チェス盤を挟んで、交わした言葉は。

「ねぇ、結城くん、って、亜美と付き合ってるの?」

「どういうこと?」

「いや言葉通りの意味だけど、で、どうなの?」


 そう聞いてきたのは、清水さん、だった。チェスがしたい、という理由で、いきなりチェス同好会に入ってきた友人の姿を見ながら、清水さんは僕との関係をずっと疑っていたみたいだ。確かにチェスのルールも知らず、それまで興味の欠片もなかったひとが、唐突にチェスをやりたい、と同好会に入ろうとしてきたら、何かチェス以外に特別な理由があるのでは、と考えるのは、自然なことかもしれない。


 亜美がチェス同好会に入ってから、十ヶ月近い月日が流れていて、亜美のチェスの実力は僕とそんなに変わらないようになっていた。最初の頃は、騎士ナイトの動きに納得いかなかったのか、なんで騎士の癖に、まっすぐ進めないんだ、と文句を言っていたくらいなのに。


「いや、そういうんじゃないよ……」

「またまた。いいよ、隠さなくて」

「隠してるわけじゃなくて、事実なんだけど」

「えぇ」と、清水さんは明らかに、納得していない、という表情を浮かべていた。「言っていることが、ふたりで違ってるよ」

「何のこと?」

「亜美に聞いたら、はっきりと言ってたよ。付き合ってる、って」


 誤解がないように言っておくけれど、この時点で、僕が亜美と付き合っている意識はなかったし、清水さんの言葉には、本当に驚いていた。確かにその頃の僕と亜美は、よく一緒に行動することが多かったし、清水さん以外にも、僕たちの関係が疑われているのは、察していた。だけどどちらかが相手に告白をして、僕たちが明確に恋人の形になった、という事実はない。


 清水さんのそれ以降の言葉は、まったく頭に入ってこなかった。


「どうしたの、そんな難しい顔して」

「亜美、清水さんから聞いたんだけど……」

 僕は彼女のことを、出会ってすこし経った頃から、下の名前で呼んでいた。それが周りの勘違いに拍車をかけていた、ということは、たぶんない、と思う。彼女は男女関係なく、将棋部全員に、亜美って呼んで、と言っていたからだ。バレー部では全員下の名前で呼び合うらしく、部活動での人間関係はそういうもの、という固定観念が、亜美にはあったようだ。最初は、気恥ずかしくて、あえて名前を呼ばないようにしていたのだけれど、まぁそれなりに時間が経つ、と慣れてしまうものだ。


「真希がどうしたの?」

 三年になると、僕たちは同じクラスになり、部活動以外でも、一緒にいる時間は自然と増えた。その日、亜美の所属するバレー部は休みで、ふたりで和室へと向かっていた。途中の廊下で、僕は聞くことにした。ちょうど誰の姿もなかったからだ。


「……あぁ、えっと」


 僕たち、付き合ってるの……?


 聞こうとして、自分は何を聞こうとしてるんだ、と強烈に羞恥心が襲ってきたのを覚えている。


「もしかして、付き合っているとか、付き合っていないとか、そんな話?」

 僕の内心を察したのか、ちいさく亜美が笑った。


「清水さんが言ってたんだ。亜美と僕が付き合ってる、って」

「ちなみに、結城はどう思ってるの?」

 亜美も、最初の頃、よく僕を下の名前で呼んでいたが、それがどうにも馴染めず、名字呼びにして欲しい、とお願いしたのだ。えぇ、と不満そうだったけれど、それ以降は、ずっと僕を、結城、と呼んでいる。


「だって、違う、だろ」

「私のこと、嫌い?」

「そんなことはないけど……」

「私も別に、結城のこと嫌いじゃないし。お互いが相手を憎からず思っていて、よく一緒にいるのなら、正式な言葉がなくても、それは恋人同士でいいんじゃないかな」


 そんな彼女の気軽な口調とともに、僕たちは恋人関係になった。


 ただ、いまになって考えるなら、気軽さを装っていただけなのかもしれない。そんなふうに考えてしまうこともある。僕たちの出会い自体があんな歪なものだったから、どこかためらいもあり、はっきりした言葉にすることを嫌った。当時の彼女の本心を知っているのは彼女自身だけで、いまの僕にはもう、想像することしかできないのだが。


 別に僕たちが恋人になったことを言い回ることもなく、たまにふたりでどこかに出掛けたり、と学校の外で会うことは多少増えたが、学校内での僕たちはあまり変わらないままだった。


 一度、ふたりで本屋に行ったことがある。商店街にある、いかにもちいさな町の、というたたずまいの本屋だ。


 亜美が当時読んでいた恋愛漫画の新刊を購入して、その帰る途中だった。タイトルさえも僕は聞いたことがなかったのだけれど、あの文芸書中心の、田舎町の寂れた本屋に置かれていたくらいだから、かなり人気の漫画だったのだ、とは思う。帰路を歩く道すがら、僕は亜美から、漫画の内容について教えてもらっていた。


 初恋と三角関係をめぐる、高校生たちの物語で、主人公の男の子と女の子は小学校からの知り合いで、お互いに初恋の相手。そんな内容だそうだ。


「初恋の相手と高校で、再会するんだけど、そのふたりを邪魔するように、恋敵の男の子がいるんだ。こう……なんて言うのかな、恋敵が分かりやすい悪人だったら、こっちも素直に応援できるんだけど、これがまた良いやつ、なんだ。……でも、初恋のひとと高校で再会って、夢があって良いよね」

「そうだね……」


 歩道橋のちょうど中間あたりに来たところで、亜美が立ち止まった。周りに僕たち以外は誰もいない。事故防止用の防護柵に手を置いて、僕を見る。


 彼女が、ひとつちいさく、息を吐く。


「ねぇ、私といて、楽しい?」

「楽しいよ」


 最近これだけ一緒にいるのに、なんでいまさら、と思った。


「そっか……。いや、ごめん、いまの忘れて」そして彼女が話を切り替えるように、言った。「そう言えば、結城は初恋のひと、っているの?」

「えっ」


 僕は、すぐに答えられるはずだった。亜美だよ、と。

 恋心、というものを、僕はそれまで明確に意識したことがなかったわけだから。だけど僕は言葉に詰まってしまった。彼女の背後に、僕は幻を見てしまったのだ。もちろんいまみたいな幽霊になっているとか、そんな話ではなく、本当にただの想像上の葉瑠が、僕の視線の先にいて、そしてすぐに消えてしまった。


「その反応は、私じゃない、ってことだ」

「あ、いや」

「ううん。ごめん。怒っているわけじゃないんだ。ただ、ちょっと、そうだったらいいなぁ、って思ってね。私だって、そもそも初恋は全然違うひとなのに、ね。本当に都合のいい話だ」


 僕が葉瑠の幻を見たように、亜美も僕の背後に誰かを見ていたりしたのだろうか。彼女は自分自身を、都合のいい、と評したけれど、同じく僕も都合のいい人間だ、と思った。僕だって葉瑠を思い浮かべながら、亜美が別の誰かについて考えている可能性を想像して、嫉妬のような感情を抱いているのだから。


 たとえば、今村だったら嫌だな、とかそんなふうに。

 失恋によって亜美が深く傷ついたあの一件が終わって二、三ヶ月経った頃に、亜美が今村と仲直りしたことを知っている。亜美から直接聞いたわけじゃない。たぶん亜美は、僕とその話題になることを避けていたのだ、と思う。クラスメートの男子が、言っていたのだ。


 今村と日下って付き合ってるのかなぁ? この間、仲良さそうに話してたけど……。


 その時は半信半疑だったのだけれど、僕自身も別の場所で、ふたりが一緒にいるのを見たことがあった。本当に仲直りしたんだ、とびっくりした覚えがある。僕がまだ亜美と付き合う前の話だったので、ふたりの関係にとやかく言うことはできない、と思いながらも、あんなひどい仕打ちをした今村に、ともやもやとした感情を抱いていたのも、事実だ。


「そんなことないよ。たぶん、初恋は亜美だよ。ちいさい頃の感情、って曖昧だから、ちょっと悩んだだけで」

「そっか……。嬉しい」

 その言葉はあまり嬉しそうではなかった。


 亜美が僕の言葉を、どう解釈したのかは分からない。僕が言ったのは事実だ。嘘をついたわけではない。なのに、僕自身が、自分の言葉を信用できなくなっていた。一度浮かんでしまうと、葉瑠の顔が、頭から離れなくなってしまった。忘れていたわけではない。だけど記憶から薄れつつあった、今後会うことがあるかどうかも分からない相手のことが、気になって気になって仕方なくなってしまう。


 どこかにしっかりと線を引けるほど、明らかなものではない。だけど僕たちの間に、距離ができるきっかけとなったのは、たぶんこの日だ。


 そして亜美のバレー部の引退や、僕たちの高校受験のこと、状況の変化も重なり、距離は、ゆるやかに、確かに開いていった。


「ねぇ、チェスしようよ。勝ったほうが、負けたほうの言うことを聞く。賭けチェス」

 もうすぐ卒業、という時期になって、僕は受験勉強のために、学校に残っていた時だ。亜美が、僕にそんなことを言った。


 その教室は残って勉強をしたい学生たちのための自習室として学校が用意してくれている場所で、普段から多くの生徒が使っているわけではないけれど、それでも僕ひとりだけしかいない、という状況はめずらしかった。


 あまり集中できず、数学の参考書を眺めていた僕は肩を叩かれ、驚いて振り返ると、そこに亜美が立っていたのだ。


「……びっくりした」

「やっぱり、ここにいたんだ。最近よく、ここにいるよね」

「家じゃ、どうも集中できなくて」


 言いながら、内心では、別にここにいても全然集中できていなかったけど……、とつぶやいていた。ただ勉強している中で、家族の声が耳に入ると、より内容が頭に入ってこない、というのは、あったように思う。思春期だったから、で済ませてしまうのは、あまりに雑な感じがしなくもないけれど、ちいさなことで家族に対していらいらしてしまう時期だったのだ。


「ふぅん。高校受験、だもんね、もうすぐ。どこの高校を受けるか決めた?」

 彼女は、まるで自分は違う、という他人事みたいな口振りだった。実際、亜美はそこまで受験に対してナーバスにはなっていなかったはずだ。


 亜美はもうどこの高校を受験するか決めていて、その学校は亜美の成績からすれば、絶対、と付けていいほど、落ちようのない場所だった。なんでそこにしたのか、と聞くと、バレー部の憧れの先輩がいる学校で、また一緒にやりたいから、だそうだ。交通の便もよく通いやすいのも、決めた理由のひとつだ、とも言っていた。


「いや、全然。特に行きたい学校とか、ないから」

「私と同じところでいいんじゃない?」

「もちろんそれもひとつの選択肢だけど……」

「まぁ特別な理由がないなら、もっと上の進学校目指したほうがいい、と思うけど、ね。ねぇ、ちょっと息抜きがてら、私と――」そして、亜美はさっきの言葉を僕に言ったのだ。「チェス、しようよ。勝ったほうが、負けたほうの言うことを聞く。賭けチェス。とてもとても健全な、賭け事」


 僕と机を挟んで、対面するように彼女が座る。

 チェスの盤を置き、僕たちは黒と白に色を成した駒を並べていく。なんか白と黒、っていうのがいいよね。はじめて盤上に並ぶ駒を見た彼女は、そう言って、笑っていた。白黒、勝負を付けましょう、って感じで。そんなふうに、続けて。


 駒を並べる彼女の目に、僕は決意の色を見た。ただ何の決意だったのか、その時点ではまだ、分からずにいた。

 でも……、

 亜美とチェスをするのはこれで最後になるんだろうな、という予感だけはすでにあった。


「ビショップ、ナイト、ポーン、クイーン……、最初は名前も覚えられなかったのに、いまになるともう、忘れるほうが難しくなってる。それまで日常になかったものが日常になる、って不思議だね。あることがもう、当たり前になってる」


 対局がはじまった。

 僕と亜美は互いに駒を動かしていく。

 彼女の実力はもう僕とあまり変わらないが、それでもまだすこしだけ僕のほうが上だった。


「ねぇ、変なこと聞いていい?」

「精神攻撃?」

「負けたくないからね。まぁ別に答えたくなかったら、答えなくていいよ」

「そっか。で、何?」

「好きな子、いる?」

「それ、彼氏に聞く質問?」


 僕のナイトが、ルークを刺したものの、すぐに彼女にクイーンに取られてしまった。優勢なのは僕だけれど、いつでもひっくり返されそうな雰囲気がある。


「彼氏が相手だからこそ、聞く質問」

「いるよ」

「私?」

「うん」

「たぶん、それは嘘だ、と思う。……ううん。ごめん。言い方が悪かったかもしれない。嘘、じゃないね。結城は間違いなく、私のこと、好きだ、と思う。彼女なんだから、このくらいのうぬぼれは許して、ね。でも、違うんだ。そういうことじゃない」


 彼女のクイーンが盤上を駆け回り、いつしか僕のキングを追い詰めている。


「違う?」

「あなたは、たぶん私の先に、別の誰かを見ている」

「誰か……、そんなの、いないよ」

 この言葉が嘘なのか真実なのか、自分でもよく分からなかった。


「私は、それが誰なのか、まったく分からない。もしかしたら私の勝手な想像に過ぎなくて、全然そんなひといないのかもしれない。でも一度気になると、もう駄目だった。怖くて、不安になって、あなたの前で素直に笑えなくなった」

「それは、気のせいだよ」

 力強い声が出ることを願いながら、僕の口から出た言葉はとても弱々しかった。その間も、対局は止まることなく、進んでいく。

「うん。そう、かもしれない」


「……負け、だね。僕の」


 盤上では、キングが、クイーンとナイトに挟まれ、僕と同じように逃げ場所をうしなっていた。


「じゃあ、私の願い事、言うね。嫌だったら、断ってね。本当に」

「分かった」


 ほおをつたっていく、その一雫の涙を見たのは、はじめて言葉を交わした、あの時以来だ。

 僕たちは正式な言葉とともに恋人同士になったわけではない。だから終わる時が来るとしたら、自然に消滅するような形になるんじゃないか、と心のどこかで思っていた。でもこんなはじまりだったからこそ、彼女はそんな終わりをよしとしなかったのかもしれない。


「私と、別れてください」

 と亜美が言って、僕たちの短い恋人関係は終わりを告げた。

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