将棋と暴力

『スポーツ倫理学講義』の第4章は、「スポーツと暴力――ボクシングをめぐって――」となっている。相手を殴る、傷つける行為は法的に禁止されているし、倫理的にも悪い行為とされるだろう。それでもボクシングが許容されているのは、それがスポーツだからである。しかしスポーツだから何でも許されるわけではない。相手を殺したり、何かを盗んだりするような競技は法的な取り締まり対象となるだろう。

 ボクシングは競技にかかわる人たちの努力によって、安全性がある程度担保されている。もちろんしない人よりする人の方がリスクは高い。しかし、そのリスクを受け入れた人たちが競技に参加している。どんな仕事にもリスクはあり、ボクシングはたまたま「暴力による」リスクが大きい、ともいえる。

 肉体的な苦痛に注目すればボクシングは特殊だが、精神的な苦痛という点からみればあらゆるスポーツは敗者に痛みを与えるものである。すべてのスポーツは暴力的であることを要請するのである。(p.124)これはボードゲームにも通じることであろう。勝負である以上勝者と敗者がおり、敗者は常に傷つけられる。勝者ですら精神的苦痛を与えられることはあるだろう。


 将棋において、直接暴力が用いられることはまずありえない。しかし、暴力的な将棋は有りうる。それはただ単に、攻撃的な将棋という意味にとどまらない。相手に苦痛を与えるということが理解されながらなされる場合である。

 ここまで見てきたように、将棋におけるマナー違反は決して珍しいものではない。そしてそれが行われるのは、「マナー違反であるからこそ」だと指摘した。つまり、相手が嫌がるからこそ、わざわざよくないとされていることをあえてするのである。相手が嫌がれば嫌がるほど、精神的な苦痛を受ければ受けるほど、マナー違反は効果を発揮する。

 そもそも将棋というゲームの本質の中に、暴力性は潜んでいる。駒を攻める、取る、王将を追い詰める、逃げ場をなくす。結果的に勝利があるのではなく、苦痛を与えあった上に勝負が決まるのである。

 かつて学生大会で、女流代表選をするかどうかでもめているのを見たことがある。対象となるのは同じ大学の女性三人で、「私たちの仲を引き裂くつもりですか!」と抗議していた。その場で代表者が一人決まってしまうことのみが問題なのではなく、普段から三人同士は将棋をしていなかったようである。

 大げさなようだが、三人にとって直接勝負をするというのは暴力性をぶつけ合うことでもあるのだ。勝利のためには相手を攻め、奪い、だまし、追い詰めなければならない。たとえゲームと分かっていても、そういう時間を過ごさなければならないということが苦痛なのだろう。

 勝負をするということは勝敗がつくということであり、敵意を向けあう時間があるということである。ゲームが終わればすべての感情がリセットできるとは限らない。ゲームの外に敵意が引き継がれるならば、ゲームにおける敵対自体を避けるべきかもしれない。

 また、将棋はボクシングと違い、毎日何局でも指すことができる。それだけ続けて、精神的な暴力を浴び続ける可能性があるといえる。ともすれば「精神的なパンチドランカー」になってしまうかもしれない。



 ボクシングを禁止するような要求や、ボクシングはスポーツではないという主張もある。日常的には倫理的に許容されないことは、スポーツだからと言って別の考え方の下に置かれるとは限らない。ここまで見てきたようなマナーなどの問題も、この点にかかわる。スポーツだからと言って、ルールに反しなければ何をしてもいいと考えるとは限らない。スポーツ内においても、日常と同様の倫理的な振る舞いはある程度要求されるのである。

 ボクシングが他の競技と異なるのは、相手を傷つけることを前提としているという点で「競技性そのものが」倫理に反していると言える点である。そのため、実施が許容されるには安全性の確保とともに、「倫理に反してでも行うに値する」理由が必要となる。

 競技者が楽しんでいるとか、観客が求めているという理由では十分でない。例えば銃での決闘などは到底競技として認められることはないだろう。十分な報酬やスリルからくる快楽などは、殺し合いだとしても自主的に参加する理由に足るかもしれない。しかしではなぜ、「殴る」のはよくて「殺す」のは駄目なのだろうか。どちらも倫理的な悪であるという点は変わりないのだ。

 このことを考えると、レベルを先にではなく、前に引き戻して考える必要があることがわかる。前述のように、スポーツでもゲームでも、人と人が争う場面には攻撃性、暴力性が介在する。つまりボクシングが直接肉体を傷つけるから特別なように映るだけで、0から殺人に至る「悪の途上」にあるという点ではほかの競技と変わらないのである。

 私たちは傷つけ傷つけられることを承知のうえで、スポーツやゲームに参加する。つまり、暴力性を許容したうえで競技の快楽を求めているのである。

 ここには当然、競技者同士の同意と、競技性に対する理解が求められる。後者が不足している場合、競技をやめることになるだろう。これは新たに参加する者の話だけではない。古参の者が新参者に対して暴力性を浴びせ続けた結果、その人らが競技に楽しさを見いだせず、競技に新たに参入する人がいないという状況も多いのではないだろうか。

 将棋においても、プロ棋士である親が教えながら、子供が将棋をやめてしまうという話をよく聞く。これは強者の方が、将棋における暴力性の本質をわかっていないことも原因の一つであると考えられる。自分が理解していないことを相手が知っているという状況は、ストレスとなる。強者は将棋が強くなるのに必要な様々なことを理解できるまでの道のりを経験して知っているが、新参者はそれを知らない。その中で敗北し続けるというのは、心を殴られ続けるということである。それでも未来において状況が変わると信じられるならば、耐えられる人もいるだろう。しかし特に親子関係などにおいては、すでに理解しつつある人を目の当たりにすることができない。競技におけるグラデーションを知ることができないのである。その場合、「強い人と弱い人」という二極において理解することになり、弱い人であり続けることはとてもつらいだろう。

 私自身、父親に負け続けて囲碁をやめてしまった。父親に勝てたので将棋を続けたのである。囲碁をしているときは、楽しくなかったわけではないが、どこか胸を締め付けられるような思いだったのを覚えている。

 将棋が相手を攻める競技である以上、そこから暴力性を排除することはできない。しかし、軽減することはできる。それはここまで語ってきたような、ルールやマナーによってである。将棋を「盤上で殴り合うこと」と例えれば、ルールやマナーがいかに大事かということが見えてくる。傷つけ合うことがわかっている以上、両者合意のうえでいかにできるだけ傷つけないようにするかを配慮せねばならないのである。

 また、練習の段階においてもできるだけの配慮が求められる。強者が思うほどには、敗者は敗北を受け止め切れていない場合がある。そこで手を抜くとか勝負をつけないとかではなく、勝負自体の意味を確認しておくことが必要ではないか。将棋はゲームであり、楽しむ時間を共有することを前提として向き合う。楽しめない場合、やめてもいいという気持ちも大事であろう。やる以上強くならなければならないという強者の態度は、必要以上に相手の心に暴力を浴びせる危険性がある。



 私たちは、暴力にさらされない権利がある。そしてボクシングに限らずあらゆる競技に暴力性が含まれているとすれば、そこから身を遠ざけるのも権利であるといえよう。ルールやマナーが確立されたうえで、本人同士の同意のうえでのみ競技への参加はなされるべきである。そして競技への参加者たちは、暴力性が発露されているということを自覚したうえでプレイを進めていかなくてはならない。

 勝利やゲームに没頭できることとは別に、暴力性の発露自体にも快楽がある。ゲームではそれが合法的にできるわけで、必要以上に暴力的になったり、暴力性自体を目的とする人も出てくるだろう。しかし、そういう人がいれば競技自体に参加する人々が減少する。単に自己責任の問題とするのではなく、どうすれば暴力性によって傷つけられる人が減っていくか、気持ちよくプレイを楽しめる状況になるかを参加者全員で考えていくべきではないか。



参照文献

川谷茂樹(2005)『スポーツ倫理学講義』ナカニシヤ出版

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