旅路(Ⅱ)

 人々はかつて森の民だった。世界を満たす果てなき生命の園。そこは妖精の領域であり、人は妖精のはらからであり、陽の光と樹々の糧を得て共に暮らしていた。

 だがいつしか森は衰え、多くの妖精と共に地上から姿を消してゆき、後には人の世界が残った。飢えに苦しむ人々は地に麦を植え、国を作り、長き戦を始めた。

 繰り返す戦の内に妖精の記憶は薄れゆき、やがて怖れのみが残った。暗き領域となった森には飢えた妖精が棲み、その魔法は力なき人々を脅かすからだ。


「大丈夫でしょうか、妖精の森に立ち入るだなんて……」洞窟への道すがら、イリーナは不安を零していた。この時代に妖精を恐れぬ者はいない。冥界の旅路を往く彼女もまた。しかし魔女アルマは恐れなども見せず言う。「危なければさっさと退散すればいい」

 イリーナは呆れながら彼女に問いかける。「何か考えがあるんですよね、アルマさん」「当然だ。あの森の妖精はゴブリンのような話のわからない相手じゃない。古き妖精だ。かつてこの地上から去ったと言われる……」首を傾げながらイリーナはアルマの後を付いていく。ラナはその後ろであり、アダマスは殿で馬を引き連れながら冥界の道を進んだ。

 やがてアルマの足は闇の前で立ち止まる。然り、闇だ。冥界の土に光を投げかけていた角灯の火が、洞窟の闇を浮かび上がらせる。「ここは亡者の目を避けるにはちょうどいい場所だった」アルマはそのように話しつつ、アルマは洞窟に足を踏み入れた。彼女に続き、一行は洞窟の奥へと歩を進めていく。

 一見すればこの洞窟は外と変わらぬ暗闇である。しかしその奥底には……。「これは」イリーナは嘆息し、足を止めた。光である。洞窟の奥底に見えたのは、光であった。輝く粒子が舞い、川のように空洞を流れている。光の一つ一つは蜜の如き黄金の輝きであり、優しき熱が篭っていた。「黄昏のようです。このような光景が地下に見られるなんて……」

「すごい、光ってる!」と、常になく興奮を露わにしたのはラナであった。「どうなっているの?」「きみが言うか、ラナ」アルマはくぐもった笑いを響かせる。「ここは地脈、土地そのものの生気が巡る路だ。この領域はまだ冥界の魔力が及んでいない。常なら熱が強すぎて容易には立ち入れない場所だが……」

 生気、生命の源とは常に温かな光だった。そして光の源たるは太陽である。太陽の光が降り注ぐがゆえ大地もまた光を宿していた。しかしこの地は太陽を欠き、地脈の熱もまた薄らいでいる。光が尽きれば闇が顕れよう。その闇とは生ならぬ亡者の源と言えようか。「この場もいつ闇に侵されるかはしれない。先を急いだ方がいいだろう」

 アルマの先導で地下道を更に奥へ進むと、その先には開けた空間があった。光の粒子が滞留し、その光に安らぎを得るように人々はこの空間に集っていた。ケイの使用人の姿もそこにあり、ここに立ち入るイリーナたちの影に真っ先に気が付いたのも彼女であった。「あなた方は……!」

 彼女はそこにケイがいないことを悟った。イリーナは彼女に詫びた。彼女は何も言わず、ただ安息の眠りを祈った。この戦いでケイと共に死していった多くの兵たちにも同じく。彼女と共に人々は暫し、この静寂たる洞窟で祈りのための時を過ごした。

 アダマスは民と同じように瞼を伏せていた。やがて彼はその眼を開く。「皆の者。もはや道は定められた。この儂がケイの遺志を継ぎ汝らを導こうぞ」人々は面を上げた。ケイの使用人がその名を呼ぶ。「もしや、あなたはアダマス老。時折、ケイ卿が町を出て訪ねに行かれていたのは貴方でしたか。……しかし貴方はあの城で、とうに亡くなったはずでは」「然り。儂は既に亡者よ。城を、そして王を守り切ることなく、命を落とした」

 死に追いやられ、戦う意志は折れ、しかしこの地から消え去ることとて叶わぬ、抜け殻の如き者の魂であった。しかし、今は異なる。「儂は己の無念を晴らす。ケイの無念と共に。今こそ、冥界の闇を掃いに往かん」

 その言葉は多くの民と同じ思いであった。彼らは数多の死を見てきた。親しき者、愛する者、守るべき者たちの死を。その無念は、もはや皆が抱える無念であり、死に至っても拭うことのできぬ呪いなのだ。彼らには生も死もありはしなかった。闇が消え去るまで、歩み続けるしかないのだ。「アダマス老……どうか、私どもをお導きください」

 民は皆アダマスの前に跪き、頭を垂れた。異様な空気にイリーナは圧倒される。そして心の内で密かに思った。(私に、その役目は重すぎる。アダマス殿……感謝いたします。私もあなたの導きの下で、共に戦いましょう)


 魔女曰く、この地下道は地脈であるがため多くの場所に通じている。妖精が棲まう東の山脈へも通り抜けることができよう。人々は長き道を歩み始めた。地脈は冥界の停滞した時とは異なり、正常な時の流れの中にある。しかし溢れる生気の光が彼らに活力を与え、時間とともに飢えを覚えることもなかった。

 一日も進んだだろうか。彼らは比較的広い空洞を見つけ、そこで休息をとった。飢えはなくとも疲労は溜まる。沈黙も多いが、人は足を休め取り留めもなく閑談に耽け始めた。

 司法神に仕える僧侶は人々に希望を説き、詩人は騎士の物語を語り兵士を勇気づけた。アルマにも詩の才能があるのか、古今東西の奇妙な伝承を語り子供達を楽しませていた。

 子供達に加わり、ラナは静かに魔女の詩を聞いていた。それは子供のためでなく、彼女が語りたいがために語るだけの言葉だった。しかし不思議と魅力のあるその声に、ラナはおのずと物語に引き込まれていた。

 一方でイリーナはアダマスと語らっていた。彼自身や、騎士ケイ、そしてこの地にあった国の王の話を知った。驚くのは、アダマスがその国を作った部族の長であったことである。「おぬしが背負うその盾は……」アダマスは指摘した。イリーナが背負うその盾は彼より賜ったもの。今は毀れ、鉄屑と化している。

「その盾は我が部族の始祖たる妖精が造りし神器であった。だが気に病むことではない。元より盾を戦に持ち出していたのはこの儂だ。表面に煤を塗り、更には人の血に塗れたその盾から古き神秘が薄れていたのは自明のこと。竜の爪に破れたこととてな……」この老人にドラゴンのことは未だ話してはいなかった。しかしこの盾を引き裂いた爪痕の大きさから悟ったようだ。かの怪物にしかあり得ぬと。

 イリーナは俯きがちに話した。「私はこの盾に幾度も助けられました。あなたであれば打ち直せるかとも思いましたが……」しかし今はそのような場合ではなかった。その上。「儂に直すすべはない」とアダマスは言う。「それは太陽の光により鍛えられし神鉄の盾。人如きが点てた火では、それに遠く及ばぬ」

 だが、と彼の言葉は続く。「これより先、古き妖精の森に辿り着けば手立てもあろう。その盾は儂が預かる。どの道、そのままでは使い物になるまい」イリーナは言われるまま盾の残骸を差し出した。アダマスは深く頷き盾を受け取ると、後は眠ったように眼を瞑る。「この洞窟に満ちる生気は亡者である儂には少々重い。再び発つまではしばし休もうぞ」


 曰く、地底には虫が棲んでいた。虫たちは天から降った輝く星に群がり、光と熱を得て生きていた。やがて彼らは地底から這い出て冷たい大地の竜と戦った。長い戦いのすえに竜は討ち取られ、地上に光がもたらされた。光の下には樹々が繁って森となり、虫たちはその森の中で永く暮らし続けたのだという。

 その不気味ともとれる古い物語をアルマは面白おかしく語り上げ、喝采を得た。ラナも周りを見て拍手する。「楽しいお話でしたね」イリーナが声をかける。彼女も途中から話を聞いていたのだ。ラナは大いに頷きを返した。

「驚きました、アルマさん。あなたにこんな才能があるなんて」イリーナは心からの賛辞を送った。「そりゃ、あたしは天才だから」アルマは鼻白んだように笑う。「このような伝承は百も記憶している。いずれもこの世の神秘を解き明かすには欠かせないことだ……」

 イリーナとアルマが話し込み始め、ラナはいささかつまらなくなった。周囲に眼を向けたとき、既に異変は起きていた。「え……」漂う光の粒子は色褪せ、灰色となっている。静止した時の中に一人、黒蝶は佇んでいた。

「ようやく、見つけた」黒蝶は言った。ラナは後ずさる。異変に気がつく者は誰もいない。二人の世界。二人にのみ知覚できる。それは突然だった。何の境もなく世界が替わった。イリーナとアルマは話し込んだ姿のまま時を止めていた。他の者も同様に。ラナと黒蝶の二人のみがここに在った。「どうして……。イリーナ。アルマ。気づいて、ねえ……!」

「そう恐れないで」黒蝶は微笑を浮かべる。「ここにいる私は、ただの幻。あの魔術師に悟られず幻を送るのは苦労したけれど……」「あなたは誰……?」黒蝶は微笑むばかり。ラナの胸の内に湧くのは恐怖と怒りだった。「あなたが……あなたが巫女ね! どうして町を襲ったの。どうしてあんな酷いことを」「それは、もう知っているはず」黒蝶は導くようにその場から立ち去る。ラナは静止した空間を、人々を見回し、黒蝶の後を追った。「待って!」

 地下道は蛇の腹の中のようだった。そこにもはや光の粒子はなく、暗闇に仄かな輝きを放つ少女が孤独に走り続けるばかり。「思い出して」暗闇に黒蝶の声が響き、ラナは足を止める。「あなたの居場所はそこではない」声に振り向くたび、青く煌めく鱗粉を残して黒蝶の幻が消え去る。「何を言っているの。ふざけたことをしないで!」ラナは光の糸を放った。光と光が衝突し、暗闇から金の瞳が現れる。それは幻でありながら真に迫る光を湛えていた。「なら、わからせてあげる」

 ラナは再び光を放とうとした。だがそれは未だ弱く、か細い力に過ぎない。黒蝶が放つ光がその淡い光を掻き消す。鋭き矢のような光がラナの腕を傷付け、赤い飛沫が散った。「……!」途端、ラナの息は荒くなった。己に流れる血。それを彼女は初めて見たのだ。

「生きた体を持つあなた。熱を持つあなた。私と同じ。私達だけが……」震える体を抑えラナはより強く光を放った。黒蝶の幻が消え、それは瞬く間に二つとなり、二つの光の矢を放った。ラナは光を盾のごとく広げ矢を防ぐ。

 より、強く。より、鋭く。ラナは心を研ぎ澄ませた。光は矢となり放たれ、二つの幻を消し去った。それは瞬く間に十つとなった。

 限りなき幻は嵐となりて襲う。球のように広がった光の盾がラナを守った。絶えず降り注ぐ光の矢の雨に、盾は綻びを生じていく。

 ラナは己の魔力を膨らませる。強く、強く。その身に纏う輝きを。星の如く、陽の如く、雷の如く。傷が癒え、盾の綻びが消える。恐怖が薄れゆく。己の心ではないようだった。

「思い出して。あなたはそこにいるべきではない。あなたは私なのだから……」増大したラナの光が雷となり放たれ、黒蝶が消え去る。次々に生ずる幻を消し去っていく稲妻の嵐。黄金の光が広がり粒子が舞い落ちる。灰色の世界はもはやなく。ラナは、その場に頽れた。煌々と残り火のような光を湛えたまま。

 ……洞窟の中を慎重に探るような足取りの末、ラナの姿を見出したイリーナは急ぎ彼女の元へ駆け寄った。倒れたまま異常な明滅を繰り返すラナの体に触れ、その熱さに驚く。

「見つかったか」アルマが駆け付け、異様なラナの光に眼を留めた。「まずいな、これは」彼女は手を翳し、光と熱を吸収する。ラナの異常な光はにわかに薄れ、苦しげだった息も安らかとなった。「やはり凄まじい魔力だ。彼女にも制御が効いていないようだったね」

「いったい何が……」イリーナはラナの体を大事に抱え上げる。忽然と姿を消した彼女を追ってみれば、既にこのような有り様だった。「敵の襲撃を受けたのか。念を入れて張った結界まですり抜けてくるとは……」アルマは悔しげに爪を噛んでいた。

 しかしラナは敵を退けたのだ。イリーナは彼女が秘める力には大きな関心を持たない。それは己にはおよそ理解し得ぬもの。ただ、彼女の身のことばかりが気がかりであった。「……とにかく、戻りましょう」イリーナの言葉にアルマも同ずる。「ああ。忙しないが先を急いだ方がいいだろうね」

 二人がラナを連れて戻るとアダマスは民を促し再び洞窟を歩き始めた。ラナはイリーナの背で眠っている。だが彼女が目覚めるのはそう遅くはならなかった。「イリーナ……」眠たげなその声を聞きイリーナは安堵する。

「まだ、眠っていてもいいんですよ。ラナ」「イリーナ。もう一度、私の名前を呼んで」「……ラナ。どうしましたか」沈黙があった。そしてラナは。「ありがとう、イリーナ……」ラナは再びイリーナの背で眠りに着く。その眠りは地上に出るまでただ安らかに続いた。

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