第7話【第二章】

【第二章】


「おーい、誰かいないか?」


 夜の竹林で、僕(あるいは僕と同じ体感を得ている誰か)は大声で呼びかけた。

 誰かいないか、いないか、いないか――。

 不気味に反響しながら、遠くへ消え去っていく僕の声。応える者はない。


 ざく、ざくと下草を踏みつけながら、懐中電灯の僅かな灯りを頼りに進んでいく。だが、それも上手くいかなくなってきた。


「こんなところに霧が……」


 一体どこから湧いてきたのか、あたりには真っ白な霧が漂い始めた。これでは行方不明者の捜索どころか、自分が行方不明者になってしまう。

 これは冗談ではない。ここ数日、地元の猟友会とも連携して、行方不明になった男性の捜索にあたっている地元警察。だが日を追うごとに、帰ってこない者が増えているのだ。


「寒いな……」


 僕は警察官の制服の上から羽織ったコートの襟を合わせた。もう新緑の季節だというのに、骨身に染み入るような冷気が周囲を取り巻いている。

 バッグから地図を取り出そうとした、その時だった。強烈な血の臭いに鼻腔を満たされたのは。


「うっ!」


 咄嗟に鼻を肘の裏で覆う。確かさっきのブリーフィングでは、突然生々しい臭気に取り巻かれたという報告があった。

 何かあるのか? 何かがいるのか? 確かめなければ。


 僕はもう少しだけと自分に言い聞かせて前進を再開した。ついさっきまで差していた月光が、今は全く目に入らない。

 一人で捜索を続行するのが危険だということは承知しているつもりだ。それでも再び進み始めた足は止まらなかった。


 この先で誰かが危険な目に遭って、命の危険に晒されているかもしれない。そう思うと、胸中で警察官たる正義感が湧き上がってくる。


 血の臭いが濃くなる方へと、歩を進めていく。警察犬ならともかく、人間の嗅覚程度でも嗅ぎ分けられるのだから、この先にはよっぽど凄惨な光景が広がっているのかも。

 僕は念のため、懐から拳銃を抜いた。


 ごくり、と唾を飲む。呼吸する度に、そして一歩踏み出す毎に、死臭は強まっていく。


 駄目だ。これ以上進んではいけない。僕は脳内で必死に叫んだ。

 だが、夢の中の人物は全く意に介さない。危険だからこそ自分が真相を確かめなければと、心のどこかで躍起になっている。それが失態だとは微塵も思わずに。


 遭遇したのは唐突だった。

 懐中電灯の明かりの向こうに、人影が浮かび上がったのだ。


「うわっ!」


 慌てて懐中電灯を取り落とし、拳銃を構える。


「だっ、誰だ! こちらは警察だぞ!」


 人影はゆらゆらと揺れている。

 流石に拳銃を手にしたままではまずいと思い、僕はそれをさっとホルスターに収めた。


 懐中電灯を拾い上げ、人影を照らし出す。そこにいたのは、最初に行方不明になった男性登山者だった。服装には決定的な乱れはなく、外見的特徴も報告と一致している。

 だが、問題が一つある。彼はこちらに背中を向けているのだ。これでは外傷の有無が判別でいない。


「こちらは警察です、もう安心してください! さあ、こちらへ」


 山道へと促そうとする僕。それに応じて振り返る人影。

 二人に身長差はほとんどなかったが、目が合うことはなかった。何故なら、男性の両目は眼窩から零れ落ち、視神経を通してぶら下がっていたからだ。


 気づいた時には、あたりは騒音で満たされていた。正確には、僕の悲鳴だ。断末魔の叫びと言ってもいい。

 頸動脈から噴出した血液が、ざあっ、と頭上から降り注ぐ。


 朦朧とする意識の中、僕はその人物に向かって手を伸ばした。突き飛ばそうとでも言うように。

 だが、失血性ショックに陥っている僕に状況を打開する術は残されていなかった。


 そのまま四肢から力が抜け、僕はその人型の肉食動物に押し倒された。

 首筋の肉を噛み千切られ、急速に意識が遠のいていく――。


         ※


「うわああああああっ!」


 今度こそ本物の絶叫を上げて、僕は起き上がった。滅茶苦茶に腕を振り回し、見えないゾンビを払い除けようとする。


 落ち着け、諸橋恵介。これは夢だ。ただの夢なんだよ。


「うわあっ! はあっ、はぁ……」


 ようやく自らを落ち着かせた僕は、だらんと肩から先をぶら提げた。それからゆっくりと額に手を遣り、ぐしゃぐしゃと髪に指を通す。

 今はベッドの上で、上半身を起こして沈黙している。


 毎晩のみならず、結構な頻度でこの夢は見る。その度に絶叫して起き出すものだから、個室が宛がわれていたことには感謝しなければなるまい。


 僕の脳裏で展開された、只ならぬ夢。あれは、警察官だった父の最期だ。

 僕たち兄弟がこの組織に入る際、知能テストや身体検査の後に出された課題が、この映像を無事見終えるというものだった。


 父親が殉職した日に身に着けていた、ボディカメラが捉えた映像。

 一切説明なしに見せられたものだが、父の声がしたことで、僕は、そして恐らく秀介も、何の映像であるかは察しがついたはずだ。


 それだけで僕は吐き気がした。だが、ここで退くわけにはいかない。もしかしたら、秀介への対抗意識があったのかもしれない。

 いずれにせよ、僕も秀介もなんとかこの映像鑑賞を乗り切った。


「それにしても、驚いたな……」


 我知らず口元から零れた一言。

 それは、その映像鑑賞が終わった直後の秀介の態度を思い返してのことだ。


 完全に映像に没入していた秀介は、立ち上がって怒鳴り散らしたのだ。危うくモニターを殴りつけるところだった。

 僕や周囲の兵士がなんとか止めたものの、秀介の怒りは収まらなかった。その怒りはもちろん、ゾンビに対してのもの。


 俺が絶滅させる、親父の仇を討つと、凄まじい罵詈雑言を撒き散らしていた。

 幼い日に妹と母親を喪い、かつ父親までもが理不尽な死を遂げた。否、殺害された。

 そのことに対する秀介の憎悪や反感の念は、最早僕の理解を越えている。


 あんなに優しく理恵奈と触れ合っていた秀介が、こんな姿に豹変するとは。僕にはとても信じられなかった。


 ああいや、これ以上思い出すのは止めておこう。また精神科の先生に出される薬が増えてしまう。


 ゾンビとは関係のない話だが、僕は時折思ってしまう。自分が薄情者なのではないかと。

 こんなにも理不尽な理由で家族を亡くしていたら、世間を嫌ったり、原因となった事物に憎しみを抱いたりするのが自然だ。


 しかし、僕にはそれがない。皆無とは言わずとも、常人と比べるのは憚られる。

 一体何故だろう? それほど家族に執着していなかった――愛情を抱いていなかったというのか?


 そんな馬鹿な。僕だって、通夜の席では秀介と並んで泣いていた。理恵奈の時も、母親の時も、父親の時も。

 それでも家族を慕っていなかっただと? いやしかし、涙を流すだけが悲しみの感情表現ではあるまい。逆に言えば、泣いたくらいで家族の死を悼んでいるという証明にはならないということだ。


「秀介、お前はどうなんだ?」


 きっと彼の前でそう尋ねても、僕の頭がおかしくなったとしか思われないだろう。


 もしかしたら、僕は秀介に分かってもらいたいのかもしれない。

 唯一無二の兄弟に、自分も同じ気持ちなのだと言ってほしいのかもしれない。


 だが、それを強要することは無意味だし、許されざることだろう。

 もし秀介が僕のような柔な性格だったとしたら、実戦では間違いなく最初の犠牲者になる。

 僕が生きていられるのは、皆がそれを承知の上で戦ってくれているからだ。


「本当にどうしようもないな、僕は……」


 僕はそっとベッドから下り立ち、顔を洗うべく洗面所に向かった。

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