第2話 世界の秘密

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 秋良は静かに混乱している。

 つい先程まで、薄暗いバーのカウンター席にいたはずだと。


「……えぇと……ここは?」


 バーとは一転して、秋良は真っ白な壁や天井、調度品が目に痛い気がする、そんな部屋のテーブルに座っていた。

 テーブルの上には、テレビのリモコンとティッシュ箱……どれもが真っ白に染め上げられている中で、ひときわ目立つ書類。離婚届。


「これって……さっき俺が書いた……? ってか、全部白くて判りにくいけど……ここは俺の家か?」


 部屋の間取りだけではなく、置かれてある物も含めて、そこは秋良と麻衣が生活していた賃貸マンションに酷似していた。


「おや? お気に召しませんでしたか? 直近では一番記憶に焼き付いていた場所だったので、良かれと思い準備したのですが?」


 目の前にはバーのマスター。


 秋良は驚きと共に目を瞬かせる。一瞬前には居なかったはずだと。


「……あ、あれ? え? 俺……どうしちゃったんだろ? 酔ってはなかった筈だったんだけど……?」

「あぁ。大丈夫ですよ。お客様は酔ってもなければ、夢を見ているわけでもありません。普通に現実ですよ。ただ、ちょっとシステムを弄っているだけです」


 バーのマスターはさらりと語る。もちろん、秋良には何を言っているのか理解できない。


「シ、システム? 弄る?」

「はい。突然ですが……お客様は『シミュレーション仮説』というのをご存知ですか?」

「は、はぁ? あの……“現実はシミュレーションだ”……っていうトンデモ話のことですか……?」

「ふふ。そのトンデモ話です。シミュレート宇宙構築における、初歩の技術的特異点シンギュラリティすら迎えていないこの世界ではそんな認識でしょうね」


 バーのマスターは語る。

 この世界……現実はプログラム上のシミュレートの一つだと。ただ、当然この世界に生きる人……シミュレートされた個体群にとっては紛れもない現実であると。


 そして、彼はバーのオーナーとしてのマスターではなく、この世界の管理者マスターの一人だと名乗る。


「……は、はぁ。なら、俺はいま、神様に等しい存在とやり取りしてるってことですか……そりゃ凄いや……ははは」


 もっとも、秋良がそれを信じることもない。いつの間にか多量のアルコールを摂取し、酩酊して夢を見ているのだろうとしか思わない。


「ふふ。別に信じなくても構いませんよ。ですが、紛れもない事実です。私たちは幾つかのシミュレーション世界を管理はしていますが、そんな私どもの世界ですら、より高次な存在が生み出したシミュレーション宇宙であると認識しています。自分たちが出発点……起源オリジン文明だとは思っていませんしね」


 マスター曰く、文明が発展し、科学技術が人の“意識”すら解析し、人工的なプログラムの中でシミュレートできるようになった起源……オリジン文明たる宇宙が存在している。

 その文明が、持てる技術を駆使して人はおろか……宇宙丸ごとのシミュレーションを構築したのが多層的世界の始まり。


 シミュレーション宇宙の中に存在する個体群……意識を持つ者たちにとっては、その宇宙は現実のものであり、文明の発展と共にいずれは技術的特異点シンギュラリティを迎えることになる。


 それは“意識”の解析と再現。そしてプログラムの中での宇宙の構築。


 結果、シミュレーション宇宙の中にある文明も、いずれシミュレーション宇宙を構築することになる。次も、その次もまた……と、加速度的に宇宙……世界の数が増えていく。


 その中の一つがいま秋良が居る世界であり、その一つ上層にマスターが居る世界があるということ。


「はは。壮大ですね。俺が麻衣のためにしてきたことも、彼女に裏切られたことも、全てはプログラムの結果ということですか」

「端的に言えばそうなりますが、シミュレート世界の個体群は明確に自意識と感情を持っており、それらは不可侵の領域です。たとえマスター権限を以てしても弄ることは出来ません。つまり、いま鹿島秋良さんが抱いている感情も、鹿島……高峰麻衣さんの行動も、すべてあなた達の固有のモノで間違いはありません」

「……なら、結局俺の現実は変わらないということですね。ま、どうせ起きれば忘れるたぐいの夢でしょうが、面白い話を聞かせてもらいましたよ。こっちの愚痴も散々聞いて貰いましたし……」


 荒唐無稽な夢物語。ただ、妙に現実感の薄い中で淡々と語られる話は、秋良からすれば純粋に面白かった。気が紛れた。それが真実かどうかなど無粋に過ぎる。どうせバーのマスターと一見客いちげんきゃくの与太話の夢だ。秋良は深く考えない。


「ふふ。まぁまぁ秋良さん。夢のついでにお聞きしますが……別の世界に興味はありませんか? ほら、所謂いわゆる異世界転移というヤツですよ。我々がシミュレートしている世界の中にはゲームファンタジー的な場もありまして……この世界で言うところのオンラインRPGのようなものですね」

「……あぁ、なるほど。世に溢れる異世界転生だの転移だのは、そういったシミュレート世界が基になってるって話ですか? はは。夢があって良いですよね、そういうの。俺もそんな題材のゲームをプレイしたことがありますよ。SFをベースにした、未開惑星が舞台のファンタジーだと思ってたら、実はその舞台自体が高次存在のゲームプログラムだった的な?」


 何だか秋良は楽しくなってきている。妻の浮気云々のずっと前から、色々と擦り切れる日々であり、こんな話を誰かとする余裕もなかった。


 ただ、だからこそなのか、秋良はダンディな初老のマスターが、突然シミュレーション仮説だの異世界だのと語ることの違和感を気にもしていない。


「ま、もし可能なら、俺は異世界よりもこの世界で過去に戻りたいですけどね。……両親の事故を無かったことにしたい……かな?」


 たとえ現実離れしたやり取りといえど、家族……祖父母を置いて、別の世界に行くという考えは秋良にはない。


 ただ、もし叶うならあの日に戻りたいとずっと願ってきた。両親が事故に遭った、あのバス旅行のプレゼントを企画した日に。


 当時の自分達をぶん殴ってでも止めたい。もう一度両親に会いたい。話をしたい。折りを見てふと思うことは、歳を重ねる度に増えてきている。


「……なるほど。しかし、残念ながら同一宇宙においての時間軸の遡及そきゅうは、管理者であっても禁止されていますので……申し訳ございません」


 ピシッとした姿勢で頭を下げるマスター。思わず苦笑してしまう秋良。


「はは。止めてくださいよ。こんなバカげた話で頭を下げるなんて……」

「いえいえ。正体を明かした以上は、こういう所はキッチリしておきませんと……」

「は、はぁ……?」


 秋良の中の違和感が仕事をしたそうに浮き上がってくるが、マスターがそれを覆う。被せてくる。


「……ですが、別のシミュレート世界で数年過ごし、この世界に戻ってくるような場合であれば、元の時間軸に戻る程度は許されています」

「へ、へぇ……? えぇと……向こうでの時間経過があっても、元通りになるってこと……ですか?」

「ええ。ちょっとした旅行のようなモノですね。実のところ、この宇宙にも“プレイヤー”として介入している上層宇宙の者もいますからね。余りにもと同じとなれば、快適性が削がれるというものです。管理者マスターというのは、そういったプレイヤーのサポートが主な仕事でしてね。まぁこの世界で言うところのオンラインゲームの“運営側”のようなモノ……と言えばお解かりでしょうか?」

「ゲーム? ……あぁ、何も知らない俺たちは、さしずめNPCノンプレイヤーキャラクターってところですね」


 この夢、色々と凝った設定を考えてるな……秋良がそんな風に感心していると、マスターも薄っすらと笑みを浮かべている。秋良はその笑みにナニか含むモノを感じるが……


「はは。理解が早くて助かります。実はこちらの世界と別の世界……双方の運営同士で“イベント”が企画されましてね。それぞれのNPCを何名か交換しようかと考えているのですよ。常識の違う世界での日常生活を通して、個々の常識がどのように変化していくのか、現地の住民や文化とどのように馴染んでいくのか、その文化や常識を元の世界に持ち帰ったらどのようになるのか……と、このような趣旨です」

「は……はは。何も知らないNPCに異世界旅行をさせるってことですか? まぁ箱庭での観察日記のようなモノと考えれば分からないでもないかな?」


 色々と練られた設定の夢だと思いつつ、秋良はこのマスターとの話がどこへ流れつくのかが理解できた。自分に異世界旅行を勧めているのだろうと。ただ、急に現実感覚が戻ってくる。


「異世界旅行をさせるから……ってな感じで、奥からコワモテの黒服の人たちが出てくるとか?」

「ははは! まさかまさか! 私はこの近辺で『逃げ出したい。帰りたくない』と思う人たちをピックアップして声を掛けさせてもらっているだけです。完全にランダムであり、金銭を要求するようなことも致しません。もちろん、異世界旅行の後は、必ず今の時間軸へ戻すことも約束いたしますよ」

「は、はぁ……確かに俺は麻衣の居る家には帰りたくはないですし……いまのこの時間に戻ってこられるというなら、ちょっと興味はありますね。夢の中でくらい自由気ままってのを味わいたいものです。……目が覚めたら、くそったれな現実と嫌でも向き合わないといけませんしね……ははは……」


 逃げ出せるなら逃げ出したい。それは秋良の本音だったが、別に異世界へ行きたいという訳でもなかった。


 もちろん、若かりし頃にはそんな願望も抱いていたこともあったが、両親が亡くなってからは、そのような現実逃避を望むことはなかった。荒唐無稽な夢想をしている場合ではなかったというべきか。


 それに、もう年齢も年齢だ。結婚もした三十路みそじ前の男が『異世界へ行きたい!』……と、喜色満面で口に出すのは、社会的にも色々とマズいことくらいは分かる。職場で叫べば、ストレス性の何らかの疾患を疑われるはずだ。秋良の勤め先は肉体的にも精神的にもブラックな職場であり、似たような嫌な実績もある。


 秋良としては考えたくはないが、やはり破綻した婚姻生活の後始末もしなくてはならない。


 双方の身内への報告、間男と麻衣への慰謝料の請求、共有財産の仕分け……等々、やる事は山積みだ。こうなってしまえば、夫婦に子供が居なかったことが救いだったかも知れない。いつまでも家に帰りたくないとも言ってられない。そんな諸々を秋良はつらつらと考えてしまう。


「ふふ。現実逃避もたまには必要なことです。あぁ。当然のことながら、異世界へ行って命を落とすようなことがあっても大丈夫です。すぐに死なれると観察の意味がありませんからね。向こうでは秋良さんは死んでも蘇りますから」

「はは! 所謂“チート”ってやつですね!」

「……ただ、他に関して最初の内はあくまで向こうの世界の一般人程度となります。もちろん、言語も通じるようにはしておきますし、成長の余地もあります。そして、向こうの世界の案内人も付けさせて頂きます」

「はぁ……まさに至れり尽くせりですね」


 死んでも蘇る。案内人付き。異世界を旅行して戻ってきても、この世界での時間の経過はない。


 まさにデタラメな話だ。

 ただ、秋良は思っている。


『異世界へ出発! ……ってところで目が覚めるんだろうなぁ』


 ……と。もうすぐ夢が終わって、現実と向き合わなきゃいけないのだと感じていた。


「一応、聞いておきますけど……そのゲームファンタジー的な異世界ってのは、所謂中世ヨーロッパ的な?」

「えぇ。そう思ってもらって構いません。エルフやドワーフ、ゴブリンやドラゴンといった異種族が居る世界です。あと、魔法やスキルはありますが、レベルやステータスといったシステムはありませんね。その辺りはこの世界と同じです。あと、当たり前ですが、秋良さん以外は死ねば終わりであり、これはプレイヤーの分身アバターであっても同じです」

「え? マスターの世界のプレイヤーも死ねば終わりなんですか?」

「はい。その経験や能力はある程度別のアバターに引き継げますが、一度死ねば二度と同じアバターは利用できません。現実……つまり現地の者と同じ仕様です」


 芸が細かい設定だな……と、改めて秋良は思う。

 身の内では違和感が激しく暴れているが、もう今さらだという諦め……どうとでもなれという自棄な気持ちもある。


 本当は頭の片隅で薄っすらと考えていた。もしかすると、コレは“現実”なのかも知れない……と。


 夢のはずなのに動悸が激しい。汗が吹き出る。恐れが込み上げてくる。


「……そんな異世界への旅行ですか……」

「はい。ある程度の観測データが集まった時点で、秋良さんは“ココ”へ戻る手筈になります」

「それは……具体的にどれくらいの期間なんです?」


 不安が秋良の胸を締め付ける。嫌な予感が止まらない。マスターの朗らかなはずの笑顔が恐ろしい悪魔のソレに見えた。


 もう引き返せない所にいる。彼には、何故かそれだけがハッキリと解っていた。


「なぁに。秋良さんの体感では、ほんのほどですよ」


 瞬間、鹿島秋良のデータが世界から失われる。


 そして、次に秋良という存在が現れたのは別の世界。


 素っ裸で異世界の街の広場に立っていた。



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