忍者は足が速い

 自宅の道場で、不動は一人で素振りをしていた。


「ふっ! ふっ!」


 ガムシャラに何度も刀を振るう。

 どれくらいの時間そうしていただろうか。胴着の背中側が汗でびっしょりと濡れている。

 太刀筋は精細を欠いていた。身体の力みが美しき剣技を歪めているのだ。


(どうしてこんなことに)


 顔をしかめながら愛染との出会いを思い返す。

 あの日、【煩悩断ち】の秘密を知っていると語った彼女は救いの女神だった。


 ――【煩悩断ち】のためには、煩悩を知る必要がある。


 愛染は煩悩を教えるために性的な悪戯を仕掛け始めた。

 性欲を否定する不動にとって到底容認できるものではない。

 それでも縋る以外の道はなかった。

 足を肩幅に開いて膝を少し曲げ、大きく息を吸い込む。


「ハァッ!」


 道場に声が響く。

 桃川流剣術で最初に学ぶことは剣の振り方や構え方ではない。

 発声法だ。

 腹式呼吸を用いて丹田から思いっきり声を出す。

 その後にある身体の状態こそ、桃川流が理想とするベストな状態に近い。

 力みなくして脱力なし。

 脱力とは一切の力を入れないことではない。無駄な力を一切入れないことだ。


「よし」


 発声によって無駄な力は抜けた。

 左の踵を擦るようにして前に出し、軽く左半身になって刀を頭上に振り上げる。上段の構えだ。

 後ろにあった右足を前へと運び、腕の力ではなく重心移動の力を使って刀を振り下ろす。

 その瞬間、不動の身体に力みが生じた。


「ッ!」


 あのときの蟲、業魔に与えられた激流のような快楽。愛染によって、ジワジワと溜められていく生殺しの快楽。ふとした瞬間に、身体に刻まれた快楽が蘇ってしまう。

 その結果、繰り出されたのは無様な一振りだ。

 愛染と出会って以来、不動の剣は日に日に乱れていた。


 ――煩悩だ。煩悩が剣を曇らせる。


 不動は苦悩する。

 煩悩を知ることで己は後退しているのではないか。

 愛染に従って、本当に【煩悩断ち】にたどり着けるのだろうか。

 道場の真ん中で刀を持ったまま立ち尽くしていた。


「――オン」


 少女の声。その声とほぼ同時に背後に振り返って、刀を振るう。

 ピタっと寸止めで静止した刃の先には、先ほどまで存在しなかった愛染の姿があった。

 真剣を首に突きつけられた彼女は、


「さ、さすがですね」


 と両手を掲げながら降参する。

 睨み付けながら刀を下ろして帯刀した。

 愛染は「ふぅー」と焦ったように手の甲で額の汗を拭っている。


「いきなり何のつもりだ」

「奇襲すれば勝てると思ったんですけど甘かったですね」

「当然だ」

「自分で言うのも恥ずかしいんですけど、わたし、結構優秀な忍者なんですよ?」

「まぁ、そうなんだろうな」


 普段のバカっぷりからはあまり想像できないが、愛染の実力は不動も認めるところだ。

 女だてらに体術はかなりの水準にあるし、不可思議な忍術を多様に使いこなす。

 特に、彼女が得意とする転移の術は脅威と言える。

 別の場所から別の場所へと瞬間的に移動する術だ。

 天才である不動だからこそ、愛染が突然現れても対応できるが、他の者にそのような芸当は不可能だろう。


「手も足も出ないなんて……」

「俺に斬れぬものはない」


 相手が超常の術を使う忍者であろうと。人を欲望で破滅させるという異形、業魔であろうと。この手で必ず斬ってみせる。


「不動くん、凄いです。さいきょーの剣士です!」

「お、おう」


 愛染が宝石みたいに目を輝かせている。

 キラキラと見つめられて柄にもなく照れてしまう。


「愛染も意外と見所があるな」

「不動くんもようやくわたしの良さを理解してくれましたか」

「抜かせ」


 不動は同じ高校の女子から難攻不落だと思われている。

 昔、校内で一番人気の女子が彼にアプローチしたことがある。だが不動の態度はけんもほろろで、取りつくしまもなかった。それ以来、女に興味がない堅物扱いだ。

 そんな不動にも一つ、弱点がある。剣の腕を褒められることに弱い。


「不動くん」


 愛染が両手で不動の右手を握って、胸の前まで持ち上げる。

 不動は柄にもなくドキドキしていた。


「な、なんだ?」

「あのね――」


 小柄な身体が深く沈む。

 不動の手が斜め前に引っ張られる。体重をかけて引っ張っていて、かなりの力だ。

 愛染は忍者だ。忍者が得意とする体術を仕掛けようとしているのだろう。


「甘い、な」


 確かに忍者は体術に優れるのかもしれない。

 だが剣士にとっても身体捌きは必須の技術だ。不世出の天才剣士である不動が体術で遅れをとるはずがない。

 引っ張られて倒れそうになる身体を鍛え抜かれた体幹で踏ん張る。


 愛染は不動の手を握ったまま、両腕を頭上に掲げた。

 人間は身体の構造上、踏ん張ろうと力を入れた瞬間が最も不安定だ。

 愛染はその原理を利用して不動のバランスを崩して投げようとした。


 ――どんぶらこ、どんぶらこ。

 ――川を流れる桃のように、ありのままであること。


 桃川流には【川流ノ理】という基礎にして真髄のことわりがある。

 不動は愛染の呼吸にあわせて流れるように動いた。


 ――ふわっ。

 愛染が作り出そうとした隙が消失する。


「本当に、惚れ惚れしますね」


 単純な筋力は不動が上回っているが愛染には忍術がある。

 忍術で力を増強することはできる。しかし力が増したところで、あっさりと流されて効果がない。

 だから愛染は隙をつくしかないが不動は一切の隙を晒さない。

 圧倒的な実力差を前にしてなお、愛染はニヤリと笑う。


「これならどうですか」

「どんな手段できても無駄だ」

「わたしには秘策があるんですよ!」


 愛染には何か狙いがあるようだ。

 だが負ける気はしなかった。

 慢心ではない。戦闘能力を鑑みた純然たる予測だ。

 しかし、愛染の行動は予測を越えた。


 ――ふにゅ。

 柔らかい。まず最初にそう感じた。


「えっ」


 不動の手が、愛染の胸に押しつけられている。

 まるで全てを包み込むような肉感。ただの脂肪の固まりに過ぎないはずだ。だがその豊満な胸の感触は不動を惑わせる。

 もっと触っていたいという欲求と、早く手を離せという理性がせめぎ合う。


「ッ!」


 不動の一瞬の迷い。忍者の愛染にとっては絶好の隙だ。

 ヤバいと思ったときには時すでに遅く、硬直した不動はあっさりと投げられてしまう。ろくに受け身も取れず、道場の床に打ち付けられた。


「わたしの勝ちですねぇ」

「くそ!」


 寝そべったまま、怒りに任せて床をこぶしで叩きつける。

 松の木でできた床だ。かなりの力で叩いたせいで骨まで痛みがジンジンと響く。

 実力で負けたのならば納得がいく。だが実際はどうだ。愛染の身体に惑わされて醜態をさらしただけではないか。

 愛染に負けたのではない。煩悩に負けたのだ。


「不動くんはすけべぇです」

「黙れ」


 愛染が歩み寄る。不動の顔の横で膝を抱え込んでしゃがむ。

 黒い袴を履いていて油断しているのだろうか。両足の隙間から彼女の股が見える。

 服のシワか、あるいは彼女の大事な部分か。縦にはしるスジを目にして不動は顔をそらす。

 その顔は真っ赤になっていた。


「ガマンは良くないですよ」


 愛染が右手を不動の肩に置く。

 優しくいたわるその手を受け入れられずに振り払う。


「俺は……」


 腕で両目を覆って苦悩する。

 愛染の数々の誘惑によって、己の奥底に獣が潜んでいることを自覚させられてしまった。

 理性なきケダモノはどんどん成長している。このままではいずれ、欲望に呑まれて堕ちてしまうだろう。

 なんとかする必要があると思った。


 ――もっと鍛えねばならぬ。身を削り、己に打ち克たねばならぬ。


 煩悩を知ってなお、耐えうるだけの強靭な精神を鍛えるのだ。

 そのために必要なもの。それは斬るべき敵だ。死に臨むほどの強敵を斬ることで、高みへと昇ってみせる。

 そして、今の不動にはうってつけの敵がいる。業魔だ。あの蟲のように、忍者たちが相対する異形の化け物が、裏の世には存在している。

 不動は決意した。

 再び業魔と対峙し、この手で業魔を斬り伏せてみせる。


「愛染!」


 勢いよく起き上がり、愛染の両腕を掴む。

 きゃっ、と可愛らしい悲鳴が聞こえた。


「な、なんですか」

「お前に頼みがある」

「か、覚悟はできています……」


 愛染がごくりとツバを飲み込んだ。

 彼女の頬は少し赤みを帯びている。

 緊張しているのだろうか。両方の拳を強く握りしめて身体を硬くしていた。


「俺を業魔の元へ連れてってくれ!」

「はい。お願いしま……へ?」

「ん?」

「するんじゃ……ないんです、か?」

「何のことだ?」


 愛染は顔をゆでダコのように真っ赤にして俯く。

 プルプルと震えたかと思えば、


「いやぁあああ!」


 奇声をあげながら、道場をあっという間に飛び出していった。

 さすが忍者だ、足が速い。不動は感心した。

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