The Hideout

森山流

1. Introduction


「A棟207で火災発生、速やかに避難してください」

 実験室の一角、強化ガラスの張られた無菌操作用のクリーンベンチから煙があがっていた。警備システムと火災報知器の自動感知により、研究所内にオートのアナウンスが流れる。この時間帯の所内に人はほとんどいない。部屋を足早に立ち去る男の姿に、気づいたのはたぶん私だけだろう。くたびれた白衣に、グレーの体にフィットしたTシャツと黒い細身のパンツ。やや乱れた髪と黒縁のめがねの奥の目はおだやかだが、顎の無精髭がどことなく人を寄せない雰囲気だ。何本もボールペンと油性マーカーが刺さった胸ポケットは、出したままのペン先のインクで滲みになっていた。顔のデータ、全身像のデータを私の内部ストックと照らし合わせる。あった。主席研究員・新田秀明、Hideaki NITTA, PhD.-基礎研究チームのニッタだ。深夜にここでなにをしているのだろう。

「こんな日にhatchしたくなかったな」

 そうつぶやきながら入っていく部屋は、バイオハザード表示が一段と大きく掲示されたP3レベルの遺伝子組み換え実験室だ。私はカメラを切り替えてその姿を追った。新田が歩み寄った大型の三次元培養槽の前には、もうひとり長身の痩せた白衣姿の男が控えていた。

「新田、本当にやるの?」

「今日しかないんだ」

「そりゃそうだけどさ」

 培養槽を見上げて頭を掻く男は、仕草に反して冷たい表情で淡々と応える。小さな両眼に薄い唇がどことなく爬虫類を想起させる顔。これも同じく基礎研究チームの出水倫治、Tomoharu IZUMI, PhD. だと、私の照合データが告げている。出水の横顔は、暗い室内で朱赤の培養液に透かされた非常灯で燃えるような色に染まる。

「死ぬかもしんないよ」

「やってみなくちゃわからない」

「この個体だけじゃない、おまえもってこと」

 新田が薄い笑みを浮かべてうなずくと、出水は嘆息しながら培養槽の脇のパネルを手早くタッチする。培養槽の中の液体が一気に水位を下げ、パネルからはビーッという警告音が大きく鳴った。同時に、先ほどの火災に反応してフロア中のスプリンクラーが放水を始め、真っ白な水煙で視界が霞む。新田はすべてを無視して、完全に排水した培養槽の前部ハッチを開けると、中で育てられていた「個体」の両脇を抱えて取り出した。

 いけない、あれをhatchするなんて、予定にないはずだ。私の手元に膨大なアラートが流れ込んでくるのに、こちらから特殊培養室の操作がきかない。機械の遠隔操作も、部屋の封鎖もできないのだ。人間を呼ぶよう警備会社にも他のフロアにも緊急アナウンスを何度も出しているのに、どこからも応答がない。こんなことって。

「このまま外まで出ても大丈夫なのか」

「火事に紛れて研究所の基幹AIのプログラムをハックしてる。AIが火災対応してるうちに必要部分を書き換えた。あと三十分だけならごまかせるよ」

 新田の腕の中で、培養液に濡れそぼったその「個体」が喘鳴を漏らす。肺呼吸が始まるのだ。

「HALのハッキング? 監視カメラも、アラートも、遠隔操作も?」

「まあね、だってそもそも基本のコード書いたの俺だもん」

「それは結構……、ああ、ほら、息をしてる。空気と水道水に曝露して無事だといいが」

 私はなんとかカメラをズームして新田とそれに抱えられた「個体」を映す。天井からの豪雨のような放水と警告ライトの明滅をめがねに受けてその奥で目を細める新田と、なめらかな白い肌の少女の姿をしたその「個体」。それは大きく息を吸うと、ゆっくりと瞼を開いた。私ーHALの通信はもはやうまく機能せず、それ以上のカメラの映像が受信できない。新田の囁きだけが、最後の記録になった。

「おはよう、ヒカリ」

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