら本棚を眺めているらしい。


 屋敷内に部屋は余っていて、かなり狭いとはいえ彼専用の部屋があるものの、エルは何故かわたしの部屋にいることが多かった。本当にエルは、よくわからない。


 ……これから、どうやってエルを良い方向に変えていけばいいのだろうか。思っていた以上に状況が深刻なことに気づいたわたしは、頭を悩ませていたのだけれど。


「うわ、この気持ち悪い本、まだあったのかよ」


 そんな中、エルが手に取ったのはわたしの宝物である『やさしい大魔法使い』というボロボロの絵本だった。


 それに対し気持ち悪い本とは、失礼が過ぎる。


「よくもまあ、こんな100年も前の本を持ってたな」

「エル、この絵本を読んだことがあるの? 亡くなったお母さんがくれた大好きな本で、わたしの宝物なんだ」


 この絵本は、やさしい大魔法使いがたくさんの人を救い、幸せにするお話で。中でも、大魔法使いが辛い目にあっているお姫様を迎えに行くシーンが、わたしは大好きだった。


 辛い時には何度も読み返し、時には自身を登場人物に置き換えて、想像してみたりもした。わたしの一番の支えだ。


「……知ってるも何も、」

「えっ?」

「なんでもない。こんなもの、読んだこともない。つーかお前、もう絵本なんて歳じゃないだろ。くだらない」


 エルは深い溜め息を吐き、本を本棚に戻して。そのままわたしのベッドにぼふりと倒れ込んだ。


 けれど初めてこの絵本を知っている人に出会ったわたしは、つい嬉しくなってしまう。


「ねえねえ、大魔法使い様は長生きだって聞くけれど、この絵本に出てくる方は、今もどこかにいるのかな」

「……生きてる」

「本当? それなら何歳なんだろう」

「150は超えてるだろうな」

「なんでそんなに詳しいの? もしかしてファン……?」

「気持ち悪いことを言うな」


 エルはごろりと寝返りを打ち、わたしを睨んだ。


「あんなもの、イメージアップの為に捏造された嘘だらけのものなんだよ。同じなのは見た目くらいだろ」

「なんでそんなことが分かるの?」

「何でもだ」


 やけに断定して言うエルが、不思議で仕方ない。かと言って、嘘をついているような様子もなかった。


「そもそも大魔法使いっていうのは、その辺の奴らを魔法で幸せにするためにいるわけじゃない」

「…………?」


 そんなエルの言葉が、やけにひっかかる。大魔法使いは、常に一人だけ存在するということはわたしも知っていた。


 けれど何のためにいるのかまでは、わたしは知らない。


「……そもそも、普通女ってのは魔法使いよりも王子なんかに憧れるものだろ」

「そうかな? わたしは、大魔法使い様がいい」

「変な奴」


 エルはやっぱり、そんなわたしを鼻で笑う。


「大魔法使い様ってどんな方なんだろうね」

「お前が思っているような奴じゃないのは、確かだろうな」

「そうなの?」

「幻滅したか?」

「ううん」


 気にはなるけれど、大魔法使い様がどんな方でもいい。その存在に、わたしが何度も救われてきた事実は変わらない。


「この世界のどこかに居てくれるだけで、すごく嬉しい」

「……何だよ、それ。ほんと、変な奴」


 エルはそう呟くと「昼寝する」と布団を被り、それからしばらく、そこから出てくることはなかった。

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