或る香神木にまつわる

南紀朱里

序  香神木の社

慕情

 やしろの奥には、淡紫の花をつける木があった。その木を抱くようにして、桜の森が広がっていた。


 花の盛りを前にして、冬の寒さが戻ったある日。薄紅の霞がかかったような桜に囲まれた境内の、淡く色づく空気の中に、おぼろな少女の姿を見つけた。


「宮司さま」


 アララギは、自分を拾い居場所をくれた、師である老神官に尋ねた。


「あれは、なんですか?」


 だれ、と聞かなかったのは、人でないのがわかったから。

 けれど、アララギがそれまで外で見てきたようなおそろしいものともまったく違う、清浄な気配のものだった。


 アララギの視線を辿った老神官が、まぶしいものを見るように目を細めた。


香神木こうしんぼく御霊みたまであられる」

「あれが?」


 言われてみれば、とてもしっくりときた。


 尼削あまそぎにした薄墨色のやわらかそうな細い髪と、小作りに整った白い顔。淡い色合いの花びらを重ねたような衣裳の上から、淡紫の透き通る領巾ひれをふんわりと肩にかけている。春の霞と見紛みまがうほどに薄いその領巾の両端は、風をはらんだ羽衣のように、ふわふわと宙に漂っていた。桜色した空気の中にうっすらたたずむその姿を、遠く眺めているだけで、花の香りが漂ってきそうだ。


 じっと少女を見守っていたアララギの耳に老神官が顔を寄せ、低く小さくささやいた。――まるで、だれかに聞かれるのを恐れるように。


「アララギや。――決して、あの方に執着してはいけないよ」


 それは、何をするにも温かく見守ってくれた老神官が、唯一禁じたことだった。


 はらはらと、風にのって、桜の花びらが視界をかすめた。




「……しゅうちゃく?」


 同じように声をひそめて聞き返したアララギの頭を、老神官は、皺だらけの手でゆっくりと撫でた。


「ここはあの方をまつるための社だから、敬い、お慕いするのは自然なこと。けれどもそれは、こんなふうに遠くから、そっと思うに留めておくべきだ。もっともっと近づきたいと、願うようになってはいけない」

「僕、そんなことにはなりません」


 たしかに綺麗で儚げで、目を惹かれる少女だけれど。


「僕は、一刻も早く一人前になって、宮司さまのお役に立つんですから」


 忌み子として朽ちていくだけのはずだった自分を、拾ってくれた恩返し。そのためには、急がなければ時間がないと、幼心に察していた。


 決意とともに小さな拳を固めたアララギの頭の上に、老神官の乾いた手が、再びそうっとのせられた。


「そうだな、おまえは一人前になって……人として、幸せにおなり」


   ◇


 五月雨の中、秋晴れの下、ただひたすらに、修行に励んだ。


 老神官に寄せられる妖悪霊退治の依頼は、寄せては返すさざ波のようにまるで止まることがなく、それらに対して老神官が、言葉通り身を削って応えているのを知っていたから、少しでも早くその任を、手伝えるようになりたかった。


 けれど、間に合わなかった。


 木枯らしが社務所を叩く暗い夜、明日からはともに行こうと言ってくれて、眠りについたそれっきり。

 老神官は、二度と起きてはこなかった。


   ◇


「さすが宮司殿、優秀な後継を育てておられたようだ」


 里長さとおさが、おもねるような色を浮かべて、妖退治の礼を述べた。その後ろでは里人たちが、ひそひそとささやきあっていた。


 なんの心も動かなかった。


 謝礼にと渡された、わずかな食料と衣に目を落として思った。


 僕はこいつらのために、一人前になりたかったんじゃない。


 全部、老神官を助けたいがためだった。

 恩返しがしたかった。

 だけどもう、叶わない。


   ◇


 妖退治の依頼を、断ることはしなかった。

 断れば、老神官が自分に後を継がせようとしてくれていた気持ちすら、否定することになると思ったから。

 傷だらけになることも、命を落としかけることもよくあった。

 老神官にくらべてアララギはまだまだ未熟な子どもだったし、加えて、自分を守る意味が見いだせなかったから。

 傷ついてくたびれて、気を失うようにして眠れば、よけいなことは考えずに済んだ。

 日に日に鬼気迫っていくアララギを、里人はさらに遠巻きにした。


 そんな、ある日の夜。


 群れ咲く桜に霞んだ夜気に、ふわり、香の匂いが漂った。


 寝床へ行きつく余力もなく、神官の住居も兼ねる小さな社務所のえんに倒れ伏していたアララギの耳元で、涼しい衣擦れの音がした。


(宮司、さま?)


 反射的にそう思った。けれど、それにしてはあまりに、小さく軽い気配だった。

 それから、小さな――自分と同じくらい小さな手が、そっと、髪に触れるのを感じて、


「……っ!」


 飛び起きたアララギの目の前に、それはいた。

 老神官が亡くなってからはまったく見ることのなくなっていた、香神木の精。

 透きとおったすみれの瞳が、じっとアララギを見つめていた。

 目を見開いたアララギの髪に、小さな手がまた触れて、そっと、いた。

 無言のままに見つめてくるのは、感情の色が読みとれない、静かに凪いだ顔だった。ただ、髪から頬へと滑る手だけが、泣きたくなるほど優しかった。


 ひくりと、喉の奥が引きるのを感じた。


 とっさに唇を噛みしめたアララギの頭を、小さな両手が引き寄せた。冷たくさらりとした衣の、薄い胸に抱かれる。香の匂いに包まれて、知らず、肩から力が抜けた。


 ころりと。頬をしずくが伝っていった。


 ――白い月が桜に霞んだ、春の夜。


 老神官が亡くなってからはじめて、アララギは、静かに泣いた。


   ◇


 あの夜から香神木こうしんぼくの精は、頻繁に姿を見せるようになった。


 いや、それまでも、視界の端に姿は見えていたけれど、修行を積むのに必死だったり、老神官を亡くした傷をまぎらわすのに必死だったりで、アララギが見ようとしていなかっただけかもしれない。


 見えるようになったものは、ほかにもあった。


 梅雨時の紫陽花はにじむように美しかったし、夏の空はこんなにも青かったのかと思ったし、秋の紅葉は息を呑むほどあざやかだった。香神木の精は境内の外には出られなかったから、アララギは妖退治の帰りにそういった四季の現れを見つけては、土産として持ち帰った。


 老神官を亡くした季節である冬も、香神木の精と寄り添っていれば、孤独ではなかった。


 ――ふと、在りし日の、老神官の言葉がよぎった。


 ――「決して、あの方に執着してはいけないよ」。


 桜のつぼみが、膨らみはじめていた。




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