半熟騎士の冥界くだり

寿 小五郎

鍛冶師の小屋

半熟騎士の冥界くだり


 ある王が死んだ。

 王の魂を現世に呼び戻すため冥界にくだった女がいた。

 その女を追って冥界にくだる女がいた。

 今まさに地獄の入り口に立つ女は騎士であった。快活かつ勇敢なその騎士は鈍色に光る棍棒を片手に、亡者の群なども恐れず暗き荒野へと足を踏み入れる。

 それが如何な無謀であるかも知らぬまま……。


 冷たい夜が冥界を包み込んでいる。帳を降ろした空には星も月も見えず、再び陽の光が昇ることもない。雲すら漂わず慈愛の雨は枯れ果てている。地表には虚無の風が吹き抜け、灰色の草木が揺れる。川は時を忘れたように流れ続け、果ては瀑布となって闇に落ちゆく。いつの頃からか。それは変わることなき亡者の世の姿であった。

 冥界の隅には老いた鍛冶師がいた。切り立った丘の上に木造りの狭い工房を持っている。知る者は少ないが腕はよく、けっして多からぬ客人を相手に密かに生業を営んできた。

 さる夜に彼が薪木を拾うため庭に出ると、丘の下に小さく燈火が見えた。目を凝らして見れば火の主は薄汚れた鎧に身を包んだ旅人である。歩く人影はやがてその身を揺らいで荒野に倒れ伏す。同時にふっと燈火が掻き消え、遠目にその姿は見えなくなった。

 鍛冶師が丘を降って己のカンテラをかざすと、その者は確かに騎士の風体をしていた。硬皮の肩当ては派手に破け、そこから伝って赤い血が右腕を大いに濡らしている。騎士が歩んできたと思しい方からは点々と血の痕が滴り残っていた。「落ち武者か」と鍛冶師は呟く。現世に寄る辺をなくし冥界に彷徨い込んできたか。闇の住民に襲われてなお冥界の奥地へ踏み入ろうとするとは。この地に救いなど、ありはしないものを。

 だが己が手を差し伸べれば、それは僅かなりとも救いにはなろう。少なくとも現世から生きて此処まで辿り着く者は稀だった。この冥界に住まう者は時の流れから切り離され、明けぬ夜のうち永劫の時間を暮らしている。稀人を救うもひと時の気まぐれというもの。手落とされた鉄製の棍棒を拾い、軽々と騎士の身を抱え上げ鍛冶師は丘を登っていった。彼には医術の心得などない。救えぬのならそれまで、冥界で死せば亡者として冥界に迎え入れられるのみぞと心の内で詫びる。

 小屋には鍛冶師しか住まぬため、工房の他に部屋はなかった。使わない道具や鉄くずで雑然とした小屋の隅を除かし騎士の身を横たえる。黒い髪を短く切り揃えた騎士の風貌は一見して若い男のように見えるが、顔だちから女であることはすぐに知れた。(女が戦に出るとは、現世も難儀な世になっているもの)鍛冶師は僅かに眼を眇める。そして騎士の肩当てを外し、そこに目立つ爪のようなものに裂かれた傷を荒っぽく布で締めつけた。


 騎士はその後、小屋の片隅で昏々と眠り続けた。酷く血は出ていたが、不思議とすぐに寝息は安らかとなっている。冥界は暗く、常に冷たい。小屋の外から漏れ入る闇が彼女を薄く包み込む。固い指先が僅かに動き、虚空をもがいた。

 彼女は眠りの中で夢を見ていた。つい先刻、冥界に踏み入ったばかりのこと。そこにはおそろしき妖精の姿があった。鋭い鉤爪を持ち、角を冠するこの世ならぬ者の悍ましき様。荒野には葬られし者たちの骸が塚となって積まれている。それでは飽き足らぬとばかり、怪物は赤く眼を輝かせながら獲物を求めて彷徨っていた。

 騎士は岩の陰に身を隠し息を潜めたが、生者が持つ血と肉の匂いまでは消せなかった。徐々に足音を近づける怪物の気配に彼女は意を決して棍棒を握り……。

「殺せええッ!」己の叫びで騎士は飛び起きた。そして、すぐに悟る。手に握ったはずの棍棒が空となっていることを。「やかましい」と小言を吐きつつ鍛冶師は小屋に戻った。太いその腕には大量の薪の束を抱えている。その薪を無造作に投げ入れ、釜の火がぼうと燃え盛った。

 訝しげに掌を見つめていた騎士はふと顔を上げた。冷たき闇に覆われた冥界の常では滅多に触れることなき優しき熱である。現世を離れて冥界の洗礼を受けたばかりの騎士には、その釜の火がひどく懐かしく感じられた。

「よく生き返ったもの。闇の妖精どもは生者の命を刈ることを生業としている。その傷、けして軽くはなかったぞ」鍛冶師の声音には慈悲と無関心が入り混じっている。あるいは外界より訪れし者に対するおそれなのか。

 騎士は「頑丈だけが取り柄ですので……」と上の空で言葉を返した。それが言い慣れた文句であったかのように。「あの怪物は?」「知らぬな。如何にして逃げ延びた、娘よ」問いに騎士は漠然と答えようとする。「ただ、がむしゃらで……。でも、角を叩き折った感触は確かに覚えてます。こう……」振って、降ろす動作を見せようとして騎士は痛みに表情を歪めた。「傷は癒えておらぬ」鍛冶師は咎めるように言った。

「しばし、養生しておれ。幸いにして儂の仕事はすべて終わっておる。金を叩く音は傷に障ろうて……」その言葉に騎士は眼を細めた。「鍛冶師ですか。ありがとうございます、見ず知らずの私なぞを」女騎士は礼と共に名を述べた。その名はイリーナ・マクレガン。

 対して鍛冶師は一言、「アダマス」と己を名乗った。


 イリーナは祖国の王女を連れ戻しに冥界にくだったのだという。話を聞けばその王女は生者、すなわち死を経ずに冥界にくだった人間であるようだ。その素性に鍛冶師はさして関心も持たぬが、ここは生者が訪れるべき場所でないとは彼も同ずる。「無謀はおぬしも同じことよ」アダマスはそう呟く。「だが人とは無謀なものだ。己が欲のために命を秤にかける。それゆえ冥界は広がりゆく……」くぐもった声で語られるその言葉にイリーナは僅かに首を傾げた。「あなたは、死んでいるのですか」「一度は死んだ。だが未だにこの地に留まっている。冥界とは、そのような場所だ。儂もまた欲を捨てきれぬ者よ」淡々と鍛冶師は言葉を紡いだ。沈黙する小屋の扉が叩かれたのは、そのときである。「ケイだ。頼んでいた鎧を頂戴しに参った」扉の向こうに立つ客人は此方へそのように述べていた。「ようやく来おったか」とこぼしアダマスは大儀そうに立ち上がる。イリーナは既に彼の言葉の意味を問う機会を逸していた。

 迎えた客は壮年の男である。イリーナにも、彼が並ならぬ戦士であるとは体つきを見てすぐに知れた。ケイと名乗ったその男は小屋に上がるとまずイリーナを見て眼を眇めた。「あの者は」「気にするな。ただの怪我人よ」「……そうか。ならば薬を置いていこう」「お人好しめ、偶には己のことを省みればどうか」薬と鉄を貰ったアダマスはぶつぶつと文句を言いながら工房内を巡り、鏡のように表面が光る鋼の鎧を一式担ぎ出す。

 その際にイリーナが「あの人は」と問いかければ、「生者の町の君主だ」とアダマスは簡潔に返した。「生者の町……?」その響きは不思議であった。冥界は亡者の世であるとイリーナは聞き及ぶ。そこには到底似つかわしくない言葉である。だが目の前にあるのは確かに己と同じ生者であるよう。アダマスのように生者と見分けがつかぬ亡者もいるが、ケイはそれとは異なる雰囲気であった。

「君主などと大層なものではない。ただ、己に成せることを成しているだけだ」とケイは語った。手慣れた様子で自ら重い鎧を着込むと彼の姿は一層大きくなったように見える。その肉体に見合う大槍を持ち直せばまさに歴戦の勇士のような恰好だ。だが今は偉丈夫の顔から覇気を欠き、静かに愚痴のような言葉を零す。「アダマス老、あなたこそが我々を率いてくださればよいものを……」その言葉にアダマスは顔を向けず「儂は死んでいる」と返して沈黙した。

 ケイはかぶりを振り、そして今度はイリーナに目を向ける。「旅人よ、現世に寄る辺があるならば戻れ。しかし道理を違えても冥界の奥地へ進まねばならぬ理由があるならば、我々の町を訪ねるがいい。一時の休息くらいは与えられよう」

 親切な言葉にイリーナは礼を述べるより先に、ある考えへ行き当たった。そしてケイに「高貴そうな女の騎士を見ていませんか」と、そのように訊ねていた。「町があるならば、そこを訪ねたかもしれません」ケイは彼女の眼に、切実な思いを感じ取った。

「確かに、見た」と、ケイは告げた。「高貴な身分であったかは知れないが、思い返せばそのような振る舞いだった。私よりもよほど、君主に向いていると見える」

 そう聞けばイリーナはもはや怪我などなかったかのように立ち上がった。「その方は、今……!」しかしケイは彼女を諫める。「落ち着かれよ。その傷で外を出歩くつもりか」イリーナの眼はケイを憎んでいるかのように燃えた。行き場のない感情を他者にぶつける他ない彼女の未熟さがそこに顕れていた。「若き騎士よ。この冥界で生き残るには、己をよく知ることだ。何を成せるのか、あるいは成せないのか」ケイはそう穏やかに告げた。

 イリーナは己が酷く情けなかった。今すぐにでも王女を追わねばならない。しかし今の己にはそれが成せないのだとわかっていたからだ。俯いた彼女にケイはもはやそれ以上の関心を持たぬかのように背を向け、しかし一言だけ言葉を残した。「ひとつ教えるならば、かの騎士はすでに町を去っている。急ぐならば早くに傷を癒すことだ」ケイは扉を潜って常夜の空の下に戻る。イリーナはその背を見送ることができず、ただ固く握りしめた拳に視線を落としていたばかりだった。


 槌が金を叩く音を耳にしてイリーナは瞼を開いた。工房の隅から鍛冶台の方を見やればアダマスが一心に槌を振るっている。「うるさい……」文句を付けようとしたが所詮己は屋根を借りている身なのだと思い直し、イリーナは外の空気を吸うため小屋の外に出た。相変わらず夜であり、日が巡ったという事実はない。だがどこからか遠く鐘の音が響き、確かに冥界における新たな夜の始まりを告げているようだった。

 傷はすっかりと……昨夜の悔しい思いが勿体ないと思うほどにあっけなく癒えていた。体が頑丈だった自覚はあるが、薬もよく効いたのだろう。イリーナは心の内でケイに対し感謝と少々の詫びの言葉を並べた。

 しばらくすると小屋の扉が開き、鍛冶師が顎で「来い」と指し示した。

 訝りながら促されるままに小屋に戻ると、机にイリーナの革鎧一式が揃えられていた。「修理をした。壊れたものを置くのは性に合わぬでな」アダマスの言葉通り、肩当てのみならず損耗の激しかった革鎧は各部が鉄板で補強し直され真新しく生まれ変わっている。これを見たイリーナは吃驚し、唇をわなわなと震わせ「冥界に来るまで路銀はすべて使い果たしていまして……」と正直に言った。

 アダマスは「銀なぞはいらん。冥界では誰も使わぬ」と言って、代価を求めなかった。イリーナにはこれが奇特なことと思えるが外界と隔絶された地にて商売が成り立たぬのは当然のことでもあった。趣味であればこそ彼は冥界の片隅で鍛冶を続けるのだろう。

 イリーナが不器用ながら鎧を身に付け終えるとアダマスは棍棒を差し出し、「戦根とは不愛想だが、悪鬼の角を叩き折るとはあなどれぬものよ……」などとぼそぼそ口にした。「ああ、拾っていてくれたんですね!」愛用の棍棒が戻ってきたことにイリーナは喜び、頬ずりすらする。その棍棒は鋼鉄の頭部と柄によって造られた戦棍であり、彼女が片手で取り回せる程の長さで槍などに比べれば心許ないが力任せに叩けば大抵のものを壊すことができた。イリーナにとっては何よりも信頼を置ける武器なのだ。

 ひと通り装備を整え、彼女は鍛冶師の小屋を見回した。「大変、お世話になりました」「早く行け。おぬしがいると窮屈で敵わん」その言葉が本心であるのか、イリーナは探るようなことをしなかった。どのみちここまでの縁だと思っていたからだ。

 イリーナは再び視線を巡らせ、「あの盾はなんでしょう」と鍛冶師に訊ねた。その眼の先にあるのは小屋の奥の壁に立てかけられた黒塗りの盾であった。方型の立派な大盾だが客人に渡されることもなく、眠るようにして埃を被っていた。「あれは、ただの飾りだ」アダマスは答える。すると不躾に「誰も使わないならくださいよ」とイリーナは言った。軽口のつもりだったが、「……構わぬ。好きに使え」と、アダマスはそう述べたきり何も彼女を咎めなった。イリーナは素直に喜んで盾を手にする。「やった。私も以前は立派な盾を持っていたんですが、戦でボロボロになるまで使ってしまって……」そう語る騎士は苦笑しつつも、すべて過ぎ去ったことと言うように穏やかな声音をしていた。

 右手に戦棍、左手に大盾。イリーナの姿は戦場に向かうかのような出で立ちに見える。それは、現世の戦場を騎士として駆けた頃の彼女の姿でもあったのか。

「では、行って参ります。どうかお達者で」投げかけられた別れの言葉に、鍛冶師は静かに頷いた。扉を開き、イリーナは常夜の地に発っていく。

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