第21話

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 重成直人は自分の机の前に立ったまま、手に握ったウェアフォンの表面に浮かせた電話帳データの平面ホログラフィーに視線を落としていた。社会部フロアの窓際の方から甲高い怒鳴り声が聞こえる。重成直人は声の方に目を向けた。窓際の応接ソファーに座っている勇一松頼斗が谷里部長に説明している。

「もう、さっきも言ったでしょ。それは、司時空庁からASKITが盗んでいったのよ。だから、バイオ・ドライブはもう司時空庁の地下保管庫には置いてないの」

 向かい合わせに置かれた応接ソファーとは別に窓の方を向いて置かれた一人掛けの応接椅子に座っている谷里素美は、しきりに首を傾げている。

 谷里のすぐ斜め前の席から彼女の顔を覗いていた別府博が、苛立ったように言った。

「だから、司時空庁の津田長官は、その事実を隠すために、バイオ・ドライブを取り戻して、最初から盗まれていないということにしたい訳ですよ」

 谷里部長は呆けたような顔で言う。

「でも、バイオ・ドライブは六月に田爪瑠香がタイムマシンでワープした時に南米に持っていったのかもしれないんでしょ。彼女は何処から手に入れたのよ」

 別府博は答えた。

「田爪博士から受け取ったんですよ。ずっと前に」

 谷里部長は声を裏返す。

「じゃあ、どうして津田長官は、田爪瑠香がタイムマシンに乗る時に、バイオ・ドライブを回収しなかったのよ」

 別府の隣の窓際の席から勇一松頼斗が一言ずつ念を押すように強調して言った。

「だから、そのバイオ・ドライブは、違うものなのよ。津田が保管していたのは、その後に哲ちゃんが南米から送って、二〇二五年に爆心地で発見されたもの。壊れていたの!」

 谷里部長は納得しない。

「でも、田爪瑠香が持って行ったものは、壊れてなかったんでしょ。変じゃない」

 勇一松頼斗は自分を落ち着かせようと、一度息を吐いてから言った。

「ふー。だからね、その田爪瑠香が持って行ったバイオ・ドライブを哲ちゃんが二〇二五年に送ってしまって、それが爆心地で発見されて……」

 谷里部長は勇一松の説明の途中から目を大きくして言い始めた。

「だって、永山君が送ってきた田爪博士のインタビューによれば、二〇二一年にSAI五KTシステムを利用した仮想空間実験でバイオ・ドライブを使用しているんでしょ。なんで二〇二五年に送ったのに、二〇二一年の実験で使えるのよ。やっぱり変じゃない」

 別府博が言葉を捜す。

「だから……いいですか。ええと……ああ、このイヴフォンが、バイオ・ドライブだとしますよ。これが、NNC社から赤崎教授に渡されて、それを田爪博士が使って……」

 別府博は自分のイヴフォンをバイオ・ドライブに見立てながら丁寧に谷里に説明する。その説明を腕組みしながら真剣に聞いている谷里に視線を送り、勇一松頼斗は呆れた顔で呟いた。

「この人、部長なのに記事を読んでないのかしら。最初から読み直せば分かるのに」

 遠くから三人の様子を見ていた重成直人は、溜め息を吐きながらウェアフォンを耳の下の頬骨に当てた。下を向いて呼び出し音を長く聞いた後、顔を上げて言う。

「ああ、もしもし、夜分すみません。私、新日ネット新聞社の重成と申す者ですが、失礼ですが、三木尾みきお警部の携帯でしょうか。――ああ、ぜんさん。どうも、どうも。お久しぶりです。重成です」

 低い声が返ってきた。

『重成?』

 重成直人は自分の椅子に腰を下ろして言った。

「新聞記者の重成直人ですよ」

 低い声が急に明るくなった。

『――おお。シゲさんかい、珍しいな。何年ぶりだ。いや、何十年か。生きてたか』

 背もたれに身を倒した重成直人は、口角を上げて言う。

「相変わらず毒舌ですなあ。それに、前よりも元気そうだ」

『いやいや。六十過ぎてからは頭の中の日捲りがおかしくなっちまってな。今日が何年の何月何日かも分からなくなっちまう。犯人には走って逃げられるし。困ったもんだよ』

 重成直人は笑って返した。

「お互い、歳を取りましたな」

 三木尾みきお善人よしとは返事をせずに、せっかちに言ってきた。

『新日ネット新聞って言ったな。ってことは、あの会社にまだ居るのか』

「いや、こっちはインターネット新聞の方ですよ」

 少しだけ間が開いた。

『――そうかい。それで、今も東京なのか? 向こうの二課の連中に聞いても、知らんと言われたんで、てっきり文屋からは足を洗ったと思っていたが』

「自分で筆を置く訳にはいかんですよ。それが私の責任の取り方です。死ぬまでね」

 また暫らく間が開いた後、三木尾善人は言った。

『――ま、ともかくも、その会社にしぶとく残ったって訳か。じゃあ、察するに独身を通した、そんな所だな』

「もう、その話はよしましょう」

『そうだな。すまん、すまん』

 低い声は、静かに尋ねた。

『相変わらず、そちらから距離を縮める気は無いのか』

 重成直人は目を瞑って答えた。

「私にも意地を通させて下さいよ。それが私の弔い方です」

『――そうか……。――分かった』

 お互いに相手の立体画像もイメージ画像も見えてはいなかったが、二人は相手の表情と心境を理解し合った。二人はそういう世代だった。

 三木尾善人は重成が緊急の用件で電話してきたことを察し、彼に言った。

『それで、この電話は』

 三木尾から携帯電話の番号を知った経緯を尋ねられたと思った重成直人は、言った。

「ははは。あなたも義理堅い人だ。捜査で関わった人間から何時でも連絡を受けられるように、二十年間一度も電話番号を変えていない。大した人ですな、まったく」

『いやいや、スマホそのものを変えてないんだ。電話会社のセールスの奴に言われたが、八ギガのスマートフォンなんて、今では天然記念物だそうだよ。化石を使い続けますかだと、あの野郎』

 重成直人は片頬を上げる。

「それも捜査データを守るためでしょ。まあ、物持ちの良さは相変わらずだ。その分じゃ、今でも例のガンクラブ・チェックの上着をご愛用ですかな」

『まあな。執念深いのさ。刑事なんでね』

「今は、どちらに」

『また一課に回された。元気のいい若いのと、新米のお守りだよ。チンピラ風のチャラついた奴もいるし、まったく、いつから天下の捜査一課もこうなっちまったのやら……』

 重成直人は笑いながら言った。

「ボヤキが出るようになったら、本当に歳を取った証拠ですな」

『やっかいなヤマに当たってね。いろいろとボヤキたくもなるよ。それで、この電話の要件はなん……アチッ』

「猫舌も相変わらずですな」

『いいから、話はなんだ。おお、あちい……』

「せっかちなのも」

 そう言った重成直人は、椅子の背もたれから身を起こし、真顔に戻った。

「善さんのお友達が、ウチの記者たちを付け回しているようなんだが」

『ダチ? ――ああ、俺の同期か。どっちだ。お偉いさんか、中途採用の方か』

 一人は赤上あかがみあきらのことを指していた。三木尾善人は、あえてその氏名も「公安」という単語も、「特調」という単語も使わなかった。それを察した重成が言う。

「出所が違う方ですよ」

 三木尾善人は、それが赤上を指していると理解した。赤上は三木尾とは違う大学の卒業生で、理系の学部。同じ大学の法学部出の子越や三木尾とは出身が違った。

 三木尾善人は慎重に尋ねてきた。

『今日の警官殺しに関与してるのか』

 重成直人が眉間に皺を寄せる。

「警官殺し?」

 三木尾善人が言った。

『そいつの部下が爆心地の近くで、遺体で見つかった。ま、正確には遺体のだ。靴の中の指先と眼鏡に張り付いた耳の一部。他は何も残っちゃいない。発見された丸こげの車には二名の捜査官が乗っていただそうだ。現場の発見が遅れてな、日も沈んでいるんで、正式な鑑識が入るのは明日だそうだが、マイクロ・スキャニングだけは済ませたらしい。それで、ヘキソーゲンと類似した残留物の化学成分構成が観測されている』

 重成直人はメモを取りながら三木尾に尋ねた。

「ヘキソーゲンって、たしか、プラスチック爆弾なんかの主成分ですな」

『ああ。軍事兵器にも多用されている。その他にも、マグネシウム、亜鉛、マンガンの炭化構成もコンピューターの予測処理では出てきたそうだ。あと、トリニトロ・ベンゼンあたりが検出されれば、間違いなく瞬間焼夷弾系のロケット砲だな』

 重成直人の顔が更に険しくなる。メモを取る手を止めた彼は言った。

「その車の所有者は間違いなく……」

 三木尾善人は重成の発言を抑えて、途中から答えを言った。

『ああ、間違いない。そいつらが使っていた車だ。犯人の目星もついているらしい。だから連中、自分たちでカタをつけると鼻息を上げているそうで、現場も全部仕切られてるって話だ。まったく、同業者の殺人事件だっていうのに、こっちの出る幕は無しさ。ま、俺が話せるのはここまでだ。それで、まさかおたくの記者さんたちが、付け回された腹いせにバズーカ砲をぶっ放した訳じゃないだろう。この件と、どう関係しているんだ』

「いや、正直、俺にも分からんのだよ。はっきりしているのは、日中、ウチの記者たちが何者かに……」

 突然、重成の耳に雑音が響いた。三木尾の声が途切れる。

 重成直人は声を大きくした。

「もしもし、善さん。もしもし。――なんだ、どうなってるんだ?」

 耳の下からウェアフォンを離した重成直人は、それを改めて観察した。通話エラーの表示がホログラフィーで表面に浮かんでいる。椅子から立ち上がった重成直人は、大急ぎで窓際の応接ソファーへと向かった。

 近くまで来ると、腰高のパーテーション越しに言った。

「すまん、携帯の調子が悪いんだ。誰かウェアフォンを貸してくれないか。大事な話の途中で切れちまった。忙しい相手だから、今のコンタクトのチャンスを逃したくない」

 勇一松頼斗が答えた。

「私のウェアフォンは電池切れ。ハルハルと編集長にかけまくったから。今、下で充電してるわ」

 別府博が谷里に言った。

「部長さん、ウェアフォンをお使いですよね」

 谷里部長は渋々顔で上着のポケットからウェアフォンを取り出した。彼女は、そのウェアフォンの表面に浮いているアイコンのホログラフィーを見て言う。

「あら、変ねえ。通信不可になってるわ。ネットワークエラーみたいね」

 別府博がボソリと言った。

「貸したくないんでしょ」

 谷里部長はウェアフォンを握った手を別府の前に突き出して言った。

「本当よ。ほら。自分のイヴフォンでも確かめてみなさいよ」

 別府博は机の上の自分のイヴフォンに触れることもせず、大きな声で言った。

「通話オン!」

 音声操作で回線に接続しようとした別府博は、得意気にポーズをとって、自分の左目が光るのを待った。しかし、暫らく待っても彼の左目は光らない。別府博は首を傾げた。

「あら? 変だな。通話オン……」

 違うポーズをとってみる。やはり反応が無い。彼は仕方なく机の上に手を伸ばし、そのイヴフォンを取って手動で操作した。ネットワーク接続を確認する。

 別府博は自分の脳内に表示された文字を見て言った。

「あらら、ホントだ。通信システムエラーだそうです」

 谷里部長は不機嫌そうに言う。

「ほらね。貸したくないって何よ。謝りなさいよ」

 重成直人は胡麻塩頭を掻きながら言った。

「こりゃ、弱ったな。こんな時に、またSAI五KTシステムが故障か……」

 彼は困惑した顔でパーテーションの横に立ち尽くしていた。



                  20

 深緑色のアーマースーツに身を包んだ久瀬拓也と野島闘馬に囲まれ、山野紀子と春木陽香は逃げ場を失っていた。背後には三階建ての建物の高い壁がそびえ、正面に久瀬、右手に野島が立っている。左の道に逃げようにも、久瀬の構えた小銃がそれを許さなかった。

 山野紀子は、近寄ってくる彼らに言った。

「なによ、なんなのよ。私たちは本当に、バイオ・ドライブも田爪博士の研究データのコピーも持ってないのよ」

 久瀬拓也は笑みを浮かべて言った。

「そんなことは、どうでもいいよ。俺たちは楽しみたいだけなんだよ。色々と。へへへ」

 へっぴり腰でスチール製のパイプ棒を構えながら、春木陽香は叫んだ。

「寄るな、このスケベ! 変態、痴漢、強姦魔あ!」

 久瀬拓也は山野の方に少し移動して、彼女に一歩ずつ近づきながら言った。

「ぜーんぶ正解。大当たりい。正解者にはご褒美をあげないとなあ。野島」

 野島闘馬は、緑色の防弾マスクの下の呼吸口から白い湯気を発しながら言う。

「伍長、俺、この子、モロにタイプですよ。たまりません。ふー、ふー、ふー……」

 久瀬拓也は春木を見て興奮している野島に言った。

「そいつは、おまえから楽しめ。俺はこっちのお姉さんだ。なかなか色っぽいからなあ」

 山野紀子は、自分を嘗め回すように見ている久瀬をにらみ付けて言い放った。

「指一本でも触れたら、舌噛み切って死んでやるから!」

 すると、春木陽香が山野の前に出て、彼らの方を向いて大の字に両手と両足を広げた。

 彼女は大声で叫ぶ。

「編集長には手を出すなあ! この人には家族がいるんだあ! このボロカス軍人、ニセ軍人、出来損ないのスットコドッコイめ!」

「ハルハル……」

「編集長、早く逃げてください。こいつらは私が食い止めますから。ここから先には絶対に通しませんから!」

 久瀬拓也は顔を傾けて言った。

「おお、おお。震えちゃって、可愛いねえ。なあ、野島あ」

「はい、最高っス。こういうの、最高っス。もう我慢できねえ」

 野島闘馬は立ち止まり、腰の防具のボルトを緩め始めた。

 春木陽香は腰を引いてスチールパイプを構えたまま、小声で山野に言った。

「私が行きますから、その隙に編集長は逃げて下さい。いいですね」

「なに言ってるのよ、出来る訳ないでしょ、そんなこと!」

「編集長には朝美ちゃんがいるんです! 母親として、ここは逃げて下さい!」

「馬鹿じゃないの、ハルハル!」

「それは前からです。早く逃げて!」

 春木陽香は両手で握ったスチールパイプを高く振り上げると、久瀬に向かって突進していった。

「このおお! あっち行けえ、悪者お! やあー!」

 春木陽香は渾身の力で久瀬の肩にスチールパイプを叩き付けた。鋼鉄の鎧が高い金属音を鳴らす。それだけだった。彼女は涙目で、歯を喰いしばりながら必死に、何度も久瀬の体にスチールパイプを打ち込み続けた。久瀬拓也は頭の近くに向かってきた打撃のみを腕の防具で軽く避けながら、面倒くさそうに春木のスチールパイプを受けていた。

 やがて、春木の動きが遅くなると、久瀬拓也はスチールパイプを掴み取って奪い、後ろに投げ捨て、左手の甲で春木の頬を打ち払った。春木陽香はそのまま飛ばされて路上に倒れる。

「ハルハル!」

 そう叫んで駆けつけようとした山野の前に久瀬拓也が立ち塞がった。

「うほっ!」

 倒れた春木の姿を見た野島闘馬は浮かれ声を上げると、抱えていた小銃を投げ捨てて春木に駆け寄った。彼女の上に馬乗りになった野島闘馬は、春木の細い両手を掴み、地面に押さえつけた。久瀬拓也も小銃を放り投げると、山野を壁に押さえつける。山野紀子は久瀬の開いた両足の間から自分の腿を振り上げて、膝で股間を一撃した。

 久瀬拓也はニタリと笑って山野に言った。

「この鎧は超合金製でね。弾丸も弾き返すんだ。焦らなくても後で脱ぐからよ。楽しもうぜ。なあ」

 野島闘馬は春木の上で馬乗りになったまま、右腕で彼女の上半身を押さえつけながら、左手で必死に自分の下半身の鎧を外そうとしていた。

 春木陽香は足をバタつかせながら大声で叫んだ。

「編集長! 逃げて下さい! 編集長!」

 山野紀子は久瀬から壁に押さえつけられ、左手で口を押さえられている。

「んんん……」

 必死に抵抗する山野紀子の視界に久瀬の紅潮した顔が映る。深緑色の鎧に身を包んだ久瀬拓也は色欲に狂った目を見開いて、突き出した舌を動かしながら顔を近づけてきた。その後ろには、濃紺の戦闘服と紺碧の鎧が見えている。

 黒い手袋の大きな手が久瀬の後頭部を鷲掴みした。

「このカス野郎が」

 太く低い声と同時に、久瀬拓也は顔面から山野の後ろの壁に激突した。そのまま後ろに引かれた久瀬拓也が勢いよく背中から地面に転がる。そこには、体に密着した濃紺の戦闘服の上から紺碧の鎧を装着した大男が立っていた。その大男は、反射的に身を起こそうとした久瀬の顔面に黒いブーツの底で一撃を加えると、向きを変えて歩いていった。鼻血を噴き、目を回しながら上半身を起こした久瀬拓也は、何が起こったのか分からず、血だらけの顔を左手で押さえながら頭を左右に振った。そして慌てて、自分が放り投げた小銃を探す。その小銃は遠くに蹴り払われていた。その時には既に、その紺碧の鎧の大男は春木の上の野島の鎧の襟を掴んで引き上げていた。突如後ろから無理矢理に立たされた野島は咄嗟に腰の拳銃を抜いて大男に向けようしたが、大男は野島の拳銃を掴むと瞬時に逆手に捻った。拳銃は空に向かって一発だけ弾を発し、野島の手を離れた。奪った拳銃を投げ捨てた大男は、掴みかかってきた野島の左腕を取ると、そのまま彼を腰に乗せて放り投げ、空中で逆様になった野島の顎を掴んで、勢いよく後頭部から地面に叩き付けた。野島は頭のヘルメットを抱えて転がりまわる。大男はそこから素早く身を起こし、腿から小型のマシンガンを外しながら後ろを向くと、それを肩で構えて引き金を引いた。腰から大きな拳銃を抜いて大男に発砲しようと構えていた久瀬拓也は、逆に大男から猛烈な集中砲火を浴びる。久瀬拓也は胸の防具から激しく火花を散らしながら、体を小刻みに揺らして後ろに押されていき、そのまま角の建物の壁にぶつかって倒れた。弾倉の弾を撃ち終えた大男は少し腰を下げて素早くマシンガンから拳銃を離脱させると、それを握った腕を伸ばして後ろを向き、真っ直ぐに立った。大男の太い腕の先に握られていた拳銃の銃口は、彼に後ろから襲い掛かろうとしていた野島の防弾マスクの中心に当てられていた。大男が引き金を引く。鈍い金属音と共に、野島は体を仰け反らせて後ろに飛ばされた。

 闇の中に、硬い金属の鎧がアスファルトを叩く音が響いた。



                  21

 山野紀子は壁際に立ったまま、両肩を上げて首を竦め、固まっていた。閉じていた目を開けると、向かいの建物の角で、顔面を血で染めた久瀬拓也がアーマースーツの黒く凹んだ胸部から煙を立てて倒れていた。視線を横に動かすと、野島闘馬が路上に大の字で寝転んでいる。その隣で、涙を拭きながら春木陽香が体を起こしていた。山野紀子は彼女に駆け寄った。春木陽香は赤子のように号泣しながら山野に抱きつく。

「編集ちょおお。編集ちょおおー」

 山野紀子は強く春木を抱きしめた。春木陽香は嗚咽しながら山野に縋る。少し振り向いた山野紀子は、さっきの紺碧の鎧の大男が拳銃をマシンガンの銃身に再装着し、そのマシンガンの弾倉を入れ替えながらこちらに歩いて来るのを見て、春木を立たせて共にその場から離れた。

 二人の横を通り過ぎた大男は、彼女たちに背を向けると、マシンガンの銃身を自分の肩に載せて、倒れている野島の横にしゃがんだ。彼は気絶している野島を見下ろしながら、ブツブツと言っている。

「実戦では、安全が確認されるまで武器と通信機は絶対に手放すなって、予科で教わらなかったか? 次からしっかり周囲の安全を確認をしろよ。――まあ、次は無いけど」

 その大男は、防弾マスクがはめられた野島の顔を覗き込んだ。野島の防弾マスクは中央に大きく凹み、その中心には銃弾が突き刺さっている。大男はその弾丸を黒い手袋をした指先で摘まんで引き抜くと、その弾丸の潰れた先端を観察しながら、言った。

「防弾マスクを着けててよかったなあ。国民のキチョーな税金で買ってもらったモノだからな。感謝するんだぞ」

 弾を後ろに放り投げた大男は、寝転んでいる男からその変形した防弾マスクを外し、中の顔を確認した。

「あー、やっぱり野島くんかあ。鼻が折れてるな、こりゃ」

 その大男は、鼻血を流して気絶している野島の左腕を掴むと、それを上げたり下ろしたりして言う。

「あーあ、肩も外れてるし。間接モーターの調節をしねえで着るからだよ。馬鹿だなあ。だいたい兵卒のくせして、こんなアーマースーツなんか着るなっつうの。これを着て動けるのは、装着運動試験をパスした一定レベル以上の兵員だろうが。まったく……」

 後方の建物の角で、久瀬拓也が咳き込みながら身を起こした。それに気付いた大男は、しゃがんだまま溜め息を吐く。彼はゆっくりと立ち上がり、久瀬の方を向いてマシンガンを構え直した。視線を久瀬に向けたまま、掌を春木と山野の方に突き出して、後ろに下がるように指示する。春木と山野は彼の指示通り、そこから更に後ろに離れた。

 久瀬拓也は何とか立ち上がり、ふらつきながら拳銃の銃口を大男に向けた。

 大男は再びマシンガンを肩で構えて久瀬をしっかりと狙いながら言った。

「ったく、寝とけっての。面倒くせえ奴だなあ」

 大男が一発だけ発砲する。久瀬の拳から火花が散り、拳銃が弾き飛ばされた。すると、その大男の広い背中を強い光が照らした。背中の鎧が青く光る。大男は小さく溜め息を吐いて、マシンガンの銃身を肩に乗せた。光は道路の奥から届いている。そこから微かに聞こえる電気モーターの高音と共に、タイヤが地面を擦る音と、ゴムの焦げる臭いがしてきた。光源の下から白い煙が立っている。

 大男は少し振り向いて光源を確認すると、再び前を向いた。久瀬拓也は大きな戦闘用ナイフを腰から抜いて、ヨロヨロとした足取りで近づいてくる。大男は親指で肩越しに自分の後ろの光源を指しながら、久瀬に言った。

「一応、紹介しとくな。あれ、俺の相棒。おまえさ、さっき春木さんを殴っただろ。俺の相棒は相当に怒ってたからなあ。知らねえぞ、どうなっても」

 闇の向こうから、風を切る音と共に光がこっちに近づいてきた。

 大男は少し横に移動しながら久瀬に言った。

「ほーら来た。覚悟しとけよ、おまえ」

 山野紀子と春木陽香は驚きの表情を浮かべた。暗闇を高速で走ってきたのは、自分たちを執拗に尾行していた青いスポーツ・バイクだった。ラピスラズリ色のヘルメットを被ったライダーが跨っている。そのバイクはライトで久瀬を照らしたまま彼に向かって一直線に猛進してくると、大男の手前で前輪を高く上げた。ライダーは大男が伸ばした腕を掴んでバイクから離れると、彼の太い腕を軸に後ろに一回転して鮮やかに着地する。放り出されたバイクは勢いそのままに久瀬に激突し、久瀬ごと後ろの建物の壁に突っ込んだ。凄まじい衝突音の後、飛び散ったコンクリート片が地面に落ち、舞い上がった粉塵が風に流れた。前輪を上げて立った状態のまま壁にめり込んでいたバイクが逆様になって地面に倒れ落ちる。それを追うように、変形した防具が久瀬から外れてバイクの上に落下した。壁にめり込んだ久瀬拓也は、両手両足だけに重い鋼鉄製の防具をぶら提げた状態で壁の中から出てきて、バイクの上に倒れ込んだ。

 ラピスラズリ色のヘルメットの顎の辺りからチューブを取り外したライダーは、そのヘルメットを脱いだ。長く美しい黒髪が背中の紺碧の鎧の上に流れ落ちる。その若い女は前髪をかき上げながら久瀬を観察した。久瀬拓也はフラつきながら再び立ち上がっていた。

 大男と揃いの紺碧の鎧を身に着けている黒髪の女は、左手に持っていたヘルメットを大男の前に差し出すと、久瀬を見据えたまま言った。

「仕方ない。これ、持ってて」

 彼女はヘルメットを大男に預けると、長い黒髪を揺らしながら久瀬の前まで歩いていった。久瀬の前で立ち止まった彼女は、一度ゆっくり息を吐く。次の瞬間、左足を軸にして素早く回転した彼女は、右足の踵を久瀬の顎に打ち込んだ。長い黒髪が彼女の背中を追うように美しく流れて弧を描き、その向こうで久瀬が瞬時に薙ぎ倒される。少し遅れて、宙に飛んだ数本の歯が落下した。地面にうつ伏せたまま動かない久瀬に背を向けて、女は髪をかき上げながら戻ってきた。その時、意識を取り戻した野島闘馬が頭を振りながら上半身を立てた。大男が女にヘルメットを投げる。彼女はそれを受け取ると、野島の顔面にそのヘルメットを叩き付けた。ヘルメットのバイザーが砕けて飛び散る。野島闘馬は再び気を失って地面に倒れた。その横に、ひび割れたラピスラズリ色のヘルメットが転がった。

「ああ、スッとした」

 そう言った女は大男とハイタッチをすると、山野と春木の前まで歩いてきた。

 今度は山野紀子が春木を後ろに庇いながら、少し後退りして言った。

「あ、あなたたち、何者なの」

「国防軍の兵士です。本物の」

 黒髪をかき上げながらそう答えた若い女は、少しだけ誇らしげな顔をしてみせた。いわゆる「ドヤ顔」である。その後ろに立っていた大男が山野と春木に言った。

「あんたらを助けに来た。もう大丈夫だ」

 山野紀子と春木陽香は顔を見合わせた。

 肩にマシンガンを載せた大男は、後ろを向き、倒れている久瀬と野島を眺めて言った。

「ていうか、綾。おまえ、無茶苦茶するなあ。バイクでタックルですか……」

「あれくらい平気でしょ。アーマースーツ着てるんだし。それにこいつら、どーせ出来損ないのスットコドッコイでしょ」

 その黒髪の女は春木の方を向いて悪戯っぽい笑顔を見せた。



                  22

 エレベーターの扉が左右に開き、紺色の上着にタイトスカート姿の若い女が出てきた。黒い鞄を提げ、反対の手に書類を持った外村美歩監察官は、エレベーターの正面から真っ直ぐに延びた長く広い廊下を歩いていく。廊下の突き当りには両開きの大きな自動ドアがあった。外村美歩は、その鋼鉄製の自動ドアを見据えて、緊張した面持ちで廊下を歩いていく。自動ドアの向こうは国防省の参謀司令本部である。作戦活動の中枢であるそのセクションには、有事に備えて絶えず上級士官と国防官僚が詰めている。軍規監視局の監察官であり、大佐級の人間でさえ、滅多に足を踏み入れることはない。実際に、彼女はこの廊下を歩くのも始めてだった。胸の鼓動を抑えながら、外村美歩監察官は姿勢を正し、前へと歩いていった。

 すると、その自動ドアが左右に開き、耳の下にウェアフォンを当てながら、軍規監視局の森寛常行局長が出てきた。ほぼ同時に、彼女の視界にイヴフォンの着信を知らせる表示が浮かんだ。「局長」という文字が目の前に見えている。外村美歩監察官は書類を握った手を上げて、廊下の先の森寛局長を呼んだ。

「局長。ここに居ます」

 森寛常行は顔を上げ、少し目を細めて遠くの外村を確認すると、慌ててウェアフォンを仕舞った。外村の視界から着信表示が消える。

 森寛常行は外村の方に少し速足で歩き始め、手を振りながら言った。

「おお、やっぱり来たか」

 外村美歩も速足で進んだ。すると、森寛の背後で鋼鉄の自動ドアが再び左右に開いた。中から制服姿の伝令員が出てきて、速足でこちらに歩いてくる。その男は森寛の横を敬礼したまま速足で通り過ぎると、今度は駆け出して、外村の横を軽く敬礼しながら素通りしていった。立ち止まった外村美歩がその伝令員を目で追って振り向くと、さっき彼女が降りたエレベーターの隣のエレベーターのドアが開き、三人の制服姿の男たちが中から出てきた。伝令員が慌てて横に退き、敬礼したまま道を開ける。彼らは中将クラスの人間たちであった。外村美歩も速やかに廊下の隅に退いて道を開けた。彼女は速足で前を通り過ぎていく彼らに対し姿勢を正して敬礼した。中年の三人の男たちは険しい表情で外村の前を素通りしていく。彼らは同じように壁際に立って敬礼している森寛の前も素通りすると、突き当りで左右に開いた鋼鉄の自動ドアの向こうの部屋に入っていった。その時に一瞬だけ見えた部屋の中は、明かりが消されていて、正面の大型モニターに幾つもの地図が表示されていた。その前に置かれた大きなテーブルの上に浮かぶ建物のホログラフィーを数人の制服姿の男と背広姿の男たちが囲んでいる。そこと入り口のドアの間には何列も机が並べられていて、その上にホログラフィーで立体表示された文書や地形図の光が、その前に座る兵士たちの後ろ姿の輪郭を薄っすらと浮き立たせていた。鋼鉄のドアが左右から閉まりかけて停止し、再び左右に開いた。今度は迷彩服姿の若い女性の兵士が部屋から出てきた。彼女は書類を抱えたまま全速力で廊下を走り出した。森寛も外村も視界に入れずに、それぞれの横を駆け抜けて行く。外村美歩の後ろで急停止した彼女は、反転し、慌てて背筋を正して敬礼した。

「失礼しました、大佐殿!」

 その女性兵士はすぐに振り返り、再び駆け出していった。彼女はエレベーターには乗らず、その横の階段を駆け上がっていく。怪訝な顔でそれを見ていた外村の横に森寛常行がやってきた。外村美歩は森寛に尋ねた。

「何かの作戦を遂行中なのですか」

「ああ、そうだ。事が急展開しているようでね。ちょうど君を呼び出そうと思っていたところだったんだ」

「私を?」

「どうせ君のことだ。さっきの上野さんの話が気がかりで、監察官の独立権限で上層部に協力を仰ぐために、この参謀司令本部室までやって来た。後日、クビになるのを覚悟で。そうだろ?」

 森寛常行は外村が手に持っていた郷田たちの書類を指差した。

「ええ……まあ」

 外村美歩が怪訝そうな顔をしたまま答えると、森寛常行は頷いて言った。

「大丈夫だ。その点もすべてクリアできる。情報局の予測パターンの中に入っているそうだから」

「私が上申することが、作戦シミュレーションの中に組み込まれているのですか」

 ジョークを真に受けた彼女に少し呆れたような笑顔を見せながら、森寛局長は言った。

「冗談だよ、冗談。さっき、部外者の民間人である上野さんの前ではああ言ったけど、実は内々にある作戦が進められていてね。我が軍規監視局としても、少しだけ協力させてもらっていた。それと彼の話しが一致していたものだから、僕も少し戸惑ってね。まあ、悪者退治の作戦みたいだからウチも協力していた訳なんだけど、外部の民間人にこっちの話はできないだろ。ウチから漏れて作戦がパーになったらいけないからね。軍隊は、ほら、チームワークが大事だから」

 外村美歩は、まだ驚いた顔をしていた。彼女にはよく事情が呑みこめなかった。

 森寛常行は真顔に戻って言った。

「だからって、軍規監視局が民間人を誘拐した兵士たちを放って置く訳にはいかないじゃないか。でも行動を起こすつもりなら、全て指揮命令系統に従って報告してから進める。たとえ監察官の意思表示であってもね。それが軍隊だ。いいね、外村監察官」

 森寛の言った通りだった。実戦作戦の遂行中に、それに関係する案件で軽率な行動を取れば、仲間の命を危険に晒すこともあり得るかもしれない。外村美歩は手に持った報告資料を見つめながら、これを今ここに持参していることさえも軽率だったと悟った。

「申し訳ありませんでした。指揮命令系統は絶対だということを失念しておりました。局長に指示を仰ぐべきだったんですね」

 森寛常行は笑顔で言った。

「ま、そもそも指揮命令無しで動いている軍人を逮捕するんだからね。こっちはきちんとしないと。僕ら、法曹だし」

 外村美歩は頷いてから、一礼した。

 森寛常行局長は少し早口で言う。

「とにかく、奴らの悪事はすべてお見通しだよ。準備は出来ている。あとは令状だ。これからネット回線で裁判所に『電子逮捕令状』の緊急発布を申請する。僕が『申請者』になるから、君、『立会い証人』になってくれないか。早く済ませたい。やってくれるよね、外村監察官」

 外村美歩は森寛に対して敬礼して答えた。

「もちろんです、森寛軍規監視局局長」

 森寛常行も背筋を正し、敬礼した。そして、外村を参謀司令本部室に誘って言った。

「よし、じゃあ、さっそく中で始めようか。もう裁判所とは繋がっている。電子令状が発布されたら、逮捕事務を直ちに現場の実力部隊に一任する。さあ、記者さんたちを悪者たちから救出だ」

 二人は速足で廊下を歩いていき、突き当りで左右に開いた鋼鉄の自動ドアを通って、暗く慌しい部屋の中に入っていった。



                  23

 アーマースーツを脱がされた久瀬拓也と野島闘馬は、短パンにTシャツ姿にされて、大破した青いバイクにロープで括りつけられていた。口にテープを貼られたまま、必死にもがいている。

 二人の横で綾二等軍曹は手をはたきながら言った。

「ま、こんなものね」

 向こうに停車している屋根無しのジープの運転席から、山本一等軍曹が久瀬と野島に言った。

「あんまり暴れるなよ。そのバイク、壊れてるからな。超電導バッテリーから放電して、感電するかもしれんぞ」

 久瀬拓也と野島闘馬は動きをピタリと止めた。

 綾軍曹は、足下に転がっていたスチールパイプを拾った。長い黒髪をかき上げながら、それを山野に差し出して言う。

「いいですか?」

 山野紀子は黙ってそのスチールパイプを受け取ると、それで力いっぱいに久瀬の下腹部を一撃した。久瀬拓也は白目を剥いて身を縮める。

 山野紀子はスチールパイプで久瀬を指して、言い捨てた。

「今のは、哲ちゃんの分よ! あんたみたいな奴は、一生檻の中で過ごせばいいのよ! このボロカス男!」

 スチールパイプを放り投げた山野紀子は、綾軍曹と共にジープの方に歩いていった。

 春木陽香が野島の所に歩いてきた。

「コノヤロ」

 彼女は野島の股間を一蹴りすると、くるりと背を向けて、スタスタとジープの方に移動した。途中からスキップになった。野島闘馬は内又で身を丸めたまま悶絶していた。

 ジープの助手席には山野が座っていた。綾軍曹は運転席の後ろの後部座席の背もたれの上部に腰掛けて、銃身の長い大きな銃を抱えている。春木陽香は、彼女の隣の席に普通に座った。

 春木が後部のドアを閉めると、運転席の山本軍曹がギアを操作して車を走らせた。綾軍曹は風に黒髪をなびかせながら、周囲を見回して警戒している。

 春木陽香は隣の席の綾軍曹の顔を見上げて尋ねた。

「あの……ずっと私たちを尾行していたのは、もしかして、私たちを守るためだったんですか?」

 綾軍曹は左右の建物の上を見ながら答えた。

「まあね。だいぶ苦労させられたけど」

 春木陽香は目を大きくして言った。

「じゃあ、編集長が暴走運転した時も、別に私たちを狙っていた訳ではなくて……」

「そう。クラマトゥン博士が不審な死を遂げた後だったし、奥野も兵を動かそうとし始めた頃だったから、絶対にあなたたちから離れるなって命令されてたの。だから、猛烈な運転で私から逃げる編集長さんの車を、こっちも必死で追いかけたってわけ。戦術運転で。ヒュッ、ヒュッって」

 綾軍曹は、手先でバイクの角度を模して見せた。

 運転席から山本軍曹が隣の山野に言った。

「あんた、あんな運転をしてたら、いつか死ぬぞ」

 山野紀子は申し訳なさそうに首を竦めたが、すぐにその首を伸ばして、運転席の山本軍曹に尋ねた。

「じゃあ、あの地下高速の時も、私たちを守るために追いかけてきたんですか?」

 山本の後ろから綾軍曹が答えた。

「はい。あの黒い車が敵でした。運転していたのは久瀬」

「久瀬?」

 山野紀子は驚いて目を丸くした。

 綾軍曹は続けた。

「はい。事故に見せかけて、地下高速内であなたたちを殺すつもりだったはずです。ですから、私が間に入って盾になりました」

 山本軍曹が山野に説明した。

「奥野は当初から、あんたたちを消すつもりだったようだ。司時空庁とは別口でな。収賄の事実をあんたらに掴まれるのが恐かったんだろう」

 春木陽香が綾軍曹を指差して言った。

「ああ! じゃあ、永山先輩の家に突入したのも……」

「敵が永山さん一家を襲ったと思ったの。だから、急遽、突入した。ていうか、つい私が飛び出しちゃったんだけど」

 綾軍曹は舌を出して笑って見せた。

 助手席の山野紀子は、今度は怪訝そうな顔で尋ねた。

「だけど、寺師町で真ちゃんが襲撃された時は出てきてくれなかったわよね。今日、哲ちゃんとハルハルが襲われた時も」

 運転席から山本軍曹が答えた。

「俺たちは秘密偵察が本来の任務だ。あの場所で出て行くのは目立ち過ぎた」

 後ろから綾軍曹が付け足した。

「一応、私が狙撃の狙いはつけていたんですよ。あのチンピラたちに。だけど、あの熊みたいな人が現われて、バタバタやっつけちゃったんで……」

「ああ、ザンマルかあ」

 山野が呟くと、山本軍曹は言った。

「今日、春木さんたちを追いかけていたのは公安の捜査官だ。だから前に出る訳にはいかなかった。それに、敵は上空から接近していたからな。あの場で俺たちが前に出ていたら完全にあの捜査官たちと同じ目に遭っていたはずだ。ちなみに、あの二人の捜査官たちが春木さんたちを爆心地に追い遣ったんじゃない。たぶん上空のオムナクト・ヘリからハッキングされて、AI自動車の運転機能を奪われていたんだ。奴らのオムナクトからずっとあの公安の車両に向けて軍用の『乗っ取り信号』が発信されていたからな」

 山本軍曹は運転しながら、後ろの春木にも言った。

「地上を移動してあんたらを追いかけていた俺たちは、上空に居た奴らからの攻撃範囲に入ることが出来なかったんだ。だから、あんたらに近づけなかった。一応、あいつらも軍人としての訓練は受けているからな。迂闊に近づけば、あいつらに気付かれちまう。まあ、あいつらがあんたらをあの場で殺すはずはないと予測はしていたんだが、爆心地のクレーターにあんたらの車が落ちていった時には、正直、肝を冷やしたよ。恐い思いをさせて悪かった」

 山本がそう言うと、綾軍曹は春木と山野に知らせた。

「ちなみに、この前あなたたちがこの施設に潜入した時に神作さんを救ったのが、この山本軍曹。換気ダクトを銃弾で切り取って、彼をダクトから外に出したの。もし神作さんがあのまま中に居たら、気配に気付いたSTSの兵士たちが敵の潜入兵だと思って撃ってくるかもしれないでしょ。ダクトの中を確認せずに。だから山本は、神作さんをダクトから出した方が安全だと判断した。それで、先に銃撃してダクトを切り取って、神作さんを外に出したってわけ。彼の姿をSTSの兵士たちに確認させるために」

 山本軍曹は言った。

「司時空庁に配属されていても、STSの連中はもともと国防兵だ。相手が武器を持っていない民間人だと分かれば、不用意に彼を撃つことはしないはずだからな」

 山野紀子は呟いた。

「そうだったんだ……」

 車の速度が落ちた。

 山本軍曹はライトを消した。

「ちょっと、この辺で停まっときますか」

 山本軍曹は、左右に建物が並んで建っている道路の端に車を停めた。暗闇の向こうの滑走路の奥に小さく人影が見える。山野紀子が目を凝らしていると、横から山本軍曹が軍用の双眼鏡を渡した。山野紀子はそれを使って遠くを覗く。緑色の暗視映像が見えた。滑走路の中央で、両手を上げている二人の男性が鋼鉄の防具を身に纏った兵士たちに囲まれている。

 双眼鏡を顔に当てていた山野紀子が声をあげた。

「真ちゃん!」

「シッ。大丈夫だ。心配ない」

 山本軍曹は山野の前に手を出して、彼女を制止した。

 後ろの席から春木陽香が身を乗り出して前方の様子を観察した。山野紀子が双眼鏡を渡す。春木陽香は急いで双眼鏡を顔に当てた。

 緑色の景色の中で、両手を上げた神作真哉と永山哲也がアーマー・スーツを身に纏った郷田零音に銃を突きつけられている。隣には津田幹雄が立っていた。その周りを同じアーマー・スーツを装着して防弾用のヘルメットとマスクで頭部を覆った兵士たちが円陣を組んで取り囲み、小銃の銃口を神作たちに向けて構えていた。

 双眼鏡を下ろした春木陽香は思わず声を上げた。

「編集長! 神作キャップと永山先輩が……」

 後部座席の綾軍曹が黒い手袋をした手で春木の肩を掴んで自分の方を向かせると、人差し指を口の前に立てて見せた。

 助手席の山野紀子は不安な顔で滑走路を見つめていた。



                  24

 有多町の東の隅に、大通りに面して大きなビルが建っている。そのビルは御影石風の外壁で覆われていて、豪華な外観である。ストンスロプ社の顧問弁護士法人「美空野法律事務所」は、この自社ビルの中に事務所を構えていた。弁護士数千人を抱える巨大弁護士法人は、国内の大企業の顧問を一手に引き受けている。そのビルは周囲の官庁ビルよりは低かったが、作りが頑丈であることは、下から望んでいた上野秀則にも分かった。

 ビルの前の歩道に立ち、上を向いて口を開けていた上野秀則は、思わず言った。

「へえー。流石は日本一の法律事務所ですなあ」

 上野秀則は頬を膨らませて息を吐くと、上着の襟を整え、ネクタイの角度を直しながらエントランスへと向かった。ガラスのドアを開けて中に入ると、向こうに自動ドアがあった。そこへ向かう途中、視界に入った物に顔を向けた。美空野朋広を模ったブロンズ製の胸像が置かれていた。上野秀則はしかめた顔で、その胸像を眺めながら呟いた。

「今時、作るかね、こんな物……」

 暫くその胸像に軽蔑的な眼差しを浴びせていた上野秀則は、腕時計を見て、急いで自動ドアの方に向かった。ガラス製の自動ドアの向こうに受付らしきカウンターが見え、電気が点いていた。彼は少し緊張した面持ちで自動ドアの前に立った。ドアが右へとスライドする。上野秀則は中を見回しながら足を踏み入れた。少し向こうにカウンターがあり、そのカウンターは横に走って、先でL字に曲がり、部屋の奥まで伸びている。その奥にはエレベーターが設置されていた。カウンターの内側には幾つもの事務机が置かれていて、結構に広い。どの机にも人は座っていなかったが、奥の方の事務机に年配の女性が一人、立体パソコンのホログラフィー画面を前にして座っていた。上野の気配に気づいたらしく、その女は老眼鏡と額の間からこちらを覗いた。品よく椅子から立ち上がると、静々とこちらに歩いてくる。きちんとしたスーツに身を包んだ、上野よりも年上と思われるその女は顔から外した老眼鏡をチェーンで首にぶら提げたまま、カウンターの向こうに立った。

 上野秀則は軽く会釈をして言った。

「こんばんは。遅い時間にすみません」

 女は事務的な口調で答えた。

「はい。お疲れ様です。どちらの事務所の方ですか」

 上野秀則は顔の前で手をパタパタと振って言った。

「いや、違います。実はちょっと相談事がありまして」

 女は動じることなく、ゆっくりとした口調で答えた。

「あら、そうでしたの。つい、他の先生の事務所の方かと。失礼いたしました」

 丁寧に頭を下げた女につられて、上野秀則も少し頭を下げた。顔を上げた女は、上野に言った。

「ですが、申し訳ありません。もう受付の時間は終了しておりますの。何か緊急のご相談ですか」

 上野秀則はカウンターの上に両手を載せて、コクコクと頷きながら言った。

「緊急です。緊急も緊急。とにかく、美空野先生にお会いしたい。大至急」

 女は、のんびりとした口調で言う。

「あら、美空野先生に。そうですか……」

 上野秀則はカウンターの上に身を乗り出して言った。

「お会いできますか」

 女は左手を返して腕時計を見ると、また落ち着いた口調で言った。

「いえ。もう、美空野は退社しておりますわ。それに、事前にご予約を入れていただかないと……」

 上野秀則は、言葉に合わせてカウンターの上を両手で叩きながら言った。

「そんな時間は無いんですよ!」

 女は、また、のんびりとした調子で言う。

「そうなんですか。でも、困りましたわね。美空野は居ませんし……」

 上野秀則は懸命に食らいついた。

「何とか連絡を取ってもらえませんか」

「どなたかの御紹介で?」

「紹介? そんなモノは無いですよ。とにかく、急いでいるんです。話はすぐに済みますから。お願いします!」

 女は顎に手を置いて言った。

「そうですの。弱りましたわねえ。所長との直接の取次ぎは、御紹介のある方のみとなっておりますので……」

 上野秀則は、今度は強くカウンターの上を叩いて怒鳴った。

「一大事なんですよ! 先生のお力が必要なんです」

 女は目をパチクリとさせて、ゆったりとした口調で言った。

「あら、そうなんですか。それは大変ですわね。どういった内容のご相談ですの? よろしければ、触りだけでもお聞かせ願えません? 当事務所は他にも多数の弁護士が居りますので、その専門の弁護士なら至急連絡を取ることは可能だと思いますから」

 上野秀則はカウンターの上に乗り出した身から顔を突き出して言った。

「ストンスロプです。ストンスロプ社の担当弁護士は、誰か他に居ませんか」

「ストンスロプ社?」

「会いたいんですよ! 光絵会長に大至急。こちらは、ストンスロプ社の顧問弁護士法人なのでしょう?」

 女は怪訝な顔をして上野に言った。

「あの……失礼ですが、お名前は?」

 ハッとした上野秀則は、慌てて名刺入れを取り出し、中から取り出した名刺を渡した。

「ああ、すみません。こういう者です」

 女はチェーンが付いた老眼鏡を掛けて、受け取った名刺を見ながら言う。

「ダーティー・ハマー探偵社の浜田圭二さん。――探偵さんですの?」

「探偵? ああ、すみません。間違えました」

 上野秀則は浜田の名刺を返してもらい、上着のポケットに仕舞った。改めて名刺入れから自分の名刺を取り出した彼は、それを差し出しながら言った。

「すみません。貰った名刺を入れっぱなしにしていたもので。失礼しました。私は、こういう者です」

 再び受け取った名刺に目を通した女は言った。

「あら。新聞社の方ですの? 取材ですか?」

「いや、違います。まったく取材とは関係ありません。とにかく、光絵会長に直にお会いして、お話ししたいことがあるんです。緊急で」

「何か、個人的なお話ですの?」

「いや、そうじゃないんですが、ウチの記者たちのことなんです。今、起きていることなんですよ。現在進行形で。だから、至急、光絵会長に……」

 女は要領を得ない様子で尋ねた。

「それでしたら、御社から直接、面会をお申し込みになられては?」

「それで会ってもらえないから、こうしてここに伺ったんですよ!」

 女は老眼鏡を外して言った。

「ですけど、それで面会を拒否されていらっしゃるのなら、こちらに言われても同じことだと思いますわよ」

「いや、別に会長が直接に拒否している訳ではないんですよ。会長に繋いでもらえないんです。全く。だから、面会を申し込もうにも、その事情を説明できないんですよ」

 女はキョトンとした顔で言った。

「それは、面会を拒否されているってことですわよね」

「――あ……いや、だからですね……」

 顔をしかめる上野秀則の後方からヒールを踏み鳴らす音が近づいてきた。カウンターの向こうの年配の女は上野越しに言った。

「あら、お帰りなさい」

 上野秀則が振り向くと、スーツ姿の若い女性が立っていた。上野と同じ位の背丈のその女は高いヒールの靴を履いていたので、実際には上野よりも小柄である。茶色く染めた髪を緩く巻き、肩に垂らしていた。ふっくらとした頬に笑顔は無い。ベージュのジャケットに薄茶のタイトスカートを穿き、そのスカートを張って山野のように大股で歩いて行く。歳は春木くらいのようだ。分厚い革製の鞄のベルトを肩に掛けたその若い女は、上野に背を向けてカウンター沿いに歩きながら、カウンターの中の年配の女に言った。

「お疲れ様です、牟田むたさん。まだ残っていたのですか」

 カウンターの中の牟田という名の年配の女は、顔の前で手を一振りして言った。

「嫌ですわ。お帰りになられるのをお待ちしておりましたのに」

 若い女は牟田の方を見ることもせずに、カウンターに沿ってヒールを鳴らしながら歩いて行く。角のところに差し掛かると、その若い女は言った。

「そうだったんですか。遅くなってすみませんでした。もう帰ってください。後は私が閉めときますから」

 淡々とした口調でそう言った女は、角を曲がって再びカウンターに沿って通路を歩き、エレベーターの方へと向かった。

 牟田が女に声を掛けた。

「あの……」

 ピタリと足を止めた女は、顔だけを牟田に向けた。

 牟田はそろえた指を上野の方に小さく向けて言う。 

「こちらの方が飛び込みで、ご相談に……」

 牟田の困惑した表情を見た茶髪の若い女は、向きを変えて上野の方に歩いてきた。彼女は角を曲がりながら言った。

「どういったご用件でしょう」

 上野秀則は、少し荒っぽい口調で言った。

「まったく。ここの事務員さんたちは、どうなってるんだ。何度も事務員さんに繰り返し同じ話をしないと、弁護士に会わせてもくれないのですか」

 若い女は上野の方に真っ直ぐに進んできて、彼の目の前で停止すると、自分のジャケットの襟を左手で掴み、上野の顔の前に近づけて言った。

「私、弁護士ですけど。べ、ん、ご、し! このバッジが見えませんでしたか?」

 彼女が近づけた襟には、真新しい金色のバッジが付けられていた。

 上野秀則はもう一度、その若い女を上から下まで見た。どう見ても春木と同じ歳頃にしか見えない。少し慌てた上野秀則は、とりあえず女に言った。

「あ……いや、先生でしたか、失礼しました。切迫した事態なもので、つい、カッとなってしまって。申し訳ない」

 牟田がカウンターの内側から上野の名刺を女に渡して言った。

「ストンスロプ社の光絵会長にお会いしたいそうですの」

 女は名刺に軽く目を通すと、それをカウンターの上に置き、大きく溜め息を吐いた。そして上野の方にまっすぐに顔を向けると、言った。

「お話しは伺えません。お帰り下さい」

 すぐに踵を返した女は、上野に背中を見せて歩いていった。

 上野秀則は呆気にとられて、口をパクパクとさせている。

「あ、先生。ちょっと……」

 角を曲がった女を牟田が呼び止めた。牟田は速足で自分の机に戻る。茶髪の女はカウンターに沿ってエレベーターの方に歩いていき、その手前で立ち止まった。机から速足で女の方に移動していった牟田に女が尋ねた。

「何でしょう」

「美空野所長から、これを先生に渡すようにと」

 牟田からMBCを渡された若い女が再度尋ねる。

「これは?」

 牟田は小声で言った。

「新規の相続案件らしいですわよ。例のタイムトラベル法による相続らしいですわ。所長の方が忙しくて手が回らないそうですの。それで、先生に担当するようにと。先生の部屋の事務員の方、小彩おざいさんでしたっけ、あの方が定時で帰られていましたから、私の方でお預かりして……」

 女は牟田の説明の途中から大きな声で叫んだ。

「ええー! 小彩さん、また帰ったんですか? もう……この処理、今日中にしないといけないのに」

 女は肩にベルトを掛けた革製の分厚い鞄を少し持ち上げて見せた。牟田はカウンターの上から身を乗り出して女に顔を近づけると、口元に手を添えて耳打ちした。

「その相続案件、ウチの老舗の顧問先の水枡みずます病院の案件らしいですわよ。最初から最後まで、全部、町田先生にお任せになるようですから、頑張って下さい。所長にアピールをする良いチャンスですわよ」

 女は握ったMBCを見つめている。

 向こうのカウンターの所でコソコソと会話をしている女たちを見て苛立ちを募らせた上野秀則は、二人の方に歩いて向かいながら怒鳴った。

「おいおい、ちょっとあんたら。端の方で何をゴニョゴニョと話してるんだ! 頼ってきた一般人に帰ってくれの一言だけで、何の説明も無しですか!」

 若い女が上野をにらみ付ける。

 二人の近くまで歩いてきた上野秀則は、カウンターの中の牟田の方を見て言った。

「他にも弁護士はいるんでしょう。この先生が無理なら、他の先生でもいい。とにかく急いでいるんだ。誰かストンスロプ社の光絵会長に繋いでもらえる弁護士を紹介してもらえませんか」

 女が重そうな革製の鞄を激しくカウンターの上に乗せた。彼女は上野の顔を見て、きっぱりとした口調で言う。

「他の弁護士も、ご紹介できません」

「どうして。紹介すらしてもらえないのか!」

 女は溜め息を吐くと、真っ直ぐに上野の顔を見据えて言った。

「いいでしょう。ご説明します。理由は三つ。まず第一に、弁護士は仲介業者ではありません。あくまで依頼人の代理人として依頼人に代わって相手方に対応するのが仕事です。直接本人と会わせてくれと言われて、いちいち会わせていたら、『代理人』の意味がありません。第二に、あなたが所属している新日ネット新聞社はステムメイル社と新聞掲載用のサーバースペース賃貸借契約及び各種のネット上へのアップロードの請負契約を締結していますよね。ウチの弁護士法人は、そのステムメイル社と紛争中のフィンガロテル社の代理人を引き受けています。紛争当事者である相手方からの受任は双方代理となり違法であることは勿論ですが、他の相談に乗り便宜を図ることも、弁護士倫理に反するとして弁護士管理規則で禁止されています。あなた方の会社は相手方そのものではありませんが、あなた方の会社の主力業務を委託するという非常に親密な関係にあります。こちらとしては、現状ではステムメイル社と新日ネット新聞社を一体として考えざるを得ません。第三に、今、このビルの中で残っている弁護士は私だけです。他の先生方は全員帰宅されました。一般家庭に固定回線が無いということはご存知ですよね。つまり、連絡は携帯端末への連絡になります。ところが、つい先程から新首都圏内の携帯型端末は全て使用不可能になりました。どうも何らかのシステムトラブルのようです。したがって、ストンスロプ社を担当している他の弁護士に連絡しようにも、そもそも連絡する手段がありません。よって、あなたを当事務所の他の弁護士に紹介することは、法律的にも、倫理的にも、物理的にも出来ません。以上」

 少しの間、上野秀則は口を開けたまま何も言えなかったが、すぐに浮かんだ疑問を彼女にぶつけた。

「――な、なんでウチとステムメイル社が契約していることを知っているんですか」

 女はカウンターの上の分厚い鞄を叩いて言った。

「たった今、そのステムメイル社側の代理人との交渉から戻ったばかりですので」

 上野秀則は、また口を開けた。目の前の若い弁護士がステムメイル社と争っている大企業フィンガロテル社を担当する代理人弁護士だとは思いもしなかったからだ。上野が知る限り、この手の大企業同士の交渉には弁護士が数人掛りで取り組む。一人で担当しているはずはないので、代理人チームの一人なのだろうと、彼は思った。

 上野秀則があれこれと考えていると、女は再び鞄を重そうに肩に掛けて歩いて行こうとした。それを見た上野秀則は、大きな声で怒鳴った。

「同僚の身に危険が及んでいるんですよ!」

 また振り返った女は、しっかりとエレベーターの奥の方を指差して言った。

「なら警察に行って下さい。いずれにしても、ウチではお引き受けできません」

 カウンターの内側から牟田が小声で女に言う。

「先生、警察はあっちの方角ですわよ」

 女は自動ドアの方を指差し直した。

「はあ? 何なんだ。人が困っている時に助けるのが弁護士じゃないのか!」

 憤慨して怒鳴る上野の顔を見て、女は言った。

「困っている人を助けるのは、弁護士に限られたことではありません。それに、法律を守るのが弁護士です。その点もお忘れなく」

「何のための法律だよ。法は人を守るために在るんだろ!」

「そのことと、このことは関係ありません。私共の立場では、あなたの力になることは出来ないと言っているのです。急がれているのでしたら、早く他を当たって下さい」

 上野秀則は床を指差しながら怒鳴った。

「ここは、ストンスロプ社の顧問弁護士法人なんだろ! 会長に繋ぐって簡単なこともできないのか。子供でも出来るだろうが、それくらい!」

 女は、また溜め息を吐くと、顔を上げて上野をにらみ付けながら言った。

「まだ私の業務を妨害するつもりですか。次の仕事もあるんですけど」

 女は手に持ったMBCを上野の顔の前に突き出して振ってみせた。

 怒りに顔面を紅潮させた上野秀則は、怒鳴りながら振り返った。

「知るか! もう、いい! あんたらには頼まん!」

 両肩を上げたまま、上野秀則はカウンターに沿って自動ドアの方に歩いて行く。

 上野の背中を見ていた女は、重そうな鞄を肩に掛け直すと、くるりと振り向いて、そのままエレベーターへと向かった。

 鼻息を荒らして角を曲がった上野秀則は、憤慨したまま床を踏み鳴らして歩き、自動ドアの前まで進んだ。自動ドアの前に来ると、彼は立ち止まって振り向いた。そして、エレベーターに乗り込んでいた若い女の弁護士を指差して、また大声で叫んだ。

「あんた、名前は!」

 その茶髪の若い弁護士は、エレベーターの中から大声で答えた。

町田まちだ梅子うめこです」

 エレベーターのドアが閉まる。

 自動ドアを通った上野秀則は、紅潮した顔に血管を浮き立たせ、頬を震わせながら、美空野の胸像の前を速足で通り過ぎていった。



                  25

 暗い滑走路の上で、アーマースーツを着た兵士たちが内向きに広い円陣を組んでいる。その中央には、神作真哉と永山哲也が地面に膝をついて並んでいた。頭の後ろで両手を組んでいる二人の前には、首と頭にだけ防具を付けていないアーマースーツ姿の郷田零音と背広姿の津田幹雄が立っている。

 津田幹雄は赤いネクタイの角度を直しながら、神作と永山に尋ねた。

「何故だね。どうして君たちは、こうも毎回、手間を掛けさせるんだ。そんなに早死にしたいのかね」

 神作真哉は横を向いて言った。

「そいつは御免だね」

 津田幹雄は鼻で笑って言う。

「じゃあ、どうして逃げた」

「早く帰りたいだけさ」

「急ぎの用事かね。やはり、田爪博士の研究データのコピーを持っているんだな」

「残念でした。早く帰りたいだけだと言ってるだろ。今年は忙しくて、渓流釣りにも行けなかったからな。急がないと、イワナの時期が終わっちまうんだ」

 神作真哉がそう言うと、津田幹雄はすぐに横を向いて郷田に尋ねた。

「軍曹、女二人は何処に行った」

 郷田零音はニヤリと笑んで答えた。

「久瀬伍長と野島が捕らえました。無線が切られているところをみると、今頃、お楽しみの真っ最中でしょうな」

 津田幹雄は嘆息した。

「この野郎……」

 神作真哉は郷田をにらみながら肩膝を立てた。郷田零音が機関銃の先を神作に向ける。

「おっと。そうカッカするなよ、元ご主人。もうあんたの女房じゃないだろ」

 津田幹雄は郷田が話していた途中から、永山に話しかけていた。

「永山君、どうだね、この辺で正直に話してくれないか。元はと言えば、君が南米に行って田爪博士にインタビューしたことがきっかけじゃないか。これ以上まだ、仲間に迷惑をかけ続ける気かね」

「永山、耳を貸すな」

 神作真哉が郷田をにらみながら言った。

 永山哲也は津田をにらんだまま言う。

「何度でも言いますよ。僕は研究データのコピーなどは貰っていない。バイオ・ドライブも、あのマシンに乗せて送りました。だから、今の僕たちは何も持っていない」

 津田幹雄は大袈裟に項垂れて見せて、言った。

「強情だなあ。正直に言えば済むことを……」

 そして、顔を上げると郷田の方を向いて早い口調で言った。

「仕方ない。軍曹、一人始末しろ。仲間の命が犠牲にならんと分からんようだ」

 一歩さがった津田の前に郷田が出て、背後の津田に尋ねた。

「どちらにします?」

「永山だ。神作には元女房がいるからな。こいつの目の前で山野をいたぶればいい。そうすれば吐くさ。どうせ、こいつか春木のどちらがデータを隠し持っているはずだ。もう永山は持っていない。こいつから殺せ」

「了解です」

 郷田零音は永山に銃口を向けると、その機関銃の銃尾を肩に当てて構えた。永山哲也は歯を喰いしばったまま郷田をにらみ付けている。郷田零音は引き金に指を掛けた。その瞬間、人影が郷田の視界を塞ぎ、彼の機関銃を蹴り払った。郷田が構えていた機関銃は銃口から火を噴きながら横に流れ、永山の横の地面に銃弾を撃ち込む。永山哲也は逃げるように横に倒れた。

 郷田の目の前に突如現れた男は、濃紺の戦闘服に紺碧の防具を付けていた。男は握っていたピストル形の粘性ワイヤー発射装置の先端を素早く郷田の機関銃の側面に押し当てて引き金を引き、ほぼ同時に凝固スイッチを押した。発射装置から射出されたワイヤー粘液に電気が流れ、接着した機関銃へと電導する。機関銃の銃身のあちらこちらから火花が飛び散った。機関銃から右手を放した郷田零音は男に左拳を放つ。男は持っていた小銃を盾にしてその鋼鉄の拳を受け止めた。小銃がへし曲がり、割れた部品が飛び散る。男は瞬時に郷田のむき出しの喉に手刀を撃ち込んだ。白目を剥いた郷田は右手で腰から拳銃を抜いて持ち上げようとする。男はその銃身を左手で掴んで捻り、右手に持っていた小銃を一瞬だけ宙に浮かせて素早く持ち変えると、そのまま郷田の右手首の上に斧のように振り下ろした。郷田の鎧の右手首から火花が散り、大きな拳銃がアスファルトの上に転がる。男が再度振り上げた小銃を郷田が左腕で弾き飛ばした。男は郷田の顔面にジャブを一発打ち込み、素早く身を下げて郷田の右拳をかわす。空振りした郷田は左手で腿から戦闘用ナイフを抜いた。そのナイフを郷田が前に出すよりも早く、男は郷田の左手首を蹴り押す。続けざまに左肘を郷田の顔面に打ち込み、すぐに身を屈めて、郷田が大きく振ったナイフをかわした。背中を見せた郷田の脇腹に一撃を加え、すぐに郷田の左膝を蹴る。バランスを崩した郷田が大きなナイフを振り戻した。男はその郷田の左手首を掴み、そのまま郷田を背負い投げた。鋼鉄の鎧を身に纏った郷田零音が男の肩の上で逆さまになる。郷田の手を離れた戦闘用ナイフが回転しながら宙を舞った。郷田零音はそのまま正面からアスファルトの上に落とされた。地響きのように深い衝突音が鳴る。地に転がった郷田零音はすぐに顔を上げたが、その時には、紺碧の鎧の男が彼の背中に馬乗りになっていた。男が握った戦闘用ナイフの冷たい刃が郷田の喉元に当てられている。そのナイフより一回り大きなナイフが郷田の視線の先に落ちてきて、アスファルトの上に真っ直ぐに突き刺さった。

 男が郷田の耳元で静かに言う。

「防具を着けるのなら、全て装着しておけ。こうなるからな」

 地に腹這いになったまま、首を反らして頭を持ち上げた郷田は、観念したように動きを止め、背中に乗っている紺碧の鎧の男に言った。

「テメエ……何者だ……」

 周囲の兵士たちは、突然の襲撃にもかかわらず、男の鮮やかな格闘術に見とれるように呆然としていたが、ハッとしたように慌てて機関銃を構え直した。起き上がった永山哲也が神作真哉と顔を見合わせる。津田幹雄も、一瞬何が起こったのか分からず立ち尽くしていたが、すぐに我に返り、周囲の兵士たちに声を上げた。

「何やってるんだ、さっさとそいつを撃て!」

 すると、喉元にナイフを当てられたまま郷田が叫んだ。

「違う、上だ! 他を降下させるな!」

 周囲の兵士たちは郷田の言葉に反応し、一斉に銃口を上に向けた。兵士たちが防弾マスクの暗視機能で夜空を覗くと、上空の闇の中に無音でホバリングしているオムナクト・ヘリの小さな機影が微かに見えた。兵士たちは遥か上空の小さな機影に狙いを定めながら、ヘルメットの中の通信機で他の兵士たちと通信した。

『あの高さから降下したのか。信じられん……』

『くそ、高すぎるぞ。狙えるか』

『いや、それより、こっちの弾は届かねえだろ、あれじゃ』

 夜空に向けてマシンガンを構えたまま引き金を引かない兵士たちを見て苛立った津田幹雄は、周囲の兵士に怒鳴りつけた。

「何をしている、早く撃て! 仲間が降下してくるだろうが!」

 兵士たちは一度、自分の左右隣の兵士たちと顔を見合わせてから、上空に向かって発砲を始めた。神作真哉と永山哲也は地面に飛び込んで伏せると、すぐに両手で耳を塞ぐ。

 凄まじい発砲音が周囲に響き、円形に並んだ兵士たちの上に点滅する火花が大きな輪を描いて周囲を照らした。

 身を低くして郷田を取り押さえていた男は、少し溜め息を吐いてから、言った。

「届かないって。それに……」

 周囲の兵士たちの銃撃が止んだ。耳を押さえてうつ伏せていた神作真哉と永山哲也は、ゆっくりと顔を上げる。周囲の兵士たちは再び円陣の内側を向いていた。郷田の背中の上の男の頭部に、津田幹雄が拳銃の銃口を当てている。その拳銃は、先程、男が郷田から払い落とした銃だった。アーマー・スーツを装着した機械化歩兵が鋼鉄製のグローブを装着した状態でも使用できるように設計されたその拳銃は、通常の拳銃よりも一回り大きい。

 津田幹雄は、その大きな拳銃を右手で重そうに構えて、男に言った。

「どこの機関だ。誰の命令で来た」

 周囲の兵士たちは津田が邪魔で、余計に男を狙い難くなっていた。

 男は郷田に視線を向けたまま、背後の津田に言った。

「その拳銃は普通のピストルとは威力が違う。引き金も固い。仮に撃てたとしても、反動で肘か肩の関節を壊すぞ。やめとけ」

 地面に伏せていた永山哲也の視線の先には、さっき郷田が放棄したマシンガンが落ちていた。永山哲也はそれに手を伸ばそうとしたが、神作真哉がその手を掴み、黙って首を横に振った。

 喉にナイフを当てられている郷田は津田に叫んだ。

「びびってねえで、さっさと撃て! 津田あ!」

 津田幹雄は両手で拳銃を握り直すと、震える指を拳銃の大きな引き金に当て、肩に力を込めた。


 

                 26

 上野秀則は顔を紅潮させて、有多町の歩道の上の人ごみの中を歩いていた。肩を上げて大股で歩く上野の額からは湯気が立っている。その憤慨した様子の彼を見て、他の通行人が彼を避けて通る。周囲では頻繁に通過する特殊車両のサイレンが幾つも響いていた。

 騒音の中で、上野秀則は独り言を大きな声で発した。

「まったく! 何なんだ、あの小娘は! 弁護士だと? いい気になりやがって。もう少し常識ってものが無いのか。ウチのハルハルの方がしっかりしているじゃないか。だいたい国も、弁護士の資格を与えるなら、どうしてちゃんとした社会人に与えないんだ。あんな若いのを弁護士にしたって、回りから弁護士扱いされて歳を重ねていくんだ。まともな社会人になる訳ないだろ。そんなんでベテラン弁護士になっても、人の苦労や痛みなんかが分かるか! 受験年齢を四十歳以上にすればいいんだよ。みんな自分が四十だった頃を考えてみろっての。まだまだじゃなかったか? まして、あの若さで弁護士だと? 法曹だと? 若すぎるんだよ、人間的に! そもそもな、若造の人格もまともに見抜けない今の法曹界って何なんだよ。アホの集団なのか? 職業人としての徒弟制度を無くしちまったから、こんな風になったんだよ。これじゃ近頃の医者連中と同じじゃねえか!」

 支離滅裂なことを並べながら、上野秀則は速足で歩道の上を歩いていく。

 路肩のパーキングに停めた自分の車が見えてくると、上野秀則は少し冷静を取り戻し、上着のポケットに右手を入れた。

「本当に繋がらないのか?」

 イヴフォンを取り出した上野秀則は歩道の真ん中で立ち止まった。イヴフォンをネクタイの上に留めて通話してみる。暫く夜空を見上げていた上野秀則は、イヴフォンを外して上着の中に仕舞った。

「ホントだ。『システムの不具合により通話できません』か。システム異常ってことは、またSAI五KTシステムの故障か? まったく、こんな時に……」

 ポケットの中で何かが手に触る。さっき仕舞った浜田探偵の名刺だ。それを取り出した上野秀則は、周囲を見回して公衆電話を探した。

「この辺なら、どっかに一つくらいは在るはずだがなあ……」

 通り沿いのバス停の近くに公衆立体電話のボックスが立っていた。一つだけポツリと置かれているそのガラス製の縦長の箱の前には、長い人の列が出来ている。

「だよなあ……」

 肩を落とした上野秀則は、もう一度周囲を見回した。

 携帯電話のシステム異常は人々に大きな影響を与えていた。歩道の上では、多くのサラリーマンたちが植え込みの端に腰を乗せ、険しい顔で端末をいじりながらインターネット通信をしている。その向こうでは、何か重要な連絡が取れないことに苛立っているのか、自動販売機に八つ当たりをしている男を制服の警官が羽交い絞めにして止めていた。その横の路上では、配車の連絡を受けられない何十台ものタクシーが長い列を作り、道を埋めている。奥の通りではトラック同士がすれ違いで停止し、窓を開けて運転手同士で情報を交換していた。その前後にも渋滞の長い車列が生じている。横の歩道の人混みの中を若い女が周囲を見回しながら歩いていた。彼女は必死に子供の名前を叫んでいた。遠くの方で凄まじい金属の衝突音がした。おそらく交通事故か、何らかの作業中の事故だろう。

「通信ネットワークの部分的停止だけで、これか。こりゃ、もしSAI五KTシステムが全面的に停止したら、大惨事になるな。神作や永山の言ってた通りじゃねえか……」

 暫く呆然と立ち尽くしていた彼は、脱力するように膝に手を付き、肩を落とした。

「チクショウ。こんな状況の中で、その神作たちを救うには、どうしたらいいんだ。警察も軍も駄目、法律家は助けてくれない……」

 目の前を救急車がサイレンを鳴らしながら通過した。上野秀則は顔を上げる。

「サイレン……そうか! 防災隊か! あそこなら、救い出してくれるかも……」

 だが、彼は視界に入ってきた周囲の景色に、改めて落胆する。

「いや、この状況じゃ、忙しくて話なんか聞いてもらえないか……。それに、相手は武装したワル連中だ。防災隊は武器を持っていないしな。畜生、どうすりゃいいんだよ」

 上野秀則は手に持っていた浜田の名刺を見ながら呟いた。

「こいつに頼んでも無駄だよなあ。ただのアホな探偵だもんなあ……」

 また、大きく溜め息を吐く。

「はあ……あ、武装? 何も日本の軍隊じゃなくてもいいじゃないか。環太平洋連合の協働部隊。米軍を中心とした部隊が横須賀に駐留してるんじゃなかったっけ」

 背伸びをした上野秀則は、短い首を精一杯に伸ばして通りの向こうを見渡した。

「外務省ビルは、この近くだったはずだが……ああ、よし。あそこか!」

 大混乱となりつつある有田町。その歩道の上を、小作りな体で人ごみをかき分けながら、上野秀則は走っていった。



                  27

 津田幹雄は地面に伏せた郷田の背中に乗っている男の頭部に大きな拳銃の先端を当てていた。両手でグリップを握り、引き金に指を掛けている。声は震えていた。

「わ、悪く思うなよ。一人で乗り込んできた、おまえが悪い」

 喉元にナイフを当てられている郷田零音が津田と他の兵士たちに怒鳴った。

「馬鹿が! 一人のわけがないだろ! さっさと撃て! おまえらも周囲を警戒しろ!」

 その瞬間、鈍い金属音が響いた。津田が握っていた拳銃が火花を散らして弾き飛ばされる。津田幹雄はその勢いで横に流され、地面に転がった。周囲の兵士たちは反射的に身を少し屈めた。体を起こした津田幹雄は、違和感を覚える自分の右手を見た。人差し指が横に直角に曲がっている。

「あ……骨が……指の骨が折れた……」

 津田幹雄は右手を又に挟んで身を丸めた。その様子を見た郷田が舌打ちする。

 兵士の一人が無線で叫んだ。

『狙撃手がいるぞ! どこだ、探索しろ!』

 内側を向いて円陣を組んでいた兵士たちは一斉に振り返り、外側を向いて機関銃を構えた。兵士たちは肩で据銃したまま、暗い滑走路の周囲を見回す。兵士の中の一人が再び振り返り、円陣の内側を向くと、郷田の背に乗っている男に銃口を向けた。それと同時に風を切る短い高音が鳴り、彼の機関銃の側面から火花が散った。衝撃が銃身を横に押す。その兵士が機関銃を見ると、側面に風穴が開いていて、そこから盛れた電気が放電を繰り返していた。驚いた兵士は機関銃を放り投げると、腰を抜かして座り込んだ。

 別の兵士が遠くを指差しながら無線で叫ぶ。

『向こうだ、十一時の方角だ! 建物の角にジープが停まっている。そこから……』

 その兵士の兜の側面が火花を散らした。突き飛ばされて円陣の内側に倒れ込む。

 他の兵士が機関銃を構えて叫んだ。

『くそお、撃てえ! 十一時のごっ……』

 その兵士の喉を覆っていた鎧に火花が走り、彼は大の字になって後方に飛ばされた。郷田零音は、自分の目の前に転がっている兜を撃たれた兵士と喉を押さえて咳き込みながら悶えている兵士を見て、周りの兵士たちに大声で叫んだ。

「敵の弾は徹甲弾じゃねえ! 鎧に当たっても貫通しねえぞ。びびるな、撃て、撃て!」

 腰を落として銃口を下げていたアーマー・スーツ姿の兵士たちは一斉に機関銃を高く構え直すと、その銃口を遠くの建物の陰に隠れているジープの方角に向けた。すると突如、彼らの深緑色の鎧の表面を南と西の方角から強烈な光が照らした。防弾マスクの偏光バイザーでも防げない強い光に耐えきれず、兵士たちは機関銃から片方の手を放して防弾マスクの前に翳した。上空から急降下してきたオムナクト・ヘリからもサーチライトが照射され、地面に伏せていた神作と永山を照らしている。神作真哉と永山哲也は、あまりの眩しさに両目を閉じ、顔を手で覆った。兵士たちは光の方に手を翳し、何とか敵の光源の位置を確認しようとする。その光源の近くには何台もの車体と人の影が並び、南と西を塞いでいた。兵士たちは自分たちが確認した敵の位置を無線で報告し合うと、その方角に向けて機関銃を構えた。次の瞬間、光源の奥から凄まじい発砲音が鳴り、兵士たちの足下の土が激しく高く舞い上がった。発砲音も弾の破壊力もそれまでのものよりも明らかに大きい。地表の土やアスファルトの破片が各兵士たちの身長を越えて舞い上がった。兵士たちは身を低くすることすらできないまま、銃口を下げて動きを止めた。ところが、銃撃は一人の兵士も傷つけることは無く、すぐに止んだ。兵士たちは腰を落としたまま固まっている。

 南の光源の中から、拡声器を通して、太く大きな声が響いた。

「国防省情報局の増田基和少将である。軍規監視局からの逮捕委託に基づき、貴様らの身柄を拘束する。武器を捨てて直ちに投降しろ!」

 深緑色の鋼鉄の鎧を身に纏った兵士たちは、互いに顔を見合わせた。

 地面に伏せていた神作真哉と永山哲也も、光を手で遮りながら、顔を見合わせる。

 拡声器の男の声は続く。

「どうしても戦いたければ、我々の『特務偵察隊』が相手になる。死にたければ、かかってこい!」

 ライトに照らされていた兵士たちは動きを止めたまま、左右の仲間と互いに通信した。

『と……特務偵察隊だって? 冗談だろ?』

『情報局に選抜された特殊部隊じゃねえか。か、勝てるわけねえ!』

 深緑色のアーマー・スーツの兵士たちは、一人、また一人と、機関銃を放り投げて両手を高く上げ、次々に地面に膝をついていった。その様子を見た津田幹雄は右手を両腿で挟んだまま、声を荒げた。

「おまえら、どうしたんだ。兵士だろ。何やってんだ、銃を拾え! 戦うんだ!」

 郷田零音が背中の男から頭を地面に押し付けられたまま、津田に言い放った。

「冗談じゃねえ。テメエ、情報局の特務偵察隊を知らねえのか。こいつらは『増田学校』の連中なんだよ! やりたければ自分でやれ。俺は降りるぜ。殺されるのは御免だ!」

 郷田の背中に馬乗りになっていた男がニヤリと片笑む。郷田零音は完全に観念して力を抜いた。男は郷田の喉元からナイフを離した。

 津田幹雄は周囲を見回した。鋼鉄のアーマー・スーツに身を包んだ屈強な兵士たちの全員が、自主的に兜の後ろで腕を組み、両膝をついて座ったまま動こうとはしなかった。

 郷田を後手にして両手に手錠をはめていた男は、中腰で困惑している津田に忠告した。

「俺なら、周りのプロたちと同じようにするがね」

 額に無数の玉汗を浮かべた津田幹雄は、右手を押さえたまま立ちあがり、東に向かって駆け出した。両膝をついている兵士たちの間を抜けて、闇の中を駆けていく。すると、彼の目の前の地面に数発の弾丸が撃ち込まれ、土埃を舞わせた。

「ひっ!」

 短く悲鳴をあげた津田幹雄は、急停止すると、今度は北の方に走ろうとした。彼が進もうとした先の地表に銃弾が撃ち込まれ、再び彼の行く手を阻む。津田幹雄は半泣き状態で横を向き、西に向かおうとした。今度は彼の靴の縁すれすれの地面に数発が着弾した。彼はすぐにその足を上げた。続いて、反対の足の靴の近くの地面にも着弾した。津田幹雄は足を入れ替えて持ち上げる。地に着いた足の靴の横の土が飛び散った。彼はまた足を入れ替えて持ち上げた。彼の動きに合わせるように、彼が地に足をつく度に、その近くの地面に一発ずつ銃弾が撃ち込まれた。蒼白の顔で怯えながら、津田幹雄は左右の足を必死に入れ替えて、その場で踊るように足踏みを続けた。眼鏡がずれ、高級生地の背広が飛び散った土で汚れる。必死に足踏みを続けた後、彼は疲れて転倒した。腰を抜かした津田幹雄は四つん這いで南の方角に進んだ。震えながら這い進む津田幹雄を追い詰めるように、彼の後ろの地面に間隔を空けて一発ずつ銃弾が撃ち込まれる。津田幹雄は必死に地を這って前に進んだ。折れた指の痛みは忘れていた。眼鏡が落ちる。彼は眼鏡を拾うと、土まみれのレンズを拭きもせずに、震える左手でそれを顔に掛けた。彼の視界に革靴とスラックスの裾が映った。顔を上げると、地味なスーツと赤いネクタイ、そして、知った男の顔が目に入った。そこには増田基和が立っていた。

 増田基和は耳元のイヤホンマイクに手を添えて言った。

「軍曹、もういい。それくらいにしておけ」

 彼は険しい顔を下に向け、足下に縋る津田をにらみ付けた。



                  28

「了解」

 そう答えた綾二等軍曹は、ジープの後部座席のシートの背当てに腰を乗せ、肩の高さで構えた高性能長距離ライフル銃の照準器を覗いていた。照準器から顔を離した彼女は、黒髪をかき上げながら、長い銃身の先端を下ろす。

 運転席で双眼鏡を使って前方を覗いていた山本一等軍曹は、助手席で両耳を押さえて下に隠れていた山野紀子と、その後ろの席で同じように両耳を押さえて身を丸めていた春木陽香に言った。

「終わったぞ、お二人さん。安心しろ、神作さんも永山さんも無事だ」

「へ?」

 薬莢やっきょうを頭や肩の上に載せた春木陽香が、両耳を強く押さえたまま尋ねた。

 隣の席に普通に座り直した綾軍曹は、髪をかき上げながら、呆れ顔で春木に言った。

「それじゃ、聞こえないでしょ」

「は?」

 春木陽香は両耳を押さえたまま、もう一度尋ねた。

 綾軍曹は自分の耳を指差しながら春木に言った。

「耳。全力で塞ぎ過ぎ」

「ああ……」

 耳から手を離した春木に、綾軍曹はもう一度伝えた。

「もう終わった。二人とも無事よ」

「ホントですかあ! よかったあ!」

 座席の下に屈んだまま、やっと笑顔を見せた春木陽香に、綾軍曹も笑顔で手を差し出した。春木陽香はその手を取ると、体を起こして座り直した。背中から落ちた薬莢がカラカラと音を鳴らす。

 助手席の山野紀子も、胸を撫で下ろして息を吐いた。

 車の電気エンジンをスタートさせた山本軍曹は、ギアを操作しながら、後ろの綾軍曹に言った。

「相変わらず良い腕をしてますなあ。さっすが命中スコア軍内ナンバーワンだねえ」

 ジープがゆっくりと走り出した。

 綾軍曹は、足を組んで大袈裟に椅子に反り返りながら言った。

「ま、今ので、本気の七十パーセントってところですかねえ」

 隣に座っていた春木陽香が綾軍曹の顔を見ながら言った。

「すごーい。綾さん、射撃の名手なんですね」

 綾軍曹は春木にVサインをして見せると、言った。

「ウチの部隊は、みんな精鋭だから」

「自分で言うなっつうの。得意の一芸を買われただけだろ」

 山本軍曹は運転しながら、綾に釘をさした。

 彼らに興味をひかれた春木陽香は、再び尋ねた。

「山本さんは何が得意なんですか」

 山本軍曹は顎を掻きながら考えた。

「んー、得意ねえ……。何かなあ……」

「山本は一級重銃火器を補助フレーム無しで使用できる唯一の兵士。重量級の武器を使わせたら軍内一。あと、スイーツ好きも軍内一ね。顔とガタイに似合わず」

「後半のは二つとも余計だ」

 山本の指摘を無視して、綾は続けた。

「さっき一人で奴らの中に降下した宇城中尉は、接近戦のプロ。格闘技で彼の右に出る兵士はいないわね。判断も早いし、頭もいい。しかも、カッコイイ。山本と違って」

「あのな、どうして最後に余計なのを付けるんだよ。一応、俺の方が階級は上なんだからな。分かってんのか」

「失礼しました、山本一等軍曹殿。肩でもお揉みしましょうか」

 わざとらしく敬礼した綾軍曹は、後部座席から手を伸ばし、運転席の山本軍曹の肩を揉んだ。

「馬鹿、やめろ。くすぐったい!」

 助手席で二人の会話を聞いていた山野紀子は振り返って後ろの春木と顔を見合わせた。

 春木陽香は小声で山野に耳打ちした。

「なんか、神作キャップと、うえにょデスクの会話みたいですね」

 山野紀子はニヤリとした顔で頷くと、すぐに視線を前に戻した。

 四人を乗せたジープは、少し蛇行しながら、サーチライトに照らされた群集の方へと進んでいった。



                  29

 外務省ビルにやってきた上野秀則は、受付の守衛や、後から出てきた若い事務官と散々な遣り取りをして、ようやく担当者に話しを聞いてもらえることになった。今、上野秀則は外務省ビルの中の廊下で壁際に置かれた長椅子に座り、貧乏ゆすりをしている。彼は何度も腕時計を見た。そこで待つように言われてから、もうかなりの時間が経過している。だが、上野秀則は粘り強く待つ覚悟をしていた。

 すると、廊下の奥のドアが開き、一人の女が出てきた。顎のラインで切り揃えられた薄い茶色の髪の女は、部屋の中に向かって一礼した後、ドアを閉めた。深く溜め息を吐いてから向きを変え、胸の前で薄型の端末を抱えて、こちらに向かって歩いてくる。その女はスーツの上着のポケットから取り出したウェアフォンを右手で素早く操作しながら、姿勢よく歩いてきた。歳は三十代後半というところだろう。背は高く、スタイルもいい。そして、美人だった。

 その女はウェアフォンを見つめて首を傾げながら、上野の前を通り過ぎようとした。

 上野秀則は彼女に声を掛けた。

「ああ、携帯は繋がりませんよ。システム異常らしいです」

 女は上野の方を見た。首に小さな貝殻のネックレスをしている。突然に声を掛けられたことに女は少し驚いたようで、戸惑いながら上野に言った。

「そうなんですか。――あ、すみません。ご親切に、どうもありがとうございます」

 上野秀則は自分を待たせている横のドアの向こうの人間に聞こえるように言った。

「まったく、困ったものですな。こんな緊急時に」

 最後の一言を強調する。

 女は携帯を持った手の指先で、反対の手の薄型端末を器用に操作しながら言った。

「そうですね……。あ、衛星直通の端末なら通じるみたいですよ。それと、A2バイパスラインを使えば、多次元インターネットも使えるみたいです」

 女は上野を外務省の職員と勘違いしているようだった。彼女の言っていることの意味がよく分からなかった上野秀則は、適当な返事をした。

「へえ……ああ、エーツーですか。そうですよね」

 上野の反応を見て彼が部外者だと悟ったのか、女は上野に軽く一礼すると、抱えていた薄型端末と手に持ったウェアフォンを交互に見ながら、時折、器用に双方を操作しつつ、廊下の奥へと歩いていった。

 その女はエレベーターの前で立ち止まり、端末を抱えた左手でボタンを押すと、その端末の画面を見ながら、右手に持っていたウェアフォンを耳の下に当てて通話を始めた。

「あ、もしもし、お母さん? 私、真希まきだけど、のぞみは大丈夫?」

 女は上野の視線に気付き、こちらを向いて再び軽く一礼する。そして、エレベーターには乗らずに隣の階段の方へと姿を消した。彼女がエレベーターに乗らなかったのは、降りる階を上野に知られないようにするためだろう。上野秀則はそう思った。

 その女の注意深さと、さっきからの器用な手付きに感心しながら、上野秀則は自分のイヴフォンを取り出し、通話を試みた。彼のイヴフォンは依然として使えなかった。

「おかしいな。今の人、どうやったんだ? ネットにウェアフォンを同期させたのかな。エーツー・バイパスライン? 何のこっちゃ。衛星使用の多次元ネットの接続にしても、そんな簡単にできるのか? どんな裏技なんだよ……」

 上野がイヴフォンを懸命に操作しながら首を傾げていると、さっき女が出てきた部屋から二人の背広姿の男たちが出てきた。ドアに鍵を掛けると、二人は会話しながら、上野の前を通り過ぎていった。

「しかし、局長。よかったんですか、彼女で。西田は育児休暇から復帰したばかりじゃないですか」

「いいんだよ。西田は米兵と結婚して離婚したんだろ。どうせ出世はしないよ。こんな汚れ仕事、他に誰にやらせるっていうんだ。他はみんな、貴重な人材なんだから」

「まあ、今の南米になんか、誰も行きたくないですからね。まして、この状況で調整業務なんて、上手く行くはずないですもんね。責任取らされて、アフリカにでも左遷させられたら、たまったものじゃない」

「まあ、西田は子持ち出し、どうせ腰掛けだ。今度の仕事から帰って、次の辞令が出たら辞めるだろうよ。子供を連れてアフリカって訳にはいかんだろうからな。それに、ほら、前職が前職だから、この仕事には丁度いいんじゃないか」

「ですね。わざわざ南米まで行って、田爪の遺体確認なんて、嫌ですもんね」

「殺害場所か遺体発見場所の実況見分もあるだろうしな。どうせジャングルの中か、スラム街の中だ。西田に行かせりゃいいんだよ。上もそのつもりで、あいつを指名して復帰させたんだろうからな」

「正直、辞令掲示に『西田にしだ真希まき』って名前を見た時は、私もホッとしましたよ。ああ、自分が行かなくて済むって」

「ま、一人、出世競争のライバルが減って、良かったじゃないか。君も次はドイツかオーストリアあたりで二、三年のんびりしたら、昇格だよ。君には将来、お父さんのような立派な大使になってもらわんとな」

「はい。頑張ります」

 二人は、先程、女がボタンを押して呼んだエレベーターの前でも話し続けていたが、ドアが開くと、そのままエレベーターに乗り込んでいった。

 短い足を組んだ上野秀則は、腕組みをしてエレベーターの方に軽蔑的な視線を送った。

「ケッ。なーにが『立派な大使』だ。難儀な仕事をシングルマザーの同僚に押し付けるような奴が、『立派な大使』になれるかっての。あー、嫌だ嫌だ」

 上野秀則が一人で毒を吐いていると、彼が座っていた長椅子の隣のドアが開けられ、若い男が顔を出した。

「上野さん、お待たせしました。どうぞ、お入り下さい。お話しを伺います」

 上野秀則は立ち上がると、上着とネクタイを整えながら歩いていき、少し緊張した顔でその部屋の中に入っていった。



                  30

 ジープの上に載せられた大きな灯器から発せられる光で、滑走路の上は明るく照らされていた。迷彩服を着た兵士たちが周囲を警戒している。その中を、アーマー・スーツを外して武装解除した男たちが、Tシャツ姿のまま後手に手錠をはめられ、一列に並んで歩いていた。彼らは列の先頭から順に、ほろが被せられたトラックの荷台に乗り込んでいく。彼らの列の左右には、濃紺の戦闘服の上から紺碧の鎧を身に付けた偵察隊の兵士たちが機関銃を握って立ち、逮捕された兵士たちを誘導していた。

 汚れた服の神作真哉と永山哲也は立ったまま、逮捕された男たちの列を眺めていた。ふて腐れた顔で列に並んでいる郷田の姿を見つけた永山哲也が郷田の方に歩いて行こうとする。神作真哉が永山の肩を握って止め、彼に言った。

「やめておけ。どうせアイツは刑務所行きだ」

 永山哲也は納得した訳では無かったが、先輩の忠告に従った。すると、連行される兵士たちの列から声が上がった。

「軍曹! 話が違うじゃないか。奥野国防大臣が仕切っているんじゃなかったのか! なんで情報局や軍規監視局が出てくるんだ。俺たちを騙したのかよ!」

 郷田零音は声がした方をにらんで、大声で答えた。

「知るかあ。津田に訊け。俺は指示に従っただけだよ!」

 永山哲也と神作真哉は、人の中から津田の姿を探した。

 手錠をはめられたまま担架の上に拘束されて運ばれていく久瀬拓也と野島闘馬の向こうで、津田幹雄が喚いていた。彼は応急措置を施された右手を久瀬たちの担架の方に向けて叫んだ。

「こいつらだ! こいつらが勝手に暴走したんだ。私はそれを止めようと……」

 担架の上の久瀬拓也が額に止血用のテープを貼られた顔を上げて、歯が抜け飛んだ顎をフカフカと動かしながら津田に怒鳴った。

「へメエ、ひい加減なことを言ってんらねえぞ。仕切ってらのは、へメエだろうが!」

 津田幹雄は久瀬を無視して、左右の偵察隊の兵士に怒鳴った。

「君たちは私が誰だか知っているのか。司時空庁長官の津田幹雄だぞ。悪いのはあいつらだ。――ああ、奥野だよ。全部、奥野大臣が指示したことだ。私は関係ない! おい、放せ!」

 津田幹雄は偵察隊の兵士たちに両腕をつかまれて、駐機しているオムナクト・ヘリの方に連行されていった。

 神作真哉はしかめた顔で津田の最後を眺めながら、舌打ちした。隣で永山哲也が呆れた顔で深く溜め息を吐いている。

「悪党が互いに罪を擦り付け合うのは、世の常ですな」

 二人が声の方に振り向くと、そこに増田基和が立っていた。隣には、二人の前に降下して危機を救った兵士が立っている。その兵士と面と向かってみて始めて、その兵士が長身の神作や筋肉質な永山より小柄で細く、中肉中背の男であったことに気付き、二人は少し驚いた。

 増田基和は永山と神作の前に手を差し出して言った。

「ご無事で良かった。もう少し早く実動したかったのですが、遅くなり、申し訳ない」

 神作も永山も、黙って増田と握手を交わした。

 増田基和は二人の目を見て言った。

「改めまして、国防省情報局局長の増田です。こちらは、情報局直属の特務部隊に所属する宇城うしろ影介けいすけ中尉。この部隊の小隊長です」

 永山哲也は宇城に握手の手を差し伸べて、言った。

「先程は危ない所を助けてくださり、ありがとうございました」

「いえ」

 宇城影介中尉は永山の手を握り、短くそう答えた。

 永山の後に宇城と握手を交わした神作真哉が、彼に率直に尋ねた。

「あの高さから降下したのですか。大丈夫でしたか」

「平気です。慣れてますから」

 軽く笑顔で答えた宇城に続いて、増田が言った。

「彼ら偵察隊の兵士は、私が選び抜いた精鋭たちです。あらゆるパターンの作戦に対応できるよう、日頃から訓練し、準備しています。ですから、ご心配は無用ですよ」

 宇城中尉は両眉を上げた。

 神作真哉は、増田の目を見て尋ねた。

「増田学校ですか」

 増田基和は口角を上げて見せると、下を向いて答えた。

「まあ、世の中には、そう呼ぶ人間もいますな。それが真実かどうかは別として」

 増田基和は顔を上げた。その顔に笑顔は無かった。彼は言った。

「ですが、我々が歴代総理に影で直接お仕えしてきているということは、真実です。このような事態が起こった時のためにね」

 永山哲也は呟いた。

「総理大臣直属の極秘部隊……」

 増田基和は話を続けた。

「ま、我々は軍内の一部署に過ぎません。他にも似たような部隊は在ります。ただ、この国の役人の中にも、法秩序の維持が平和を生むと考えている人間は、まだ何人もいます。もちろん、役人以外にもね。そのような人々を、一官僚の私の名前を付けて集団扱いするべきかどうかは、また別問題ですよ。少なくとも、国防軍人でもある私にとっては、ありがたい噂ではないですな」

 増田基和はまた静かに口角を上げて見せた。

 神作真哉と永山哲也は怪訝な表情で顔を見合わせる。

 永山哲也は宇城中尉に尋ねた。

「どういう経緯で僕たちを助けに来てくれたのです?」

 口を開こうとした宇城を制止して、増田基和が説明した。

「辛島総理からの命令です」

「辛島総理?」

 神作真哉は眉間に皺を寄せた。

 増田基和は首を縦に振る。

「そうです。辛島総理は、当初から我々にあなた方の身辺警護を命じておられました。永山さん、あなたが南米に発たれた直後からです」

「そんなに前から?」

 驚いた神作の方を見て、増田基和は話を続けた。

「ええ。我々は、ある任務のために、当初から司時空庁をマークしていました。宇城中尉たちの分隊を司時空庁のSTSに送り込み、内情を探らせていたのです。ですが、真相を掴めずにいた。そこに、あなたたちが動き出したのです」

「あの『ドクターT』の論文ですか」

 永山の問いに増田基和は即答した。

「ええ。それも一部です」

 永山哲也は驚きと疑念に満ちた表情で宇城と増田を交互に見ながら、二人に尋ねた。

「一部? では、バイオ・ドライブの存在も、辛島総理は当初から知っていたのですか」

 増田基和は首を横に振った。

「いえ、それが判明したのは、永山さんの田爪博士へのインタビュー記事が発表されてからです。ですが、辛島総理は以前から、南米戦争を早く終結させるべきだとお考えになられていた。それで、戦争勃発の原因になった二〇二五年の大爆発事件について再調査を始められたのです。そして、当時、津田が不審な動きをしていた事実を掴み、我々に調査を命じた。そういうことです」

 少し考えていた神作真哉は、いっそう疑いに満ちた目で増田を見ながら、彼に尋ねた。

「なぜ、あなたたちに。普通なら警察や他の省庁の仕事でしょう」

「普通ならね。状況が普通ではないことは、あなた方が一番よくご存知のはずだ。ただの権力争いや犯罪の隠蔽にアーマー・スーツを着た兵団を使う人間はいませんよ。普通は」

 そう言った増田基和は、一度下を向くと、一呼吸置いてから再び顔を上げ、神作の視線を正面から受け止めるかのように、彼の目を見ながら言った。

「これは私の推測ですが、おそらく辛島総理は、有働前総理の動きを警戒されたのでしょう。彼は公安の特別調査課を動かしているという話もありますから。まあ、ご存知だと思いますが」

 増田基和は神作を見ながら少し間を空けたが、意を決したように続きを話し出した。

「ですが、有働前総理も、あなた方の記事でタイムトラベル事業の真相をお知りになり、決断をされた。ここ数週間、我々と公安の特調は情報レベルで連携しながら動いていました。赤上警部があなた方を守るために形式的に家宅捜査を実施しようとしたのは、真実です。彼はあなた方の保護に必死だった。松田の逮捕を急いだのも、彼の判断です」

 神作真哉はもう一度、永山と顔を見合わせると、再び前を向いて増田に問いかけた。

「じゃあ、俺たちを尾行していたのは……」

「あなたたちを守るためです」

 宇城中尉が神作の発言の途中から答えを述べた。続いて増田基和が説明を加えた。

「ここの搭乗者待機施設が襲撃されてから、敵が実力行使に及んでくる事態が我々の想定リストの上位に挙がりました。実際、奥野大臣は私に、あなた方の抹殺を命令したわけですが、総理はそれ以前から、あなた方を敵の攻撃から守るよう、我々に指示していたのです。しかし、一方で我々は本来の作戦も遂行しなければならなかった」

「本来の作戦?」

 永山の問いに増田基和は答えた。

「内通者の炙り出しです。敵の内通者が政府の中枢に居るということは、我々の分析の結果から明らかでした。問題は、その内通者がかなり上位の権力を掌握している惧れがあるということ。そこから、政府内のあらゆる情報と、我々の軍事機密や公安の調査活動あるいは捜査活動が全て筒抜けになっていた。それで、作戦の遂行を極秘に進める必要があったのです。通常の指揮命令系統を度外視して」

「だから辛島総理は、あなた方を動かした」

 永山の呟きに反応するように増田基和は返した。

「有働前総理の協力も得てね。我々にとっても、公安の特調の協力は、極秘活動をする上で非常に心強かった」

 永山哲也が言った。

「敵というのは?」

 増田基和は答えなかった。

 神作真哉は、増田が言った「内通者」の正体を指摘した。

「奥野ですか。まさか奴は、国内の防衛情報までをNNJ社を通じてNNC社に売っていたとか」

 増田基和は、やはり直接の返事をせずに話を続けた。

「その一方で、権力の奪取を企む官僚にあるまじき男のことも、以前から問題視されていました」

 永山哲也が確認した。

「津田幹雄ですね」

 増田基和は頷いた。

「ええ。人格はともかくとして、彼の主張には一部正しい部分も在るのかもしれない。しかし、その実現の方法に問題があった。彼は民主主義を軽視し過ぎている。それに、この事件の発端となるバイオ・ドライブを隠し持っていたり、それを奪取されたことを隠していたりと、とにかく公務員としての自覚と責任感に欠ける彼の行動は、国家が重要な作戦を遂行する上で、とても信用できるものではない。それと、奥野恵次郎。彼がNNJ社から資金提供を受けているという疑惑は早い段階から浮かんでいました。しかし、証拠が無かった。与党の有力代議士であり、我々のトップ。当然、ガードも固い。政治家である彼としては総理の椅子を狙っていたのでしょうが、国の未来を託すことが出来るような人物では無い。腹の底では日本を強大な軍事国家にしようと目論んでいる、そんな危険な男です。また、彼が国防軍を私物化していることも問題でした。したがって、やはり信用できない。この重要な局面で、信用できない人物が二人も、国家の中枢で実権を握っている。金と武力をね。しかし、この二人を更迭するには、政治的にも法的にも理由が必要となります。しかも、拙速に動けば必要ない血が流れてしまう。辛島総理はそれを避けておられた。それで我々に極秘に動くよう命じられたのです。もちろん、核心に近づいていくあなた方の保護も。遠目に待機して張り付くという形を取ったのは、そのような事情によります。多少、強引な追尾もありましたが、我々もあなた方を影から守ることに必死でした。ご容赦願いたい」

 増田基和は軽く頭を下げた。

 永山哲也は、目の前の宇城中尉の顔を一瞥してから、増田に尋ねた。

「ですが、ハルハルは刀傷の殺し屋に一度……」

 宇城中尉は腿の横で拳を握りながら、言った。

「あの時は我々も、まさか奴があのラボに潜入していたとは気付きませんでした。申し訳ない」

 頭を下げた宇城の横で、増田基和は説明を追加した。

「奴はプロ中のプロです。実は我々も以前から奴を追っているのですが、なかなか網に掛からない。しぶとい奴です。しかし、いずれ必ず我々が奴を排除します。必ずね」

 神作たちを安心させるためか、念を押すようにそう繰り返した増田に対して、神作真哉は、少し攻撃的な口調で言った。

「田爪瑠香は。どうして彼女を救えなかったのですか。そんなに前から俺たちの周囲に張り付いていたのなら、事情も知っていたはずだ。それなら、あの発射の前に彼女を救えたでしょう」

 宇城中尉が必死に弁明した。

「我々が施設内に潜入して、彼女を救出しようと試みました。しかし、失敗したんです。こちらから仕掛けることが出来ないまま、撤収せざるを得なかった。あなたたちを戦闘に巻き込む訳にはいかなかったのですよ」

 増田基和が口を挿んだ。

「施設内に武装した侵入者がいると、STSの兵士たちが騒いでいたでしょう。その侵入者が、この宇城中尉たちの小隊ですよ。田爪瑠香を見つけ出し救出するよう、私が命令したのです。しかし状況が変わった。一つは無人機の墜落。もう一つはあなた方の潜入と監禁です。あなた方が相手に捕らわれている状況では、その先の展開が見えていました。仮に我々が田爪瑠香を救出できたとしても、証拠隠滅のために津田はあなた方を殺害したでしょう。あなた方を救出するとなれば、作戦を大きく変更しなければならない。ですが、あの時ここには緊急展開した三個中隊の国防兵の精鋭たちが居ました。無理に作戦を進めれば、国防軍から出向している兵士で構成されたSTSの部隊と大きな衝突になります。そして、我々の部隊と闘えば、STS側に多数の死者が出る。彼らはさっきの連中とは違う。ただ命令され、正規の任務としてあの場に居た国防兵士たちです。私としても、できるだけ戦闘は避けたかった。味方同士の戦闘を回避し、あなた方を無事にこの施設から外に出すためには、政治的解決によるしかない。私はそう判断しました。だから、彼らに撤収を命じたのです」

 永山哲也が言った。

「だったら、せめてタイムマシンの発射を阻止するくらいのことは……」

 増田基和は永山の発言を遮った。

「もう一つ言えば、事前に我々が掴んでいた情報では、あの時、田爪瑠香を乗せたタイムマシンはこの滑走路の上に出現するとのことでした。ですから、私は緊急出動させた部隊をこの周囲に集中的に配置したのです。ここに現われた田爪瑠香を保護させるためにね。あの時点で、まさかタイムマシンが南米に到着していて、搭乗者たちが田爪博士に抹殺されているなどとは、我々も思いもしなかったのですよ」

 神作真哉は増田に疑念の目を向けて言った。

「だが、奥野が無人機を突っ込ませようとしていたことは知っていたのだろう」

 増田基和ははっきりと頷いた。

「ええ。ですが、そうさせないつもりでした。別室に待機させていた正規パイロットに、途中で操縦権を切り替える計画でいましたから。そのために空港の訓令指令室に、独立の周波数帯を使用できる専門通信兵を待機させていました。もし奥野が無理に訓練機を突入させようとした場合でも、その通信兵から連絡させ、正規無人機を緊急発進させて撃墜させる予定でした」

 神作真哉は考えを巡らせた。

「じゃあ、あの無人機墜落がすべてを狂わせたということか……」

 増田基和は首を縦に振った。

「ええ、あれは想定外の事態でした。はたして人為的なものなのか否か、現在、真相を調査中です」

 神作真哉は増田の目を見たまま首を傾げた。

 何かを考えながら話を整理して聞いていた永山哲也は、増田の目を見て尋ねた。

「本当に辛島総理だけの判断なのですか」

 増田基和は少し間を空けた。彼も何かを考えているようだった。そして、独り言を発するように、二人の顔を見ないで言った。

「総理を動かせる人がいるとすれば、その影響もあるかもしれませんな」

 神作真哉が指摘した。

「光絵か。ストンスロプ社の会長、光絵由里子だな」

 増田基和は神作真哉の目を見据えながら、落ち着いた口調で彼に説き伏せた。

「私は何も言っていない。ですが、おたくの春木さん、彼女の身の安全を非常に心配しておられ、ルートを通して我々にも度々、状況の報告を求めた大物がいることは、お知らせしておきます。また、ある引退した大物政治家は、古い付き合いの記者だけでなく、肝の据わった若い記者たちの身の安全も気にかけておられたという噂も、耳に挟んでいます。そしてそれらは、政治や利権とはコミットしない、人と人の情の問題であるようです。実に個人的かつ感情的な。ですから、国家の軍部の一機関である我々もこれ以上のコミットを控えます。つまり、我々の記録には一切残さない。ま、ただの幻に過ぎませんな」

「……」

 それを聞いた神作真哉と永山哲也は、ただ黙っていた。

 するとそこへ、一台のジープが走ってきて、停車した。ジープの助手席のドアが開き、山野紀子が飛び出すように降りてきた。同じ側の後部座席のドアも開き、高い車体から春木陽香がピョンと飛び降りた。

 山野紀子は走って神作の方に向かうと、彼に飛びつくように抱きついた。

「真ちゃん、無事だった。よかったあ!」

 神作真哉は山野を受け止めて軽く抱きしめたが、すぐに周りの視線を気にして言った。

「馬鹿、俺たちは離婚してるんだぞ。早く離れろ」

 山野紀子は軽く涙を拭いながら、照れくさそうに笑って、神作から少し離れた。

 春木陽香も走ってきて永山の方に向かうと、彼に飛びつくように抱きつこうとした。

「永山先輩、無事だった。よかったあ!」

「こっちは違う。僕は結婚してるし」

 顔の前に突き出された永山の掌の前で春木陽香は急停止し、軽く涙を拭いながら、照れくさそうに笑って、少し離れていた永山から更に少し離れた。

「そうですよね。分かってます、分かってます」

 項垂れてしょんぼりとしている春木を怪訝な顔で見ながら、綾軍曹と山本軍曹が歩いてきた。二人は増田と宇城の前に来ると、足を揃えて背筋を伸ばし、敬礼した。山本軍曹が宇城中尉に報告する。

「山野氏、春木氏、両名の救出任務を終了しました」

 宇城中尉も敬礼をすると、一言だけ力強く答えた。

「ご苦労」

 そして、すぐに横を向き、増田に敬礼して言った。

「宇城隊、第一作戦任務を終了しました」

 増田基和は大きく頷くと、三人の顔を見ながら言った。

「うむ。見事だった。次の指示まで暫く待機。出動に備えろ」

「は」

 敬礼して、そう力強く答えた三人は、綺麗に揃えて後ろを向くと、駆け足でその場から去っていった。

 三人が春木の前を通り過ぎる時、綾軍曹が立ち止まって、春木に小声で言った。

「また危ない時は、助けに現われるから」

「ホントですか?」

 目を大きく見開いた春木陽香は、期待に満ちた顔で首をコクコクと縦に振る。綾軍曹は軽くウインクすると、前の二人を追いかけて走っていった。

 春木陽香は去っていく三人の兵士たちの背中を見送った。足を揃えて背筋を正し、精一杯に眉間に皺を寄せると、口をへの字に引き垂れて、ゆっくりと敬礼してみる。

 頼むぞ、日本の平和を守る戦士たちよ。私が困った時は、またサッと現われて……

いたっ!」

 後ろから叩かれた。春木陽香が頭を押さえて振り向くと、山野紀子が立っていた。

「あんたは記者でしょうが。今から軍隊に入る? 訓練がキツイわよお」

「いや、やめときます。スカートとエクササイズなら、スカートがキツイ方を選ぶタイプなので……いたっ!」

 また後ろから叩かれた春木陽香は、自分の頭を叩いて通り過ぎて行った神作に言った。

「どうして、この二人は叩くんですか! ポカポカ、ポカポカと」

 神作真哉は振り向かずに答えた。

「おまえらのダイエットと軍人さんの訓練を一緒にするなっての。ほら、増田局長が車で送ってくれるらしい。行くぞ」

 春木陽香は、少しムッとした顔で言った。

「帰る前に、私と編集長の荷物を返してもらって下さいよお。イヴフォンとかも。男の人はどうしていつも手ぶらで……おっと、あぶない」

 背後からのスイングを屈んでかわした春木に、空振った永山哲也が言った。

「しまった。――ああ、荷物は現場検証が終わったら返してくれるってさ。携帯は今、探してくれている。わがまま言うなよ」

 向こうに歩いていく永山に、春木陽香は少し涙目になって言った。

「しまったって……ひどい。永山先輩まで!」

 横に居た山野が春木の肩を軽く叩いてから言った。

「これがウチの社風なのよ。愛情表現よ、愛情表現。ほら、行くわよ。ハルハル」

 春木陽香は肩を押さえて上を向いたまま考えた。夜空の月を見つめながら呟く。

「なんだ。愛情表現か……」

 そして、前を向き、歩いていく山野の背中に向けて叫んだ。

「って、納得する訳ないじゃないですかあ! その社風、絶対におかしいです! 愛情と暴力は絶対に両立しませんからね! そんな社風、私が変えますから! 今度、社内暴力の特集記事を書かせてもらいますからね!」

 山野紀子は少し振り向いて言った。

「記者なら、それで正解。ほら、行くわよ、ルーキーさん」

 山野の前を歩いていた永山哲也は、隣の神作真哉に小声で言った。

「ハルハルの奴、一皮剥けた感じですね」

「今日のは、強烈なショック療法みたいなものだったからな。二皮くらい剥けたんじゃないか」

 肩幅に足を開き、腰に手を当てて立つ春木陽香は、頬を膨らまして言った。

「もう! 私がしっかりしないと駄目だな、こりゃ」

 一度大きく頷いた春木陽香は、照明灯に照らされている夜の滑走路の上を歩く三人の先輩記者を追いかけて走っていった。



                  31

 外務省ビルの門から、肩を落とした上野秀則が出てきた。歩道の真ん中で立ち止まった彼は、大きな溜め息と共に呟く。

「外務省も駄目かあ。神作、山野、永山、ハルハル……すまん。俺の力不足だ。申し訳ない……」

 顔を上げた上野秀則は思案した。

「仕方ない。例の岩崎カエラとかいう科警研の技官に話してみるか。神作の幼馴染だって言ってたもんな。――いや、待てよ。科警研の技官じゃ、どうにもならんか。山野もキレるかもしれんしなあ……。いやいや、そんなことを言っている場合か。――しかし、この渋滞じゃ、楼森ろうもり町の科警研ビルまでは時間が掛かるな。そもそも山多やまた区まで辿り着くかどうか……。かと言って、携帯は通じないし……。うーん、会社に戻って有線電話で掛けるしか手がないかあ。――ていうか、いくら何でも、もう帰宅してるよな。こんな時間だもんな……。はあ……。――ったく、どうすりゃいいんだ!」

 何度も強く頭を掻いた上野秀則は、ビルの隙間から見える夜空を見上げて言った。

「あとは、運を天に任せるしかないか。はあ……どうか、みんな無事でいてくれ」

 すると、彼の前を車体の屋根に拡声器を積んだ黄色いワゴン車が徐行して通り過ぎた。拡声器で何やら叫んでいる。

『世紀末です。皆さん、教祖様の予言の通り、混乱の時が近づいているのです! さあ、教祖様の予言を聞き、未来を変えましょう! みなみ正覚しょうかく教祖様が宇宙の神様の未来のお告げを伝えて下さいます。共に信じましょう、南正覚の予言を! 変えましょう、未来を! 未来は変えられるのです! 迷える人々よ、正覚様に従いましょう!』

 その黄色いワゴン車の横では、側面に太い黒い線が付いている黄色いジャージを着た若者たちが、歩道の人々に手を振りながら伴走している。

 その光景を見ながら、上野秀則はポツリと呟いた。

「はあ、俺も真明教に入信するかなあ……」

「それは、あまりお勧めしませんなあ」

 背後から声がした。上野秀則が振り向くと、後ろには背広姿の男たちが立っていた。山野のマンションにいた公安の男たちだった。彼らが上野を取り囲む。すぐ前の路肩に一台の黒塗りのAI自動車が止まった。

 上野秀則は周りの背広の男たちをにらみながら怒鳴った。

「なんだ、またおまえらか。今度は俺も拉致しようって訳か。おまえら、ゲシュタポみたいな連中だな。民主主義の敵じゃねえか!」

 黒塗りのAI自動車の後部座席から赤上明が降りてきた。歩道に上がり、上野の前まで歩いてくる。

「いやあ、上野さん。神作さんたちのために随分と走り回られたようですな。ついに外務省まで足を運ばれましたか。しかし、無駄だったでしょう」

 上野秀則は赤上をにらみ付けて叫んだ。

「赤上! おまえら、神作たちをどこに遣った!」

「彼らを拉致したのは我々ではない。津田と奥野に指示された郷田たちの仕業ですよ」

「信用できるか。今、外務省でも、けんもほろろの対応だったぞ。どうせ、おまえらが手を回したんだろ」

 赤上明は溜め息を吐いてから言った。

「ま、あなたが米軍に協力を求められないかと訴えたという情報は得ていますがね。ですが、我々は何もしてはいませんよ。だって、外務省も米軍も、すぐに部隊を動かせる訳ないでしょう。条約に縛られているんだから。それにね、他国の軍隊が違法に国内で武力行使して、そのきっかけがあなただとしたら、我々はあなたを外患誘致罪の容疑で逮捕せんといけなくなるじゃないですか。情報を得た時には、正直、肝を冷やしましたよ。相手にされなくて幸運でしたな」

 上野秀則は路上に胡座をかいて座り込み、腕組みをして言った。

「うるさい! とにかく、神作たちをどこにやったんだ! あいつらを解放するまでは、俺はここを梃子てこでも動かんぞ! おまえらに捕まるのが恐くて言っているんじゃねえぞ。神作やハルハルたちをここに連れてきたら、俺は自分から、その黒塗りの車に乗ってやらあ! 俺を連れて行きたければ、さっさと全員を解放しやがれ! このスットコドッコイめ!」

 赤上明は立ったまま困った顔で上野を見下ろしていたが、上野の前にしゃがみ込むと、顔を近づけて言った。

「神作さんたちは、さっき解放されました。津田と郷田たちは、国防軍情報局の特務偵察隊が制圧したそうです。今、拘束した連中を警察と軍規監視局に引き渡しているところですよ。まあ、郷田、久瀬、野島の三名については、最終的にこちらでも処理させてもらいますがね。ウチの捜査官が二名、奴らに殺されましたので」

 路上に胡座をかいて腕組みをしたまま、上野秀則は小さな目をパチクリとさせた。

 赤上明は顔をしかめながら上野に言った。

「言ったでしょう。我々は、あなた方を守るために動いているって。軍の情報局も、ずっとあなた方を監視して警護していたそうです。まあ、始めから我々と連携できていれば、もっと効率よくできたのですが、軍と警察では手法も組織体系も違う。互いが掴んだ情報を交換するのが精一杯でしたから、仕方ありませんな」

 上野秀則は念を入れて確認した。

「じゃあ、本当に神作たちは助かったのか? 無事だったんだな」

 赤上明は首を縦に振る。

「ええ。男性陣が多少殴られた程度で、他は無傷です。皆さん無事ですよ。それを知らせに来たんです。だから、ほら、早く立って」

 赤上明は上野の両肩を掴み、彼を立たせようとした。

 上野秀則は赤上の手を払い除けた。

「いや、待て。そうやって俺をだまして、どこかに連れて行くつもりだな。分かっているぞ」

 赤上明は、腰を折ったまま項垂れて、また溜め息を吐いた。様子を気にした外務省の門の守衛が近づいてくる。赤上は手を上げてその守衛を制止すると、ゆっくりと立ち上がって上野に言った。

「新日ネット新聞社と新日風潮社には既に知らせてあります。携帯の通信も先ほど復旧したそうですから、会社の方に確認されてみてはいかがですか」

 上野秀則は首を横に振った。

「いや、神作と山野、永山、ハルハルの顔を確認するまでは、信用できん」

 赤上明は太い眉を寄せて言う。

「いやあ、それは無理ですな」

「どうして」

 赤上明は再び腰を曲げて屈み、上野に耳打ちした。

 暫く話を聞いてから、赤上から頭を離した上野秀則は、目を大きく見開いて言った。

「はあ? なんじゃそりゃ」

 赤上明はそのまま小声で上野に話を続けた。聞いている上野秀則は強くしかめている。

 話を終え、真っ直ぐに立った赤上明は、上野を見下ろしながら言った。

「もちろん、ご本人たちの了解を得てからのことですが、まあ、拒否できませんよね、こういう流れですと。我々としては、一刻も早く彼らを保護したいところですが、国が交わした約束なら、どうすることもできません。我々は警視庁の公安部。首都警察の職員ですからな。それに、例え国の特殊官僚だとしても、どうすることもできんはずです。おそらく増田局長も同じ思いでしょう。これは仕方ない。まあ、内容は既に決まっていて、あとは形式的で事務的なことのようですから、無事に帰ってこられるとは思いますが、とにかく、それを祈りましょう」

 赤上の隣に立って耳のイヤホンマイクを押さえていた背広姿の男が、赤上に報告した。

「課長、佐藤を押さえたそうです」

 厳しい顔に戻った赤上明は、言った。

「そうか。よし、行くぞ」

 そしてすぐに黒塗りのAI自動車の方へと歩いていった。他の公安職員も車へと歩いていく。

 少し歩いた赤上明は、立ち止まると振り返った。

「ああ、そうだ。上野さん、あなたの推理、筋は悪くなかったが、一つ大事なことが抜けていましたな」

 上野秀則は不機嫌そうに言った。

「なんだよ」

 赤上明は上野の目を見たまま、低い声で言った。

「我々は警察官なんですよ。悪党は嫌いだ」

「ケッ」

 気障な台詞を笑い飛ばした上野秀則に、赤上明は手を上げて言った。

「じゃあ、我々はこれで。ばい菌の発生元を除菌しないといけませんので」

 彼はまた背中を見せると、そのまま歩いていき、黒塗りのAI自動車に乗り込んだ。

 赤色灯を回してサイレンを鳴らし、その車は走り去っていく。

 歩道の上に座ったまま、上野秀則は頭を掻いて言った。

「解放されただと? それなのに、これじゃちっとも喜べねえじゃねえか。いったい、どいつもこいつも何考えてんだよ! まったく!」

 夜の歩道に胡座をかいて座る小柄な男は、歯がゆそうに路面を叩いた。



                 32

 街灯に照らされた広い道路を一台の黒いバンが走っている。そのAI自動車にはフロントとリアに頑丈な鋼鉄製のバンパーが取り付けてあり、ルーフの上にも二本の鉄柱が縦に渡してあった。その間には砲筒の先端にカバーを取り付けた機関砲が設置されている。後部座席のサイドガラスは金属のカバーで隠されていて、車体の後ろに付いている観音開きのドアにも小さな色ガラスが付いているだけである。車体を支えている四つの車輪は、太く分厚い。

 窓が無い閉ざされた車内には、壁際に長椅子が設置されていた。運転席のすぐ後ろの角に座っていた増田基和は、イヴフォンで通話しながら、向かいに座っている神作真哉やその隣の山野紀子の顔を観察している。山野の向かいに座っている永山哲也は、右の増田にも、左の末席で車内をキョロキョロと観察している春木にも視線を向けず、春木の向かいに座っている護衛の兵士を凝視していた。その兵士は迷彩柄の戦闘服姿に鎧とヘルメットと防弾マスクを装着していて、膝の上に機関銃を載せたまま、両開きの後部ドアに付いた防弾性のマジックミラーの小さな窓からしきりに外の様子を確認していた。

 通話を終えた増田基和がイヴフォンを上着のポケットに仕舞いながら、向かいの神作に言った。

「公安の『特調』が、佐藤の身柄を押さえたそうです」

「佐藤? 津田の秘書官の佐藤ですか」

 そう尋ねた神作真哉は、山野や永山と視線を合わせてから、再び増田に視線を戻した。

 増田基和は頷いた。

「ええ。司時空庁長官の秘書、佐藤雪子。総合駅からリニア列車で東京に向かおうとしていたらしい。逃げるつもりだったのでしょう。国外ではなく東京を選択するとは、頭の良い女です。あの街に潜り込まれたら、見つけるまでに時間がかかる。羽田や成田の空港が生きている以上、国外への脱出も容易ですしね。危ない所でした。ですが、これでとりあえず諸悪の根源は除去できたようです。我々もようやく、あの『刀傷の男』を倒すことに専念できます」

「諸悪の根源? 彼女が、どうして」

 質問した永山の方を向いて、増田基和は一言だけ言った。

「犯罪の影に女あり、ですよ」

 神作の方を向き直した増田基和は、話しを続けた。

「あの女が津田幹雄の腰を押していた。国防大臣・奥野恵次郎とNNJ社代表取締役・西郷京人の間を取り持ったのも、あの女です。西郷の女好きはご存知の通り。彼女にしてみれば、奴に接触するのは簡単だったに違いない。収賄で奥野大臣を窮地に立たせておきながら、津田に勘説して奥野大臣を救わせ、国防大臣に恩を売って首根っこを掴ませる。後は津田が軍を使って田爪博士のデータを手に入れれば、津田は国家の中枢で実質的に権力を一手に握ることになる、そう目論んだのでしょう。そして自分は、その妻の座に座る。本妻さんを追い出してね。とんでもない女です。ちなみに神作さん、寺師町であなたを襲撃したチンピラ連中を雇ったのも、彼女ですよ。あの三人の男の身柄は既に公安が押さえているそうですから、後日、確認があると思いますよ」

 神作と山野は顔を見合わせた。

 春木陽香が呟いた。

「だから、ウチに奥野大臣の収賄ネタを送ってきたんだ……」

 永山が咳払いをした。ハッとした春木陽香は、慌てて口を尖らせると、口笛を吹きながら後ろのドアのマジックミラーから外を覗くふりをした。

 山野紀子が小声で言う。

「もう遅いわよ。スカポンタン」

 少し笑いながら、増田基和が言った。

「いや、我々も既に把握している事実ですから、構いませんよ」

 山野紀子は鼻に皺を寄せて春木を見た。春木陽香は口を尖らして首をすくめる。

 神作真哉が増田に再び尋ねた。

「あんたがさっき言っていた『内通者』ってのは、佐藤のことだったのか?」

 増田基和は大きく頷いた。

「佐藤は、司時空庁長官秘書の立場を利用して入手したあらゆる情報を敵に渡していました。なかなか手が込んでいましてね、津田名義で購入しているマンションに居座り、そこから情報を発信したり、津田と松田が長官室に居る時に彼らの端末を使って外部と接触を図る。つまり、情報の発信元をIPアドレスから特定しても、実際の発信者が誰なのか、確定できない訳です。ま、いろいろな手法から分析するに、佐藤という女は過去に何処かで諜報任務の訓練を受けた人間であるようですから、どこかの国のスパイなのでしょう。いずれ詳細について公安が口を割らせるはずです。だが問題なのは、その情報が出て行った先だ」

 神作真哉は深刻な顔で増田に言った。

ASKITアスキットだな」

 再び頷いた増田基和は、深刻な顔のまま話を続けた。

「世間では特許マフィアなどと呑気なことを言っている人間もいるようですが、実体はとんでもない。先日フィリピン沖で拿捕された大型貨物船が運んでいた物を見れば分かるとおり、奴らは強大な軍事力も兼ね備えた知的侵略組織だ。特定の国に狙いを定め、その国の経済と国民生活を支えている特許技術を調べ上げ、それらを掌握する。特許権を使って影でその国を操り、企業から金を奪い、社会から財を吸い上げられるだけ吸い上げて、その国の経済が干乾びれば他国に目を移す。逆らう国家は武力で制圧。他国との紛争やテロ攻撃を装ってね。特許の掌握によって最先端の科学技術を有する奴らの軍隊は強力です。大国の最新兵器をもってしても簡単には太刀打ちできない。だから、奴らの要求を呑むしかない。そうやって急激な速度で巨大化し深化していった地下組織です。非常に危険だ。そして、奴らの次のターゲットは……」

 山野紀子が沈んだ声で言った。

「この日本なのね」

 増田基和は山野の目を見て頷いた。

「ええ。我が国は過去にも何度か、水面下で他国や外国企業から食い物にされ、経済が落ち込んだことがありましたが、その度に何とか回復してきた。それが出来たのはこの国に技術力があったからです。数多くの特許技術のお蔭で幾度と無く経済破綻すれすれの所から脱出することができた。それと、優秀で献身的な官僚や企業家たちの努力のお蔭でね。しかし現状では、後者には余り期待できない。そこにASKITが踏み込んできて、日本から特許そのものを奪い、技術そのものを取り上げることになれば、この国はほぼ間違いなく沈下する」

「ASKITの連中は、どうやって特許権を掌握するのですか」

 永山からの問いに増田基和は低い声で答えた。

「不明です。各国とも情報を交換し分析していますが、奴らがいかなる手法を用いて特許権を集中させることができているのか、その情報をどのようにして事前に取得しているのか、全く分かっていない。これまで侵食された国は、どの国もいつの間にか、国の経済を支えている重要な特許技術やそれらを使用するのに必要な基礎的な技術の小さな特許までを、まるで狙い定められたかのように事前に全てASKITに奪われている。細かな物まで全てね。中には、その新技術の特許を申請する以前から前提となる技術の特許をNNC社やNNJ社のようなASKITの傘下企業に奪われてしまっているケースもあります。つまり、開発段階から奴らは狙っているということだ。だとすると、その情報収集能力は一国の諜報機関さえも凌ぐ驚異的なレベルであると考えられる。我々はそのような敵を相手に戦わなければならない。しかも、世界中から最先端技術をかき集めていて、更には、金も人も物も揃えている強力な軍事組織でもある相手だ。政治であれ、戦闘であれ、戦う相手としては実に強敵です」

 神作真哉が増田に言った。

「そのハイレベルな敵が、日本の最先端技術を狙ってきた。タイムマシンの技術を。永山の記事で少なくともタイムマシンが瞬間移動することは証明されている。ハルハルが指摘したとおり、あれに爆弾でも細菌兵器でも乗せて敵国に送りつければ、どんな防衛線でも突破して敵陣地内に到達させることができるからな。使い方次第で、とんでもない兵器になる。そういうことだな」

「その通り。だから、我々が何としても阻止しようとしたのです。現状で起きていることは軍事情報の獲得戦なのですよ。つまり軍事紛争だ。ここで敗北する訳にはいかない」

 神作真哉は首を傾げながら増田に尋ねた。

「やつらの拠点に踏み込むなりして、魁首の身柄でも押さえちまえばいいだろ。軍事紛争だって言うならさ。どうして、どの国も手を動かさないんだ。やっぱり……」

 増田基和は神作の発言の途中から話し始めた。

「理由は二つ。一つは、各国とも自国の経済の屋台骨となる特許を奴らに握られているために、政治的及び経済的障害により武力を行使できない状況にあると言うこと。そして、もう一つの理由は、奴らの拠点の場所も、束ねているボスの正体も、全く不明だと言うこと。つまり、こちらから襲撃しようにも、目標が定まらない」

 神作と永山は視線を合わせた。増田が話した内容は、記者たちが調べた情報と一致していた。現場の上級軍人の口から語られるこの事実が本当なら、事態は深刻だった。

 山野紀子は眉間に皺を寄せる。神作真哉は黙って項垂れた。永山哲也が呟く。

「結局、また戦争ですか。今度はASKITと」

 増田基和は静かに首を横に振った。

「奴らと正面から戦っても、勝てる見込みは無い。技術力では、どうしても奴らの方が上です。だから辛島総理は決断されたのです」

 山野紀子が怪訝そうな顔で増田に尋ねた。

「決断? まさか、取引きですか」

「ええ。ASKITは自分たちが多額の資金を投じて建造した巨大コンピューターAB〇一八に固執している。そこに目を着けた辛島総理は、津田や奥野大臣、西郷たちの動きを我々に監視させ、静観することで、上手くAB〇一八の施設に正規国防軍兵の部隊を駐留させることに成功した。つまり、敵が重要視している物を囲ったのです。そして総理は、AB〇一八を返還することと引き換えに、奴らが日本から取得した全ての特許技術を日本に返還させること、更にはバイオミメティクス技術の提供と日本国内から奴らの全ての傘下企業を退去させることを約束させました。それから、奥野大臣を有罪にするのに必要な証人である西郷京斗の引渡しも」

「ホントか。そりゃすごい! さすがは辛島総理だ」

 思わずそう口にした神作真哉に続いて、山野が言った。

「そういうこと……。狙っていたのね、最初から。辛島総理は全ての駒の動きを見ていたんだわ」

 少し考えた永山哲也が、増田の顔を見て言う。

「だから辛島総理は、我々のことを保護するようにあなた方に命じたのですね。津田や佐藤の逮捕も最初から全て辛島総理の計画の内だった。そうなんですね」

 増田基和は、永山の向こうの春木を一瞥した後、永山を見て言った。

「単にそのような事情に限られないとも、お話ししたはずですが」

 春木陽香は、先輩たちと増田の会話を聞きながら、向かいの兵士の視線を追って後部ドアの小さなマジックミラーから外の景色を覗いていた。その春木の様子を呆れたように見ていた山野紀子は、増田の方を向き直して彼に尋ねた。

「ですが、AB〇一八はSAI五KTシステムの一翼を担うコンピューターですよね。それをASKITに引き渡すのは、得られる利益と被るリスクが、つり合わないのでは?」

 増田基和は神作に尋ねた。

「先日のクラマトゥン博士の事故死の事実は、ご存知なのですよね」

 神作真哉は眉間に皺を寄せて答えた。

「ええ。サートゥンシット・クラマトゥン博士が、その日、官邸を訪れようとしていたことも、彼がAB〇一八の危険性を政府に訴えていたこともね。そうだな、ハルハル」

 よそ見をしていた春木陽香は、慌てて神作の方を向いて答えた。

「え? あ、はい。そうです」

「ちゃんと聞いとけよ」

 隣から永山哲也が小声で春木に注意した。

「はあ……」

 そう言ってまた首をすくめた春木陽香は、向かいに座っている防弾マスクの兵士と目が合った気がしたので、思い切って身を乗り出し、彼に小声で訊いてみた。

「あの、この車はどこに向かってるんですか。こっちは市街地方面じゃないですよね」

 兵士は人差し指を自分の防弾マスクの口元に立てると、一言だけ発した。

「シー」

 春木陽香は少し頬を膨らませて、自分の席に座り直した。その頃、増田基和は真剣な表情で神作たちに事情を説明していた。

「あのAB〇一八はクラマトゥン博士が指摘している通り、深刻な危険を孕んでいます。このまま放置すれば、実に近いうちにシステムは崩壊します。それは、皆さんがご理解されている通り、文明の崩壊に繋がりかねない。だからと言って、日本国内にAB〇一八を停止させることや修復させることが出来る技術は無い。つまり、いずれにしても、あれは奴らに引渡し、何らかの対処をさせねばならない物なのです。ASKITの連中があれだけの高い情報収集能力を有しているにもかかわらず、クラマトゥン博士が指摘したAB〇一八の問題点を知らないはずは無い。それでもあれを返すように執拗に要求してきているということは、奴らはあれの問題に対処できるだけの何らかの技術を有していて、問題そのものを重要視していないからだと推察されます。そうであれば、一度奴らにあれを引渡して修復させた方がいい。人類のためにも」

 神作真哉は腕組みをして言った。

「肉を切らせて骨を断つって訳か。辛島総理らしい発想だな」

 増田基和は眉を寄せて静かに言った。

「ですが、問題が一つあります。皆さんにとって非常に深刻な問題が」

 神作真哉と永山哲也、山野紀子は顔を見合わせた。春木陽香は、まだ後ろの小さな窓から外を覗いている。

 増田基和が言った。

「ASKIT側は、和解協定の締結に当たり、民間人の特使を指定してきています。その特使を自分たちの方によこすようにと。奴らは確実に民間人である人間を指定してきました。相当に用心深い連中だ」

「まさか……」

 言いかけた山野の方を向いて、増田基和は答えを述べた。

「そう。あなた方、四人です。軍事訓練も諜報活動訓練も受けたことがない非戦闘員であることが確実であって、奴らにとって素性がはっきりしている者であり、この件の事情もよく把握している、あなた方を」

 車内が急に静かになったので、春木陽香は先輩記者たちに顔を向けた。永山哲也が増田を見たまま固まっている。向かいの席に視線を移すと、山野紀子も神作真哉も増田の方を見て眉間に縦皺を刻んでいた。

 増田基和は足下のアタッシュケースを膝の上に載せ、その蓋を開けながら言った。

「協定書は紙文書で交わすことになっています。おそらく奴らは電子文書に追跡プログラムを組み込まれていることを懼れているのでしょう。こちらも、返却された文書ファイルにウイルスを仕込まれては困る。それで、この、紙の協定書を交わすことになりました」

 増田基和は二冊の革製の表紙の薄いファイルを取り出し、一冊ずつ、永山と神作に手渡した。神作真哉はそれを開いて隣の山野紀子と共に中を見た。永山哲也は小窓から外を覗いている春木の肩を叩いてファイルを開き、彼女と共にそれを見る。中には紙製の薄い冊子が挿まれていて、それを開くと、そこには細かな文字で多数の協定条項が記載されていた。

 増田基和は記者たちに説明する。

「どちらの協定書にも既に総理の署名と捺印がされています。ですが、協定の効力発生には、ASKIT側の署名の他に、それに立ち会ったあなた方の署名が必要だということになっています。且つ、ASKIT側の署名から二十四時間以内に、生存しているあなた方の身柄を我が国が確保できない場合は、こちらが一方的に協定を破棄できるという内容です。つまり、相手があなた方を安全に日本に戻すことが条件となっています。あなた方には、その二冊を相手の指定する場所まで持参してもらい、相手に署名させ、それが確実にASKIT側の署名だと確認の上で、それぞれに署名し、そのうち一冊を日本に持ち帰っていただきたい」

「指定する場所って、どこを指定してきてるのよ」

「日本に戻すって、行先は外国なのか」

 そう尋ねた山野紀子と神作真哉に増田基和が言った。

「具体的な場所はまだ告げられていません。おそらく今後も知らされないでしょう。奴らが民間人であるあなた方を指定してきたのには、何か理由があるはずです。何らかの理由で、奴らは本拠地を動くことができない。だから特使の派遣を要求してきた。我々はそう分析しています」

 協定書を読んでいた神作真哉は、顔を上げた。

「冗談だろ。俺たちに、あいつらの本拠地まで行けって言うのかよ。殺されちまうかもしれないじゃないか!」

 協定書の条項を読み終えた永山哲也は、それを春木に手渡すと、増田に尋ねた。

「四人全員が行かねばならないのですか?」

 増田基和は答えた。

「はい。奴らはそう指定してきています。あなた方、全員をと」

「いつよ。これを運ぶのは」

 山野紀子の問いに、増田基和は答えた。

「今夜、これからです」

 再び車内に沈黙が走る。

 神作真哉が身を乗り出した。

「はあ? ふざけてんのか。俺たちは、たった今殺されかけて、そこから救助されたばかりなんだぞ!」

 怒りの声を上げた彼に、増田基和は申し訳ない様子で言った。

「それは十分承知しています。せっかく助け出したあなた方をさらに危険に晒すのは我々も本意ではありません。しかし、奴らがあなたたち四人を指定してきている以上、この国としては応じるしかないのです」

 山野紀子も声を荒げた。

「何が『助け出した』よ。結局、これが目的だったわけね。私たちがいないと、せっかくまとまったASKITとの協定がふいになる。だから私たちを助けただけなんでしょ。これを運ばせるために!」

 山野紀子は膝の上の協定書を強く叩いた。

 増田基和は続けた。

「これから到着するポイントで、奴らの迎えの者にあなた方を引き渡すことになっています。奴らから国を守れるチャンスです。どうかご協力いただきたい」

 頭を下げている増田に神作真哉が尋ねた。

「引き渡す? 同行者は。武装した軍人を護衛に付けてくれるんだろ?」

 増田基和は首を横に振って答えた。

「我々が付いていられるのは、あなた方の引渡しの時までです。奴らは護衛の同行を拒否している」

 神作真哉は呆れ顔で首を傾げた。

 永山哲也は増田に尋ねた。

「何か身を守る物は。あるいは、追跡装置とか、発信機とか、小型の通信機とか、何か僕らの位置や状況をあなた方に知らせる物を貸してもらえないのですか」

 増田基和は永山の方を見て首を横に振った。

「我々の経験では、こういった場合に余計な物を持っていては、かえって身を危険にします。今のあなた方はウェアフォンやイヴフォンといった通信端末も所持していない。文字通り手ぶらです。その方がむしろ安全だと思われます。奴らが一番恐れているのは、自分たちの本拠地の位置を特定されてしまうことでしょうから」

 神作真哉は更に声を荒げた。

「あんた、本気で言っているのか。武器も追跡装置も通信機器も持たせずに、この紙の書類だけを持って奴らの好きな場所に連れて行かれろって言うのかよ。ふざけるな! 全然俺たちを守る気なんて無いじゃないか!」

 頁を捲って協定条項を読み込んでいた春木陽香が、発言した。

「でも、キャップ。この協定内容には、帰国した私たち四人全員が同時に、日本国内において日本の官憲に保護されない限り、この協定条項は効力を発しないことになっていますし、私たちに何らかの危害が認められる場合は、日本側から協定の無効を主張できるって書いてありますよ。大丈夫じゃないですかね」

 神作真哉は春木陽香に怒りをぶつけた。

「おまえは馬鹿か! 相手が気を変えて協定を破棄するつもりになったら、俺たちを即、皆殺しにしてもいいってことだろうが!」

 春木陽香は再び協定書に視線を落として読み直した。

「あ、そうか。こっちのことしか書いてないですもんね。――って、ええー! じゃあ、危ないじゃないですかあ!」

 呆れたように山野紀子が呟いた。

「だから、さっきからそう言ってるでしょ。まったく」

 増田基和は説得を続けた。

「いや、それは無い。この協定自体はASKIT側から申し入れてきたものです。相手は我が国との協定締結を強く望んでいる」

 神作真哉はまた腕組みをして、増田をにらみながら言った。

「その強い望みが、コロっと変わっちまったらどうするんだ! ズレてる新聞記者とボケてる週刊誌記者に、ピンチの時に超テンパる編集長だぞ! まともな大人は俺だけじゃねえか! このメンバーじゃ、相手の気を損ねるに決まっているだろ!」

 ムッとした表情で横を向いた山野紀子は神作に食ってかかった。

「ちょっと、どこが『まともな大人』なのよ。自分だけいい顔するんじゃないわよ。一番問題なのは、すぐキレる真ちゃんでしょ。絶対に相手を怒らせるに決まってるじゃない」

 春木陽香も神作に言った。

「ちょ、ちょっと。ボケてるって、私のことですか。私、寝ぼけて失敗することはよくありますけど、ボケてると言われたことは無いですよ。私がボケてるなら、別府先輩はどうなるんですかあ。海外旅行で後輩に爪切りのキーホルダーを買ってくる人ですよ」

 永山哲也が春木に言う。

「それで助かったんじゃないか。悪く言うなよ」

「永山先輩はそういう所がズレてるんですよ! だから夕方も捕まっちゃったんじゃないですか。どうして、こっちにハンドルを切らなかったかな。こっちに」

 春木陽香は頭を傾けて、ハンドルを回す仕草をして見せた。

 永山哲也は自分の鼻先を指差して春木に言った。

「僕のせいなのか? 郷田たちのヘリから車がハッキングされてたかもしれないって聞いただろ? 僕は悪くないじゃないか。どこ聞いてたんだよ」

 山野紀子が春木と永山を交互に指差しながら言う。

「あのね、あんたたち、何の話をしてるのよ。今は、誰が一番問題がある記者かってことでしょ」

 横から神作真哉が怒鳴る。

「違うだろ、紀子。この協定書を持っていくべきかどうかって話だろうが。だからおまえは駄目なんだよ」

 山野紀子が神作に顔を向ける。

「なによ、どこが駄目なのよ。はっきり言いなさいよ。どこが駄目なんですかあ!」

 端に座っていた増田基和は、眉間を摘まんで下を向いていた。その様子に気付いた春木陽香が両手を広げて言った。

「分かりました。一度、全員、落ち着きましょう。みんな晩御飯を食べてないから、空腹で少しイライラしてるんですよ。ね、落ち着きましょう。話を整理してみましょう。ね」

 一同は黙って春木に注目した。

 春木陽香は手を動かしながら整理を始めた。

「行きますよ。まずですね、この協定が締結されないと、日本はASKITさんに乗っ取られるか、戦争になって負けるかの、どちらかだと。で、この協定が締結されれば、ASKITさんがAB〇一八を修理してくれて、SAI五KTシステムは元通りになって、人々の生活は害されない。日本も侵略されない。そんで、この協定の締結には、私たちの協力が必要。私たちが協力するには、ASKITさんたちに何処かに連れて行かれなければならない。そこでの安全は保障されていない。護衛も無し。応援も無し。孤立無援。だから、危ない。――うん、危ない。――危にぁい……クズッ」

「泣くな! 全然、整理されてねえじゃねえか。あのな、ハルハル、よく考えてみろよ。おまえ、人生で一回晩飯を食い損ねたまま死ぬかもしれないんだぞ。いいのか、それで」

 神作の指摘に春木陽香は全力でプルプルと顔を左右に振った。

「よし、決まりだ。断る!」

 そう言い切った神作真哉は、山野の膝の上から革製の茶色いファイルを取り上げると、激しく音を鳴らして閉じて、増田の前に突き出した。

 すると、永山哲也が神作に行った。

「キャップ、待って下さい。このまま僕たちが行かなければ、どちらにしてもこの国は危険を抱えたままになりますよ。結局、その危険は僕ら自身の命に関わってくるかもしれない。国民全ての命にも」

 神作真哉は、増田の前に差し出したファイルを少し引いた。

 永山哲也は続けた。

「もしクラマトゥン博士の計算が正しければ、AB〇一八のニューラル・ネットワークの増殖は今後近いうちに人類が自力で抑えることが出来なくなるんですよ。そうなったら、あの中に存在するかもしれないバグは永遠に消去できなくなる。いや、もう既にそうなっているのかもしれません。実際に停電が起き、多くの人が死傷しました。ノンさんやハルハルだって危ない目に遭ったじゃないですか。このまま放置すれば、もっと酷い事態が起こるはずです。バグを特定して消去する技術か、IMUTAを離脱させて人々の生活に混乱が生じないようにしながらAB〇一八を安全に停止させる技術をASKITが有しているなら、一刻も早く彼らにその処置をさせた方がいい。それは確かですよ。問題は、彼らが本当にその技術を有しているか否かです。有しているなら、そうしてもらえばいいですし、有していないとしても、奪われた特許技術が日本側に返還されたり、彼らが有している最先端のバイオミメティクス技術が入ってくるのなら、それなりのメリットはある。最悪の場合でも、日本側で独自に、AB〇一八に代わるバイオ・コンピューターを開発することができれば、それを使って別に新しいシステムを構築して、現在のSAI五KTシステムをその新しいシステムに移行させることができます。そうすれば、AB〇一八を強制的に停止させても、社会に被害を生じさせないで済むかもしれない」

 山野紀子が言った。

「つまり、私たちが行って協定を成立させることに価値があるということね」

 永山哲也は答えた。

「ええ。しかも西郷が引き渡されるのであれば、奥野を有罪に持ち込むこともできます。つまり、今後僕たちが奥野や軍から狙われる心配も無くなる」

 神作真哉はファイルを手許に戻し、呟いた。

「あんな奴のことは、どうでもいいが……」

 山野紀子は頭を掻きながら言った。

「もう! どうして私たちなのよ! せっかく無事に帰れると思ってたのに」

 永山哲也は語気を強めた。

「それを確かめに行くんですよ。僕らは記者じゃないですか。ASKITの連中が何故、僕らのことを指名してきたのか、それを聞き出すいいチャンスでもあります。運がよければ、バイオ・ドライブや田爪博士の研究データの所在も聞き出せるかもしれない。この事件の真相が分かるかもしれません」

 神作真哉は膝の上に乗せた肘の先の手にファイルを握ったまま、項垂れて言った。

「好奇心を満たすには、リスクが大き過ぎるだろ。開けて爆発する週刊誌の『袋とじ』があったら、開けるか? みんな、おまえみたいに無手っ法な訳じゃないんだぞ」

 増田基和が言った。

「政府も奴らとは十分に確認をとっています。奴らも、あなた方には決して危害を加えないと言っている」

 永山哲也が言った。

「行きましょう。取材だと思えばいい」

 神作真哉は深く溜め息を吐いて項垂れると、少し顔を上げてから、言った。

「ったく。帰ったらうえにょに、社会部だけでも団体生命保険に加入するように言わないとな。もちろん保険料は会社もちで。まったく、難儀な仕事だなあ」

 山野紀子も言った。

「この分の時間外手当と出張手当は、ちゃんと会社に払ってもらわないといけないわね。相手の要求に応じて出かけるんだから」

 増田基和は笑顔を見せること無く、二人に言った。

「感謝します。国としても、出来る限りの補償はするつもりです」

 永山哲也は春木の方を見た。

 春木陽香は下を向いて呟いた。

「はあ……おなか空いたなあ……行けば、何か食べ物くらい、出してもらえるかな……」

 永山哲也は優しく春木の肩を叩いた。

 記者たちを乗せた黒いバンは、人気の無い夜の道路を走っていった。


 

                 33

 車が停止した。

 沈黙の中で増田基和が口を開いた。

「ここが引渡しのポイントです」

 増田の合図で、同乗していた兵士が後方のドアを開けて車外に出た。機関銃を構えた兵士は周囲を注意深く見回して安全を確認すると、降車するよう四人に合図した。春木陽香と山野紀子、永山哲也、神作真哉が順に車から降りた。最後に増田基和が車から降りてドアを閉めると、そのドアを強く二度叩いた。彼らを乗せてきた黒いバンは、そのまま走り去っていった。

 そこは広い空き地だった。まだ造成している最中らしく、所々に土や砂利が積まれている。遠くにあるクレーン車や積まれた鉄骨が、月明かりに照らされて小さく見えていた。

「ここは?」

 周囲を見回しながら神作真哉が尋ねると、増田基和は遠くを指差して答えた。

香実かみ区の田園地帯南部にある大規模開発地域です。総合空港の北、約十キロの地点。向こうに見えているのが、蛭川大橋ですよ」

 山野紀子は左右の二の腕をさすりながら言った。

「もう少し北に行ったら首都墓地区域じゃない。薄気味悪いわね」

 春木陽香は北の方角を見つめて呟いた。

「田爪博士のお墓がある墓地かあ……」

 その方角に手を合わせている春木の横で、永山哲也が増田に尋ねた。

「相手は、まだ来ていないのですか」

「そのようですな」

「さっきのスナイパー女子たちは、どこかに隠れてはいないの。もしくは、上空からあのお兄さんが飛び降りてくるとか」

「支援要員は一切配置していません。それが条件ですから。それに事実上、敵の察知能力の方が我々の作戦行動能力よりも高い。配置しても、すぐに気づかれるでしょう」

「さすがは上級国防軍人だ。潔いねえ。本当に丸腰の状態で民間人を送り出してくれるとは、有り難いよ、まったく」

 そう言って背中を向けた神作に、増田基和は説明した。

「こちらが無理な動きをすれば、あなた方をかえって危険に……」

 数発の銃声が連続して鳴り響く。神作真哉と永山哲也が反射的に身を屈めた。山野紀子が素早くしゃがむ。

 首をすくめていた春木陽香は、手で頭を覆ったまま銃声がした方を向いた。増田基和が地面に倒れていた。彼の足下には、機関銃を彼に向けた迷彩服の護衛兵が立っていた。

「増田さん!」

 地面に倒れたまま動かない増田に駆け寄ろうとした記者たちに護衛兵が銃口を向ける。記者たちは動きを止めた。その護衛兵は防弾マスクとヘルメットを外して放り投げた。

「あんたを傷つけないということまでは、協定条項に含まれてなかったよな」

 彼は足下の増田を見てニヤリと笑った。その男の片方の目の上には大きな刀傷が付いていた。それを見た春木陽香が男を指差して叫んだ。

「ああ! この人、瑠香さんのラボで私を襲った人です!」

「この野郎……」

 男の方に進もうとした神作に、男が機関銃の先端を向けた。永山哲也は神作を制止しながら男をにらみ付ける。刀傷の男は口元に笑みを浮かべていた。

 その時、上空から突如として回転翼が風を切る音が響き、強い風が吹きつけてきた。神作たちが見上げると、夜空の中に、数回の点滅と共に一機のオスプレイが一瞬で姿を現した。ティルトローターを上に向けたその機体は、真下にサーチライトを照らして、そのまま垂直に急降下してくる。それを見て、永山哲也は思わず言葉を発した。

「インビジグラム装甲!」

「何よ、それ」

 山野の問いに永山哲也は早口で説明した。

「機体の表面全体に不可視化パネルという薄型の立体画像投影装置を取り付けて、原色同位度の高いリアル・ホログラフィー画像で機体全体を覆う技術です。輝度が低いので、周囲の景色に同化して、目視では機体の輪郭すら識別できない。つまり、殆ど透明に近くなる。日本の企業が開発した技術なのに、その特許を外国企業に奪われたために、軍も警察も実用できずにいると聞いたことがあります」

「音もしませんでしたよ」

 目をパチクリとさせてそう言った春木に神作真哉が言った。

「無音化してるんだろう。新型のステルス・オスプレイは、短時間ならほぼ無音で飛行していられるそうだからな。さっき俺と永山の上に飛んでいたオムナクト・ヘリもほとんど無音だった」

「あれは新型のプラズマ・ステルス機能も搭載した最新型の機体でね。国防軍の防衛レーダーにも、空港の管制レーダーにも映らない。音も姿も消した完璧なステルス機だよ」

 神作たちに銃口を向けながら、刀傷の男はそう説明した。

 神作真哉と永山哲也は、舞い上がる土埃を手で避けながら、垂直に降下してくるそのオスプレイをにらみ付けていた。春木陽香と山野紀子は、髪の毛とスカートの裾を押さえながら、大地を蹴って吹きつける強風から顔を背けた。

 そのオスプレイ機は記者たちから少し離れた所に着陸した。上を向けた回転翼を空転させたまま、機体後部の乗降ハッチを斜めにゆっくりと下ろす。ハッチが開ききると、そこから二人の女性が降りてきた。ベージュのスーツ姿の西洋人女性は、ハッチの横で立ち止まり、こちらを見ている。彼女と共に降りてきた黒服の背の高い東洋人女性は、地に横たわっている増田の姿を目にすると、何かを西洋人の女性に伝え、こちらに駆けてきた。

 刀傷の男が記者たちに言った。

「ほら、さっさと乗ってくれ。時間が無い」

 記者たちはオスプレイの方に向けて歩き出した。黒服の東洋人女性は記者たちに一礼してから横を通り過ぎ、その後方で彼らに銃を向けて歩いていた刀傷の男の所に駆け寄る。

 彼女は厳しい顔で言った。

「どうして彼を撃ったのです。誰も犠牲者は出さない約束でしょう!」

「俺を狙っていると言うんだぜ。今ここでっとかないと、こっちが危ねえだろ」

 刀傷の男はそう言い返すと、女の横を通り過ぎていった。

 四人の記者たちは西洋人女性の後に続いてハッチの上のタラップを上り、機内へと入っていく。東洋人女性がタラップを上がり、周囲を見回して警戒していた刀傷の男が最後にタラップを上った。彼の姿が機内に消えると、ハッチはゆっくりと角度を戻して閉じられていった。

 七人の男女を乗せたそのオスプレイ機は、ティルトローターを上向きにして回転させながら、その機体をゆっくりと浮かせた。そのまま垂直に上昇していく。夜空に高く浮かんだそのオスプレイ機は、機影を星空に同化させると、それまで響かせていた風を切る騒音を消し、ただ強い風だけを残した。その風は南の海へと移動し、そのまま水平線の向こうの闇の中に吸い込まれていった。

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