第19話

 第六部


 二〇三八年八月二十三日 月曜日


                  1

 月曜の朝の新日ネット新聞社は忙しい。社会部フロアでも、記者たちが慌しく動いている。その中で、フロアの奥の席は静かだった。

 神作真哉は自分の席の椅子に座り、顔をしかめて、ギプスをした左腕と無傷の右腕を胸の前で組んでいた。永山哲也と重成直哉、永峰千佳も全員、自分の席に座っている。四人の視線は、神作の横に立って話をしている春木陽香に向けられていた。

 神作真哉はしかめ面で春木に聞き返す。

「マシンが二機あった?」

 春木陽香は頷いた。

「はい。たぶんですけど。あの爆発地点には、爆発の瞬間、マシンが二機存在したのかもしれません」

 神作真哉は一度永山と顔を見合わせると、春木の方に視線を戻し、彼女に尋ねた。

「なんで、そう思うんだ」

 春木陽香は机の向こうに座っている永山の顔を見て言った。

「永山先輩。私と一緒に見た、『ドクターT』の論文に添付されていた実験の動画、あれを覚えていますか」

 永山哲也は一瞬考えてから答えた。

「ああ。あの、植物とか、金属とか、大腸菌とかのタイムトラベル実験だろ。実際にタイムトラベルっていう」

「はい。あの実験で、金属の塊を支えていた棒が溶けて折れる映像を覚えてますか。永山先輩と一緒に拡大してみた奴です」

 永山哲也は頷きながら言った。

「ああ、あの、一瞬だけ重なったように見えた、あれ」

 春木陽香は大きく頷いた。

「はい、それです。あれ、実際に重なったんだと思います」

 神作真哉が怪訝な顔で尋ねた。

「重なった? どういうことだ」

「金属の塊と、それを支えていた棒が重なっちゃったんです」

 そう答えた春木陽香は、神作の机の上の筆立てから一本のペンを取ると、それを掲げて四人に見せながら説明した。

「例えば、ここに物体があるとしますよね。この物体は、この空間に存在する。周りの空気を押し退けて、ここに在る訳です。このペンは、プラスチックとか、植物繊維とか、合成塗料などで構成されています。例えば、プラスチックは、その中の色々な分子で作られていて、それは原子同士の結合で出来ている。その下が原子核で、その下が素粒子。とにかく、今この場には、そういった小さな物質が密集して存在していて、このペンの形状になっている訳です」

 春木陽香は筆立てからもう一本ペンを取ると、それを最初のペンの近くに掲げた。

「そこに、この位置と同じ位置に、突如として別の物質が現われる。そうすると、この中にある小さな原子が今そこにある場所に、別の原子が存在することになります。つまり、重なって存在するということになる。自然界では在り得ないことです。そうなると、何らかの反発作用が起こる。たぶんそれが、『量子反転爆発』なのだと思います。昨日、何度も文献を読んでみて、やっと分かりました」

 神作の机の上にペンを置いた春木陽香は、説明を続けた。

「それで、正確には分かりませんけど、たぶん、金属のように密度の高い物などで起こると、近くの原子核とかの反発作用が連鎖して、大爆発に繋がるんじゃないかと思います。つまり、私と永山先輩が見たあの実験映像では、金属が溶けたのではなく、極小規模の量子反転爆発を起こしたものだったんです。きっとナノレベルで」

 永山哲也が尋ねた。

「金属同士みたいだったけど、大爆発にならなったのは?」

 春木陽香は答える。

「文献によれば、大爆発になるには、三つの条件が必要なのだそうです。一つ目は、同じ物質であること。元素レベルでの構成というか、原子の並びなんかが同じだと、反発作用が置きやすい。二つ目は形。同じ形だと、量子反転爆発が連鎖しやすい。三つ目が同じ位置に存在すること。重なるというためには、寸分違わない位置に二個以上の同じ形のものが存在する必要がある。この三つが一定の質量数以上に揃うと、あのような大爆発になるだろうと、学者は予測しています」

 神作真哉が言った。

「具体的な実験で、爆発の再現に成功している例はないのか」

 春木陽香は首を横に振った。

「ありません。一つの『場』、つまり位置に、二つ以上の物質を存在させる方法が無いので。唯一可能なのは、世界中で日本だけが成功した技術……」

 永山哲也が深刻な顔をして言った。

「タイムトラベル。そして、その応用としてのワープ技術」

 春木陽香は首を縦に振る。

「そうです。つまり、二〇二五年のあの場所には、爆発の瞬間、同じ形、あるいは非常に近似した形状のタイムマシンが二機、全く同じ位置に、ピッタリ重なる形で存在した、つまり、出現したということです。同じものが重なって、反発作用でエネルギー化する。マイナスとマイナスは、ひっくり返ってプラスです」

 神作真哉と永山哲也は春木の最後の発言の意図が掴めなかったようで、二人で再び顔を見合わせた。

 重成直人が春木に確認する。

「じゃあ、永山ちゃんが南米から送ったタイムマシンの他に、別のタイムマシンが、全く同じ日時の、全く同じ位置に現われたってことかい」

 神作真哉が重成を覗いて言う。

「いや、違いますね。永山が送ったマシンは、田爪健三が南米でこっそりと作ったオリジナルの機体です。この世に一機しかない。全く同じ形が二機以上存在するとすれば……」

 永峰千佳が答えを言った。

「量産機。司時空庁が毎月製造して送っていたタイムマシン。それなら、ピッタリと重なるはずですよね。つまり、あの大爆発は、永山さんが送ったマシンとは関係ない」

 永山哲也は目を丸くしたまま春木を指差して言った。

「ハルハル、それ、すっごく大事なことじゃないか。どうして昨日の電話で言わないんだよ」

 春木陽香も目を丸くして言った。

「ええー! だって、永山先輩が、家庭のことも父親がやるべきことはしないといけないとか、家族を守るのも父親の仕事だって。その後で由紀ちゃんの変な声とガシャンていう音が聞こえたんで、何かあったのかなって……」

 永山哲也は呆れ顔で言った。

「これは家庭より大事なことじゃないか」

 春木陽香は永山に指を向けて言う。

「昨日はカラ揚げの方が大事みたいな話してたじゃないですかあ」

 永山哲也は頭の後ろで両手を組んで言った。

「カラ揚げはもう食べたよ。それに、この話を聞いていたら、すっ飛んで来たさ、当然」

 重成直人が口を挿んだ。

「まあ、まあ。喧嘩するほど仲良くなったのか、お二人さん」

 春木陽香は頬を膨らませた。少し機嫌が悪そうである。

 そんな春木に神作真哉が言った。

「とにかく、でかしたぞ、ハルハル。これで、あの二〇二五年の爆発は永山が送ったタイムマシンが原因で起きたものではないって証明できる可能性が出てきた」

 永山哲也が春木に言った。

「いや、でも、形が完全に同じであることが絶対条件では無い訳だろ? その方が、量子反転爆発が起こりやすいってことなんじゃないか?」

 春木陽香は真顔に戻って答えた。

「はい……たぶん、そうだと思います」

 永山哲也は神作の顔を見て言う。

「だとすると、僕の予想通り、僕が送った田爪博士の新型機と司時空庁の単身搭乗型の量産機が近い大きさで、形もよく似ていたら、両機がバッティングして爆発が起こった可能性ありますよね。構造的な部分でも重なる箇所が多いはずですし」

「まあ、確かに、そうだな……」

 神作真哉は眉を寄せて頷いた。

 春木陽香が必死に永山に言う。

「でも、田爪博士の新型機は内部の機構とかが根本的に見直されているんじゃないでしょうか。タイムトラベルの基本となる『AT理論』を修正して、博士が新たに設計したものですよね。それに、司時空庁のタイムマシンは電力を大量消費したり、ジェットエンジンのようなもので加速か何かをするそうなのに、田爪博士の新型機は、永山先輩が飛ばした時、電力の大量消費もジェット推進もせずに量子エネルギーだけで飛んでいったんじゃなかったでしたっけ。じゃあ、やっぱり内部構造も設計段階から全く異なっているんじゃないでしょうか。そしたら、形状的にはほとんど重ならないんじゃ……」

 神作真哉が腕組みをしたまま頷いた。

「確かにな。内部の作りは全く違うのかもしれん。だが、機体の骨格となるフレームの設計が似ていたという可能性も考えられる。津田の話では、あの爆心地で発見された残骸物は外側のフレームの一部だったそうだからな。両機が同じ素材の金属で同じ位置によく似たフレームを設置していた可能性は否定できん。外観が近似していれば、その可能性が出てくるな」

 春木陽香は口を尖らせて言った。

「卵形と弾丸形って、形の違いとしては大きいと思いますけど……」

 重成直人が顎を搔きながら呟いた。

「量産機の正確な形次第か」

 神作真哉は考えながら鼻に皺を寄せる。

 すると、永峰千佳が意見を述べた。

「でも、いずれにしても、両機の形状の同一性を検証するとなれば、バイオ・ドライブが必要じゃありません? 田爪博士が作った新型のタイムマシンはもう無い訳ですし、そうなると、バイオ・ドライブの中にある田爪博士が書いたタイムマシンの設計図が必要になりますよね」

 神作真哉は項垂れて呟いた。

「だよなあ、そうだよなあ。やっぱり、バイオ・ドライブかあ……」

「いや、それが無くても大丈夫です。南米から飛ばしたタイムマシンの形状は、別の所にもちゃんと記録されていますから」

 そう言った永山を見て、重成直人が片笑んだ。

「別のところ?」

 怪訝な顔を向けた神作に対し、永山哲也は自分の頭部を指差して見せた。彼は、すくと椅子から立ち上がった。

「僕、これから、その工場に行って確かめてみます。古澤ふるさわ村の。あの秋永社長が乗るはずだった最後のタイムマシンが残っていれば、それを見れば、南米で僕が送ったマシンと同じ形や大きさの物かどうか、僕には分かりますから」

 神作真哉は永山の顔を睨むように見ていたが、机の上を右手で叩いてから頷いた。

「分かった。だが、気をつけろよ。まだ司時空庁の連中は俺たちを尾行しているみたいだからな。ああ、おまえ、携帯は買ったのか。司時空庁はまだおまえのイヴフォンを返してくれないんだろ」

「いえ、昨日届きました。でも、なんだか随分と調べられたみたいで、昨日、ちょっと電源を入れてみたら、すぐに電池切れになっちゃって」

 重成直人が怪訝な顔で永山に言った。

「イヴフォンはO2オーツー電池内蔵型だろ。『O2電池は百二十年』じゃなかったっけ」

 永山哲也は重成の方を見て答えた。

「司時空庁の連中が何か色々と電力消費の大きいテストとか繰り返したんでしょうね。あるいは、ただの嫌がらせか。昨日の夕方、女房の実家に顔を出しに行ったんですけど、使おうと思ってボタンを押したら、すぐに電池切れです。しかも、変な混線もして、近所にある真明教の施設で信者たちが唱える念仏の声が聞こえてくるんですよ。頭の中に。気色悪いったらありゃしない。で、家に帰ったら、すぐに箱に仕舞いました。まったく司時空庁の連中、いったいどんな調べ方をしてくれたんだか。ま、一応まだ保障期間中なんで、近いうちに販売店に持っていって、電池交換をしてもらおうと思ってます。だから今は、僕は携帯は無しですね」

 神作真哉が呆れ顔で言う。

「携帯なしって、今時そんな記者がいるか。いざって時に、どうやっておまえと連絡をとればいいんだよ」

 春木陽香が手を挙げた。

「あの、じゃあ、私も一緒に行きます。いいですか、永山先輩」

 永山哲也は顎を掻きながら言う。

「いいけど、デカイ携帯だなあ。性能は大丈夫か?」

 春木陽香は必死にアピールする。

「超、超高性能です! しかも、癒しのスマイル機能付き。ニコッ」

 永山哲也は項垂れて言った。

「うわ、必ず付いてるだ」

 春木陽香は頬を思いっきり膨らませた。

「冗談だよ」

 永山哲也は笑いながら春木にそう言うと、神作に顔を向けた。

「じゃあ、僕とハルハルで工場に行ってきます。何かあったら、ハルハルのイヴフォンに連絡を下さい」

 永山哲也は荷物を持って歩いていった。

 重成の席の後ろを回る永山を目で追いながら、神作真哉は困惑した顔で答えた。

「わ、わかった。――ああ、永山。一つだけ言っておくが……」

 永峰の席の横で立ち止まった永山哲也は、神作の方を向いて言う。

「やめて下さい。分かってます。大丈夫ですから。ちゃんと家庭は大切にしていくつもりですので。じゃあ、行ってきます」

 重成直人がはやし立てた。

「お、いよいよ、ウチと『風潮』のエース記者コンビの御出陣だな」

 春木陽香は真っ直ぐに姿勢を正すと、敬礼して見せた。

「では、春木陽香、行って参ります」

 振り返り、永山を追いかけていく。途中からスキップになった。

 その様子を見ながら神作真哉は心配そうに呟いた。

「あの二人を一緒に行かせて、本当に良いのだろうか……」

 春木陽香は鼻歌を歌いながら、永山と共にゲートを通っていった。


 

                 2

 司時空庁長官室の執務机に両手をつき、津田幹雄は呆然とした顔で立ち尽くしていた。彼は目を大きくして言った。

「な、無い?」

 隣に立っている佐藤雪子が困惑した顔で報告する。

「ええ。土日で徹底して、現場の訓練兵全員に探させたそうですけど、施設内を隅から隅まで探しても、見つからないそうですの」

「そんな……」

 佐藤に顔を向けた津田幹雄は言った。

「じゃあ、NNJ社のビルは。防災隊に手は回したのだろ」

「はい。ですが、火災原因は、やはり放火だということで、後は警察に引き継ぐと……」

 津田幹雄は声を荒げた。

「そんなことを訊いているんじゃない! バイオ・ドライブだ。バイオ・ドライブは見つからなかったのか」

 佐藤雪子は首を縦に振った。

「そのようですわ。でも、十分な探索が出来たかどうか分かりませんわね。警察の方からは、警視庁公安部が乗り込んで来たそうですので」

 津田幹雄は再び目を丸くした。

「こ、公安? まさか、特調か」

 佐藤雪子は頷く。

 椅子に脱力したように腰を下ろした津田幹雄は宙を見つめた。そして、机の上を強く叩いて怒鳴った。

「くそ。バイオ・ドライブは何処だ!」

 佐藤雪子が静かに言う。

「やはり、記者連中が所持しているデータの方を回収しておいた方がよろしいのではないかしら」

 津田幹雄は苛立った声で佐藤に怒鳴った。

「そんなことは分かっている。だが、それはバイオ・ドライブとは別だ。私には、あのバイオ・ドライブが必要なんだ。アレが見つからないと、私の失態が明らかになってしまうではないか!」

 佐藤雪子は困惑した顔で津田に言った。

「ですが、もうこれ以上の探索は不可能かと存じますわよ。AB〇一八の施設にも国防軍の正規部隊が乗り込んできたそうですから。奥野大臣は訓練兵の部隊を撤収させざるを得ないと言っていたそうですわ」

 津田幹雄は強く瞬きする。

「て、撤収だと? どうゆうことだ。奥野が正規部隊と入れ替えようとしているのではないのか」

「どうも違うようですわね。訓練部隊は慌てて逃げるように撤収したという噂ですもの」

「逃げるように……?。――いいや、駄目だ、粘らせろ!」

「阿部大佐が小隊を率いて乗り込んで来たそうですの。訓練兵たちでは、とても太刀打ちできませんわよ」

「阿部……深紅の旅団レッド・ブリッグか! 事実上、総理直属の部隊だと言われている連中じゃないか。奥野はどうして、そいつらと辛島総理の間に前もってくさびを打っておかなかったんだ!」

 津田幹雄は机の上に両肘をついて頭を抱え込んだ。彼は暫らくそうしたまま動かなかったが、急に顔を上げて言った。

「奥野大臣は正規兵の中から裏で動かせる部隊を見つけたと言っていたな」

「ええ。たしか、そのようなことを……」

 津田幹雄は佐藤に人差し指を振りながら言った。

「そいつらをAB〇一八の施設に送り込めないのか。奪われたのなら、奪い返せばいい」

「アジア最強と噂されている赤鬼さんたちを相手に、戦おうとするかしら。勝ち目は無いんじゃございません?」

「ならば、情報局の偵察隊はどうなんだ。国防軍内では最高のエリート兵士たちを揃えているそうじゃないか。奥野大臣の側近の増田が抱えているのだろう。あの部隊には他の兵士たちも一目置いていると聞いたことがある。そいつらなら、深紅の旅団レッド・ブリッグとも互角に戦えるはずだ」

 佐藤雪子は淡々とした口調で答えた。

「施設周辺で訓練のバックアップに当たっていた偵察隊の小隊は、すでに撤収したと聞いていますわ。増田さんとしては、この件には深く関わらないという姿勢なのかもしれませんわね」

「奥野大臣からの指令で動かせばいいだろう」

「国防委員会が作戦中止命令を出すでしょうね。それに、正規の指揮命令系統の最上位者は内閣総理大臣ですわ。総理が配置した部隊を排除しようと兵を動かせば、それだけで反逆罪となってしまいますでしょ。当局としては、奥野大臣を即時逮捕する理由ができますわ。そしたら、辛島総理の思う壺じゃないかしら」

 津田幹雄は額に手を当てて上を向いた。

「くっそー。今、AB〇一八を奪われたら、私の手持ちのカードは無くなったに等しいではないか。奥野が検察に逮捕されるのは時間の問題だ。そんなことになれば、私は丸裸になる。どうしたらいいんだ」

 佐藤雪子は津田の肩にそっと手を触れて、耳元で囁いた。

「お諦めにならないで。まだ田爪博士の研究データのコピーがありますわよ。奥野大臣も利用できるうちに最大限の利用をされておいた方がよろしいのでは」

 津田幹雄は机の上を指先で細かく叩いた。そのまま暫らく考える。

 やがて、彼の指が止まった。

「奥野大臣は、訓練兵の中に混ぜていた例の再雇用の連中を正規兵に戻したのだな」

「はい。一昨日、大臣室で任命手続きを済ませたということでしたわ。ですから、既に訓練部隊からは外れておりますわよ」

「よし。これで奴らも実弾が使えるな。そいつらを呼んでくれ。それから、監視局の人間を総動員して記者たちの自宅を調べさせるんだ」

「それはもう動かしていますわ。ですが、ご家族が在宅していますから、その方たちが出払うのを待っている状況ですの」

 津田幹雄は、また机を力一杯に叩いて怒鳴った。

「そんな悠長なことを言っている時間は無い! 多少手荒なことをしてでも、家宅内の探索を始めろと指示するんだ。必要最大限の努力をしろと伝えろ」

 佐藤雪子は目を細めて言った。

「中途半端な指令は、現場を混乱させますわよ」

 津田幹雄は暫く爪を噛みながら、両目を左右に素早く動かしていたが、やがて落ち着きを取り戻し、佐藤に言った。

「そうだな。目撃者は全員始末するように言え。あとは、この津田幹雄が責任を持つ」

 佐藤雪子は黙って頷くと、艶やかに腰を振りながら秘書室へと戻っていった。

 机の上で両指を強く組んだ津田幹雄は、震える手を押さえながら、自分に言い聞かせた。 

「上に立てさえすれば、どうにでも揉み消せるんだ。どうにでも……」

 机の下の彼の足は、細かく貧乏揺すりを続けていた。



                  3

 連なる山々の麓から鳥のさえずりが聞こえる。周囲には田畑が広がり、遠くには小さな集落が点在していた。その向こうに、長閑な田園地帯をかする国道が見えている。

 春木陽香と永山哲也は古澤ふるさわ村に来ていた。古澤村は、新首都の北から西に扇状に連なる下寿達かずたち山と、新首都の北に位置する隣県の善谷よしや市を北西から見下ろす下文紀かぶき山との谷間に広がる小さな山村である。善谷市から国道を西へ一時間ほど走った所に位置し、新首都の北部の県境沿いを東西に走る新高速道路からも遠い。南北と西を山裾の深い森に囲まれ、中規模都市との間にも田畑を敷いて距離を置くこの村は、都会の喧騒や緊張とは無縁で、ゆったりとした時間が流れ、豊かな自然の色で潤っていた。

 広がる田畑の間には幅の狭い農道が幾つも走っているが、その中に一本だけ綺麗に舗装された幅の広い道路があった。その道路は西の山の麓のトンネルまで続いていて、途中に同じ道幅の横道を伸ばしている。雑草が生い茂る荒れた田畑の間を真っ直ぐに北へと伸びるその横道は、丁寧に舗装されていた。そこを暫らく進むと、突如としてコンクリート製の高い塀が行く先を塞いでいる。その塀は城壁のように左右に数百メートルに及んで立ち塞がっていて、上部には等間隔で立つ棒を中継して赤い光線が横三列に走っていた。要塞のようなこの施設は塀の中央に設けられた大きな鋼鉄の門の前まで道路を引き込んでいるが、そこから先への侵入を許していない。その門扉の前にはベージュ色のファミリーセダンが一台だけ停まっていた。永山哲也のAI自動車である。

 運転席から降りてきた永山哲也と、虹模様のトートバッグを肩に掛けて助手席から降りてきた春木陽香は、門扉の前まで歩いてくると、並んで上を見上げた。永山哲也は門の周囲を見回す。呼び出し用のインターホンのような装置が設置されているのに気付いた。高い位置に設置されているそれは、おそらくトラックの運転手用の物だろうと思われた。永山哲也は背伸びをして手を伸ばし、そのボタンを押してみる。返事は無かった。背後に一歩下がった彼は、短く嘆息して言った。

「やっぱり、誰も居ないなあ」

 春木陽香が頷きながら言う。

「誰も居ませんね」

 永山哲也が再び周囲を見回しながら言った。

「事業の凍結が決まってからは稼動してない訳だな。ということは、中は無人か」

「先輩、あれ」

 春木陽香が塀の上を指差した。

 その先に視線を向けた永山哲也が言う。

「ああ、センサーとカメラに熱線レーザーか。僕の家と同じだな」

「厳重ですね」

 永山哲也は顔を上に向けたまま言った。

「ということは、ここがタイムマシンの製造工場であることは、ほぼ間違いないなあ。しかしまあ、よくこんな高い塀を拵えたもんだ。よっぽど中を隠したかったんだな」

「刑務所みたいですね」

 永山哲也は塀に沿って歩き始めると、遠くの角を見ながら言った。

「こりゃ、ここからは入れないな。裏に回ってみるか」

「え、歩いてですか。すごい広さですよ。それに、草ばっかりだし」

 春木陽香は、その塀の下に並んでいる荒れた田圃から突き出した雑草と、ひび割れた土手が続いているのを見て、せめてキュロットとスニーカーにしてくればよかったと後悔した。

 永山哲也は振り返り、春木の恰好を見た。半袖のフラットカラーの白いブラウスの下はベージュのフレアスカートで、足下には洒落たパンプスを履いている。とても悪路を歩ける恰好ではない。ジーンズに半袖ワイシャツの永山哲也は、短く溜め息を吐いた後、門の横の小さなドアの方に歩き始めた。

「服装くらい考えて来いよ。裏手に回って入るのが潜入の常套手段でしょうが……。まさか、ここのドアが開いてるなんて……」

 そう言った永山哲也は、通用口と思われる横の小さなドアに縦に取り付けられた棒状の取手を握り、強く引いてみた。

「ああ、やっぱり駄目だ。仕方ない、裏に回るか。靴とスカートは買い替えるのを覚悟して……」

 横にきた春木陽香が取っ手を握って言う。

「引いて駄目なら、押して……わあっ」

 塀の内側に向かってドアが開いた。

 春木陽香が言った。

「開いてますよ」

「見りゃ分かるよ。でも、何で開いてるんだ?」

 春木陽香は入り口の前でドア枠の周囲を見回しながら言った。

「センサーは起動してないんですかね」

「どうだろうな。とにかく、入ってみろよ」

「ちょ、押さないで下さいよ。矢とか飛んでくる仕掛けだったら、どうするんですか」

「いつの時代だよ。ほら、入って、入って」

 二人は巨大な施設の敷地の中へと入っていった。


 塀の中に入ると、中は広かった。アスファルトで綺麗に舗装されていて、門の前から突き当りまで真っ直ぐに通りが伸びている。その中央の通りの左右にはスレート葺の大きな建物が狭い間隔で整列して建てられていた。左右の建物の列の後ろにも、少し細い通りが中央の通りと平行に走っていて、その向こうにも通りに沿って建物が並んでいる。

 二人は中央の通りを歩いていった。

 永山哲也は左右を見回しながら言った。

「広いなあ。何棟建ってるんだ? 四列に、一、二、三、四、五、……」

「全部、工場ですかね」

「たぶんな。部品ごとに分けられて建設させているのかもしれない。前に、タイムマシンの製造は一から十まで全て司時空庁でやっているって聞いたことがある。うえにょデスクが言っていたように、ネジ一本の細かな部品から自分たちで……」

 春木陽香がパタパタと永山の肩を叩いて言った。

「先輩、あれ。ほら、あそこ。車が停まってますよ」

 永山哲也は春木が指差した中央の通りの奥に目を凝らした。数棟向こうの路上に停められているフォークリフト車に隠れて、黒塗りのAIセダンが停まっていた。

「本当だ。ちょっと、そこの角に隠れよう」

 二人は建物と建物の間の路地に身を隠した。建物の角から永山哲也が頭を出し、彼に負ぶさるように、永山の後ろから春木陽香も顔を出す。

 春木陽香が言った。

「司時空庁の人ですかね。実はこっそり工場を稼動させて……」

「シッ」

 永山哲也が口の前に人差し指を立てた。こちらに後ろを向けて停まっている黒塗りのAIセダンの横で、建物のドアが開く。

 永山哲也が声を殺して言った。

「誰か出てきたぞ。背広姿だ。男が二人」

 春木陽香は永山の後ろで電子メモ帳にメモを取った。

 永山哲也が小声で実況リポートをする。

「車に乗り込んで……車を出した。ナンバーは……」

 春木陽香は、永山が告げた車のナンバーをメモした。

 彼女はハッと顔を上げて言った。

「追いかけましょう」

「ああ、そうだな。――ちょっと待った」

 永山哲也が角から顔を出したまま手を後ろに伸ばして、駆け出そうとする春木を制止する。彼はそのまま観察を続けた。

「車が停まった。隣の棟の前だ。降りてきた。――ああ、やっぱり、入り口らしき所に向かってる」

 後ろを気にしていた春木陽香は、何かに気付いて、狭い路地をさらに奥へと進んでいった。

 永山哲也は角から車の方を覗きながら小声で言っている。

「あいつら、何をやってるんだ? 鍵をこじ開けているみたいだぞ。どうも、司時空庁関係の人間では……あれ? ハルハル?」

 永山哲也が振り向くと、路地の奥の突き当たりの角に春木の小さな背中が見えた。彼は溜め息を吐いて、春木を追いかて行く。

 路地の反対側の角から頭を出して覗いている春木陽香の後ろに永山哲也が来た。

「何やってんだよ。急に居なくなるなよ」

「シー」

 今度は春木陽香が人差し指を口の前に立てて永山を制止した。彼女はその指で向こうを指差しながら、声を潜めて言った。

「向こうにも車が停まっています。さっき背広姿の人たちが建物の中に入っていきました。こっちも二人組みです」

「何者なんだ?」

「それを探るのが私たちの仕事じゃないですか」

 春木陽香は身を屈めて角から出て行った。

 永山哲也が慌てて手を伸ばす。

「おい、ちょっ……ったく、もう」

 永山哲也は仕方なさそうに再び春木を追いかけた。


 二人は腰を曲げて前屈みのまま、建物に沿って小走りで進んだ。

 工場らしき建物に取り付けられた鉄製のシャッターの前を何枚か通り過ぎ、黒い車の横の棟に付いている小さなドアの前で二人は止まった。

 春木陽香は身を屈めたままドアを指差して言った。

「ここから入っていきましたよ。泥棒ですかね」

 永山哲也はドアノブの鍵穴を覗きながら言った。

「泥棒がスーツ着て、黒塗りの車で来るかよ。――ああ、ここも何かで無理矢理に開けたんだな」

 春木陽香は横に停められている黒塗りのAIセダンの方にしゃがんだまま移動し、助手席側の窓から顔を半分だけ出して中を覗き込んだ。車内には特殊な通信装置らしき物が無数に設置されていた。

 彼女は助手席の窓枠にぶら下がるように掴まったまま小声で言った。

「これ、警察の車ですよね。あんなにパネルが付いてますから。無線機も付いてますし」

 振り向いた永山哲也は、腰を曲げて春木の横に移動しながら言った。

「警察なら、こんなことはしないだろ。不法侵入じゃないか」

「じゃあ、軍の情報局」

 春木の横から車内を覗きこんだ永山哲也は言った。

「わからんな。ウチの政治部の連中が使ってる社用車だって、このくらいの装備は乗せているからな。他社の記者かも……」

「ええー! そうなんですか? 知らなかった」

「シー。声が大きいよ」

 春木に注意した永山哲也は、周囲を見回した。

 隣で春木陽香が頬を膨らませている。

「だって私、こんな車に乗ったこと無いですよ」

「新聞社の政治部記者は特別扱いなの。連絡取り合って政治家の動きを探らないといけないだろ」

「はあ……。週刊誌の方でも一台買ってくれないかな。編集長に頼んでみよう」

「あの人がいるから、君の会社は車を買わないんだよ」

「ああ、なるほど」

「それより、ナンバーを控えたかい?」

「あ、ナンバーか」

 春木陽香は電子メモ帳を取り出し、車のナンバーを控え始めた。途中で何度か首を傾げながら車のナンバーをメモした春木陽香は、トートバッグの中に電子メモ帳を仕舞いながら言った。

「こんなハイスペックのIA自動車がウチの会社にあったら、編集長が街中を暴走し……あれ? ちょっと、先輩、中に入るんですか? 危ないですよ」

 少しだけ開いた建物のドアの横に、身をかがめた永山の背中と腰が見えた。彼はそのまま中に入っていく。

 春木陽香は眉間に皺を寄せて言った。

「どうして先輩は無茶ばかりするのかな。もう……」

 溜め息を吐いた春木陽香は、虹模様のトートバッグを肩に掛けたまま、腰を曲げて永山の後について行った。

 遠方から捉えた映像に、建物の中に侵入する二人の様子が映っていた。



                  4

 編集会議を終えたばかりの新日風潮編集室の記者たちは、山野の指示に従いそれぞれ取材先へと出かけていく。自分の机に戻った山野紀子は、立体パソコンにインターネット上のニュース番組を表示して、「トゲトゲ湯飲み」でお茶を飲みながら、それを見ていた。

 ハイバックの椅子に座っている彼女の隣には、別府博が腕組みをしたまま立ち、一緒にニュースを見ている。

 軽装の女性アナウンサーがニュースを伝えた。

『今朝、環太平洋連合合同海軍の事務総局は、今月二十一日にフィリピン沖で拿捕されたオーストラリア船籍の貨物船から押収された戦闘ロボットが、NNC社が所有する物であることが判明したと発表しました。なお、船内から回収された兵士と見られる遺体の身元は依然として判明しておらず……』

 山野紀子は言った。

「本当はASKITの傭兵だって分かっているくせに、そこまでは言う勇気は、どの国にも無い訳ね。なら、どうして動いたのかしら……」

 ニュースは続く。

『なお、拿捕した船舶については、損傷が激しく、今後、船舶として使用することは困難であるため、所有会社の承諾を得て爆沈する方向で検討されており……』

 山野紀子はニュース番組のホログラフィーを消すと、お茶を一口啜ってから溜め息を吐いた。

 別府博が眉を寄せて言う。

「証拠品は海の底ですか……」

 山野紀子は机の上に「トゲトゲ湯飲み」を置きながら言った。

「まあ、タグボートに曳かれて進むのもやっとって感じだったから、そりゃあ分かるけどさ。それにしても丁寧なニュース解説だこと。各国とも、よほどASKITに気を使っているのねえ」

 別府博が自分の席に戻りながら言う。

「まだ、どの国も自国内の多くの特許を握られている訳ですからね。様々な方面からの報復を危惧しているんでしょ」

「そうよねえ。これでASKITに大打撃を与えたとは、到底言えないもんねえ」

 山野紀子がそう言っていると、細い廊下の方から聞き覚えのある歌声が響いてきた。

「ニアー、ファー、ウェーブァー、ユウウアア。お待たあ。ライト様のお帰りよ」

 椅子を回した別府博が声を上げた。

「ライトさん! お久しぶりです」

 椅子の間を歩いてきた勇一松頼斗ゆういちまつらいとは、斜に構えて立ち止まると、少しやつれた顔の前で人差し指を横に振りながら別府に言った。

「お久しぶりぶりちゃん。って、この前、ホログラフィーで私の勇姿は見たでしょ。勇一松頼斗コンバット・バージョン。どうだった、様になってた?」

 山野紀子は呆れ顔で言う。

「あのね。戦闘防具はコスプレじゃないの。戦闘員の身を守るための物でしょうが。戦場に行く兵隊さんたちがどんな思いで戦闘服に袖を通していると思ってんのよ」

 勇一松頼斗は手を一振りして言う。

「どうせ女のことか金のことしか考えてないって。そりゃあ、立派な兵隊さんもいるんでしょうけど、大方はカスばっかり。中に入ってよーく分かったわ」

「あんたね、金曜日に海上で本格的な戦闘があって、民間戦闘員が何十人も亡くなったばかりなのよ。不謹慎な奴ねえ」

 勇一松頼斗は手で顔を扇ぎながら言った。

「あら、あの船のニュース、まだやってるの。沈める予定の船のニュースをいつまでもしつこく流すものねえ」

 山野紀子は勇一松を指差しながら言う。

「ああ。だから船が沈む映画の歌だったのね。ウチの田舎の両親が最後に一緒に見に行った映画だって言ってたわ。――それにしても、縁起でもない映画を見に行ったものよね、まったく」

 山野紀子は軽く頭を掻いた。

 勇一松頼斗は言った。

「結構な名作なのよ。それより、なんかもっと感激とか感動とかないわけ? 私、軍隊に居たのよ、軍隊に。無事に帰ってきたのよ」

 山野紀子は姿勢を正すと、敬礼をして言った。

「勇一松頼斗訓練兵、お勤め御苦労様でございました」

「それじゃ刑務所から出てきた人みたいじゃないの!」

 別府博が口を挿んだ。

「まあ、まあ。本当はみんな心配してたんですから。編集長が一番、気にしてくれてたんですよ」

 勇一松頼斗は訝しげな目で山野を見る。

「ホントかしら」

 山野紀子は言った。

「それで。どうやって抜け出したのよ」

「任務……ていうか訓練自体がね、昨日の夜中に終わったのよ。で、多久実たくみ第一基地に夜中に移動して、そこで解散。朝には辞めさせて下さいって言って、出てきちゃった。編集長に急いで見せないといけない物があったから。――これよ」

 勇一松頼斗は山野の机の上に一枚の写真を放り投げた。その写真にはバイオ・ドライブが正面からはっきりと捉えられていた。

 山野紀子は驚いて言った。

「これ、哲ちゃんが南米で撮影して、――送ってきた……画像……?」

 自分の席から山野の机の横にやってきて写真を覗いた別府博も言った。

「ホント……だ。んー、何か違いませんか。前に見たのとは違うような……」

 首を深く傾げた別府博は、机上の写真を指差したまま、顔を上げて続けた。

「しかも、これ、裁判所と司時空庁に押収されましたよね。裁判所から押収された分は返ってきましたけど、この前の火事騒ぎの際に侵入した奴に消されちゃいましたし……」

 勇一松頼斗は真顔で言う。

「つまり、ここには無いはずのモノよね。ていうか、この世にも無いものかも」

 山野紀子が怪訝な顔を勇一松に向けた。

「これ、どうしたのよ」

「土曜日に、AB〇一八の施設で哨戒訓練をしていた訓練兵全員に配られたの。この施設の中のどこかに隠してあるから探し出せって。探索訓練だ、って」

 山野紀子が聞き返す。

「探索訓練? 哨戒訓練じゃなかったの?」

「そう聞いてたのに、今度は急に探索訓練だって。おかしいでしょ。私も最初はこれが何か分からなかったけど、なんとなくピーンと来たのよ。これが、編集長が言ってた例のバイオ・ドライブの画像なんじゃないかって。それで他の訓練兵たちと一緒に探索を頑張ってみたわけ」

「見つかったの?」

 勇一松頼斗は両手を上げて首を横に振った。

「全然。私以外にも、誰も見つけられなかったわ。三十時間も探索したのに」

 その時間を聞いて、別府博が目を丸くした。

 山野紀子は天井を見上げて呟いた。

「それだけ探しても見つからないってことは、あの施設内には無いのかあ。読みが外れたなあ……」

 勇一松頼斗は真顔に戻って言った。

「でも、はっきりしたことがいくつかあるわ。まず、この写真。これ、合成画像よ。全くの作り物。よく出来ているけど、天才フォートグラフィックアーティストのライト様の目は誤魔化せないわ。ということは、連中、持ってないのよ。哲ちゃんが撮影したバイオ・ドライブの画像も、その他に誰かが撮影したバイオ・ドライブの画像も。つまり連中は、バイオ・ドライブの正確な外観を知らない」

 別府博がもう一度写真を覗き込んで言った。

「ああ、ホントだ。永山さんが言ってた傷の跡が無いですもんね。へえー、これ、作り物のCG画像なんだ……」

 山野紀子は勇一松の前に右手を突き出して言った。

「ちょっと待って。連中って?」

 勇一松頼斗は言う。

「司時空庁よ。あの訓練は、司時空庁が陰で動かしていたものだったということなの。しかも、軍のデータに残さないように、こっそりと私たちに探索をさせたということよ」

「やっぱり、そうかあ……」

 椅子に深く身を倒して再び天井を見上げた山野紀子に別府が尋ねた。

「でも編集長、司時空庁はウチや上から画像資料なんかも全部押収しましたよね。あれ、永山さんが送ってくれたバイオ・ドライブの画像データも入ってませんでしたっけ」

 勇一松頼斗が言った。

「理由は分かんないけど、無くしちゃったんじゃないの。もしくは、誰かに消されたか」

「うーん……。あっちもASKITにやられたかあ……」

 山野紀子は腕組をしてそう呟いたが、すぐに顔をあげて勇一松に言った。

「でも、どうしてこれが、司時空庁が作った物だって分かるのよ」

 勇一松頼斗はまた、顔の前で大きく手を振った。

「こんな精巧な偽画像を作れるのは、あの省庁しかないわ。普通の合成レベルじゃないもの。それに、国防省の作戦司令本部に隠れてコソコソやるとしたら、外部の機関でしょ。となると、司時空庁よね、やっぱり」

「コソコソって?」

 山野が尋ねると、勇一松頼斗は説明した。

「訓練学校で習ったんだけどね、国防兵士の全ての装備のデータは無線ネット通信でSAI五KTシステムにリンクされていて、そこを経由して軍のデータサーバーに実戦データとして蓄積されることになってるんですって。例えば兵士が銃を撃つじゃない。すると、どの位置で何発撃ったかとか、命中データとか、細かな全ての情報がリアルタイムで送信されて、最終的には軍のサーバーに記録されるのよ。それらを基に、各兵士の戦闘能力を評価したり、次の作戦を立案したりするらしいの。逆に本部からの作戦命令も各兵士のコンピュータにネットを経由して送られてくる。兵士は左腕の薄型端末の立体モニターでホログラフィー画像の作戦図面とかが見れるようになってるわ。哨戒訓練の時もそうやって各自のコンピューターに訓練指令本部から作戦データが送られてきた。ところが、このバイオ・ドライブの画像は、こうしてプリントアウトされたものが、直接手渡しで各訓練兵に配られたの。しかも、訓練が終わったら全部回収するって。これって、きっと命令内容を軍のサーバーに残さないようにするためよ」

 山野紀子は舌打ちした。

「チッ。津田の仕業ね。小賢しい」

 山野紀子は、「トゲトゲ湯飲み」に手を伸ばした。

 勇一松頼斗は話を続ける。

「ところが、予定外の夜中に急遽、訓練が中止になったものだから、現場が混乱してね。ドサクサに紛れて、私は写真を持ち帰ることが出来たってわけ」

 山野紀子は湯飲みを口に近づけたまま、目線だけを勇一松に向けて尋ねた。

「夜中に? なんでそんな時間に訓練が終わったのよ。何かあったの?」

「突然、真っ赤なアーマースーツを着た本職の軍人さんたちが乗り込んできて、訓練兵はここから退去しろって」

「ブッ」

 山野紀子は、お茶を噴いた。

「ゴホッ、ゴホッ。……真っ赤なアーマースーツって、もしかして、深紅の旅団レッド・ブリッグのこと? 見たの?」

「ええ。この目でしっかりね。目だけじゃないわよ。この小型カメラのレンズでも」

 勇一松頼斗は旧式の単三電池のような小型カメラを山野たちに見せた。

「はあ? 嘘でしょ。大スクープじゃない」

 山野紀子は慌てて「トゲトゲの湯飲み」を机の上に戻し、椅子から腰を上げた。彼女は職業病とでも言うべき反応を見せる。

「政府は彼らの存在を一切認めていないのよ。配備記録にも掲載されていない超極秘の部隊なのに。また、どエライ写真を撮ってきたわねえ。早く見せてよ」

「まあ、そう慌てなさんなって」

 勇一松頼斗はその小型カメラに接続用ケーブルを挿し込みながら自分の席に向かった。

 会議室の入り口に近い自分の机の前に来ると、彼は左右の手で口を覆って言った。

「きゃー、私の机、ピカピカじゃない!」

 後からついてきた山野紀子が言う。

「ハルハルがね、いつも丁寧に掃除してくれてるのよ。ライトさんがいつ戻ってきてもいいようにって」

 熱くなった目頭を押さえた勇一松頼斗は、そのまま上を向いた。

「かあー。泣けてくるわね。――もう、上の新聞社はどうして、あんな良い子を採用しなかったのかしら。今頃、失敗したと思ってるのかしらね。ザマあ、見らせいっと」

 勇一松頼斗は机の上に立体パソコンを置き、起動させたそれに小型カメラから引いた接続ケーブルの先を繋いだ。立体パソコンの上に浮かんだホログラフィー・ファイルを指先で操作しながら、彼は言う。

「それよりね、あの深紅の旅団レッド・ブリッグとかいう赤鬼さんたちの大将、阿部ちゃん、すっごいわねえ。ミスター軍人って感じ」

 山野紀子が目を丸くして言った。

「阿部ちゃん? へえ、指揮官に会ったんだ。どんな人だった?」

 勇一松頼斗は大袈裟に胸を張って見せ、眉間に皺を寄せると、頬を引き垂れて言った。

「こう、四角い顔にへの字口でね。教官の軍曹さんたち相手に、『日本国国防陸軍第十七師団司令官の阿部あべ亮吾りょうごである! 貴殿らに警告する。直ちに我が部隊の哨戒領域から退去しろ! 作戦開始後に我々の視界に入った者は、例え国防軍訓練兵であろうとも、敵と看做みなす! 我々は敵に容赦しない!』って。物凄い迫力だったわ。もう、教官さんたちは腰を抜かしちゃって半泣き状態だったわよ。いい気味だった」

「ふーん。それでライトたちの訓練部隊は、さっさと帰ってきたんだ」

「そりゃもう大慌てよ。こっちの半分は入隊したての初心者でしょ。残りの半分は経験者だって言っても、訓練兵は全員ゴム弾しか使えないじゃない。向こうは全員超合金のアーマースーツで全身を覆って、馬鹿デッカイ機械式連射砲とか抱えてるのよ。しかも、鋼鉄貫通弾とかいう特殊銃弾まで使用してるらしいの。喧嘩したって端から勝てる訳ない。兵士の気合も違うし。だから教官も訓練兵もバタバタと逃げるようにトラックに飛び乗ってその場から退去したの。おしっこ漏らしちゃった子もいたわね。情けない」

 勇一松頼斗は呆れ顔で首を左右に振った。

 山野紀子は大きく見開いた目の上の眉を寄せて、勇一松に尋ねた。

「そんなに凄いの、深紅の旅団レッド・ブリッグって」

「凄いなんてもんじゃないわよ。でも、教官さんが言ってたけど、事実上、総理直属の部隊らしいから、とにかく、やりたい放題らしいのよ。あの人たちが行軍した戦場は草一本残らないって。皆殺しと徹底破壊、しかも、絶対に後退しないのが彼らのモットーらしいわ。だから『軍隊蟻』って言う者もいるって。ほら、これがその赤蟻さんたちの写真」

 勇一松の立体パソコンの上に写真のホログラフィー画像が浮かべられた。血のような赤で染められた鋼鉄の防具で全身を覆い、顔にも同色の防弾マスクを装着した兵士たちの姿が写っている。

 山野紀子はホログラフィー画像を覗き込んだ。

「なるほどねえ、本当に赤い鎧を着けているんだ。目撃証言どおりなのね」

 山野の横から顔を出した別府博が言った。

「なんか、ロボットみたいですね。昔のヒーロー物とか、ロボットアニメとかの」

 椅子に腰を下ろした勇一松頼斗が言う。

「中は荒くれの軍人ばかりらしいわよ。こんなのが隊列組んで向かってきたら、そりゃあ敵もビビるわよね」

 勇一松頼斗は顔の前でパタパタと手を振る。

 山野紀子が尋ねた。

「その、阿部亮吾とかいう司令官の写真は撮れた?」

「ちょっと待って、ええと、ああ、これね。ほら、恐いでしょ。この人だけ兜もマスクも着けてなかった。首から下の鎧だけ」

 勇一松頼斗は阿部亮吾の写真のホログラフィー画像を指差して、そう言った。その写真には、深紅のアーマースーツに赤いマントをして、一人だけ頭部を露にしている男が写っていた。その強面の中年男性は、修羅のような目でこちらをにらんでいる。

 画像を覗き込みながら山野紀子は言った。

「結構、歳なのね。写真はこの一枚だけ?」

「当たり前でしょ。これ見て気付かないの? こっちを見てるじゃない。完全にカメラ目線。この小型のレーザーカメラで無音撮影したのよ。しかも遠くから、さり気なく。それなのに気付いちゃうのよね。すごい勘っていうか、嗅覚っていうか、とにかく違うのよ。戦場で勝ち抜いてきた本物の軍人って、おっそろしいわねえ。退却用のトラックに飛び乗るのがもう少し遅かったら、ヤバかったわ」

 別府博も画像の男を見ながら言った。

「たしかに凄い迫力だな。この眼、こえー」

 山野紀子は勇一松に言った。

「教官たちは軍曹以上の階級の熟練兵士でしょ。その人たちの士気を喪失させる程の威圧感なのよね。相当な人ね、この人」

 勇一松頼斗は写真に目を遣りながら頷いた。

「教官さんは、この阿部亮吾大佐は国防軍の中でも一目置かれているって言ってたわ。分かる気がする。とにかく、この眼は徒者ただものじゃないわね」

「でも、これで政府も深紅の旅団レッド・ブリッグの存在を否定できなくなるわね。これは本当に社長賞ものよ。ホントに凄い、ライト」

 山野紀子は勇一松の背中を叩いた。

 勇一松頼斗は振り向いて言った。

「社長賞? あのハゲ社長から賞なんか貰ったって嬉しくないわよ。そんなの要らない。その代わり、今後この件はハルハルと私で共同取材よ。あの子のリベンジのために撮ったんだから。あら? そう言えば、ハルハルは?」

 山野紀子が天井を指差して言った。

「ああ、今、上に行ってる。『編集長! なんか、私、すっごいことに気付いちゃったかもしれません』って言って、出て行った。だから、また真ちゃんに叱られて帰ってくるのを待ってるところ」

 勇一松頼斗が目を大きく開いて声を上げた。

「ああ! 真ちゃんで思い出した。これ、これ。この写真……あれ、どこにやったかな」

 勇一松頼斗は鞄の中から写真を探しながら言った。

「あの、クゼタクヤっていう子、あの子と何人かの軍隊経験者たちが土曜日の夕方から、突然いなくなったの。それからずっと戻ってこなかった。あ、有った」

 勇一松頼斗は二枚の小さな写真を山野に手渡した。証明写真ほどの小さなそれを覗いた山野紀子の顔色が変わる。

 勇一松頼斗は深刻な顔で言った。

「そのクゼタクヤが持ってたの。小銃の隙間に挿んでた。それで、こっそり抜き取ってやったのよ。もっと早く知らせたかったんだけど、さっき話した探索訓練が始まって、こっちも連絡を入れられなくなったものだから……ちょっと、編集長、どこ行くのよ」

 山野紀子はその写真を持って、狭い廊下の方へと駆けていった。編集室の出入口のドアが閉まる音がする。

 山野の机の上では「トゲトゲ湯飲み」が飲み残しのお茶の湯気を立てていた。



                  5

 工場の中は薄暗かった。電気は消されていて、天窓と壁の窓の曇りガラスから辛うじて光が入っている程度だ。明るい外から中に入ってきた永山哲也と春木陽香は、薄闇に少しずつ目を慣らしていった。徐々に中の様子が分かってくる。その建物の中は広い。青いビニールシートで覆われた何かの山やコンテナのような大きな四角い箱状の機械が幾つか置かれていた。それぞれの機械からは無数の配線が出ていて、天井へと伸びている。高い位置にある天井には鉄骨が組まれていて、そこの可動式クレーンから何本もの鎖が垂れていた。ビニールシートが掛けられているのは、積み上げられた鉄板やその他の資材のようである。壁際の棚の上や下、二人の足下には、汚れたヘルメットや厚手の手袋、溶接用のマスクとガスバーナーなどが放り投げられたまま散乱していた。

 春木陽香は立ったまま周囲を熱心に見回していた。永山哲也は身を屈めて先に進んでいく。それを見た春木陽香も慌てて身を屈め、永山の後を追った。二人は腰を曲げたまま、積まれた資材の間の狭い通路を進んでいく。

「あいたっ」

 春木陽香が資材の間から突き出した鉄パイプに頭をぶつけた。

 振り返った永山哲也は、潜めた声で言う。

「何やってんだよ。ハルハルは付いてこなくても……あいたっ」

 永山哲也も機械の角で頭をぶつけた。

 春木陽香は自分の頭を片方の手で押さえながら、もう片方の手で永山を指差した。

「やーい、先輩もだ。ニヒヒヒ」

「あのな、遠足じゃないんだぞ。――いってー……」

 永山哲也は頭を押さえて下を向いた。頭から手を離し、掌を見てみる。そこに血が付いていないことを確認した彼は顔を上げた。春木がまだ、こちらを指差している。

 永山哲也は少しムッとした表情で春木に言った。

「いつまで他人を指差して……」

 春木陽香は永山の後方に焦点を合わせいる。

「先輩、あれ」

 振り返った永山哲也は、春木が指差している方角を見た。そこには、緑色のシートに覆われた大きな塊が在った。そのシートの上部は緩やかな曲線を描いている。周囲の他の資材の山や大きな機械からは離れた場所にポツンと置かれていて、シートの色も質も他の山に掛けられている物とは明らかに違う。いかにも「特別にそこに置かれている特別な何か」といった感じである。その真上の天井には、重量物を運搬するためであろう可動式のクレーンがあった。

 春木陽香は言った。

「もしかして、あれ、例の最後のタイムマシンじゃないですかね。発射が中止になった」

 永山哲也は先に進んだ。春木陽香も後に続く。

 機械や資材の間から塊の前の空間に出てきた二人は、改めてその塊を観察した。

 その緑色の分厚いシートは、楕円形のような輪郭の「物体」の上に掛けられていた。永山の方から見た左右の長さは七、八メートル程で、高さは、最高部で四メートル近くはあると思われる。こちら側の床の上に広がっている二枚の分厚いシートが、そのまま、その「物体」の上に左右に並べて掛けられていて、その上に重ねて、向こう側からも同じように左右二枚のシートが床の上から、その「物体」の流線形の上部に掛けられていた。どうも、シート自体の重みで押さえられているようで、床の上にも、その「物体」にも、シートを留める措置は施されていない。

 永山哲也は、床に広がったシートを踏む足音を立てないように気をつけながら、目の前にあるその大きな塊に近づいた。よく観察すると、その「物体」は何か台座らしき物に乗せられていると思われた。

 春木陽香は塊の左端に駆け寄った。そこに屈み、シートを少し持ち上げて中を覗く。彼女は永山に手招きして言った。

「先輩、ここから見えますよ」

 駆けつけた永山哲也は、すぐに屈んで、春木が持ち上げたシートの隙間から中に頭を入れた。その「物体」は、やはり車輪の付いた台座に乗せられていた。顔を少し上げると、ジャンボ旅客機の先端を少し鋭くしたような、白い金属製の「物体」の鼻先らしき部分が見えた。永山哲也はシートの下に潜り込み、僅かに差し込む光を頼りに、その中を移動した。屈んだまま両手でシートを持ち上げて隙間を作り、その中で改めて「物体」の外形を観察する。

 外壁の表面に日の丸が描かれ、その下に数字の列が印字されている。南米の地下で見たものと同じだった。永山哲也は、それがタイムマシンであると確信した。

 シートの外から春木の声が聞こえる。

「どうですか。先輩が南米で見た機体と同じ形ですか」

 永山哲也は、内側からシートを持ち上げて、シートと機体の間にさらに空間を作り、そこに立ち上がった。両手でシートを支えながら、上を見たり左右を見たりして、少しずつ機体の側面に沿って移動する。

 シートの外の春木陽香は永山が内側から持ち上げられてずれたシートに足を取られないよう注意しながら、永山の動きに合わせて機体の側面に沿って歩いた。すると、彼女の視界にイヴフォンの着信を知らせる文字が浮かんだ。新日ネット新聞社からだった。春木陽香は電話に出ずに、シートの中の永山に小声で尋ねた。

「どうです? 分かりますか」

 その機体の側面の三分の二くらいの所で立ち止まった永山哲也は、シートの中で機体側面の上下左右をもう一度見回しながら、外の春木に答えた。

「違う……。僕が見た機体の形状とは全く異なっている。それに大きさが違いすぎる」

「どっちの機体とですか」

 永山哲也は、シートを持ち上げながら先に進んだ。そして、少し前屈みになると、機体の後方を覗き込んだ。その後、身を起こし、今度は機体の底面から側面にかけての曲線を手でなぞりながら確かめる。彼はシートの外の春木に再び答えた。

「どっちもだよ。地下に日本からワープしてきた家族乗り用のマシンよりも小さいし、僕が日本に送ったマシンよりも大きい。明らかに大き過ぎる。それに、形も随分と違う」

 機体の後方の部分からシートを持ち上げて外に出てきた永山哲也は、話を続けた。

「僕があの建屋から送ったマシンは本当に卵に似た形だったけど、この機体は……」

 永山哲也は固まった。春木が後ろから背広姿の男に羽交い絞めにされている。

「ハルハル!」

「ムグググ……」

 口を押さえられている春木の左目がピンク色に光っている。彼女の視界には、永山の前に「新日ネット新聞社」という文字が浮かんで見えていた。再度の着信だった。口を押さえられている彼女は音声操作に設定しているイヴフォンの着信に応じることが出来ない。もがく春木の横に、眼鏡を掛けた小柄な背広姿の男が現われた。

 その眼鏡の男は低く威圧的な声を発した。

「ここで何をしている」

 永山哲也は眼鏡の男をにらんで言い返す。

「あんたらこそ、ここで何をしているんだ。彼女を放せ」

 彼は攻撃的な目で男の顔をにらんだ。拳を握り筋肉質な腕に力を込めて身構えている。

 眼鏡の男が顔を傾けて、春木を押さえている長身の男に合図した。長身の男は春木を解放する。春木陽香は大きく息を吐いた。

「ハーッ。苦しい……またか……」

 ハッと顔を上げた彼女は慌てて永山に駆け寄り、彼の後ろに隠れた。イヴフォンの着信通知も消えている。

 春木を背後に庇いながら、永山哲也は背広姿の男たちに落ち着いた声で言った。

「あんたら、何者だ」

 永山の後ろから少しだけ顔を出した春木陽香も言う。

「そうだ。何者だあ!」

 眼鏡の男は薄っすらと笑みを浮かべて答えた。

「名乗らないのも仕事の内でしてね」

 長身の男がイヤホンマイクに手を添えて、低い籠り声で通信する。

「侵入者を発見した。例の新日の記者たちだ。男一名と女一名。第七セクションに居る」

 彼の隣の眼鏡の男はニヤリと片笑みながら、永山と春木を見据えていた。



                  6

 上野秀則が社会部フロアのゲートの前でフロアの奥に向けて手を振った。

「おーい神作あ、上の政治部から、また面白いネタを仕入れて……イテッ」

 スチールのうるさい音が鳴る。社会部フロアに駆け込んできた山野紀子に押し飛ばされた上野秀則が、本棚に激突したのだ。肩を押さえながら、上野秀則は怒鳴った。

「いってえな。おい山野、いい加減にしろ。俺はおまえの先輩……」

「急いでるのよ!」

 山野紀子はフロアの奥に走って行く。

 上野秀則は口を尖らせて呟いた。

「何だよ。どっちが先輩だよ、まったく……」

 神作の机まで駆けてきた山野紀子は、彼の前に立つなり、勇一松から渡された二枚の小さな写真を机の上に激しく叩きつけるように置いた。

 椅子に足を組んで座ったまま山野を見上げていた神作真哉は、写真を一瞥する。

「なんだ、これ」

「隠し撮りよ。ウチのマンションの前で、二人で話しているところ」

「ちょっと待て。なあ、おまえ、また何か勘違いしてるんじゃないか。別に俺とアイツとは何も……」

「国防軍の奴らが持っていたそうよ。ライトの訓練部隊に混じっていた例の軍隊経験者、クゼタクヤが」

 神作真哉は椅子を引いて、机に顔を近づけ、その小さな写真を覗いた。そしてすぐに顔を上げて山野の顔を見る。彼女の顔は青ざめていた。頬を細かく震わせている。

「ライトが戻ってきたの。ライトの話じゃ、何人かの軍隊経験者が訓練の途中から居なくなったって。そのクゼタクヤも……」

 山野紀子は言葉を詰まらせた。

 神作真哉は山野を指差しながら叫んだ。

「朝美に電話しろ! 早く!」

 そして立ち上がると辺りを見回して叫んだ。

「うえにょ、上野!」

 面倒くさそうに頭を掻きながら、上野秀則がやってきた。

「何だ、どうした」

 神作真哉は真剣な顔で、早口で上野に言った。

「警察に通報して、ハルハルの自宅と俺のアパートに賊が入ったと伝えてくれ。紀子のマンションにも。シゲさん、永山とハルハルに連絡して下さい。すぐに戻るようにと。上野、できたら現場に行って確認してくれ!」

 神作真哉は慌てていた。席を見回した山野紀子が神作に言った。

「ハルハルはどこなの?」

古澤ふるさわ村だ。例の司時空庁のタイムマシン製造工場、あそこに永山と一緒に出かけた。聞いてないのか」

 重成直人が口角を上げて山野に言った。

「スキップしながら出ていったくらいだから、紀子ちゃんへの報告も忘れてるんだろう」

 険しい顔をして山野と視線を合わせた神作を見て、上野秀則が怪訝そうな顔で尋ねた。

「いったい、どうしたんだよ」

「久瀬拓也が俺とハルハルの写真を持っていたそうだ。その写真だ!」

 机の上を指さした神作真哉は、山野の腕を掴んで、一緒にゲートの方に駆けていく。

 上野秀則は神作の机の上に残された二枚の小さな写真を覗き込んだ。それぞれの写真には、山野のマンションの一階エントランスの前で春木から紙袋を受け取る神作と、春木に封筒を渡す神作の姿が写っていた。山野が感電して入院した夜、山野のマンションで朝美と由紀にオムライスを作った帰りの春木陽香に神作真哉が出くわした時の様子だ。夜中にマンションの前で向かい合う男女の写真は、一見すると週刊誌の密会ネタの写真と変わらなかったが、違うのは、その大きさが履歴書の証明写真ほどであることと、二枚のどちらの写真にも、春木と神作の横に小さな目盛りが付いた縦線が引いてあることだった。

 顔を上げた上野に、ゲートの前から神作真哉が叫んだ。

「身長データ入りだ! 狙撃手に攻撃ターゲットの情報を知らせるための画像だよ。武器の横に貼って確認してから撃つんだ。ハルハルが危ない!」

 それを聞いた上野秀則は、すぐに手を振った。

「わ、わかった。とにかく、連絡を入れる。おまえらは、どうするんだ」

 神作真哉はゲートの外に駆け出しながら叫んで答える。

「我が家だよ! 紀子、何してる、行くぞ!」

 駆けて行く神作を追って山野紀子も走っていった。


 

                 7

 山野の自宅マンションがある階で、エレベーターのドアが開いた。中から二人のスーツ姿の男たちが出てくる。男たちは外の廊下を歩いていき、山野の部屋の玄関ドアの前で立ち止まった。周囲を見回すと、男の一人が黒革の手袋をした手をイヤホンマイクに添えて小声で通信した。

「目標階に到着した。これより、開錠して中に入ります」

『周辺住人に気付かれないように注意しろ』

「了解。しかし、中に人が居た場合は、どうしますか」

『目撃者は始末しろとの命令だ。その場合は已むを得ん』

「了解しました。これより開錠に取り掛かります」

 男はポケットから器具を取り出すと、体で隠しながらドアノブの下の指紋認証鍵の装置にそれを取り付け、その器具から延びたコードの先の小さな機械を操作し始めた。

 中のリビングは、床の上に歴史の教科書や刀の玩具などが散乱している。低いテーブルの上では、朝美のウェアフォンが着信ランプを点滅させながら細かく振動し続けていた。



                  8

 一台のAIスポーツセダンが市街地の道路を爆走する。運転席では山野紀子がハンドルを握っていた。助手席では神作真哉が左目を緑色に光らせてイヴフォンを使用している。

 山野紀子が細かくハンドルを切りながら、神作に尋ねた。

「どうなの? 朝美、出た?」

 神作真哉は通話を切って言った。

「くそ。駄目だ、出ない」

 山野紀子は前を向いたまま、自分に言い聞かせるように言った。

「きっとトイレよ。あの子、大の方は長いから。きっと、そう!」

 山野の目は涙で潤んでいる。彼女の横顔を見て、神作真哉が言った。

「落ち着け、紀子。大丈夫だ。奴らが本気で何かをする気なら、土日のうちに行動しているはずだ。朝美は家で宿題してるんだろ。勉強に集中していて、着信に気付かないだけかもしれん。大丈夫だ」

 そんなはずは無いことは百も承知していた神作真哉だったが、不安のあまり今にも壊れてしまいそうな山野を落ち着かせようと、彼は必死に彼女に話し掛けた。

「朝美は小さい頃から、何かに夢中になると一切周りが見えなくなるところがあったじゃないか。熱心に宿題をしてるか、ゲームに夢中になっているのかもしれん。心配するな」

 山野紀子は少しだけ零れた涙を拭うと、歯を喰いしばってシフトレバーを操作し、クラクションを鳴らした。

「邪魔よ、そこの車! 退きなさい!」

 神作真哉はシートベルトを握り締めて言った。

「おいおいおい。もう少し安全運転で行けよ。あの写真からいけば、奴らの狙いは俺かハルハルだろ……」

「あの背景はウチのマンションの一階よ!」

「だからって、いきなり朝美を襲うとは……おいおいおい、待て、赤信号だぞ!」

「うるさい! 集中してるの! 黙ってて!」

「は、はい……」

 神作真哉は目を瞑ってシーベルトにしがみ付いた。

 山野のAIスポーツセダンは、交差点を左右に行き交う車列の中に突進していった。



                  9

 山野のマンションに続く坂道の歩道の上を、小柄なお下げ髪の少女が歩いていた。膝丈の半ズボンにTシャツ姿のその少女は、コンビニのレジ袋をクルクルと回しながらアイスを齧っている。

 冷たいアイスをシャリシャリと噛みながら、山野朝美は言った。

「んー。暑いね。夏はやっぱりアイスですな」

 立ち止まった朝美は、真っ青な空を見上げて、そこから燦々と照りつける太陽に眩しそうに顔を向けたまま息を吐いた。

「はあ……、夏休みも、あと一週間ですか。今年の夏は晴れが多かったのになあ。由紀ともあまり遊べなかったし、あーあ。もっとプールとか行けばよかった……」

 空を見つめたまま少し考えていた彼女は、半ズボンの前のポケットや後ろのポケットを叩いて口を開けた。

「あ、やべっ。ウェアフォンを忘れちった」

 そのまま暫らく止まっていたが、また歩き始めた。

「――ま、もうすぐ家だし、いっか」

 再びレジ袋をクルクルと回しながら坂道を上り始めた山野朝美は、自分に言い聞かせるように呟いた。

「でも、宿題もちゃんとやらなきゃね。中三だもんね。今週中に中二レベルは突破しないとな。二学期が始まったら、勉強どころじゃないからなあ」

 食べ終わったアイスの棒を提げているレジ袋に入れた朝美は、大きく両手を上げた。

「よーし、息抜きも終わったし、いっちょ集中して宿題を……」

 朝美の前に背広姿の大柄な男が立ち塞がった。朝美は両手を上げたまま止まる。

 男は低い声で言った。

「山野朝美さんだね」

「は……い。そう、です、けど……」

 両手をゆっくりと降ろしながら答えた朝美の背後で、別の背広姿の男がイヤホンマイクに手を添えて言う。

「ターゲットを確保しました」

 山野朝美は、前後に立つ二人の大人の顔を交互にキョロキョロと見上げていた。



                  10

 薄暗い工場の中、緑色の分厚いシートに覆われたタイムマシンの横に永山哲也は立っていた。春木陽香は彼の背中に隠れている。二人の前には、行く手を阻むように、眼鏡をかけた背広姿の男と長身の背広姿の男が立っていた。

 眼鏡の男はマシンに近づき、その側面をシートの上から掌で叩きながら言った。

「これが気になりましたか、永山さん」

 永山哲也は眼鏡の男をにらみながら言う。

「知ってるのか。このマシンは……」

 眼鏡の男はすぐに口を開いた。

「残念でしたな。これは、あなたが南米から送ったマシンではない。司時空庁が製造したものですよ。発射が中止となった最後の機体です。この工場で解体する準備をしているようですな。ま、見せ掛けだけでしょうが」

 永山の背後から顔の右半分だけを出して、春木陽香が小声で言った。

「ぼそぼそぼそ……」

 それに気付いた眼鏡の男は、耳を向けて言った。

「はい?」

 春木陽香は少しだけ声を大きくして、しかし、やはり小さい声で言った。 

「ごにょごにょごにょ……」

 眼鏡の男は片方の耳に手を添えて言う。

「はあ? もっと大きな声で言ってもらえませんかね」

 永山の肩の後ろから顔を半分だけ出したまま、春木陽香は大声で怒鳴った。

「もう! その無線の通話音量も最大にしないと聞こえないんですかあ! あのですね、どうして、この工場が第七セクションだとか、私たちが新日の記者だとか、知ってるんですかあ? 作業着姿でも無いし、無線機とかコンピュータとかをいっぱい積んだ黒塗りの車に乗ってるし、コソコソとドアの鍵をこじ開けて中に入る背広を来た二人組みのオジサンたちって、明らかに怪しいじゃないですか。だから、追いかけてみただけなんですけどお!」

 言い終えた春木陽香は、すぐに永山の後ろに隠れた。長身の男が一歩前に出る。眼鏡の男が手を上げてそれを制止した。その時に彼の上着の中に一瞬だけ見えた物を永山哲也は見逃さなかった。身構えながら眉を曇らせている永山に眼鏡の男は言う。

「我々は公務員です。この工場が本当に稼動を停止しているのか、確認しに来たのです」

「公務員? どこの省庁だ」

 永山哲也が強く尋ねると、眼鏡の男は鼻で笑ってから答えた。

「さあ、どこでしょうな。そこまで明かす義務はない」

 永山哲也は眼鏡の男の上着を指差しながら言った。

「近頃の公務員は誰もが武器を携帯するようになったのですかね。おたくが左脇に提げているのは、ピストルですよね」

 永山の背後から春木の裏返った声が聞こえる。

「ぴ、ピストル? 拳銃のことですか?」

 少し振り向いた永山哲也は、呆れたように言った。

「そう言ったじゃないか。拳銃以外にピストルって名の物が有るかよ」

 そして再び顔を前に向ける。

「稼動の停止を確認に来ただって? この工場の責任者の立会いも無しに、どうやって確認したことを資料にするつもりだ」

 永山の後ろから春木陽香も少しだけ顔を出す。

「そ、そうですよ。ドアの鍵だって、こじ開けてたじゃないですか。確認なら、ここの責任者の立会いの下で堂々と中に入ればいいですよね。なんでコソコソするんですか。確認だなんて、絶対に嘘ですよね。嘘つきは泥棒の始まりですよ! この犯罪者あ!」

「なんだと……」

 長身の男は剣幕を変えて前に出た。春木陽香は永山の後ろから両手を上げる。

「はい、すみません。言い過ぎました。ごめんなさい。降参です」

「この女……」

「待て。落ち着け」

 気色ばんだ長身の男を眼鏡の男が止めた。永山哲也が言う。

「何かを探しているんだな。何を探している。あんたらは、どこの機関の人間なんだ」

「まあ、落ち着きましょうや、お互いに」

 彼は眼鏡を外すと、ハンカチでレンズを拭きながら、続けた。

「あなた方を傷つけるつもりは無いんですよ。そのような権限は、我々には無い。ただ、協力してもらいたいのです。知っていることを素直に話してもらいたい、それだけです」

 ゆっくりとそういい終えた男は、ハンカチをポケットに戻すと、再び眼鏡を掛けた。彼は眼鏡の奥から鋭い視線を向けて、声を低める。

「バイオ・ドライブという物は何処ですか」

 男の目は威圧的だった。こちらを見据えたまま一歩を踏み出すと、そのまま少しずつ近づいてくる。永山哲也は春木を背後に庇いながら、男たちとの距離を保って後退りした。男たちは永山をにらんだまま、ゆっくりと一歩ずつ進んでくる。

 永山と春木がシートの端まで後退した時、春木陽香は永山の後ろから横に飛び出して永山から離れた。彼女は二人の男を指差して叫ぶ。

「あなたたち、バイオ・ドライブを探しているんですね! だから、この工場の中をみんなでウロウロしてたんですよね! 司時空庁の許可無く勝手に。やっぱり泥棒じゃないですか!」

 春木陽香は腰を引いたまま、肩幅に開いた両足で精一杯に踏ん張るようにして立ちながら、二人の男たちに向かって叫び続けた。

「あなたたちの車のナンバーだって、ちゃんと覚えてますからね! 言いましょうか」

 春木陽香は、さっき見た二台の黒い車のそれぞれのナンバーを告げた。それを聞いた二人の男たちは、立ち止まって顔を見合わせる。

 春木陽香は尚も叫びながら、少しずつ後退りした。

「一つ違いの、お揃いのナンバーなんか付けちゃって! あのナンバープレートも偽物ですよね。そんなことしていいんですかあ。警察に言いますよ!」

 もう一度顔を見合わせた二人の男たちは、春木の方に体を向けて、再び一歩ずつゆっくりと前に進み始めた。彼らは、それぞれ言った。

「なるべくなら、傷つけたくないのですがね」

「逃げようとすれば、已むを得ないけどな」

 長身の男が上着の中に右手を入れる。

 春木陽香は彼らの方を向いたまま叫んだ。

「永山先輩、今です!」

 永山哲也は素早く屈んで床のシートの端を掴むと、それを力いっぱいに手前に引いた。

「うわっ!」

 ずれたシートに足を取られた二人の男たちは後方にひっくり返った。永山がさらにシートを引くと、横のマシンの上に掛かっていたシートが落ちてきて、床に転がっている二人の上に覆い被さる。それと同時に春木が自分の足下のシートを掴んで、そのまま長身の男の向こうに走り、シートの下でもがいている二人の上に更にシートを被せた。

 その場から素早く離れた春木陽香は、少し戻って、自分を羽交い絞めにした長身の男の頭の所を一蹴りすると、永山と共にその場を去った。

 台座の上では、運搬クレーンのフックに掛けるための流線形の保護フレームが取り付けられた単身搭乗型のタイムマシンが、弾丸のような形状の姿を晒していた。

 春木と永山が、自分たちが入ってきた出口の方に向かおうとすると、そこから更に、背広姿の別の二人組みが入ってきた。

「ハルハル、こっちだ!」

 永山哲也は春木の腕を掴んで、工場の機械の間へと引き込んだ。

「くそお、待てえ。逃げるなあ!」

 さっきの男たちがシートの下から叫んでいる。建物の中に入ってきた男たちは、仲間の声が聞こえる奥へと走っていった。

 彼らが立ち去ったのを確認した永山哲也と春木陽香は、急いで出口へと向かった。

 建物から出た二人は、一目散に敷地の門の方へと走っていった。



                  11

 国防省ビル内の暗い部屋の中には、ホログラフィーで立体的に表示された地形図や天気図が、並べられた机の上に浮かんでいた。ホログラフィーの前に座っている軍服姿のオペレーターたちの顔がその光で薄っすらと照らされている。その大きな部屋の中央には会議机のような広いテーブルがあり、その上に様々な情報がホログラフィーで浮かべられていた。テーブルの周囲には重役椅子が置かれていたが、まだ誰も座っていない。突き当りには天井から斜めに巨大なパネルが設置されていた。そのパネルは薄緑に光り、室内を照らしている。その手前の中央部分には大きな平面ホログラフィーが広がっていて、そこに奥野恵次郎の赤らんだ顔が投影されていた。

 国防大臣室の執務椅子に座っている奥野恵次郎は、ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを外している。目は半開きで生気が無い。彼は呂律の回らない口で言った。

『とにかく、こちらの事はいい。おまえは、自分の仕事をするんら。ふう……西郷だ、西郷を消せ。こうなったら、已むを得ん。消してしまえ』

 室内の一段高いブースに立っている増田基和は、眉間に皺を寄せて言った。

「西郷をですか? それは少々、乱暴すぎるのでは」

 赤い顔の奥野恵次郎は、手を大きく振った。

『いいから、消せ。消してしまえ。このままでは、どうにもならん』

 増田基和は隣の制服姿の男と顔を見合わせると、再び前を向いた。

「飲んでおられるので?」

『何をら。――ああ、のんだぞ。あいつらの要求は、ぜーんぶ呑んだ。それなのに、何らこのザマは。俺はな、国防らいじんとして、この国を強くして、しゃーんとした国にしようとしているだけらろうが。何か、もんらいでも、有るのか!』

「作戦の遂行に問題が生じるかと思われますが」

『うるさい! おまえら兵隊は俺の指示に従えばいいんら! シビリアン・コントロールらろうがあ!』

 腰に手を当てた増田基和は、俯いて小さく溜め息を吐くと、顔を上げて言った。

「――分かりました」

 奥野恵次郎はこちらに指を向けた。その手には、氷と黄金色の液体を入れたグラスが握られている。彼は落ちた瞼を必死に上げながら、しゃっくりを交えて言った。

『いいな……ヒック……。しっかりやれ。頼むぞ……ヒック……このままでは、俺は終わりら……終わってしまう……何ろしても……バイオ……ろらいぶ……を……』

 奥野恵次郎のホログラフィーは後ろに倒れる直前で停止し、画像が激しく乱れた。そしてそのまま、国防大臣室からの通信は一方的に切れた。

 増田基和は呆れ顔を左右に振ると、隣に立っている制服姿の男に言った。

「最上階にチームを送って大臣を保護しろ。プランBだ。小隊に出動を命令、標的を追跡し、敵を発見次第、直ちに排除する」

「了解しました。直ちに伝達いたします」

 男は敬礼をして去っていった。増田基和はブースの後ろに座っている制服姿の女性に指示した。

「副大臣に連絡しろ。国防大臣の指揮権は行使不能につき停止だ。作戦は続行する」

 増田基和は大型パネルに目を向ける。奥野のホログラフィー画像が消えた後、その後ろの大型パネルには新首都全体と周囲の市町村の地図が表示されていた。北西の山間の部分で二つ、北東の住宅地の部分で五つの赤い点が点滅している。増田基和は険しい顔で、それらの点をじっと見つめていた。



                  12

 電気モーター音を響かせて高速で坂道を上ってきたAIスポーツセダンが宙に浮いた。フロント・バンパーを路面にぶつけて着地すると、火花を散らして突進する。車体の尻を振って曲がった山野の車は、マンションの敷地の中を横滑りしながらエントランスの前の駐車場まで進み、煙をあげて急停止した。

 助手席のドアが開き、ギプスをしている神作真哉が駆け出してくる。運転席からは山野紀子が飛び出すように降りてきて、エントランスの前で背広姿の男たちに囲まれている娘の所まで走っていった。

 先に駆けつけた神作真哉が剣幕を変えて男たちに怒鳴った。

「なんだ、おまえら。ウチの娘に何の用だ!」

 山野紀子も後から駆けてくる。

 背広の男たちの中から初老の男が前に出て、言った。

「やあ、神作さん。私ですよ。警視庁の赤上です」

 眉の太い初老の男は手を上げて笑顔を見せた。その横で、山野朝美が顔をキョトンとさせている。彼女は両親の顔を見上げて言った。

「あれ、パパ、ママ。どうしたの?」

 山野紀子は朝美に駆け寄ると、彼女を抱きしめて包み、そのまま男たちから遠ざけた。

 赤上あかがみあきら刑事は山野の緊張した顔を見て、言った。

「パクった松田がようやく口を割りましてね。慌てて娘さんの保護に来たところですよ」

「保護?」

 神作真哉が聞き返すと、赤上明は黙って向こうを指差した。背広姿の二人の男たちが、他の背広姿の男たちに両腕を捕まれて、赤色灯を付けた車に乗せられようとしている。その二人の男は、どちらも黒皮の手袋の上から手錠を嵌められていた。特に抵抗する様子も無く、神妙な顔で覆面パトカーに乗り込んでいく。

 男たちが乗り込むと、車はサイレンを鳴らして走り出した。

 神作真哉は赤上に視線を戻して尋ねた。

「あいつらは」

 赤上明は坂の下へと走っていく覆面パトカーに顔を向けながら言った。

「司時空庁の連中です。山野さんのマンションに侵入する直前に、ウチの捜査官が逮捕しました。鍵を開けようとしていたそうです。住居侵入未遂ですな。ま、武器も携帯していましたので、銃刀法違反も視野に入れています。司時空庁の監視局員に銃器の所持権限は有りませんから、現行犯逮捕で間違いないでしょうがね」

 神作真哉は山野と顔を見合わせて言った。

「銃を……」

 赤上の背広の隙間から、脇の下に提げている拳銃が見えた。神作真哉は再び山野に視線を送ってから、赤上の横顔を見る。

 二人の方に顔を向け直した赤上明は、太い眉を寄せて言った。

「あいつら、その銃に消音装置を付けていましたよ。実弾は六発フル装填。家の中に人が居た場合は殺すつもりだったのでしょう。娘さんと鉢合わせていたら大変なことになるところでした。どうやら、奴らは一線を越えたようだ」

 厳しい顔でそう言った赤上明は、一言付け加えた。

「ああ、一応、他の記者の皆さん全員のご自宅にも、捜査員を送ってあります。ご安心ください」

 神作真哉は驚いた顔で言った。

「司時空庁は、俺たち全員を消すつもりだったのですか」

 赤上明は首を横に振る。

「いや、何かを探しているようですな。それについては松田が口を割らんのです。あなた方、いったい何を隠しているのです?」

「いや、俺たちは何も。探しているのは俺たちのほう……」

 神作がそう言いかけた時、マンションの敷地の中に一台のAI自動車が荒い運転で入ってきた。そのシルバーのAIハードトップは、クラクションを鳴らしながら敷地の中を猛スピードで走ってくると、停まっていた黒塗りの車の近くで急停止した。運転席のドアが開き、中から上野秀則が出てくる。彼は外に出るとすぐに大声で叫んだ。

「神作、そいつらの言うことを信用するな!」

 上野秀則は駆け寄ってきた。

 神作真哉が怪訝な顔で尋ねる。

「うえにょ。どうした」

 上野秀則はそれに答えずに、山野の顔を見て言った。

「山野、朝美ちゃんを俺の車に乗せるんだ。早く!」

 山野紀子が上野の車を見ると、その後部座席には永峰が乗っていた。額の上にヘッド・マウント・ディスプレイを上げた彼女は、山野に視線を送り、頷いて見せた。

 赤上明が眉間に皺を寄せて上野に言う。

「我々を信用するなとは、どういうことでしょう」

 上野秀則は赤上に指を向けて言った。

「あんたら、まだ有働に動かされているな」

 上野の言葉を聞いた山野紀子は、朝美を連れて男たちから数歩離れた。

 上野秀則は赤上の顔をにらみ付けたまま、神作に言った。

「さっき政治部の連中から聞いた。俺たちが最後のタイムマシンの発射を阻止した七月二十三日に、辛島総理は有働武雄に立体電話を掛けている。二人は二十五日に都内の料亭で対談もしているそうだ。辛島総理と有働武雄は何らかの取引きをしたに違いない」

 神作真哉は顔をしかめた。政治的理念も主張も違う辛島勇蔵と有働武雄は政界の両極に位置し、権力を巡ってしのぎを削っている。この二人が取り引きをするなど常識的には考えられなかった。

 神作真哉は上野に聞き返した。

「あの二人が取引き?」

 上野秀則は首を縦に振った。

「有働武雄は、この一連のタイムマシン事件の幕引きを考えているはずだ。あいつが総理の時に始めた事業だからな。政界への早期復帰を考えている有働にしてみれば、この件は有耶無耶に終わらしてしまいたいだろう。一方で辛島総理は、次期選挙での政治的打撃を最小限にしたいと考えている。二人の利害が一致したのさ」

 元政治記者である上野秀則の推理だった。

 同じく元政治記者である山野紀子が尋ねた。

「それで、どうしてこの人たちが動き出すのよ」

 上野が話した通りなら、司時空庁が記者たちを抹殺した方が辛島と有働にとっては都合がいいことは明白であった。山野紀子はその点を指摘していた。

 上野秀則は山野に目線だけを向けて言った。

「バイオ・ドライブさ。タイムマシン事件が世界中に与える影響の中で最も注目されるのも、南米戦争が長期化した原因も、その戦後処理で中心議題となるのも、あのバイオ・ドライブの中に記録されている最新の科学技術の情報だ。中に記録されている田爪健三の研究データを手に入れた者が今後この国の実権も国際社会での発言権も握るはずだ。辛島と有働は、その最新の科学技術が書き込まれたバイオ・ドライブが津田や奥野の手に渡るのを懼れたんだ。だが、それを先に手に入れようにも、バイオ・ドライブの所在が分からない。だから津田や奥野を泳がせていたんだよ。所在がはっきりしたら、二人を更迭してバイオ・ドライブを政府が回収。辛島は有働の政治的責任を追及しない。有働もデータのコピーを受け取るのと引き換えに辛島政権の政策実行に協力する。たぶん、辛島と有働の相互妥協はそんなところで落ちた。だが、有働が先手を講じたんだろう。こいつらに松田を逮捕させ、バイオ・ドライブの所在を吐かせたんだ。松田が逮捕されたのは八月十九日。奥野と西郷の贈収賄記事を載せた『週刊風潮』の発売日の前日だ。しかも、ライトの話と合わせれば、奥野が例の訓練部隊を多久実たくみ第一基地に移動させた直後に、松田は逮捕されている。おそらく有働は、奥野が早々に更迭されると踏んだ。国務大臣を罷免されて内閣総理大臣の同意なしでも起訴され得る状態になった奥野が、九月からの臨時国会が開催される前に西郷と共に検察当局に逮捕されると見込んだんだろう。だから急いで動いた。世間の目がそちらに向いている隙に、自分が先にバイオ・ドライブを手に入れて、辛島に退陣を迫るつもりで。あとは、こいつらを使って津田を逮捕させれば、南米戦争を誘発させた張本人を捕らえた功績を得られると同時に、真相も隠蔽できる。自らの政治的責任の追及を回避でき、政界復帰への道筋もできるって訳さ。だから、こいつらは俺たちの保護のために動いている訳ではないぞ。有働に命じられてバイオ・ドライブを探すために動いているんだよ」

 上野秀則は赤上に軽蔑的な眼差しを向ける。

 赤上明は顔をしかめて、頭を掻いた。

「勘弁して下さいよ。我々は警察官ですよ」

 神作真哉が訝しげな視線を赤上に向けた。

 上野秀則は山野と神作の顔を見ながら、話を続けた。

「さっき女房から電話を貰ったんだ。家の前で司時空庁の連中が警察官らしき連中に連行されたらしい。たぶん、シゲさんや永峰、ハルハルの家でも、司時空庁の職員が逮捕されているはずだ。だが、問題はその後だ。女房の話では、その警察官らしき連中が家の中を調べさせて欲しいと上がり込んできたらしい。令状の提示が無いようだから、帰ってもらうよう嫁に言わせたがね」

 上野秀則は厳しい顔を赤上に向けたまま、自分の車の方を軽く指差して言った。

「ウチの永峰のことは知っているな。彼女、コンピュータやネットにはちょっと詳しい。一人暮らしの彼女は、自宅マンションの外廊下のセキュリティーカメラも、街灯の防犯カメラも職場からアクセスしてオンラインで見ることが出来るんだそうだ。彼女にしてみれば、管理会社のファイヤーウォールを破るなんぞ、唾を付けた指先で障子に穴を開けるようなもの……ゴホン……いや、別にハッキングしたとか、悪いことをしたという訳じゃないんだぞ。――とにかく、あんたら、令状も無いのに彼女の家に勝手に入ろうとしたな。外から鍵を開錠して。たぶん、ハルハルの家でも同じことをしているはずだ。それは犯罪だから、一応、一一〇番させてもらったよ。今頃どちらにも、真っ当な警察官が向かっているはずだ。もしかしたら、あんたの部下たちは不法侵入で逮捕されているかもな。結局あんたら、司時空庁の連中と同じ穴の狢じゃないか!」

 神作真哉の表情が変わった。彼は赤上をにらみ付けて言う。

「どういうことだ。やはり、バイオ・ドライブが狙いなのか」

 赤上明は困惑した顔で言った。

「上野さん、あなたも記者なら、我々のことはよくご存知でしょう。皆さんのことは全て調べてあるんですよ。神作さん、上野さんは元政治部の記者だ。事情があって社会部に異動になったことも知っています。今の上野さんの話は、いかにも政治部の記者が書きそうな内容だ。上野さんはこの事件をきっかけにして、政治部に戻りたがっているのかもしれませんよ。この人の言うことこそ信用できますかね」

「なんだと!」

 上野秀則は憤慨した。背伸びをして顔を前に突き出す。

 神作真哉は山野の顔を一瞥すると、上野に視線を戻し、彼の顔をじっと見て暫らく考えた。そして、その真顔を再び赤上に向けて言った。

「いや。こいつは、顔は曲がっているが性根は曲がっちゃいない。俺は信用している」

 上野秀則はもっと憤慨した。

「前半は要らねえだろうが、前半は!」

 赤上明は口角を上げたまま下を向き、残念そうに言った。

「そうですか……」

 上野秀則は更に更に憤慨した。

「そうですかじゃねえ! 顔は曲がってねえぞ、俺」

 顔を上げた赤上明は、深刻な顔を神作の方に向けて言った。

「神作さん、現状では、状況は非常に危険な領域に入っているのですよ。この事件には、今、上野さんが推理された以上に、非常に複雑な事情が絡んでいる。しかも、大変危険な組織が動き出しているのです」

 山野紀子が赤上を見据えて言った。

ASKITアスキットね」

 赤上明は山野の方に顔を向けて答えた。

「捜査上の秘密はお話し出来ません。申し訳ない」

 朝美が目を輝かせる。

「ソウサジョウの秘密! かっくいい!」

 赤上明は朝美に微笑んで見せた後、再び大人たちに厳しい顔を向けて言った。

「神作さん、上野さん、そして山野さん。今この状況でバイオ・ドライブを所持していることは非常に危険なのです。だから我々は、あなた方をお守りしたくて動いている。それだけは信じて欲しい」

 丁度その時、山野の視界に「ハルハル」と文字が浮かび、彼女の聴覚にだけイヴフォンの着信音が響いた。音はすぐに消える。視界の文字は「不在着信ハルハル」に変わった。山野紀子は顔を曇らせて胸に手を当てる。手の中で、シャツの胸元にはめたイヴフォンを操作していた。

 赤上明は山野の様子を一度見たが、気にせずに語り続けた。

「我々があなた方のご自宅を徹底的に捜索して、あなた方がバイオ・ドライブもデータのコピーも所持していないということを家宅捜査調書あるいは家宅調査記録として公式に記録に留めれば、バイオ・ドライブを狙っている連中はその情報を何らかの方法で取得するはずです。そうすれば今後は、そいつらからあなた方がターゲットにされることは無くなる。バイオ・ドライブが有ろうが無かろうが関係ないのですよ。きっとそいつらは、我々がバイオ・ドライブを回収したと思い込む。標的があなた方から我々に移るのです。そうするためには、外形上の事実が大事なのですよ。形だけでもいいですから、家宅捜査にご協力いただけませんか」

 赤上明は太い眉を寄せて、懇願するように言った。

 神作真哉と上野秀則は顔を見合わせた。

 山野紀子は下を向いている。着信履歴から春木のイヴフォンにリダイヤルしたが、呼び出し音が彼女の脳内で鳴り続けるだけで、通話に出ない。春木のことを案じた山野紀子は眉間に皺を寄せる。すると、通話が繋がり、それと同時に、山野の脳内に春木の大声が響いた。

『(通話オン)量も最大にしないと聞こえないんですかあ! あのですね、どうして、この工場が第七セクションだとか、私たちが新日の記者だとか、知ってるんですかあ? 作業着姿でも無いし、無線機とか……』

 軽く頭を押さえている山野に気付いた赤上明が声を掛けた。

「どうしました。お具合でも?」

 神作真哉と上野秀則が振り向いて山野を見た。朝美も心配そうに隣の母の顔を見上げている。

 山野紀子はイヴフォンの通話で光っている左目を手で覆って隠し、一歩だけ後ろに下がると、反対の手を振って言った。

「いえ、大丈夫です。ちょっと目眩がしたもので。いつものことですから」

 赤上明は心配そうな顔で山野を見ながら言った。

「気丈に振舞っておられても、いつ誰から襲われるか分からないような状況であれば、ご心労が絶えないでしょう。司時空庁の連中でさえ銃を所持していた。ということは、銃器を手配して司時空庁に回した人間または組織が存在するということです。そいつらは司時空庁よりも危険だ。何をしてくるか分からない。特に神作さん、あなたと春木さんには」

 神作真哉の鋭い視線が赤上に向けられた。

「写真のことを知っているのか」

 赤上明は頷いた。

「ええ。あれを撮影していたのは司時空庁の監視局の人間です。あなたと春木さんは狙われている。あなたのご家族もね」

 赤上明は、一人で立っている朝美を指差した。神作真哉は朝美に視線を移した後、その視線を山野に向けた。山野紀子は少し離れた場所でこちらに背を向けて、左の側頭部を押さえている。心配そうな顔で山野を見つめる神作に、赤上明は言った。

「我々の方でホテルを用意しました。あなた方の一家は暫くそこで過ごされたらいい。春木さんの分も別に用意してあります。とりあえず今は娘さんを警視庁ビルにお連れして、我々が保護しましょう。ワル連中があなたを脅迫するとすれば、あなたの一番大切なものを狙うはずだ。警視庁ビルの中なら安全です。今から我々の車でお連れしますよ」

 そう言いながら、赤上明は朝美に歩み寄り、彼女の肩にそっと手を回して車の方に誘った。朝美は神作の顔を見た。赤上明が神作に視線を送り、頷いて見せる。神作真哉は眉間に皺を寄せた。朝美は紀子の方に不安そうな顔を向けた。山野紀子は側頭部を押さえて下を向き、脳内で聞こえる春木の声に集中していた。

 春木陽香の叫び声が山野の脳の聴覚野に響いている。

『ドアの鍵だって、こじ開けてたじゃないですか。確認なら、ここの責任者の立会いの下で堂々と中に入ればいいですよね。なんでコソコソするんですか。確認だなんて絶対に嘘ですよね。嘘つきは泥棒の始まりですよ! この犯罪者あ!』

 黒塗りの車の傍まで朝美を連れてきた赤上明は、後部ドアを開けて神作に言った。

「ご心配なく。娘さんには我々が決して誰も近づけさせませんから」

 神作真哉は、最後のタイムマシンの発射を中止させた際の赤上の協力を思い出し、警察に託した方が安全だと考えた。彼は、直感より思考を優先させた。

 神作の横から上野秀則が叫んだ。

「朝美ちゃん、乗っちゃ駄目だ」

 朝美が立ち止まった。ドアに手を掛けていた赤上明は、上野をにらみ付けて言う。

「娘さんご本人が決めることですよ」

 そして、朝美に笑顔を見せて語りかけた。

「大丈夫、警察がしっかり守ってあげるから、安心しなさい」

 上野が深刻な顔で呼びかける。

「朝美ちゃん!」

 山野朝美は立ち尽くして、戸惑った。

 上野秀則は朝美の視線を追って山野の方を見た。片方の目を光らせた山野紀子が宙に焦点を合わせたまま、頭を押さえて立っている。

 上野は朝美の傍に歩み寄ろうと前に出た。すると、神作真哉がそれを止めた。

「待て、うえにょ」

 上野も朝美も神作の方を見た。

 神作真哉は言った。

「確かに赤上刑事の言うとおりかもしれん。警察なら安全だ」

 上野秀則は困惑した顔で言う。

「だから、俺は上……いや、そんな話じゃない。いいのかよ。説明しただろ。こいつらは信用できねえぞ」

「タイムマシンの発射を止めた時に、例の記事を官邸に届けてくれたのは、この赤上刑事だ。ハルハルも言っていたが、この人たちも警察官だ。信用してみよう」

「神作……おい、山野、いいのかよ。山野!」

 山野紀子は上野の声を聞いていない。依然、山野の脳内には春木の声が響いている。

『あなたたち、バイオ・ドライブを探しているんですね! だから、この工場の中をみんなでウロウロしてたんですね! 司時空庁の許可無く勝手に。やっぱり泥棒じゃないですか!』

 山野の返事が無いことを確認すると、赤上明は朝美に言った。

「ほら、お父さんも、お母さんも了承されておられる。さ、早く車に乗りなさい」

 山野の脳内に再び春木の声が響いた。

『あなたたちの車のナンバーだって、ちゃんと覚えてますからね! 言いましょうか』

 山野紀子は顔を上げて、赤上が朝美を乗せようとしている黒塗りの車のナンバープレートに目を遣った。そこに記されていたナンバーは、春木が叫んだ二台の車のナンバーと末尾の数字が一つだけ違うナンバーだった。山野の脳内に響く春木の声は、さらに続けた。

『一つ違いの、お揃いのナンバーなんか付けちゃって! あのナンバープレートも偽物ですよね。そんなことしていいんですかあ。警察に言いますよ!』

 山野紀子は咄嗟に大声で叫んだ。

「朝美、そっちじゃない。上野さんの車に乗りなさい。早く」

 赤上は腰を曲げて朝美の耳元に顔を近づけると、小声で朝美に告げた。

「お嬢ちゃん、お母さんは今、突然のことに驚いて気が動転している。今は我々の車に乗りなさい。警察なら君を守れるから」

 迷った朝美は、父親の顔を見た。

 神作真哉は一瞬だけ山野に視線を送ると、すぐに朝美に顔を向け、彼女の目を見て、深く落ち着いた声で答えた。

「朝美、ママの言うことを聞くんだ。迷っているなら、ママを信じろ」

 朝美は赤上と山野の顔を交互に見ると、上野の車に走っていった。永峰千佳が中からドアを開け、朝美が乗り込むとすぐにドアを閉めて、中からロックをした。

 赤上明は苦笑いをしながら体を起こし、言った。

「いやあ、参った、参った。親子の絆には法も権力も敵いませんな」

 上野の車を一瞥して溜息を吐いた赤上明は、神作に顔を向けて頷いた。

「いいでしょう、今日のところは、一旦、撤収します。ですが、何かあったら私共にご連絡下さい。すぐに駆けつけますので。では、失礼」

 赤上は開けたドアから車に乗り込んだ。他の背広姿の男たちも車に乗り込む。その黒塗りのAI自動車は軽くクラクションを鳴らしてから、坂の下へと走っていった。

 山野紀子は安堵して息を吐く。

 坂を下りていく黒塗りの車を見ながら、神作真哉が呟いた。

「まさか、銃まで持っていたとは……」

 隣に立つ上野秀則が言った。

「津田も、自分が追い込まれていると自覚して焦っているのさ。赤上の言う通り、危険な領域に入ってしまったのは事実だ。ここからは注意が必要だな」

「それにしても、おまえ、えらく早い登場だったじゃないか。よく紀子の運転に付いてこれたな」

 上野秀則は、車の中で隣の朝美にヘッド・マウント・ディスプレイを使わせている永峰を顎で指した。

「永峰がナビゲートしてくれた。ネット上の交通情報にアクセスして、一番空いている最短ルートをリアルタイムで割り出したんだと。もの凄く早く着いたぞ。あの子、やっぱり便利だな」

「ああ、なるほどな。それ、前にもやってるからな……」

 そう言って頷いた神作真哉は、ハッとして上野に尋ねた。

「永山とハルハルは。連絡はついたか」

「いや。何度かハルハルのイヴフォンに掛けているんだが、出ないんだ」

 神作真哉は険しい顔でズボンのポケットからイヴフォンを取り出した。そこへ、山野紀子が駆け寄ってきた。彼女は胸元のイヴフォンを指差しながら言った。

「真ちゃん、今ハルハルと通話してるの。例の工場で、拳銃を持った不信な男たちに捕まりそうになったみたい。たぶん、特調の連中よ。でも、なんとか、その場からは逃げ出せたって」

「くそ!」

 神作真哉は歯を食い縛ると、上野に言った。

「うえにょ、朝美を頼めるか。どこか安全な場所に連れて行ってくれると助かる」

「あ、ああ。わかった、任せろ。会社のビルに連れて行こう。それなら、おまえたちも安心だろう」

 山野紀子が不安そうな顔で言った。

「いや、でも大丈夫なの。いくら社員の家族でも……」

 上野秀則はニヤリとしながら言った。

「甲斐局長が了承するはずだ。無条件でな。編集局長が許可すれば、誰も文句は言えないだろう」

 神作真哉と山野紀子は声を揃えて頷いた。

「ああ、なるほど」

 上野秀則は二人に尋ねた。

「で、おまえたちはどうするんだ」

 神作真哉は山野の車に駆け出しながら言った。

「とにかく、ハルハルと永山を助けに行く。警察は信用できん。今は自力で何とかするしかない。――上野、朝美のことを頼む」

 駆け出していた山野紀子も振り返り、言った。

「お願いします、上野デスク」

 上野秀則は走っていく二人の背中を指差して怒鳴った。

「そこは『うえにょ』にしとけ。しかも敬語か。それじゃ面白くないだろうが!」

 二人は返事も無く車へと駆けていく。

 上野秀則は苦笑いして呟く。

「――ったく。しょうがねえなあ……」

 彼は頭を掻きながら、車に乗り込む二人の姿を眺めていた。

 二人は打ち合わせた訳ではなかったが、イヴフォンで春木と通話中の山野が運転できないと察した神作真哉が咄嗟に運転席に座った。山野紀子もその意図を理解し、当然のように助手席に座る。

 車を急発進させた神作真哉は、ギプスをした左手でシフトレバーを操作した。スムーズにギアを入れ替えると、右手だけでハンドルを切り、車を車道に乗せる。

 助手席の山野紀子は春木との通話を続けていた。

「今どこなの? ――駄目よ。例の久瀬っていう国防兵士とその仲間がハルハルのことを狙っているかもしれないの。すぐに戻ってきなさい」

 山野のAIスポーツセダンは坂道を猛スピードで下っていった。



                  13

 道路を疾走する一台のAIファミリーセダン。黒塗りのAIセダンがその後を追う。そのAIファミリーセダンの運転席では永山哲也がサイドミラーを気にしながらハンドルを握っていた。サイドガラスの向こうでは、田舎の緑色の景色が速く流れている。

 助手席に座っている春木陽香は左目をピンク色に光らせていた。山野とイヴフォンで通話している彼女は、目を丸くして言った。

「クゼ? ――ああ、あの久瀬くぜ拓也たくやっていう元軍人さんですか……って、あの強盗で国防軍をクビになったアブナイ人ですかあ?」

 永山哲也が前を向きながら春木に尋ねた。

「久瀬がどうかしたのか」

 永山には春木にだけ見えている山野の像は見えていないし、彼女の脳内に届く山野の声も聞こえていない。

 春木陽香は山野から知らされた事実を永山に告げた。

「私のことを狙ってるそうなんです! 私、お金とか持ってませんよ!」

 永山哲也はハンドルを強く握り締めたまま、険しい顔で言った。

「金ならいい。久瀬や郷田、野島は、南米でもっと酷いこともしているはずだ。証拠が見つからないだけだよ。奴らが狙ってるのは、きっとハルハルの命だ」

「はあ? この前、生命保険に入るのを断ったばかりなんですよ! ああ、契約しとけば良かったあ!」

 口を開けたまま上を向いた春木の脳の聴覚野に山野の声が響く。

『とにかく、すぐに戻ってきなさい。こっちも朝美がさらわれそうになったり、みんなの自宅が狙われたりして大変なの。あんたの部屋も荒らされたみたいよ』

 春木陽香は前を向いて叫んだ。

「ええ! 私の部屋もですか? ああ、今週末に掃除しようと思ってたのに……」

 ダッシュボードの上に浮かぶ山野の像は深刻な顔をして言った。

『だから、今は危ないわ。すぐに帰ってきなさい』

 春木陽香は後ろを振り向いた。黒塗りの車が右の車線に移り、春木たちが乗っているAIファミリーセダンを猛スピードで追い上げてくる。どんどん近づいて来て、隣に並んだ黒塗りのAIセダンを視界の隅で捉えながら、春木は言った。

「そうしたいですけど、無理です。今、後ろから、さっきの車が追いかけてきてて、逃げてるところなんです。どんどんスピードを上げてきて、今は横に……わあ!」

 黒塗りのAIセダンは左に急ハンドルを切ると、永山のAIファミリーセダンに体当たりしてきた。ハンドルを取られた永山哲也は、慌てて左にハンドルを切り、前方の分岐点の左の道路へと続いているレーンに入った。黒塗りのAIセダンは更に左に寄せてきて、永山の車が右のレーンに戻るのを防ごうとする。

 春木陽香は前を指差しながら叫んだ。

「先輩、そっちに入ったら逆方向ですよ!」

「分かってる! 畜生、まだローンが残ってるんだぞ、この車!」

「ローンもですけど、レーンは残って……ああ! 入っちゃった!」

 永山の車は分岐点から左の道に入った。黒塗りのAIセダンはためらうことなく急ハンドルを切り、車体を傾けて車線を変更すると、分岐点の衝突防止柵をなぎ倒して同じ道に入ってきた。そのままスピードを上げて永山のAIファミリーセダンを追いかける。

 永山哲也はバックミラーと前を交互に見ながら必死に運転していた。突如、衝撃が体を前に押す。黒塗りのAIセダンが後方から追突してきたのだ。永山哲也は必死にハンドルを支える。春木陽香はダッシュボードに手を付いて自分を支えた。カーブの手前で再度追突された。車体が左右に揺れる。永山哲也はハンドルを細かく切ってバランスを保った。黒塗りのAIセダンは車間を詰めて追尾してくる。永山哲也はアクセルを深く踏んで車のスピードを上げた。消費電力を表示するパネルの棒グラフが限界まで伸びる。外の景色が一段と早く流れた。春木陽香は目を瞑ってシートベルトを握りしめている。

 AIスポーツセダンの助手席で左目を青く光らせている山野紀子は、運転席の神作に叫んだ。

「真ちゃん、まだ車で追われてるって。ヤバイわよ、早く助けに行かないと!」

 サイドガラスの向こうに都会の景色を流しながら、神作真哉が前を向いたまま叫ぶ。

「分かってる! だから、今、どこを走ってるんだ!」

 山野紀子は視界に映る春木の像に問い掛けた。

「ハルハル、今、どの辺を走ってるの?」

『ええと……』

 春木陽香は左目をピンク色に光らせたまま、AIファミリーセダンの窓から外を覗く。視界に浮かぶ山野の像が邪魔で標識がよく見えない。春木陽香は運転席の永山に尋ねた。

「先輩、今、どの辺ですか?」

 早く流れる森の景色の前で、永山哲也は横顔を見せたまま早口で答えた。

「一般道の下寿達かずたち山トンネルを出て、二十キロの所だ。爆心地方面!」

 前を向いた春木陽香が山野に言う。

「だそうです! 聞こえました?」

 山野の声が春木の脳内に響く。

『聞こえた。下寿達かずたち山トンネルから二十キロね。一般道ね』

「そうです。爆心地方面です。――ええ! 爆心地?」

 春木陽香はまた目を丸くして運転席の方を向いた。

 永山哲也は肘を張ってハンドルを握ったまま言う。

「僕たちをそっちに追いやりたいみたいだ」

 また前を向いた春木陽香は、早口で山野に伝えた。

「私たちを爆心地方面に追いやろうとしているみたいですう!」

 運転席の方を向いた山野紀子は神作に伝えた。

「爆心地方面に追いやられてるみたい」

 神作真哉は前を向いたまま顔をしかめる。

「不味いな。あそこは半径十キロ近くが今も建築禁止区域になってたり、立入り禁止区域に指定されている。ということは、周りに人が居ない。目撃者が居ない場所に二人を追いやろうとしているんだ」

 山野の脳に春木の声が届く。

『編集長、この人たち、本当に公安の特調さんたちなんですか? 公安って警察なんですよね。全然、交通ルールを守ってませんけどお!』

 頬を膨らませた春木の像が、ダッシュボードの上で両手をバタバタと振っている。山野紀子は落ち着いた声で春木に言い聞かせた。

「それだけ本気ってことよ。いい、ハルハル、よく聞いて。そっちの方向に向かっちゃ駄目よ。周りに人が居ないわ。危険よ。すぐに方向を変えて」

 運転席の方を向いた春木陽香は、永山に言った。

「だそうです、永山先輩!」

「分かんないよ! 君の脳に直接声が届いてるんだろ! こっちには何も聞こえてないんだよ!」

「すみません、パニクっちゃって! とにかく、このまま進んだら駄目だそうです。危険だそうですう!」

「そう言われたって、この道幅でどうやってUターンするんだよ! 右も左も木ばっかりじゃないか! ああ、くそっ、またカーブか!」

 永山哲也は懸命にハンドルを切った。その隣の春木のイヴフォンのマイクが、永山の声を拾って山野に届ける。永山の声を聞いた山野紀子は咄嗟に春木に尋ねた。

「どんな道を走ってるのよ」

 助手席の春木陽香は、周囲の景色を見難そうに見回しながら答えた。

「ええと……林道みたいな一般道です。ていうか、ほぼ林道です。道幅三メートルで左右が林……って、全然、一般的じゃないですよね。どこが一般道なんですかあ、これ!」

 春木陽香は抗議するかのように運転席の永山に顔を向ける。

 助手席の山野紀子は運転席の方を見て言った。

「林道? 分かる? 真ちゃん」

 運転しながら神作真哉が答える。

「ああ、分かる! 前に永山と通った道だ。今行くと伝えろ!」

 山野紀子はすぐに前を向いて言った。

「聞こえた? ハルハル。今、そっちに向かってる。――もしもし、ハルハル?」

 ダッシュボードの上から春木の像が消えた。山野紀子は胸元のイヴフォンを外して口に近づけ、マイクに向かって呼びかけ続ける。

「ハルハル? もしもし、もしもし」

 運転席から山野を一瞥した神作真哉が言った。

「どうした」

 山野紀子が運転席に顔を向けて答えた。

「切れた。あっちが圏外になったみたい」

 神作真哉はハンドルを叩いて声を上げた。

「しまったあ、あの辺は日本で唯一、携帯の電波が圏外になる場所だ。忘れてたあ!」

「嘘でしょ、こんな時に……ああ、ほら、左、左!」

「分かってる、分かってる!」

 神作真哉はハンドルを切った。

 山野のAIスポーツセダンは新高速道路の中へと入っていった。



                  14

 永山のAIファミリーセダンは森の間の細い道を疾走していく。その助手席で、春木陽香は左目をピンク色に光らせたまま、必死に呼びかけていた。

「もしもし? もしもし? 編集長? もしもし?」

 決死の形相で運転しながら、永山哲也が大きな声で言った。

「圏外なんだよ、この辺は!」

「なんだ、そうなんですか……ええー! 圏外?」

 春木陽香がもっと大きな声を出した。

「ってことは、この自動車のAIもネットワーク通信が出来ないってことですよね。完全に手動運転ですか。運転ミス修正も、ハンドリングの自動微調整も無し? それで運転、大丈夫なんですか、先輩!」

 永山哲也は前をにらんだまま答えた。

「僕が免許を取った頃は、まだガソリン車が走ってた! 免許もマニュアル車で取得してるから、とりあえず信用して」

 頷きかけた春木陽香は、顔を上げて永山に言った。

「ちょっと、その、『とりあえず』って、なんですかあ! 地方の川下りの船頭さんが言う笑えないジョークと同じじゃないですかあ!」

 永山哲也は肩を上げてハンドル操作しながら、真顔で言う。

「大丈夫! 自動車は転覆しない!」

「しますう! 陸上でも『転覆』は有り得ますよ!」

 永山哲也は前を向いたまま叫んだ。

「後ろを見てくれ! バックミラーを見てる余裕が無い! まだ追ってきてるか! 後ろは何台だ!」

「後ろですね……」

 振り向き掛けた春木陽香は、また永山の方に顔を向けて言った。

「ていうか、今、サラッと、すごく不安にさせることを言いましたよね! 本当に大丈夫なんですか!」

 くねる林道を猛スピードで運転している永山哲也は、必死にハンドルを操作しながら前を向いて怒鳴った。

「いいから、早く。追ってきてるのは、何台だ!」

 振り返った春木陽香は、早口で叫んだ。

「一台です、一台。しっかり、ぴったり、じっくり、ぽっくり、追っかけてきてます!」

「最後の何だよ!」

「分かりません! 私もパニクってるんですよ!」

 永山哲也は少し落ち着いた口調で言った。

「いいか、ハルハル。よく聞いてくれ。このまま進むと、十字路になってる交差点に出るはずた。そこを直進すれば爆心地。右折か左折をすれば爆心地を一周している外周道路。爆心地は何も無い平原だ。撃ってきたら逃げ場はないし、相手も狙いやすい。だから、右か左に曲がって外周道路を走るぞ。わかるな」

 春木陽香はコクコクと何度も頷く。

「はい。それがいいと思います!」

「じゃあ、右か左か決めてくれ!」

 春木陽香が後方と運転席を交互に見ながら叫ぶ。

「なに緊急時に優柔不断になってるんですかあ!」

「男は、いっぺんに二つの事は出来ないんだよ! そっちが考えてくれ。ちなみに、前にキャップとこの道を走った時は、キャップの指示どおり右に曲がった。今回はハルハルの勘に賭けてみるよ。キャップの勘より当てになりそうだから」

「ええー! じゃあ、左折したらどこに出るんですか?」

「時計回りに暫らく走れば、同じ十字路に出てくる」

「駄目じゃないですか! じゃあ、右折しても一周して元の十字路に出てくるんでしょ。どっちでも同じじゃないですか。それで、どうして迷ったんですか!」

 永山哲也は早口で説明した。

「昔はこの外周道路から山の向こうの町とか、こっち側の国道とかに出られたんだ。だけど今はこの辺は開発がストップしてるから、道路も手付かずになってて荒れ放題だ。外周道路から外に続いている道は倒木やがけ崩れなんかで殆ど通れなくなっているはずだ。だけどもしかしたら通れる道が残っているかもしれないだろ。ハルハルは運がいいから、抜け道が近い所にある方を選ぶと思って」

「私、運だけで生きている訳じゃありません!」

 永山哲也はハンドルを細かく操作しながら声を荒げた。

「いいから早く決めてくれ! もうすぐ交差点に出る。それに問題もあるから、とにかく急がないと!」

「問題って、まさか……」

 永山哲也は冷静に答えた。

「そ。やばい。もうすぐバッテリーが切れる」

「はあ? ば、バッテリーって、この自動車の動力バッテリーですか?」

「そう、正解」

 目を大きく見開いた春木陽香は、永山を指差しながら言った。

「先輩って、もしかして、遠足の時とか当日の朝に準備するタイプの人ですかあ? どうして出かける前に動力バッテリーの充電チェックをしとかないんですかあ。止まっちゃうじゃないですかあ!」

「大丈夫。緊急用の予備バッテリーなら時速二十キロ走行で五キロ、時速四〇キロで三キロは進める。何とかなる」

「なりませんよ! このスピードなら、爆心地の外周一周どころか、曲がったらすぐに止まっちゃうでしょ! こんな山道に電気充電スタンドなんて無いですよね!」

 永山哲也が叫んだ。

「いいから、どっちだ、早く決めてくれ! 交差点が見えてきた!」

「じゃ、右です、右い!」

「なんで!」

「迷った時は『右』って決めてるんです! 自由の女神は右手を上げてるじゃないですかあ!」

「よく分からんけど、とにかく曲がるぞ! 右だな。掴まってろよ……そりゃあ!」

「わあ、わあ!」

 永山のAIファミリーセダンは交差点で土煙を上げて急右折した。春木陽香が助手席側のサイドガラスに張り付く。

「ムギュギュギュ……またか……」

 追尾してきた黒塗りのAIセダンが交差点に突入してきて、急ブレーキをかけた。停止したその車は、右折しようと、音を立ててタイヤを擦り、右に向ける。すると右の道路から永山の車が猛スピードでバックしてきた。激しい衝突音が鳴り響く。右斜め前から衝突された黒塗りのAIセダンは、永山の車に押されて九十度左に回転し、車体の前方を左の道へと向けた。永山哲也は一度、車を右の道へ少し前進させ、素早くギアチェンジして、再びバックで追跡車の後部に突っ込み、その黒塗りのAIセダンを左の道に押し込んだ。

 ハンドルを右に回しながら永山哲也は叫んだ。

「ハルハル、大丈夫か!」

「ぶっは。どうして、こっちだけエアバックが作動するんですか! あ痛あー。鼻打ったあ……」

 春木陽香は顔に覆いかぶさったエアバッグを退かせようと、一人で白い袋と揉み合っている。永山哲也はシフトレバーを動かしながらハンドルを右に回し、進んできた道の方に車の前方を向けた。アクセルを踏み込んだ永山哲也が、エアバックと格闘している助手席の春木に顔を向けた瞬間、進もうとしていた前方の道の上のアスファルトが煙を立てて細かく粉砕され、真っ直ぐ縦に舞い上がった。永山哲也は反射的にブレーキを踏むと、慌ててギアを切り替え、助手席の後ろに手を掛けて振り向いた。そのまま、車を猛スピードでバックさせていく。

 ようやくエアバッグを顔の前から取り除いた春木陽香は、車体が後退しているのに気付いて叫んだ。

「ちょ、ちょっと、先輩。なんでバックしてるんですかあ! これじゃ、爆心地に出ちゃいますよ!」

「どうしても、そっちに行かせたいらしい! ヘリだ、ヘリ! 上を見ろ!」

 春木陽香はフロントガラスに顔を近づけて前方の空を覗いた。一機の回転翼機がこちらを向いて低空で飛んでいる。「オムナクト・ヘリ」と呼ばれるその機体は、四方に突き出した支柱の先で小型回転翼「オムニローター」をそれぞれの角度に自在に動かしながら飛んでいた。機体の左右の側面の扉は開いていて、そこから戦闘服姿の男たちが身を乗り出している。彼らは機体に固定された中型機関砲のグリップを握っていた。

 春木陽香はダッシュボードを何度も叩きながら叫んだ。

「へこ、ヘコリプター! ヘコリプターですよ! ヘコリプター!」

 永山哲也は体を捻り、運転席のシートと助手席のシートの間からリアガラスの向こうを見ながら、右手だけでハンドルを回した。永山のAIファミリーセダンは、木々に挟まれた細い車道の上を猛スピードでバックしていく。永山哲也は決死の表情で運転を続けた。

 助手席の春木陽香は目を白黒させて叫び倒している。

「ヘコリプター! ヘコリプター!」

「しっかりしろ! ヘコプターだ! しかも『オムナクト・ヘリ』。三六〇度自由に急旋回できる特殊ヘリだよ。知ってるだろ。警察や防災対も使っている。だが、これは軍仕様の機体だ。まったくの戦闘用だよ。こりゃマズイ!」

「さっきからマズイですよ。めちゃマズです! 朝美ちゃんが言ってた通り、本当に戦闘ヘリが……ああ! 撃ってますよ! わあ!」

 後方を向いて運転している永山哲也は、車体の前方から聞こえてくる銃撃音と爆音に首をすくめ、助手席の春木に叫んだ。

「ハルハル、頭を下げてろ!」

 春木陽香は、両手をバタバタと振りながら叫ぶ。

「違いますよ、さっきの公安さんの黒い車に向けて撃ってるんです! わあ!」

 今度は大きな爆音が鳴り響いた。永山哲也が前を見る。十字路の交差点の所で車が大量の黒煙を上げていた。それは自分たちを追跡してきた黒塗りのAIセダンだった。激しい赤い炎が車体を包んでいる。

 永山哲也は再び後ろを向いて車をバックさせ続けた。

「くそお、何なんだよ! ハルハル、ヘリはどこだ!」

「上です、前方の上の方! こっちに向かってきますよ! わあ、また撃ってきた」

 バックで走行を続ける永山の車両を銃弾の雨が追いかけた。車のボンネットの向こうを見ていた春木陽香には、縦に筋をなす閃光がアスファルトを粉砕しながら徐々に近づいてくる光景が見えていた。

「わあ、わあ、わあ、わあ!」

「伏せろ! ハルハル!」

 永山が叫ぶと同時に、春木陽香はダッシュボードの下に頭を隠した。

 上空から降り注ぐ銃弾は、二人を乗せた車のフロント・バンパーの寸前で途切れた。

「大丈夫か、ハルハル!」

 ダッシュボードの下で、両手で頭を抱えて身を丸めていた春木陽香は、声を震わせながら言った。

「無理です、もう限界ですう。アーメンソーメン冷や素麺。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

「バッテリーの方は。どのくらい残ってるんだ!」

 春木陽香は頭を少し上げて、ダッシュボードのバッテリー残量計を覗いた。

「こっちも限界ですう! 数値が一桁になっちゃってますよお! もうギリギリです、ギリギリ!」

 永山哲也は後ろを向いて運転しながら叫んだ。

「こっちもギリギリだ! もうすぐ爆心地に出るぞ! この先は道が無い! その先は急斜面になってるから、落ちたら滑降して止まれないと……」

「じゃあ、いま止まって下さい! わあ!」

 猛スピードでバックのまま突進してきた永山のAIファミリーセダンは、木製の柵を突き破り、その先の急斜面に降りた。そのまま、土煙を舞い立てながら斜面の下へと滑っていく。永山哲也はハンドルを右に左に回しながらバランスをとり、なんとか車体を前向きにすると、渾身の力でブレーキを踏み込んだ。しかし、タイヤの回転が止まっても、AIファミリーセダンは止まらない。むき出しの乾いた土の表面を削りながら、転がり落ちる小石や流れる表土と共に、すり鉢状になっている爆心地の縁の斜面を中心点に向かって一直線に滑っていく。舞い上がった土煙が車体を飲み込み、そのまま速度を上げて窪地の中心へと運んでいった。

 飛んでくる小石がフロントガラスを叩く。その前を土埃が覆い、前が見えない。ガタガタと揺れながら前に傾いている車内で、ダッシュボードに手を突っ張ったまま、春木陽香は言った。

「このまま、ずーと滑っていくんですかね……」

 永山哲也が必死にハンドルを固定しながら答える。

「た、たぶん、な」

「な、じゃないですよ! このままずっと滑って行ったら、あのグニャってなった電波塔にぶつかっちゃうじゃないですか!」

「あ、そっかあ! 忘れてたあ」

「じゃあ、ついでにこれも思い出して下さい。先輩の方はエアバッグが残ってるでしょうけど、私の方は、さっきのドカーンでエアバッグが作動しちゃいましたよね! ほら、ここに有ります。ね、飛び出しちゃってますよね。もう、こっちは無いんですよ。エアバッグが!」

 それを聞いた永山哲也は焦った。

「わ、わかった、なんとかする」

「どうするんですかあ! ていうか、電波塔が見えてきましたし! しかも思ってたより大きくて頑丈そうですしい!」

「くそっ、止まれ!」

 永山哲也はハンドルを何度も左右に回した。破裂音と振動が車内に伝わる。

 春木陽香が涙目で叫んだ。

「なんか、パンって鳴りましたよ! タイヤがパンクしたんじゃないですか。ていうか、わあ、電波塔がどんどん近づいて来てますけどお! 電波塔があ! わあ、わあ、わあ、ぶつかるう!」

 溶け曲がった鉄塔の土台部分が向かってくる。太い鉄柱の錆びた金属面が視界いっぱいに広がった。春木陽香は両目を瞑る。茶色い土煙がフロントガラスを覆った。体が前に運ばれる。

 土を擦る音と共に車が停止した。石が転がる音が止み、土煙が風に流れた。春木陽香は顔に力を入れたまま目を開けた。焼け熔けた電波塔は二人を乗せたAIファミリーセダンのすぐ目の前に建っていた。

 永山哲也は大きく息を吐いた。

 春木陽香はダッシュボードに両手を突いたまま、音を立てて生唾を飲み込むと、すぐに両膝を抱えて丸まった。そして、ブルブルと震えながら呟く。

「も、もう、いいです。十分です。限界です。勘弁してください。うう……」

 すると、回転翼が風を切り裂く音が上から聞こえた。永山哲也が、ひび割れたフロントガラス越しに見上げる。上空を旋回していたオムナクト・ヘリが永山のAIファミリーセダンの真上に移動してきていた。

 永山哲也は急いで電気エンジンをスタートさせようとする。しかし、スタートボタンを何度押しても電源は入らない。

「駄目だ、かからない。故障したか……」

 春木陽香が黙って運転パネルのバッテリー表示モニターを指差した。ゼロと表示されている。永山哲也は項垂れて額をハンドルに打ちつけた。

 そのオムナクト・ヘリはゆっくりと垂直に降下してきた。春木と永山を乗せたAIファミリーセダンの四方に小さな輪を描いて土埃が舞う。オムナクト・ヘリの機体の左右から身を乗り出して機関銃を構えている兵士たちは、その照準を車内の永山と春木に合わせていた。

 運転席の永山哲也がフロントガラス越しにヘリをにらみ付ける。

 助手席では、春木陽香が膝を抱えて震えていた。



                  15

 夕日に照らされた森林の中を一台のAIスポーツセダンが走っていた。木々の影が長くのびて、狭い道路の上に縞模様を描いている。蛇行する道路を走り、見通しの良い直線に出たその車は、十字路の交差点の手前で停止した。車の前の道路は路面のアスファルトが交差点の向こうまで一列に粉砕されている。その列の幅は狭く、跨いで走れば走行に影響はない。しかし、車は停まらざるを得なかった。

 運転席に座って右手だけでハンドルを掴んでいた神作真哉は、口を開けたまま、前方を呆然と見つめている。

「な、なんだ、ありゃ……」

 彼の視線は、少し先の小さな交差点の左隅で黒煙を上げている焼け焦げた塊に向けられていた。それは辛うじて乗用車だったと分かる程にしか原形を留めておらず、その周囲には無数の焼け焦げた金属片が散らばっている。

「ハルハル!」

 助手席に座っていた山野紀子は、慌ててドアを開けて車から降りると、そのまま焦げた塊の所へ走っていった。

「おいおい、嘘だろ……」

 我に帰った神作真哉は、電気モーターエンジンをオフにすると、車から降りて、ドアを開けたまま、山野が走って行った方に駆け出した。

 その黒い残骸は、車体フレーム部分と黒く焼け焦げたボンネットの一部が残っているだけだった。殆どの部品や機材は、粉砕されたか、焼けたか、熔けていた。周囲には強烈な悪臭が漂っている。周囲のあちらこちらで燻っている炎と散らばっている焦げた部品からも細い黒煙が立ち上がり、風に流れていた。

 山野紀子は黒焦げの残骸から少し離れた場所で立ち止まり、跡形も残っていない運転席部分を見つめながら、呆然と立ち尽くした。

 神作真哉は左手のギプスで口と鼻を覆い、右手で黒煙を払いながら残骸に近づこうとしたが、その残骸はかなりの熱を残していて、近くまで行くことはできなかった。風上へと回った神作真哉は、焼けた車内の様子を離れた位置から必死に観察したが、人が乗っているのか、乗っていたのかさえも判別できない。

 周囲を見回しながら少しずつ残骸に近づいていた山野紀子は、視界の隅に映った物に気付き、方向を変えてそちらに向かった。それの傍で立ち止まった彼女は、屈んでそれを拾おうと手を伸ばす。

「あちっ」

 山野紀子はそれを落とした。触れた手を軽く振って、今度はスカートのポケットから取り出したハンカチでそれの角を挟んで持ち上げた。

「ゴホッ、ゴホッ……おーい、永山あ。ハルハルう。おーい……」

 まだ残骸の近くにいた神作真哉は、黒煙と臭いで咳き込みながら、必死に周囲に向かって二人の名を叫んでいた。そこへ山野紀子が歩いてきて、彼の足下にそれを放り投げた。それは乾いた金属音を鳴らして地面に落ちた。視線を向けた神作に山野紀子は言った。

「この車のナンバープレートよ。黒焦げだけど、数字は分かる。これ、さっきハルハルが電話で伝えてきたナンバーだわ」

「ハルハルたちを追跡していた車か」

「ええ。さっき赤上が乗ってきた車のナンバーと末尾の数字が違うだけ。公安の連中は使用している車のナンバープレートを頻繁に付け替えるって聞いたことがあるわ。この車、公安の『特調』が使っていた車よ」

「ハルハルたちは」

「分からない。逃げたのかも。ほら、銃撃痕が向こうの奥まで続いてる。タイヤの跡も」

 山野紀子は、自分たちが進んできた道から直進する方向の道の先を指差した。粉砕されたアスファルトの傷跡と共に轍が奥まで続いている。

 神作真哉は改めて焼け焦げた残骸を見ながら呟いた。

「ここで何があったんだ……」

 山野紀子は自分の足下の粉砕されたアスファルトを見ながら言った。

「たぶん銃撃された。高い位置から機関銃か何かで。この車も。貫通した弾が下の地面に残っているでしょ」

 神作真哉は再び左手のギプスで口元を覆いながら、山野が指差した車の焼け跡の下を覗き込んだ。車体の底の真下の位置の地面に無数の小さな穴が開いていた。神作真哉は熱に耐えかねて、残骸から離れた。額の汗を左手のギプスで拭いながら、彼は言った。

「この角度だと、真上……上空からだな。ヘリか」

「でしょうね。タイヤのスリップ痕も二台分しかないし」

 神作真哉は、再度、フレームのみの黒焦げの残骸を見ながら言った。

「公安の覆面パトカーが旧式のガソリン車のはずがない。電気エンジン車なら、被弾しても炎上することは無いはずだし、仮に酸素電池が爆発しても、ここまではならんだろう。こりゃ、ロケット砲弾か何かでやられたな。気の毒に、乗っていた捜査官は遺体の跡形すら残っていない」

 神作真哉はその残骸に向かって手を合わせた。

 隣で同じように手を合わせた山野紀子は、顔を上げると、静かに口を開いた。

「機関銃か何かで蜂の巣にした後でロケット砲。随分と惨いことをする連中ね」

「たぶん、久瀬たちだ。こんな武器は、警察や司時空庁は持っていない。奥野が命じたか津田が命じたか知らんが、何の関係も無い捜査官に、なにもここまですることは……」

 神作真哉の目は怒りに満ちていた。山野紀子も歯を食い縛りながら、神作に言った。

「真ちゃん、とにかく先を急ぎましょ。ハルハルたちは爆心地の中心平原に向かっているみたいだから」

 彼女は森の奥へと続いているタイヤ痕を指差した。神作真哉が頷く。

「そうだな。とにかく、無事を祈ろう」

 神作真哉と山野紀子は、自分たちが乗ってきたAI自動車に向かって走っていった。


 

                 16

 広い洋間には豪華な絨毯が敷かれていた。中央には白い布が被せられた長いテーブルが置かれ、その両側に彫刻が施された背もたれの高い椅子が並べられている。テーブルの上には、上座から二番目までの各椅子の前に一本ずつ純銀製の万年筆が置かれていた。テーブルの真上では高級クリスタルのシャンデリアが煌煌と輝き、その上の天井に描かれた美しい西洋画を照らしている。

 その部屋の入り口の横にはスーツ姿の使用人が二人立っていて、部屋の四隅には武装した兵士が一人ずつ立っていた。小銃を肩に掛けた兵士たちは、手を前で組み、足を肩幅に開いて立ったまま、微動だにしない。

「すいませんでした。お許しください、閣下」

 両手を手錠で繋がれた西郷京斗は、そう懇願しながら、別の兵士たちに両脇を抱えられて部屋から連れ出されていった。

 窓の前では、酸素マスクを付けた老人が車椅子に座ったまま、闇夜に薄っすらと浮かぶ海辺の滑走路の灯を見つめている。部屋の窓から低い位置に小さく見えているその滑走路には、緑色のライトが幾つも点滅していた。

 ガウン姿のその老人は、車椅子の後ろに立っている白いスーツ姿の男に言った。

「準備は、どの程度進んでいる」

 白いスーツの男は顔の刀傷を曲げて片笑む。

「武器・弾薬については通常通りの態勢で補給が終了しております。ですが、新型兵器についてはもう少し時間が必要でしょうね」

 老人は車椅子の足載せを強く一度だけ踏み鳴らした。

「その『時間』が無いと言っておるのじゃ。急がせろ!」

 月の光が部屋の中を照らし始めた。老人は細く節くれた人差し指を肩の横に立てると、軽く回す。刀傷の男が車椅子を窓際から移動させ、反転させて老人の背中を窓に向けた。使用人が駆けてきて、窓の前の分厚いカーテンを閉める。

 酸素マスクを外した老人は、擦れた声で執拗に刀傷の男に確認した。

「衛星の対策は問題ないな」

「はい。ご安心を」

「例の新型オスプレイは」

「準備できております」

「ラングトンは」

「先程、到着しました」

「よし。では、行け。こちらの方も時間が無い」

「御意」

 刀傷の男が短くそう答えると、老人は再び手を上げた。使用人の一人が駆け寄る。

「良い報告を待っておるぞ」

 老人は刀傷の男にそう告げてから、使用人に車椅子を押されて部屋から出ていった。他の使用人たちも後を追って出ていく。

 ドアが閉まると、刀傷の男は足下の毛足の長い絨毯に残された深い轍を見つめながら溜め息を吐いた。そして、部屋の隅に立っている兵士の一人を呼んで言った。

「西郷を閉じ込めているのは、どの牢だ。案内しろ」

 敬礼をした兵士は、刀傷の男と共に廊下へと出ていく。他の兵士が二人の後に続いた。

 誰も居なくなった豪華な洋間にカーテンの隙間から月の光が射し込んでいる。テーブルの上の四本の純銀製の万年筆が、その月光を返して美しく輝いていた。



                  17

 深い森の中に突如として姿を現す巨大なクレーター。すり鉢状のその土地は、中心に近づくにしたがって地面の傾斜を緩やかにしていく。その巨大な窪地の直径は五キロメートル以上に及び、中心の深さは三百メートル近くに達している。ここには、中心点の近くに熔けて曲がった鉄塔が一つ建っているだけで、その他には何も無い。周囲の山脈から吹き下ろされる強い冷風と一面を覆う硬く乾いた土が、ここを雑草の繁殖すら許さない不毛の大地にしていた。

 以前ここは、タイムトラベルの初期実験施設が存在した場所だった。美しい静かな森に囲まれたコンクリート建ての巨大な実験施設は、まるで美術館のようでもあった。最先端の科学がそこに集まり、有能な科学者たちがそこでタイムトラベルの初期実験に取り組んでいた。ところが、二〇二五年に突如として大爆発が起こり、その施設も、施設を覆っていた森も、計画的に整備されて敷かれた周囲の道路も、その下の平坦だった大地も、全てが一瞬で消失した。残ったのは、奇跡的に蒸発を免れた電波塔だけである。

 この土地と周囲の森は、この大爆発の直後に、国によって立入り禁止区域と絶対的建築禁止区域に指定された。その後は地名さえも失い、人々からは単に「爆心地」と呼ばれるようになった。そして現在までの十三年間、事実上放置され続けている。その結果、大爆発での消失を免れた周囲の森の中の道路のほとんどが崩落や倒木等により既に使用できない状態となっていた。

 そんな中、幸運にも通行可能な道路を通ってきた永山のAIファミリーセダンは、その道路が寸断されている爆心地の縁の部分から中心に向かって滑落し、クレーターの中心近くに立っている電波塔の残骸の手前で停車していた。タイヤは破れ、四方のガラスは土を被り、電気エンジンは停止している。前のボンネットには人間の親指ほどの太さの穴が横一列に並んで開けられていて、そこから白煙が昇っていた。運転席と助手席のドアは開けられたままで、中には誰も乗っていない。その無人の車内を、砂粒を乗せた風が勢いよく吹き抜けている。

 その隣には、もう一台の車が停まっていた。爆心地の縁の道路の端から中心に向かって一直線に引かれた轍の先端で停まっているそのAIスポーツセダンは、ボンネットも両側のドアも土で汚れていて、フロントとサイドのガラスにはヒビが入っている。 

 夕日に照らされたその車の横に、両膝に両手をついて前屈みになっている男と、片手を腰に当て、もう片方の手で頭を掻いたまま立っている女の姿があった。

 腰を曲げたままの神作真哉は、蒼白の顔を上げ、前に立つ山野に怒鳴った。

「だから、俺が運転するって言ったんだよ。おまえ、ブレーキを踏むってことを知らねえのか!」

 山野紀子は申し訳ない様子で頭を掻きながら言った。

「ごめん、ごめん。まさか、道が途切れてるとは思わなかったのよねえ。あははは」

「あはははじゃねえだろ! もう少しで、朝美は両親とも亡くしちまうところだったんだぞ。『ママが運転して傾斜四十五度以上の斜面を百キロ以上のスピードで下りたら、車が止まれなかったので、その先に建っている鉄塔の残骸に衝突して、パパとママは死んでしまいました』って、朝美が俺たちの葬式で作文を読むことになったかもしれんだろうが! みっともない! 馬鹿か、おまえ!」

 怒る神作の前で、山野紀子は首をすくめた。

「まあ、上から哲ちゃんの車が見えたもんで、つい直進モードに入っちゃって……」

「おまえはイノシシか! それに、おまえ、仮に二人を見つけたとしても、どうやってここから上にあがるんだ。携帯も通じないんだぞ。どうすんだよ。レッカー車もレッカー用のアームロボットも呼べねえじゃねえか!」

 神作の発言が癇に障った山野紀子は、頬を震わせながら言った。

「馬だの鹿だの猪だの、さっきから黙って聞いてれば! 悪かったって言ってるでしょ。こんな時にガタガタ、ガタガタ」

 剣幕を変えた山野紀子は、隣のAIファミリーセダンを指差した。

「ほら、見なさいよ、哲ちゃんの車。そっちからボンネットの上まで一列に銃弾の痕があるじゃないの。でも、血は落ちてない。他にタイヤの跡も無いし、地面にはコンバット・ブーツの足跡だらけ。きっと二人とも、生きたままヘリで何処かに連れ去られたのよ。ここから」

 神作真哉は、こめかみに血管を浮き立たせて怒鳴り返した。

「そんなことは分かってるっつうの! 問題は、こっちだろうが。あれを見ろ、あれを」

 神作真哉は力を込めて西の空を指した。

「知ってるか、あれは『夕日』って言うんだ! これから日が沈むんだよ、バカタレが! 夜になったら、ここが零下何度になるか考えてるのか。周りの山の頂上付近で冷やされた空気が、一気に降りて来るんだよ。四方から、ここに! このままここに居たら、あいつらを探す前に、こっちが凍死しちまうだろうが。まったく!」

 山野紀子は笑いながら手を振って言った。

「大袈裟ねえ。凍死なんかしないわよ。今は八月よ。ここに氷が張るのは、夏の最初と終わりの頃と秋と冬と春だけじゃない。月のクレーターに居る訳じゃあるまいし、零下にはならないわよ。それに、太陽が沈む前に帰ればいいじゃないの。車で来たんだから」

「はあ? どうやって帰るんだ。あの途中からの急斜面を、この普通の電気乗用車で登れると思ってんのかよ! このパーチクリン!」

 神作の一言に、山野紀子は両目を大きく開けて反応した。

「パーチク……この、あったま来た! あのね、この際だからハッキリ言わせてもらいますけどね。真ちゃんは、全くの車オンチじゃない。車のことは私の方が詳しいんですう」

「車オンチだと?」

「そうよ。前に朝美と三人でキャンプに行った時も、レンタカー屋さんからキャンピングカーと間違えてジャンピングカーを借りてきちゃったでしょ。ポンポン飛び跳ねるやつ。朝美は喜んでたけど、こっちは腰痛になって、その後一ヶ月大変だったんだからね。いったい何の競技に出るつもりだったのよ! 前の車だって、バッテリーパックを逆様に取り付けてショートさせちゃったの、真ちゃんじゃありませんでしたっけ。そりゃね、私だって、洗車機に入る時にワックス洗車ボタンと間違えてマックス洗車ボタンを押して、必要以上に磨かれて塗装が剥げちゃったこととかあるわよ。でも、それくらいなら誰にだってある間違いでしょ」

「ねえよ、誰にも。おまえが、おっちょこちょいなだけだろうが」

「うるっさい! その時だってブチブチブチブチと、いつまでも文句を言ってたけどさ、真ちゃんだって、グレープシードオイル買ってきてって頼んだらグレープジュース買ってきたことだってあるじゃない。豆乳と豆苗を間違えて買ってきたこともあるし」

「関係ねえだろ、それと」

「ほら。そうやって自分の失敗はいつも棚の上に載せちゃうのよね。そのうち、バンバンジーとチンパンジーを間違えて買ってくるんじゃないの」

「食い物と猿を間違えるか! どこに中華惣菜と猿を一緒に売ってる店があるんだ!」

「だいたいね、この車は私の車なのよ! 何度も修理に出してるから、この車のことは、私の方がよーく知ってるの。あんな傾斜くらい、へっちゃら。鼻歌を歌ってスイスイ登ってみせるわよ。この前、サイドカメラを壊された時の修理で、ついでにメインモーターの超電導コイルをワンランク上の物に換えてもらったばかりなんですう! この車のパワーと私の運転テクニックがあれば、ジグザグ走行で、あっという間に傾斜を登って、あの上の道路の所に戻って行けるわよ。私、こう見えてもね、ネットゲームの世界じゃ『走りのノンさん』っていうハンドルネームで……」

 自分の車を背にして誇らしげに胸を張って語っていた山野の後ろで、凄まじい打撃音と金属音が連続し、山野のAIスポーツセダンのボンネットが火花を散らした。

「紀子!」

 神作真哉は素早く山野を引き寄せると、彼女と共に倒れこみ、彼女を庇って体の下に隠しながら地面に身を伏せた。鳴り響く銃声と共に、山野の車は激しく振動しながら蜂の巣状にされていく。四方の窓ガラスは割れて飛び散り、タイヤは音を立てて破裂した。神作真哉と山野紀子は頭を覆いながら地に伏せていた。

 やがて銃声が止んだ。神作真哉は顔を上げて空を見た。大破した山野の車の真上の空で一機のオムナクト・ヘリがホバリングしていた。

 神作に隠れて伏せていた山野紀子は、彼を押し退けると、立ち上がった。服に付いた土を払うもと無く、上空のオムナクト・ヘリを指差しながら叫ぶ。

「コルァ! 他人の大事な車をなんだと思ってるのよ! 私の車は、あんたらの射撃練習用の的じゃな……」

 すると、そのオムナクト・ヘリから三人の人影が飛び降りてきた。三人はそれぞれ粘性ワイヤーを使用して高速で降下してくると、地上の前で速度を落として、そのままスムーズに着地した。迷彩柄の戦闘服の上から深緑色の防具を装着したその男たちは、各自素早く粘性ワイヤーを凝固させ風に散らせると同時に、抱えていた自動小銃の銃口を二人に向けた。肩幅に足を開いて立って空を指していた山野紀子も、立ち上がってズボンの土を手で払っていた神作真哉も、そのままの姿勢で動きを止めた。

 大柄な男が肩の高さで据銃したまま、口を開いた。

「神作真哉と山野紀子だな」

 男の方を向いて真っ直ぐに立った神作真哉は、こちらに向けられている銃の向こうの男の目をにらみ付けて、言った。

「違うと言ったらどうするつもりだ」

 その大柄な中年男性は神作に銃口を向けたまま、他の若い二人の男に指示を出した。

「捕縛しろ」

 二人の若い男たちは、それぞれ小銃を構えたまま、神作と山野の近くまで前進した。

 一番若い男が山野の手を掴む。山野紀子はその男の手を振り払い、怒鳴った。

「ちょっと、何よ。放しなさいよ! いたたた……」

 男はもう一度山野の手を掴んで後ろに捻った。もう片方の手に持っていた小銃を肩にかけると、素早く山野の反対の手を掴んで後ろに回し、彼女の背面の腰の位置で両手を交差させた。その上からプラスチック製の結束バンドを手際よく巻いて山野の両腕を縛る。

 神作の右手を掴んで背中の方に捻っていたもう一人の若い男も、同じように神作の左手を取って後ろ手に縛ろうとしていた。神作真哉はギプスをしている左腕を高く上げて、背後の男に怒鳴った。

「おい、骨折してるんだぞ!」

 男は無言で神作の膝の裏に蹴りを入れると、地面に片膝をついた神作の左腕をギプスの上から素早く掴み、そのまま無理矢理後ろに捻った。

 ギプスの上から結束バンドを巻かれた神作真哉は、苦悶の表情を浮かべて体を反らす。

「イテテテ! ぐああっ、いてえ! ――ふざけんな! 折れてんだぞ、この野郎」

 五人から少し離れた位置にオムナクト・ヘリが土埃を巻き上げながら降下してくる。

 後ろ手に縛られたままそれを見ていた神作真哉は、背後に立つ迷彩服の男に言った。

「病院にでも運んでくれるのか。できたら、通っている整形外科がいいんだがな」

 男は力ずくで神作を立たせると、背中を強く押して、言った。

「いいから、さっさと歩け。ヘリに乗るんだ」

 神作真哉はゆっくりと前に歩き出した。

 両手を後ろで縛られたままの山野紀子も同じように渋々と前に歩いていた。山野紀子が立ち止まると、後ろの若い男が彼女の背中を自動小銃の先端で突いて押した。山野紀子は仕方なく少し歩いたが、再び立ち止まった。また男が後ろから背中を突く。溜め息を吐いてダラダラと数歩だけ進んだ山野紀子は、また止まった。男が後ろから突く。ふて腐れた顔で歩き始めた彼女がもう一度立ち止まると、やはり男が小銃の先で突いてきた。三回目までは我慢していた山野紀子は、ついに振り向いて、後ろから自分を突いていた男に鬼のような形相で食って掛かった。

「コルァ! いい加減にしなさいよ、あんた! さっきから他人の背中をツンツク、ツンツクと! 痛いじゃないの! 歩けばいいんでしょ、歩けば! 口で言えばいいでしょうが! どうして突くのよ!」

 その若い男は少し驚いたように目を丸くしていた。

 山野紀子は更に捲し立てた。

「だいたいね、なんで私たちがあんたたちのヘリに乗らないといけないのよ。ちゃんと理由を説明しなさいよ! どうして私たちが、あのヘリに乗らないといけないんですかあ」

 一歩退いた男は、肩の位置で小銃を構えると、その銃口を山野に向けて叫んだ。

「うるせえ!」

 山野紀子は男をにらみ付けて言う。

「あんた、自分が言ってることの理由も説明できないわけ? 頭わるいんじゃないの、このパーチクリン!」

「なんだと……」

 男は小銃の銃身に頭を付けて、山野に狙いを定めた。

「やめろ、野島」

 大柄な中年男が低い声で、その若い男を制した。

 山野紀子と神作真哉は目を合わせる。

 若い男は中年男の指示に従って銃を下ろした。

 神作真哉が山野に言った。

「紀子、逆らわない方がいい」

 若い男をにらみ付けていた山野紀子は、鼻から強く息を吐くと、不満そうな顔でヘリの方を向き、また歩き始めた。神作真哉もヘリの方に歩いて行く。

 二人の横を歩きながら、中年の男は喉に巻いた声帯マイクに手を当てて、通信をした。

「こちらユニット・ワン。残りのターゲットを捕縛した。これより、そちらに向かう」

 神作真哉はその男の言葉に注意を傾けた。

 男は通信を続ける。

「そうか、分かった。じゃあ、そいつらとは現地で合流だな。こっちの機影を追うように伝えてくれ。――ああ、それは俺と伍長で何とかする。心配はいらん。――そうか。ったく、現場が信用できねえってか。――ああ、分かってるよ。それまでには吐かせると伝えておけ。――そうだ、だから問題ない。そう言っただろうが。――了解。通信終わる」

 中年の男は不機嫌そうに通信を終えると、舌打ちをしてから土の上に唾を吐いた。

 神作真哉と山野紀子はヘリの前に到着した。山野がヘリに乗った後、神作も乗り込む。中では、自分たちと同じように後ろで両手を縛られた永山哲也と春木陽香が、並んで座席に座っていた。二人ともシートに括り付けられ、口にガムテープを貼られている。二人の姿を見た神作と山野は顔を見合わせ、一拍置いてから、同時に溜め息を吐いた。

 永山哲也は必死に何かを叫んでいる。

「むっぐ! むんぐん!」

 彼の隣で春木陽香も、伸ばした両足をバタバタと上下させながら、何かを叫んでいた。

「むぐぐぐー! むぐぐむんぐーぐー! むーぐぐっぐー!」

 操縦席を背にして括りつけられている二人の向かいの席に座った山野紀子は、呆れた顔で春木に言った。

「何言ってるか、全然分かんないわよ」

 山野の隣に座った神作真哉が言った。

「たぶん『キャップ、ノンさん』と『たすけてー、山野編集長、神作キャップー』だな」

 口にガムテープを貼られている永山と春木は、二人で一緒にコクコクと何度も頷く。

 若手の二人の男が乗り込むと、最後に中年の男が乗り込んできて、ドアを閉めた。

 中年の男がパイロットに指示を出すと、機体は浮上し、そのまま高速で上昇していく。すぐに爆心地の周囲の森が窓の下に小さく見えるようになった。ヘリは空中に留まったまま機体を傾けて方向転換すると、夕日を背にして一直線に飛行し始めた。

 神作に支えられながら壁に肩を押し付けて機体の傾きに堪えていた山野紀子は、機体が水平になるとすぐに春木に言った。

「あんたね、哲ちゃんと一緒の出張だからって、浮かれてたんでしょ。なんで私に連絡入れてから出かけないのよ。前の時も言ったでしょ、危険な取材の前には私か別府君に必ず連絡入れろって。哲ちゃんも哲ちゃんよ。どうして、こっちに逃げてくるかな。こうなることは予想がつくじゃない。どうせこっち方面に進むんだったら、隣町の方にでも向かえば良かったのに。そしたら、町の人にでも助けを求めて……むぐぐぐ……」

 一番若い男が、山野の口にガムテープを貼った。それでも山野は話し続ける。

「むーむぐぐ、むんぐーぐ、むんぐーむぐぐぐむっぐむぐ?」(もう少し慎重に行動できなかったわけ?)

 春木陽香が体を動かしながら言った。

「むぐぐむぐっぐんむぐ。むんぐーむぐんむっぐむぐぐ」(仕方なかったんです。緊急事態だったんですよ)

 永山哲也も首を振りながら言った。

「むぐぐっぐ、むぐぐ、ぐんむぐむぐんむ、むぐぐぐんむぐぐ」(僕だって、へりが飛んでくるなんて思わないですよ)

「むむむ、むぐむっぐぐぐ、むぐんむんむむ」(あのね、何言ってるか分かんないわよ)

 一番若い男がガムテープを伸ばして神作の口に近づけたが、神作真哉は頭を遠ざけて、その男に言った。

「こいつら、ずっとこれを続けるぞ。死んでも喋り続けてるだろうからな。ガムテープを外した方が、まだ静かになると思うぞ。俺の経験からして」

 隣にいた山野紀子は神作の方を向くと、ガムテープの上の鼻の穴を膨らませて言った。

「むぐ、むぐぐ、むんぐーぐんむぐんぐむぐぐむっぐぐむぐ。むんぐぐっぐ、むぐぐむーぐむんぐぐ!」(なに、俺は関係ないみたいなことを言ってるのよ。あんただって同じようなもんでしょ!)

 神作真哉は頷きながら言った。

「ああ、分かった、分かった。俺もガムテープ貼られたら喋り続けるタイプだよ。その通りです。はい」

 春木陽香は目をパチクリとさせながら言った。

「むぐ、むんぐーぐーぐ、むっぐぐむぐぐ、むぐぐむぐむー」(よく編集長が言ってる事が分かりますねー)

 神作真哉は呆れたように春木に言った。

「あのさ。伝わらないんだから、喋るなよ。分かる訳ないだろ、ムグムグだけじゃ。伝わらないから余計にストレスが溜まって、さらに喋りたくなるんだろ。ダイエットのストレス解消にスイーツを食べまくる紀子と同じじゃねえか。ずっと食ってばかりで、結局何の意味も無いことに……イテっ」

 神作の脛に蹴りを入れた山野紀子は、目を剥いて神作に言った。

「むぐぐ、むんぐぐ、むぐぐぐ、むぐぐぐぐむ、むぐぐむぐぐぐ!」(それは、あんたが私にストレスを掛けるからでしょ!)

 神作真哉は山野の顔を見て言った。

「俺は関係ねえだろ。プリンの二段盛り食ってストレスが解消されるなら、世の中に精神科医もカウンセラーも必要ねえよな。ただ理由つけて好きなもの食ってるだけだろうが」

 神作真哉は口を尖らせる。山野紀子は叫んだ。

「むぐぐっぐ、むぐぐー。むー、むぐぐーむーぐむぐぐ!」

「悪くねえよ、別に。食え食え、好きなだけ食え。太っちまえ」

「むぐっぐぐ、むーぐぐ、むんぐぐぐむぐむんむぐむぐぐんむぐ!」

 中年の男が指示を出した。

「口のテープを外せ。うるさくてかなわん」

 一番若い男が山野の口からガムテープを剥がすとすぐに、彼女は神作に怒鳴った。

「太ったら、洋服、全部買い替えないといけないでしょ!」

 山野紀子は頬を膨らまして神作の反対側の窓に顔を向けた。

「ぷはー。ああ、苦しかったあ」

 ガムテープを剥がされた春木陽香は、そう一言だけ発して、後は黙っていた。

 最後にガムテープを外された永山哲也も、何か言おうと一度神作と目を合わせたが、すぐに窓の方を向いて黙った。

 神作真哉も、コックピットのフロントガラスから見える景色を見ながら、黙っている。

 フロントガラスの向こうには、夕日に照らされて茜色に光る下寿達かずたち山の峰々の山頂が見えていた。その向こうには、高層ビル群の赤いライトの点滅がかすかに見える。その奥で、昭憲田池の湖面が夕日を強く反射して黄金色に輝いていた。

 四人の記者を乗せたオムナクト・ヘリは、暮れなずむ新首都の方向へと飛んでいった。


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