黒い巨犬

 洞窟の中に一つの蠢く影がある。

 痛い、痛いと己の頭を抱え、呻き続けている。

 傷はとうに癒えている。だが、忘れられない。己の角を折った者を。それは彼のような妖精にとって誇りにも等しいものであったのだ。

 なぜ失したのか。人間など彼にとって取るにも足らぬ存在であった。同族の内では未だ若かった彼の力でも容易く引き裂ける程度の儚い生命。それに、なぜ。

『痛え……痛えよ……』呻く影に近寄る、もう一つの影がある。『……無様ね、キロス。だから言ったの。一人で狩りに出てはならないと。そのようなこと、下僕の亡者に任せておけばいい。人間には、油断ならない者もいるのだから。たとえば、騎士と呼ばれる者。その者らに、かつての私たちは多くの同胞の命を奪われた。あなたもそうなるのよ』

『巫女殿か』彼は笑った。己を嘲るように。『収穫に来たのか、おれを。おれは、もう』『いいえ。あなたはまだ、壊れていない。ただ、忠告に来ただけ。私の、かわいい弟よ。父より与えられしその命、軽々に使ってはならない』『嫌だね』真赤き影の眼が細まる。『おれは強くならなければならない。下僕など、所詮おれたちの世界に紛れたゴミどもの捌け口に過ぎない役目だ。僕の数ばかり増やそうと、おれは冥界の主に選ばれぬだろう』『愚かね。そのような野心を持つなんて。今に後悔するわ』もう一つの影は踵を返した。靴音は遠くに消え、彼を置き去りにする。彼は喉元から卑屈な笑いを漏らした。

 考えど考えど、理由は判らず頭が痛むばかり。(だが、あの人間は、うつくしかった)彼は思う。美しい生命の色をしていた。彼はその血肉を欲していた。原始的な獣の欲求。強き者の命を喰らい、己が力に換える。ただそれのみが彼の野心を満たすすべであった。


「平服せよ。我はキロス。冥界を治めし貴族が一角」炎を纏う黒犬の言葉が、声を介さぬ思念として伝わる。憤怒と歓喜に満ちた理解し難くも力ある言葉。「貴族の証たるおれの角を折ったは矮小なる魂で贖えぬ罪だ。ただ平服し血肉を捧げよ。それのみがおれという器を満たせし糧となる!」イリーナは返答代わりとばかり突進し猛烈に棍棒を叩きつけた。

 床が砕けキロスは跳躍し後退る。石畳に焦げ跡を刻みながらイリーナを煮えたぎる赤い眼で睨み、その赤い残光を闇に焼き付けながら再び高く跳躍した。

 イリーナは咄嗟に上を見上げる。黒犬は身を捻り炎の車輪めいている。踊るように宙を舞い降る鉤爪。その動きをイリーナは覚えている。

 かつてその一撃によってイリーナは傷を負った。鍛冶師に救われなければ冥界の大気は傷口から生命の熱を奪い、永遠の眠りに付かせただろう。魂は亡者となりて冥界を彷徨い、あるいは冥界に住まう闇の妖精の下僕と成り下がるのか。(そうはならない。決して)

 イリーナは頭上を大盾で庇う。その鋼と黒犬の爪が合わさり火花が散った。

 その一瞬は泥のようにして過ぎ去り行く。盾はその凶爪を、致命の一撃を防いでいた。しかしてなお、重く、重く、鉤爪は鋼を引き裂かんと押しかかった。悲鳴のように伝わる摩擦をイリーナは盾超しに感じていた。己が身が裂かれるかの如く、悪夢のようにして。だが決してその眼を瞑り、背けはしなかった。

 火花は止み、泥化した時間が元の速きを取り戻す。黒犬の凶爪は大盾に防ぎ切られた。イリーナの眼が熱を帯びる。(……殺せ、殺せ)己に言い聞かせながら鈍色に光る棍棒を振り上げ、悍ましき妖精に叩きつけようとする。

 途端、キロスは牙を剥いた。己の角を砕いた、野卑極まる武器。決して看過はできぬ。それが目の前に迫るより先に、牙以って騎士の腕に喰らい付いた。

 イリーナは己の右腕が喰いちぎられる様を想像し冷たい汗を噴き出す。(落ち着け!)己に強く言い聞かせる。籠手が牙の侵食を確かに防いでいるのだ。痛みは幻覚に過ぎぬ。「この……ッ!」イリーナは大盾で黒犬の側頭を殴りつけた。喰らい付く牙が僅かに緩む。二度目を強かに打ち据えられる前、キロスはその牙を離し、苛立ちの唸りと共に跳躍して騎士から距離を取った。

 イリーナは呼吸を深める。常に肌に纏わりつく死の恐怖。いつまでも慣れない感覚だ。だが久しくもあった。戦場は死に満ちていた。現世も冥界も変わらない。イリーナはまだ死の淵を駆け抜けていた。何も変わらぬのだ。

「この程度ですか。野良犬とさして変わりはしない。冥界の貴族が聞いて呆れる」無茶な挑発だと己で思う。だがこの程度。現世に生きる歴戦の騎士に比べれば恐るるに足りない。未熟なのは、己だ。騎士ならば獣の一匹や二匹、退治てくれねば。それぞイリーナの知る、強き騎士の在り方だった。

 黒犬は笑うように眼を歪ませる。「やはり、いいな。おまえは」彼は徐々に理解した。騎士は尋常の人間とは異なる存在。現世の支配種と言うべき者達。その多くは亡者として冥界を訪れる。生きた騎士という獲物がここまで心躍らせるものだと己は知らなかった。

 牙の隙間から火が漏れる。もはや留められぬ。この炎、この熱を。


「離して……!」闇の妖精が姿を現してからまだ間もない。ラナは門番の手を逃れようと必死にもがいていた。あろうことか少女は騎士の身を案じ、助けに向かおうとしていた。「落ち着け嬢ちゃん、ここは危険だ!」手を引く門番が諭そうとするもまるで聞かない。少女にはあの妖精が危険な存在であると判っていた。決して、許してはならぬ存在だと。そして、今まさに妖精と戦う騎士の助けにならねばならないと使命のように感じていた。その理由すら曖昧なままに。

「いま兄貴が助けを呼びに行ってる! 連れが心配なのはわかるが……」その間際の事。突如として災厄が巻き起こった。少女は見る。溢れ出る光、廃屋の外壁を喰い破った炎を。

 冥界の空を覆う闇を嘲笑うかのように、地を舐める炎の舌。あの妖精の仕業であるとは門番にも判じ得ていた。「し、死んじまったのか、あの騎士は……」遠巻きに見ながら、絶望的な言葉がこぼれる。それが聞こえながらも、少女は真っ直ぐに炎を見据えていた。「いいえ」少女にはその息遣いが確かに感じられる。「まだ、生きてる」

 燃え残る炎の中に影があった。騎士は盾を前方に構え、直立している。「馬鹿な……」目撃した門番の男は呻いていた。「盾であの炎を受け流したってのか。し、信じられん。騎士ってのは化け物しかいねえ」呆然とする男を後目に少女は走り出した。そして叫ぶ。「イリーナ、まだ!」(あつい)イリーナは苦しむ。全身が煮えているかのようだった。(まだ……まだ?)ラナの声が聴こえる。目の前の黒い巨犬がその口に炎を湛えている。これはただの獣ではない。人智を越えし、妖精としての魔力。これを受ければ己は死ぬ。これに打ち克てば己が勝つ。単純な話だ。勝負はこの一瞬にかかる。

 イリーナは盾を持ち上げた。眼光がたなびく。続いたのは大気を貫く風音。

 その手を離れた大盾が鉄塊の矢と化して迫る。顎門に炎を湛える黒犬、その眼前へと。「……!」黒犬は赤い眼を剥いた。取るに足らぬ苦し紛れの攻撃か。否。牙を以ってその大盾を防ぎ受け止める。

 閉じられた牙の内に、吐き出されるはずの炎が静かに燻ぶっていた。「おのれ……!」声を介さない言葉が憎悪とともに響く。黒犬は首を凄まじく振って鉄塊を投げ返した。

 イリーナは戦根を握り、走り出した。この隙を逃してはならなかった。空を裂く大盾が迫ろうと決してその足を止めてはならぬ。騎士は腰を落とし、地を抉るように滑走した。その胴体を両断するはずであった鉄塊が頭上を掠めて通り過ぎ、巨犬の喉元へ潜り込む。眼光がぶつかった。騎士は己の体を跳ね上げ、戦根を黒犬の顎に叩き込んでいた。

 いま再び放たれんとした炎の息が逸れ、天井に穴をあけた。黒犬の脳が衝撃に揺らぐ。眩むその視界に怪物が屹立している。両の腕にて棍棒を掲げ、見降ろす騎士。その双眸は殺意に満ちた。「殺……せ……ッ!」鈍色に光る棍棒が頭上に落ちる。落星の如き衝撃。黒い巨犬はその身ごと地に叩きつけられ、床が陥没し、天井は張り裂けた。

 騎士の戦根の一撃は廃倉庫を瓦解させ、その中にあってイリーナは「まずい」と小さく口にしていた。もはや一歩も動けぬのだ。すべての力を戦根に込め、使い果たしていた。このまま黒犬と仲良く瓦礫の下に埋もれるか。己で失笑してしまうような末路だった。

 だが。その時、イリーナは己の体に糸が巻き付いていることに気がついた。どこからか伸びた光の糸は、降り注ぐ瓦礫を宙に縫い留めている。この場の時を止めたかのように。流れる川の水明を思わせる金色の糸の束は騎士を掬いあげるかのようにその身を絡め取り、廃倉庫から引きずり出した。「よかった。無事ね」少女ラナは両腕を広げ、騎士を包んだ光の繭を優しく抱き止める。

 光の糸は解け消え、廃倉庫が瓦解する。黒犬の声ひとつ、その後、静寂が訪れた。

 イリーナはしばし呆然とした。彼女の眼には、ラナという少女がこの世のものと思えぬ美しさに映っていた。人を救う神がいるのなら、このようなものなのだろうと。

 戦いに疲れているがゆえか。その思いは、いささか感傷的に過ぎた。冥界に生者であるイリーナを救う神などがいるはずもないというのに。現世にすら、そのような神など……。何より、ラナはそのような言葉を望んで助けたのではあるまい。「助かりました、ラナ。私、生きてるんですね」イリーナはただその事実を噛み締めた。

 馬の嘶きが聞こえ、駆けて来る。振り向けばそこには、見覚えある騎士の姿があった。居残った門番の男が出迎え、「ケイ卿!」と彼を呼ぶ。馬にまたがり大槍を携えた騎士は周囲を見回し、言葉を呑んだ。「既に、終わったのか」「ええ」イリーナはそう応じる。「お久しぶりです、ケイ卿。いえ、以前からそれほど時は経っていないはずですが……」「若き騎士よ。そなたが闇の妖精を倒していようとは」「イリーナです。アダマス殿からいただいた盾のおかげで生き残れました。あれは、今……」瓦礫に埋もれてしまったか。一抹の寂しさとともに、あの鍛冶師に対する申し訳なさを覚える。

 そのイリーナにラナはひとつ、地面に転がる光の繭を引き寄せた。見やれば、その繭に包まれていたのは黒塗りの大盾である。「おや、これは……」聞けば、ラナが光糸の矢で飛んできた大盾を撃ち落としたようだった。器用な子だとイリーナは感心する。

 一方、ケイの表情はどこか苦々しかった。「……アダマス老がその盾を譲ったか。否、何も言うまい。無事の再会を喜ぼう、イリーナ殿。して、その少女は」問いにイリーナは「この子にもよくわからないようで」とぞんざいに答えた。意識が朦朧としているのだ。話をするより一刻も早く休みたかった。その様子を察したかケイは……「待て」

 ケイは表情を険しいものに変え、槍を構えた。その切っ先は倉庫跡へ向けられている。「まだ、事は済んでいないようだ。休んでいる暇はない」ケイの言葉は正しいものだった。瓦礫の山が内側から撥ねる。そこに見えるは、半人半獣めいたおどろおどろしい妖精の姿。幾分か小さくなった肉体で息を荒げ、その肩を揺らしている。「キロス……」イリーナは恨むようにその名を呼んだ。既に指一本も動かせぬのだ。当然、彼女は戦えなどしない。

 そしてキロスも、もはやイリーナを見てはいなかった。己の限界を、悟っていたのだ。

 もはや彼には冥界で生きる資格がない。魔力の源たる両の角が折れ、器は赤い塵となり、今にも崩れ去ろうとしている。遺る魂は、皆無。崩れればそれまで。彼は己がそのような存在であると、自覚していた。闇の妖精は亡者にも劣る存在。貴族などはまやかしの座。そうと知りながら、己の運命を変えることはついぞ敵わなかった。

(ならば。この役目に殉じ、朽ち果てるまで)父よ御覧じろ。我が炎以って、冥界の闇に一時の太陽をもたらそう。その太陽とて、いずれ燃え尽きる。だが多くの魂を道連れに、貴方の下へ還ろう。そうすれば、一瞥でもいい、貴女はこのおれを、見てくれるはずだ。

 その大いなる眼に、今こそ映そう。キロスは朽ちていく両腕を掲げ、その身のすべての炎を注ぎ、巨いなる火球を生み出す。その前に立つ人間、壁の向こうにある生の息遣い、我が身とともにすべてを消し去ろう。「……死ね。人間ども。この地の再生などという、戯言じみた幻想とともに滅びるがいい」

 その言葉を前に立ち塞がったのは騎士ケイである。騎士は偽りの太陽を仰ぎ、叫んだ。「……否。否だ、妖精よ。何者にも、我らの理想を幻想などと断ずることはできない! どのような業を以ってしても、この地を穢した汝らの罪が雪がれることは永劫にあり得ぬ。この槍を以って、我はその正義を証明してくれよう!」ケイは白馬の腹を蹴り、駆ける。その槍は、鎧は、赤き太陽の下で白銀のように輝いた。

「騎士め……!」妖精の眼が異常に歪んだ。「なぜおまえたちは抗う! いずれは死に、冥界に還るその魂で! 我らが父に逆らおうとするか!」火球が落ちる。落日のように。その炎に呑まれれば、すべては跡形もなくなるだろう。この地に人間が生きていたというわずかな痕跡さえも。(……けれど、騎士はそのようなすべてを護るために在る)

 イリーナは夢の如く見上げていた。騎士が跳躍する様。白馬と一体になったその影を。(それが、武器を持つ私たちの責任であるなら。私も、駆け続けなければならなかった)動かぬと思っていた指が、知らぬうちに棍の柄を握りしめていた。(私も、そのように)

 騎士の槍が放たれる。大いなる風を纏った一撃。その槍は偽りの太陽を砕き、貫いた。風穴が限りなく広がり、火球は解け、消える。

 蹄を鳴らし瓦礫の山に降り立った騎士の背で、妖精は膝を付いて、身を震わせていた。「まだだ……。まだ、終われねえ。おれは、おれはッ!」その胸を、黒蝶のような妖精の杖が貫いていた。

 ケイは振り返り、その様を見て、眼を瞠った。「……そなたは」黒蝶は彼に応えない。ただ杖を掻きまわして、半獣の妖精を弄んでいる。「巫女……殿……ッ」「しぶとい子。与えられたその仮初めの魂、疾く父に還しなさい。どうせもう、何もできないのだから」半獣の絶叫が響く。闇の妖精キロスは肉体を赤き塵と変えていく。そして、崩れ去った。

 後に残る黒蝶は、金色の瞳で生者たちを一瞥する。否。イリーナの傍に立つ光の少女。それのみを凝視していた。(あの妖精)イリーナはその瞳に言い知れぬ違和感を覚える。黒蝶は青い鱗粉を撒きながら翅を広げ、暗闇の中に溶けていった。その去り際を見届け、イリーナはようやく、眠りに落ちる。

 尋ね人は未だ遠い。だが生者の町は彼女を迎え、ひと時の休息を与えるだろう。

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