たったふたりの部活動に、筆談を添えて。

「いままで見ていた景色が、それまでと違って見える。小説の魅力って、色々あると思うんだけど、私は小説のそういうところに惹かれたのかもしれない」


 文芸部に僕が入ったばかりの頃、葉瑠がそう言ったことがある。言葉の内容それ自体よりも、楽しそうに話す彼女の表情のほうが記憶に残っている。


 高校の図書室にはじめて入ったのも、文芸部の一員になってからのことだった。一員、という言葉に僕自身が違和感を抱いてしまうのは、部員が三人しかいなくて、その中でもうひとりの部員の傘原が、幽霊部員を公言していたからだ。だからこの文芸部には、僕と葉瑠のふたりしかいなくて、目的とするコンテストみたいなものがあるわけでもなかったので、僕たちの趣味の延長線上みたいなものだった。


 一週間に二冊の本を読んで、感想を言い合う。あるいはその作品をきっかけに、小説に関する雑談をする。活動内容はそれに尽きる。他の学校の文芸部では、実際に小説を書いて、部員たちを前に発表するみたいなこともしているらしいのだけれど、僕たちはそんなこともしなかった。お互いに、読むほうに興味のベクトルが向いていて、書くほうにはあまり気持ちが向かなかったのだ。


 活動をはじめたのは、一年生の冬頃だった。

 僕はその日の放課後、図書室にいて、〈自由図書〉を選んでいた。

 僕たちの間で取り決めたルールとして、一週間に読む二冊の本のうち、片方は自分で読みたい本を選び、もうひとつはふたりで話し合って選ぶ。それを僕たちは読書感想文のコンクールのように、〈課題図書〉と〈自由図書〉と呼んでいた。


〈課題図書〉が、スティーヴン・キングの『キャリー』だった時の週だ。小説を読むうちに、僕はミステリやSF、ホラーといったジャンルが好きだ、と気付き、それを知った彼女が、〈課題図書〉は僕に合わせてくれていたところがある。


 超能力、いじめ、血塗られた光景……、『キャリー』は中々にヘビーな小説だったこともあり、比較的、穏やかな作品を選ぼう、と思って、僕は新たに読む本を探していた。


「何に、するの?」

 書架におさめられた本の背表紙を眺めていると、背後から声がして、驚いて振り返ると、そこに葉瑠が立っていた。


「……びっくりした」

「ごめん、ごめん。何を選んでいるのか、気になって」

「というか、葉瑠。きょうは傘原と用事がある、って言ってなかった?」


 同じ部活に所属することになった時、葉瑠に下の名前で読んで欲しい、と言われた。文芸部の慣習として、下の名前で呼び合う、というものがあったらしい。その言葉に、ふと亜美の顔が浮かんだ。亜美も似たようなことを言っていた。僕たちふたりだけしかいないのだから、そこまで踏襲する必要ないのに、というのが、僕の本音だ。葉瑠も、僕のことを下の名前で呼ぼうとしたのだけど、それはなくなった。まだ、そういう関係ではないし、純粋に恥ずかしかったからだ。この片方が名前で呼ぶ感じも、亜美の時と同じだな、と思って、僕はちいさな罪悪感を抱いた。いまを、まるで過去の恋と重ねているような気がして。


「そう、〈ラ・テリア〉の期間限定メニューが食べたい、って約束してたんだけど」葉瑠の言葉の、歯切れが悪くなった。「急に、予定が入った、って」

〈ラ・テリア〉は岐阜市内にある地元チェーンのコーヒーショップで、その時期に一ヶ月間限定のケーキが販売されていたそうだ。


 傘原とは、一応同じ部員になってから、何度か話している。最初の頃は、明らかに僕に対して好感を持っていなくて、その理由を聞いたのは、関わり合うようになって、だいぶ経ってからだ。僕と葉瑠が付き合っていると勘違いしていて、そのことをあまりこころよく思っていなかったから、らしい。


 私、もし男に生まれてたら、葉瑠と結婚したかった。そのくらい、好きだったから。

 そう傘原は言っていた。だから、悪い虫、だった僕に信用が置けなかったみたいだ。


「ドタキャン?」

「まぁ、そうだね。未希ちゃん、好きな男の子がいるんだけど、私との約束破って、そっち、優先したんだ」葉瑠がちいさくほおを膨らませる。「ひどいと思わない?」

「それは、ひどいね」

「言葉に感情が、ひとつもこもってないよ」

「いや、あんまり残念そうじゃなかったから」

「実は、あんまり甘い物、好きじゃないんだ。行きたくなかったわけじゃないけど、別に無理して何がなんでもいきたい、って気持ちじゃなかったから。……それで、どんな小説を、今回は選ぶ気?」

「うーん、まだ決めてないけど……。でも、ほら、今回の『キャリー』が結構暗い感じの話だから、そうじゃないのにしたいかな」

「じゃあ、恋愛小説にしてみる? 私は、これとか、好きだよ」


 葉瑠が棚から抜き出した一冊の文庫本は、川上弘美の『センセイの鞄』だった。


「恋愛小説、かぁ……。どうなんだろう……、いままでまったく読んでこなかったジャンルだから」

「だったら、今回は敢えて、選んでみたら」


 言葉を重ねるようになるけれど、僕たちの活動は趣味の延長線上にある、というか、ほとんど趣味みたいなもので、教育の一環でもなんでもない。だから読む本を決める時なんて、いつもこんなような感じだ。


「じゃあ、そうしようかな……、いやでも、恋愛小説かぁ」

「嫌?」

「読まず嫌いは良くない、とは思うけどね」

「いいじゃない。恋愛、恋愛」


 やけに恋愛小説を推してくる葉瑠は、どこかいつもと違う感じがした。僕たちは図書室の四人掛けの対面式の机に、隣り合って座る。机の前に、先ほど葉瑠に薦められた『センセイの鞄』の文庫本を置く。


「で、何かあった?」

「何か、って?」

「いや、やけに、恋愛、を強調するなぁ、って思って」

「気付いてた?」


 うちの高校の図書室は、おそらく他の高校に比べてちいさく、あまり利用者も多くない。運動部に力を入れているから、そのぶんのしわ寄せがこういう部分に来ているのではないか、と僕は勝手に思っているのだけれど、実際のところはどうか分からない。ただ蔵書が充実しているとはお世辞にも言えない。その代わり図書室に蔵書する本を選定したひとは、自由奔放に決めたのか、どこの図書室に置いてありそうなものがなくて、反対にどこの図書室にもなさそうなものがあった。


 葉瑠は何かを言おうとして、だけどちらり、とすこし離れた机で勉強している生徒に目を向けた。


「ひとに聞かれたくない話?」

「聞かれてもいいけど……」

 その言いよどみは、どう考えても、周りに聞かれたくないひとのものだった。


 かばんから大学ノートを取り出して、一枚、破り取ることにした。葉瑠が、僕の行動を不思議そうに眺めている。紙の上に、シャープペンで、僕は文字を綴る。ちょっと崩れた字は、よく読みにくい、と言われる。ただできる限り、丁寧な文字を心掛けた。


『じゃあさ、筆談で話そうか?』

 その言葉を読んだ葉瑠が、笑った。


『分かった。いいよ。ある男子から、告白された、とかじゃないんだけど、ちょっと興味がある、みたいなこと言われたんだ』

 ちりり、とした胸の痛みには気付かないふりをする。

『ちょっと興味がある、ってなんか嫌味な言い方だね』

 葉瑠が苦笑いを浮かべる。


『私がいま勝手に言い回しを変えただけで、実際の言葉はもっと違うものだよ』

『ちなみに、誰か聞いても?』


 誰の、言と隹が離れて、まるで別の文字のように見える。そんなどうでもいいことをわざわざ考えてしまうのは、不安のせいだろうか。彼女は誰の名前を書くのだろう、という。


『結城くんと同じクラスの、城阪くん。仲、良い?』

 城阪と聞いて、僕は以前の彼との会話を思い出していた。言葉を綴る指先は、かすかに震えている。気付かないでくれ、と願っていた。


『仲、どうだろう。悪くはないよ。嫌いじゃない。だけど城阪は誰とも仲が良いから、特別な友達、って関係じゃないかな。葉瑠が話しているところなんて見たことないけど』

『うん。私も、前に何かで一言、二言話したくらいで、ほとんど話したことはなかったよ。だからすごくびっくりした。どう思う?』

『どう思う、って?』

『私が、城阪くんと付き合ったら、あなたは、どう思う?』

『葉瑠が付き合いたいなら、僕の気持ちは関係ないだろ。応援するよ』


 応援するよ。その言葉は本心を隠すように、やけに丁寧な文字になった。

 葉瑠の僕を見る眼差しは、どこか寂し気に感じられた。気のせいだろうか。


『そっか。まぁ城阪くん、イケメンだからね』

 そう書くと、彼女は立ち上がった。


「この話は、ここまで。じゃあ私、行くね。ゆっくりとその本でも読んで、また感想聞かせてね」

 僕はこの時の葉瑠の感情をよく分かっていなかった。……いや、いまになって客観的に考えてみれば、たぶん僕は、分からないふりをしていたのだ。その自覚もなく、ほとんど無意識に。


 葉瑠は手を差し出していた。僕が手を伸ばさなかっただけで。


 それから数日経って、放課後、家に帰ろうとしていた僕を呼び止めて、城阪が、

「一緒に帰らないか? きょう練習、休みなんだ」

 と言った。


 先日の葉瑠との会話があったから、その件だ、ということは予想がついた。だけど彼からどんな言葉が飛び出すか分からなくて、みょうにどきどきしたのを覚えている。


 僕の隣で、城阪は自転車を引きながら歩く。

 一緒に帰る、と言っても、彼は自転車通学だったから、駅までだ。それほどの距離ではない。勾配のゆるやかな下り坂で、冬だからか、もう夕暮れの陽が辺りを染めていた。


「なぁ、最近、永瀬と話した?」

「まぁ、同じ部活だし」

「なんで、同じ部に入ったんだ? やっぱり――」

「部の存続の危機だから、って誘われたんだ」

 先を制するように、僕は言った。


「でも、誘う相手として、真っ先に選んだのが、結城だったわけだ」

「小学校から知ってる関係だったし、誘いやすかったんじゃないかな」

「まぁ、そうなんだろうな……」

 その言葉は僕に、というよりは、虚空に向けてつぶやくような感じだった。そして城阪には似合わない、嫌な言い方だった。


 強く吹く寒風が、道路の両脇に生える木々の、枝葉を揺らしている。


「変な関係じゃないよ。疑うような。彼女とは」

 僕の言葉は、どこか言い訳のようにも、僕自身、感じていた。


「この間、彼女と話してみたんだ。友達から、って言われた。これって、期待したほうがいいのかな。それとも駄目だって、諦めたほうがいいのかな?」

「それは、僕には分からない」

「そう、だよな」

 話しているうちに、駅につき、僕たちは別れた。その直前、彼は何かを言いかけて、やめた。


「実は、俺、もっと……あ、いや、なんでもない、と」

 葉瑠のことになると、彼は、いつもの彼らしくなくなった。それが、恋、なのかもしれないし、もしかしたら僕も、普段の僕ではなかったのかもしれない。


 夜の景色に消えていく彼の背中に、僕は悲しみを見ていた。理由は分からない。

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