第6話 果たせなかった約束

 破裂したような音が鳴り、茜は頬を抑えてうずくまった。父が恐ろしい顔をしてこちらを見下ろす。母は間に入れずにオロオロしていた。


『言いつけを守れと言ったはずだ』


『…ごめんなさい』


『もうこの話は終わりだ、二度と元治と会うな。学校ももう辞めろ、嫁入りまでずっと家にいろ、外出は許さん』



 父を怒らせたわけは、夏の終わりの週末の事。少し前に結納を済ませた後のことだった。街中で元治に会った。少し痩せてしまって、夏バテであまり食べられてないのかと心配した。


 どうしても見過ごせなくて、日曜の昼間、家にあったものを少し用立てて、茜は元春の所へ押しかけた。食べやすいものを作ってあげたかったのだ。


『もう来ちゃダメだって言ったはずだよ?』


『これだけ、料理させて欲しいんです、それが終わったら帰るから、お願い』


『茜ちゃん、もうここは男一人が住んでる家なんだから、嫁入り前の女の子をあげるわけにいかないんだよ』


 引くにひけなくなった茜は、その場から駆け出して、裏口へ回った。

 お邪魔します、と声だけかけて、台所に入ると、水を出した。


『茜ちゃん、言ったろ?』


 元治さんは困惑した顔で水道を出す茜の手に自分のそれを重ねた。ドキリとして彼を見上げるが、気持ちを落ち着かせて向き直った。


『晴樹君と約束したんです、最近お父さんの元気が元気ないから、時々見てあげて欲しいって。その約束を果たしているだけです』


 茜が絶対引かないことを悟って、元治は肩を落とした。そして手を洗うと、自分も隣に立った。


『一緒にやった方が早く済むから。なんの料理?』


 彼が言ったその言葉に嬉しくなって、前掛けを締めながら、


『冷や汁、お豆腐も買ってきたから。きっと夏バテでも食べやすいと思う』


『じゃあ作り方教えてもらうかな』


 やっと笑顔を見せた元治に、嬉しくなって、茜も笑った。


 庭で収穫してきた茗荷を刻んで、シソも刻む。最近は貴重になっていた塩も胡麻も、この家にはまだしっかりあったので、少し塩が強めの味付けにして、冷や汁をこしらえ終えた。炊き上がった麦飯に、家の裏山で採れた山芋をすりおろして乗せる。


 ちゃぶ台を拭き清めていた元治から布巾を受け取り、目の前に食事を並べた。


『どうぞ、食べてください』


『頂きます』


 元治は茜の顔を見てから、キチンと手を合わすと、冷や汁に口をつけた。


『うん、美味い』


 とろろを載せた麦飯には醤油を垂らして、ひと口ひと口食べていくのを、茜は幸せな気持ちで見守った。


 もし、叶うなら。


 こうやってこの人に、毎食ごはんを作って食べさせてあげたい。


 自分は稲刈りが済んだら他所へ嫁ぐ身だ。叶うはずのない事を思い浮かべて、そして、小さく絶望した。だが、せめて今だけは、この人の幸せそうな顔を隣で見ていたい。


 沈み込む気持ちを振り切るように、ぬるめのお茶を入れて、元治の右前に湯呑みを置いた。それを見て、ふっと笑った元治はその湯呑みを持ち上げてそっと口にした。そして、ふう、と息をつくと、湯呑みをそっと置いた。


 茜はその一つ一つをじっと横で見つめていた。ふと、元治が茜を見た。


『こんなふうにさ、この前もお茶を入れてくれただろ?』


 雨宿りの日のことだ。


『うん?』


『道子が亡くなってから、そんなふうにお茶を入れてもらえるのは、実家に帰った時くらいでさ。家でくつろいだ気持ちで食事して、お茶を入れてくれる人がいて、ああ、いいなって思ったんだ』


 茜は、その静かな声に、じっと黙って聞き入った。


『本当に、もう少し年が近かったら、とか、君のお父さんが気に入るような職についてたら、とか色々考えたよ』


 茜は、信じられなくて目を見張った。


『でも、それは言っても仕方ないことだ。俺たちは今、ここで一緒にいてはいけないんだよ?』


 茜にはその言葉が、拒絶と言うよりは、元治が自分に言い聞かせた言葉のように聞こえた。目が合う。元治瞳が真っ直ぐ自分を見つめてくる。再び高鳴り出した熱い鼓動に、茜は耐えかねて目を逸らした。食器に手をかけてお盆に下げ始めた。だが元治の視線は自分にピタリとあたったままだ。沈黙に耐えかねて何か言おうかと思ったが、頭の芯が痺れて言葉が浮かんでこない。


 茜が最後の食器に手を伸ばしたその時だった。元春がその手を掴んだ。


 ハッととして再び元治を見る。濡れた視線が熱く交わる。掴まれた手も熱を帯びる。


『君は、どうして忘れようとした時に現れるんだ』


 掴んだままの腕を引かれて、元治の腕の中に抱きすくめられた。開いた襟元から汗の匂いのする肌が頬に触れて、その匂いに体温に心拍がドキドキとはやる。


『君を俺のものに出来ないのは、ちゃんと分かってるのに…』


 さらにきつく抱かれて、胸が張り裂けそうで、溢れそうな気持ちでいっぱいになった。頭がじんとして、妙に耳が冴えて。


 遠くでセミのなく声がする。その時間は、永遠に長く続くようにすら思えた。


『頼むから、振りほどいて逃げてくれ』


 そう言うのとは裏腹に、元治の腕はきつく茜を抱きしめた。


『元治さん、私…』


 言いかけたその時だった。


『ごめんください』


 その時、玄関の方から割って入った声に、2人は冷水を浴びせられたかのように、ビクリとした。


 その声は茜の父親の声だった。2人は顔を見合わせると、身体を離した。元治は、震えている茜の手をそっと握る。


『もう一度会ってちゃんと話をしたい。必ず連絡するから』

 低い小声で、耳元で囁かれた。


『絶対会いに来ます。約束』


 絡んだ眼差しに、その瞳に自分が映っていた。元治は大きくうなづいた。


 元治は、黙って裏口を指さした。茜は頷き、荷物を持って草履を履くと、足音を立てないように裏口からそっと抜け出し、家へと戻った。


 その後、元治と父が、何を話したのかは知らない。


 だが、父が家に帰るなり、殴られた。翌日、学校へは結婚を理由に退学届けが出される事になる。


『誰が何を言っても、お前が青木の家に嫁ぐことは曲げられん』


 晩夏の昼下がり、セミのなく声が急に止んだ。まるで、なにかの宣告のように、父の声は冷たく、座敷の部屋に響いた。


『わかったな』


 念を押した父の言葉に、茜は頷くことしか出来なかった。



 それは、茜が祝言をあげる一週間前の事だった。夕飯の支度の最中、茜宛に来た手紙を、母がこっそり渡してくれた。差出人は従姉の名前になっていたが、字が違った。男の字だった。


 元治さんだ、瞬時に悟って、薪を取りに行くふりをして、居間から死角になった台所の隅で、開封して読んだ。母が目線でそうしろと言ったからだ。



『出征が決まりました。十五日に発ちます。その日、あの神社で九時に待ってます』




 短い文だったが、押印が押していないところを見ると、直接ほかの郵便物と一緒に紛れさせて届けてくれたのだろう。

 十五日は、茜が嫁ぐ前日だった。父が出かけたあと、茜は母に頼み込んだ。

『お願い、最後に1度だけ会いたいの』

 母は難しい顔をしてしばらく黙った。だが何を言っても食い下がることをしない茜に、最後は根負けした。


『その日は平日だしね、九時なら、何とか大丈夫でしょう』


『お母さん…』


『その代わり、嫁入り先は変えられないからね。お別れのために許すだけだからね』


『ありがとう』


 涙を流して頭を下げると、母は、水仕事でひんやりした手で手ぬぐいを渡してくれた。髪をそっと撫でられる。


『母さんにも、ここに嫁ぐ前に好きな人がいたのよ?』

 顔を上げると、母は微笑んでいた。その目は、遠い昔をなつかしむように、茜に自分を重ねているように見えた。


『ええ?』


『お別れくらい、いいたいものね』


 茜は、また込み上げてきたものを堪えながら、頷いた。


 母は配給を取りに行くついでに、元治の所へ、返事の手紙を届けてくれた。

 そして嫁ぐ前日の朝だった。


『元治、出征なんだってなぁ』


 父の言葉にその場が凍りついた。

 祖母や祖父も何も言えずに聞こえないふりをしていた。


『今日、実家の方へ戻って、明後日が出征らしい。……わかってると思うが、うちからは誰も見送りに行くことは許さん。明日は茜の祝言の日だ、いいな』


 母は緊張の面持ちで、父が仕事に出かけるのを見送った。


 八時四十五分。母が茜に背を向けた。それが合図だった。


 茜は裏口から山へと入った。少し遠回りになるが、そこから神社の裏手へ出られる。母が考えた案だった。


 元治のいる神社に着いて、ほっとした。だが境内にいたのは元治ではなく、父だった。


『言いつけを守らなかったな』


『お父さん…』


『ここには元治はいないぞ?もう、駅に向かった』


『どうして?』


 父に対する怒りなのか、悲しみなのか、身体が震えた。


 父は、茜の手紙をしまう箱も時々確認していたようなのだ。そうだ、父はそういう人だ。小さなほころびを許さない、そういう厳しい人だ。


 茜は涙を流した。駅へと向かおうと駆け出そうとした茜を、父は捕まえた。羽交い締めにされる。


『明日は祝言だからな、行かせるわけにいかんぞ?』


『元治さんに会わせて!最後でいいから、お別れだけ言わせて!』


 涙混じりに言ったその声は、響きもせず、神社の静寂に消えた。


『お前はもう、明日には嫁ぐんぞ?元治の事は忘れるんだ。覚悟を決めろ!』


 滲んだ視界の瞳で、見上げた父の目には、驚くことに涙が滲んでいるように見えた。怒りのせいで滲んだのかもしれない。だが、父が怒っているだけでは無いことに気がついた時、身体から力が抜けた。


 茜はその場に、力なく座り込んだ。


『お前には確実に幸せにしてやりたい。だから今あいつに会わせるわけにいかないんだ、分かってくれ』


 ああ、それも親の愛情っていうものなのかな?茜はそう思って、夏の名残の残る空を見上げた。


 ツクツクボウシが五月蝿く鳴いていた。


 空が、青くて。


 嗚咽が漏れた。上を向いた目から耳の方へ伝って涙が溢れた。


こんなに苦しいなら、初めから無かったことに出来ないのかな?


 そんなことは出来るはずもなくて、茜は未だに夏が終わる頃になると思い出すのだ。


 伝えられなかった想いを。

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