閑話 別れ

三人称視点


 女王就任の儀式がつつがなく終わり、ヘルヘイムが誕生した。

 この為に集められた各地の勇者もお役御免となり、ヘルヘイムを離れ、故郷へと戻っていく者とそれを惜しむ者の姿があちこちで見かけられた。


 『名も無き島』から、やって来た小さな勇者レオニードは泉の儀式にも同行した功労者であり、まだ子供といってもいい年齢だったこともあり、その帰国は先延ばしにされていた。

 しかし、本当の理由は実は違っていた。


 女王ヘルが彼との別れを頑なに拒んだからである。

 彼女は人々が思い描く、理想的なを演じていた。

 たまに城を抜け出して、少々の悪戯をする程度。

 概ね、我儘を言わない美しい姫君が初めて見せた我儘だったとも言える。


 しかし、アグネスの説得と生来の気質もあいまって、ヘルは譲歩した。

 最後の晩に共に夜を過ごすことを条件に別れを選んだのだ。


「広い部屋で一人で寝るのは嫌だよね」

「うん……」


 明るい笑顔を見せるレオニードにヘルの心の堤防は決壊しそうだった。


「あれ? 大丈夫?」

「うううう゛」


 今にも泣きだしそうな顔のヘルを心配するレオニードについに決壊した。


「大丈夫だよ」


 大きなベッドの上でただ、抱き締め合っているだけ。

 それだけで何もない。

 二人ともまだ、愛が何かと分かっていなかった。


 レオニードはヘルの止めどもなく溢れる涙を指で拭って、優しく頭を撫でるだけだ。


「大丈夫だから」


 ヘルは結局、一晩中泣き明かした。

 朝目覚め、開口一番に「何、これぇ!?」とヘルは愕然とする。

 泣きはらしたせいで瞼が腫れて、とても好きな人に見せられる顔ではない。

 顔を隠しながら、寝室から逃げ出したヘルにレオニードは寝ぼけまなこを擦るしかなかった。

 彼女に付き合ったレオニードも寝る訳にはいかず、寝不足になったのは言うまでもないだろう。




 レオニードが出立する時が来た。

 素直で言うことをよく聞くだけではなく、乾いた大地が水を良く吸うように呑み込みのいいレオニードはヘルヘイムの人々に愛された。

 一目でも小さな勇者の姿を見送ろうとうする者の数は多かったが、レオニードはもっとも見たかった人をその中に見つけることが出来なかった。


「どうしたんだろう。リーナがいないや。嫌われちゃったのかな」


 寂しそうに呟き、転移門へと向かうレオニードは知らなかった。

 群衆から、離れたところにフードを目深に被った小さな影があったことに……。


 腫れた目許を隠してはいたが、やや吊り目気味の猫を思わせる目にルビーの輝きを放つ瞳は紛れもなく、ヘルその人だった。


「待っててね。絶対、行くから……。でも、その前にまずはヘイムダルをとっちめないといけませんわ。それから、叔父様ヘルモーズもだわ」


 そう呟くとヘルは口角を僅かに上げ、酷薄な笑みを浮かべ、その姿を消した。

 ヘイムダルは後にこう語る。


「恋に狂った女は怖いんだぜ」


 彼の顔には獣に引っかかれた引っ搔き傷の痕が薄っすらと残っていたという。


「女は怖いな……」


 伝令の神ヘルモーズもそう語ったと言う。

 彼の顔にも薄っすらと残る引っ掻き傷があったことはわざわざ、触れることではないだろう。


 ただ、はっきりとしているのはその後、女王として君臨していたヘルの姿がヘルヘイムで見られなくなったということだけだ。


「あぁ。あたしも大概にお人好しよね」

「お人好しなら、ちゃんと仕事をするのだわ」


 ヘルの居城ドルンブルグにヘルの代わりとでも言うように二人の女神の姿があった。

 一人は金色の髪を気怠そうに指で弄びながら、黄金の林檎を片手に持ち、呆けているイズン。

 もう一人は黒のショートボブに金色の瞳が輝く猫目の少女だった。

 頭の上にはたまに軽妙な動きを見せる猫に似た耳が付いている。


「バステトちゃんがやっておいてよ」

「ずるはいけないんだわ。やるんだわ。ほら、やるんだわ」

「ちょっ!? やめれぇ」


 書類棚にかけていたハタキをわざとらしく、イズンの頭にもかけるバステトの地味にして、効果的な嫌がらせにさすがのイズンも音を上げるのだった。


 ヘルヘイムは今日も騒がしい。

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