閑話 ヘルちゃんと番犬
ニブルヘイムには不思議な森がある。
針葉樹林が生い茂り、昼なお暗き森。
入った者を暗鬱にさせるだけでなく、永遠に森の中を彷徨わせるという伝説の残る『暗黒の森』。
そして、幹がまるで鉄を思わせるくすんだ銀に染まった奇妙な樹木が茂る森。
それが今回の物語の舞台となる『
この森の特殊な点は生まれ育ったものもまた、鉄の如しという点だろう。
フェンリルの舎弟として、共に行動しているスコルとハティはこの
ただし、頭の中身も兄貴分とあまり、大差がないので考えがない行動を取るところは一緒だった。
ニブルヘイムにいるからこそ、許される存在と言ってもいいだろう。
その生物の大きさは丁度、牧羊犬として、改良された中型犬種ほどだろうか。
黒い鱗に覆われた長い首と尾は哺乳類に属するものには見えない。
「ニーズヘッグ」
鈴を転がすような声が聞こえ、黒い生き物が足を止めるとやや遅れて、声の主が姿を現す。
「勝手に先に行ってはいけませんわ」
幼かった姿から、少しだけ成長したリリスである。
以前の舌足らずな喋り方は鳴りを潜め、
等身が伸び、手足もすらっとはしたもののまだ、十歳程度にしか見えない。
ボルドーカラーを基調として、フィッシュテールのデザインを取り入れたゴシックドレスは動きやすさを重視しているのか、膝上までしかないものだった。
しかし、素肌を露わにするのを好まないらしく、サイハイソックスとニーハイブーツで極力、肌を見せていない。
陽光に煌めきを魅せる
髪飾りだけではない。
指にも数種類の魔石で飾られたリングを左右合わせて、四点も付けており、同様に魔石が填められているネックレス、ブレスレット、アンクレットといったアクセサリを数多く、身に着けていた。
不思議なのはそれらのアクセサリの代わりに彼女に見られた特徴が消えていることだった。
ドレスの下から、生えていた漆黒の鱗に覆われた竜のような長い尻尾も両手の血の色をした鉤爪も見当たらない。
「どうしましたの?」
「いるーいるー」
週に一度は
不思議な森の遊歩道を一時間ほどかけて、ゆっくりと歩くだけでこれといって、変哲の無い森歩きをするのが彼女にとって、一種のルーチンだったのだろう。
今日も静かな森歩きだけで終わるかと思っていたら、先を行くニーズヘッグが何かを見つけてしまった。
「まぁ?」
「あらーあらー」
ニーズヘッグが見つけたのは遊歩道の脇に置かれた
正確には犬ではなく、狼だったのかもしれない。
しかし、丸々とした胴体と短い手足はあまりにも愛らしく、仔犬にしか、見えなかった。
「わんちゃんですわね」
「わんーわんー」
ニーズヘッグはさもお手柄と言わんばかりに得意気に犬の真似をするものの見た目は翼を折りたたんだ小さなドラゴンである。
どこか、ユーモラスにしか見えないが本人は至って、真面目にやっている。
そんな様子を他所に黒いビロードのように美しい毛並みをした仔犬は、厳しい寒さが身に染みるのか、身体を丸めていた。
「このままではいけませんわ。そうですわ。この子もうちの子にしましょう」
「またーまたー?」
ニーズヘッグは首を傾げ、疑問形の声をあげた。
母親のように慕うリリスに追従する声しか出さない彼女にしては珍しい行動とも言える。
それには理由があった。
ニーズヘッグもまた、育児放棄で捨てられ、命が危ないところをリリスに拾われ、大事に育てられた過去を持っているからではない。
『また、ママの悪い癖が出た』と思っているのだ。
弱っている人間を保護するのもほぼリリスの一存で決まった一件だった。
そのお陰で今まで見たことも無い美味しい物を食べられるようになり、喜ぶべきことなのだがそれとこれとは違うというのがニーズヘッグの言い分である。
今までリリスの愛情を一身に受けて、育ってきたのにこれ以上、愛情を取られてなるものかという心の葛藤があったことに本人も気づいてはいない。
「かえるーかえるー?」
「いいえ。まだ、終わってないでしょう?」
「うんーうんー」
生後間もなく、神々の場所から追い出され、幼少期に生死の境を何度か、彷徨ったリリスは一見するとあまり、幸福には見えない人生を送っているように見える。
しかし、その実、周囲の面々に恵まれ、愛情深く育てられたことで機微に敏い一面があった。
ニーズヘッグの不安な様子を察したリリスは時間いっぱいまで散策を楽しんでから、帰ったことは言うまでもない。
この時、連れ帰った仔犬がガルムと名付けられ、成長してからは地獄の番犬と恐れられる強壮にして、忠実なるリリスの愛犬になることはまだ、誰も知らない。
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