第2話 いつかのあの子

 父の実家である祖母達の住む家は、隣町にある。車で20分と少しの距離は、近すぎず遠すぎず、時々行き来するのにいい距離だと母はいつも言う。


 途中寄ったコンビニ。ドリンクコーナーの冷蔵庫で飲み物を選んでいると、後ろから肩を叩かれた。振り返った私はハッと息を飲んだ。白にブルーの入ったジャージ、日に焼けた短髪のその人に思わず目を見開く。


「中森、久々」


「室井先輩!」


 20cm上から見下ろされる笑顔に心拍と温度が急上昇する。よく焼けた額を出した短髪と、涼しい切れ長の目元。笑うと見える少しとがった犬歯。その笑顔は中学卒業前と変わらないように見えて、それでいて少し大人びた。室井先輩は、私より2つ上で、陸上部の先輩だ。同じ短距離選手で、男女混合の部活の為、退部まではメニューを一緒にこなすことも多く)仲良くしてもらっていた。それに、私が特別に好きな人だった。いま、自分がどんな服を着てるのか、前髪が乱れてないか気になって落ち着かなくなるのは必定である。


「何してんの?今日は部活午後から?」


「あ…いや…」


 私は、先輩から目を逸らして俯いた。


「中森、もしかして、陸上やめた?」


「や……辞めてないです!ちょっと、しばらく休んでますけど」


 語尾が弱く消えかかる。


「ふーん、まあ、お前は辞めないだろ?」


 え?と顔を上げると、室井はもう一度にっと笑った。


「お前走るの好きだろ?」


 私は目を見開いた。


「走ってる時、いい表情かおしてるもんな」


 言って、頭にぽんと手を乗せた。ふわっと先輩のジャージから柔軟剤のいい匂いがする。


「背も伸びたな」


 にひひ、と笑って頭をワシワシと撫でた。


「わっ!もう!子供扱いしないでくださいよっ」


 赤い顔をして先輩を軽く睨む。眉を下げて笑いつつ、わりぃ、と今度は髪をサッと撫でてくれる。


「そうだよな、もう今年受験生だもんな」


 とがらせていた口元が緩みそうになるのを堪える。


「辞めんなよ、陸上」


「辞めませんよっ」


 私が言うと先輩はまたふっと笑った。それにつられて私も笑う。私やっぱり室井先輩のことまだ好きなんだな、と熱くなる胸をギュッと押さえた。


「来年は総体とかで会えるかもな。辞めないの約束な、じゃあな」


 先輩は言うともう一度私の頭をぽんと軽く叩き、体の向きを変えて店を出ていった。ドアの前にいた同じジャージの男子生徒になにか話して笑っている。


 室井先輩は、歩き始める前にもう一度振り返って、こちらに手を振ると、私の隣に視線を移して軽く頭を下げた。そばにいつの間にか父が立っていて、笑顔で会釈を返している。


「あの子誰よ?」


 父がニヤニヤしながら聞く。


「去年卒業した先輩だよ、2つ上の。1番足が速かった人」


「ああ!県1位の記録出した子だ」


「そう」


 頬が緩んだ。自慢したくなる。自分の好きな人は凄いんだぞって。白に水色の入ったジャージはこの近くにある私立高校の陸上部のもので、県内では強豪校だ。


「星稜かぁ。私も入れるかな」


 ぽつりとこぼすと、父がパッと明るい顔をした。


「お?なんかやる気スイッチ入ったか?」


「そんなんじゃないよ!今日は、とりあえず片付けを頑張るの」


 顔が少し熱いことを自覚しつつ、軽く頬を膨らます。


「おう、頑張ろうな」


 先輩が触れた後の頭に、父がぽんと手を置いた。見上げると先程と同じくニヤッと笑う父。


「見てたな?」


「余計な虫がつかないか不安だったからな、父として」


 レジの順番が来て、父は支払いに進む。外の通りの先輩の歩いていった方を見るが、もう既に後ろ姿も見えなかった。


 *


 祖母の家は、祖母とその息子夫婦、つまり父の兄夫婦が三人で住んでいる。私が大好きだった曾祖母の茜ばあちゃんは二年前に他界した。九十四歳だった。

 私はその家が好きだった。手入れの行き届いた庭木が木陰を作り、小さな池がある苔むした庭。長い年月を経て黒光りした柱。


 そして小学校へ上がった頃、不思議な体験をしたことも心に残っていた。


(家を取り壊したら、あの子はどうなるんだろ)


 ふと、ある人物を思う。


 従姉のまどかの、嫁入りの時の事だ。もう七年前になるだろうか。式場までのバスが、家から出るまでの間、私は座敷のソファに座って待たされた。あやとりしたりしていたが、直ぐに飽きて、退屈で仕方なかった。何度目かのため息をついた時、ふと隣を見ると、そこに自分と同じ歳位の女の子が座っていた。

『だあれ?』

 ニコッと笑ったその女の子は、立ち上がり、縁側から庭へおりた。ゴムボールを手にすると、縁側にいた私にボールを投げて寄こした。私は遊び相手を得た事が嬉しくなり、

『待ってて!靴履いてくる!』

 二人は中庭で、ボールを投げあって、鞠突きして、遊んだ。

『名前は?』

『ハナ』

『私は梓!ここの親戚の子なの?』

『ちょっと用事で来てるだけ』

『そんなんだ。ハナちゃん、おままごとしない?裏の木に赤い実がなってたから取りに行こう?』

 私が言うと、ハナはうなづいた。先に庭から出たハナは、家の裏へと回り込んで、奥へと走っていく。

『待って!』

 私はハナを追いかけた。だが、その角を曲がった時、そこは隣の家との境目の空間に、雑草が生えているだけで、人の気配がなかった。

『ハナちゃん!?』

 何度も呼んだ。当たりを探したがどこにもハナはいなかった。ボール遊びしていた時に縁側を通りかかった伯母に、ハナを見ていないか?と訴えた。だが伯母は、さっきは梓一人で遊んでたでしょ?といって、準備に戻っていった。


 その後、式場へ向かうまで、辺りをずっと探していたけど、ハナにはとうとう会えなかった。


 結婚式の後、曾祖母にその話をしたら、ニコッと笑って言った。


『おかっぱ頭の、可愛い子じゃない?』


『そう!知ってるの?』


 ソファにゆったり座った曾祖母は話してくれた。昔からこの家を守ってくれている子供がいて、大変なことがあった時にそっと手助けしてくれるんだよ、と。


『おばあちゃんも会ったことある?』


 曾祖母の膝に腕を乗せて、期待の目で見上げた。曾祖母は私の頭を撫でながら目を細めた。


『ああ、あるよ』


『どこにいるの?』


『いたり、いなかったり』


『また会える?』


『きっと会えるよ』


『そっかあ』


 後に、それが座敷わらしと呼ばれる妖怪だと知った時も、怖くなかった。

 また会いたいな、という気持ちだけが心に残っていた。


 *


 父の実家は、なかなかに古い家で、何代か前にお寺が火事になるまでは、立派な家系図も残っていたという程の旧家である。


「よく来てくれたねぇ、登、悪いな」


「いいんだよ」


 伯父は父とは年が一回り違うが、とても仲がいい。


「梓ちゃん、お母さんにますます似てきたじゃないか」


「こんにちは」


 梓は、似てるか?と疑問に思いながら、頭をペコッと下げた。


「散らかってるけど、ちょっと休憩してから作業に入ろう。こっち来てお茶でも飲んで?」


 居間の横にある土間に、休憩用のテーブルが置かれていた。椅子の代わりにお酒のコンテナか置いてある。そのひとつに腰掛けると、そばの小窓から外の庭を見た。小鳥がやってきて、木々の枝を時折揺らす。


「梓ちゃん、よく来てくれたねぇ」


 そこに、おばさんがお茶とジュースをお盆に乗せて持ってきてくれたので、梓はもう一度よそ行きの顔を作って、こんにちは、と挨拶する。


「庭が気になるの?」


「久しぶりにこのお家に来たから…」


「そうだね、小さい時はしょっちゅう遊びに来てくれて。今日はお手伝いありがとうね。頼りにしてるよ」


 おばさんが梓の肩をそっと撫でた。このおばさんは、昔から梓を可愛がってくれた。


 曾祖母がまだ生きていた頃は、素敵な布地を都会の方で買ってきては、裁断して、曾祖母がミシンで縫い、梓のスカートやジャンパースカートを仕立てては、贈ってくれた。梓も大好きなおばさんだ。


「おい、ちょっと来てくれる?」


 おじさんがおばさんを呼んだので、おばさんは、しばらくゆっくりしててね、と奥へ下がって行った。


「…めだよ、…ってないんだから…をつけて」


 かすかに聞こえてくるおじさんの声から、父がおじさんには、梓の不登校のことを話してあることに気がつく。

 梓は耳が聰い。普通は聞こえないレベルの音が聞こえる。内臓が動く音だとか、ずっと向こうの町内の放送だとか。…他愛ない友達の小さな悪口とか。


 梓はマスクをして、バンダナで髪を覆うと、おばさんと一緒にいらないものをゴミ袋にまとめていく作業をした。

 今日は古いピアノを、昨日は和ダンスの着物を、買いとりに業者が来たのだとか。


「後、このつづらだけ蔵へ持っていくから、梓ちゃんもこれを持ってついてきてね」


 叔母の後ろについて、蔵へ入った。


「やだ、ゴミ袋忘れちゃった」


 梓に、待っててね、と言っておばさんは家の方へ小走りに戻って行った。

 蔵の中は春先だと言うのに、まだ冬なのかと思うほどひんやりとしていた。


 蔵の中には昔の道具や、法事などに使う食器なんかがきちんと整理されて積まれていた。


 その奥に、見慣れたもの見つけて、梓はその前に立つと、上に被っていた布をそっと外してみた。

 それは、足踏み式の古いミシンだった。

 亡くなった曾祖母が、使っていたミシンだ。梓は、その隣に置いてあった椅子を引き寄せて、右手側にある歯車を、上下に動かしてみた。針も刺さったままになっていて、糸まで通してあった。

 ミシン台の、左の手前にある、小さな引き出しを開けると、見覚えのある布が出てきた。梓が、昔履いていたスカートの、あまり布だった。梓は、そっと後ろをふりかえって、まだおばさんが帰ってこないことを確かめると、留め具を上げて、その布を押さえに挟んだ。祖母が、生前やっていたように、歯車を回してペダルをふむと、タカタカタカと音を立てて、数針ほど布が縫えた。だが、上手く続かなくて止まる、を、繰り返した。

「下手くそだなぁ」

 後ろから急に声をかけられて、梓はビクッと飛び上がった。


「え!?」


「ちょっとどいて、教えてあげるから」


 梓は、低学年くらいの女の子に言われて、訳が分からないまま、椅子から立ち上がった。女の子はその椅子に腰かけると、器用に歯車を回してペダルを踏み始めた。


「うわ、上手!」


「梓はペダルをふむタイミングがちょっと遅いのかな?」


「なんで私の名前知ってるの?」


「やだなぁ、前に遊んだじゃない?」


 振り返ったおカッパ髪の女の子はキュッとした目尻の可愛い女の子で、その顔には見覚えがあった。


「あ!あの時ボール遊びした!」


「思い出した?」


 女の子はニコッと笑った。あのころ遊んだ年頃の大きさ背丈のままの女の子に、やはり座敷わらしなんだな、と思った。口にしなかったのは、そうしたら最後、この子がまた姿を消してしまいそうだと思ったのだ。


「ねえ、名前が思い出せないんだけど…」


「ハナだよ」


「そうだ!ハナちゃんだ!」


「おばさん、向こうに用事出来たみたいだから、ミシン教えてあげようか?」


「ほんとに?」


 コツはね、と歯車を回す時の手やペダルをふむタイミングなどを教えてくれた。


「じゃあ、踏んでみて?」


 ハナと椅子を代わって、ミシンのペダルを前後にリズム良く踏むと、今度は上手く縫えた。


「凄い!うまいよ」


「えへへ」


 梓は嬉しくなった。布の端まで縫って、針が布を越した時だった。上糸を通した針が、下糸だけを拾う。上下の糸が絡まりあったところが、不意に光り始めた。光はたちまち強さを増していく。


「なにこれ……眩し……!」


 眩しさに耐えられずに目をぎゅっと閉じる。その眼裏すら明るく白みがかっている。


 辺りが白い光に包まれた。

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