第3話 あの子は持ってる

結婚ができない相手との恋愛は絶対にタブー。


世間の常識としてでは無く、辻家として絶対にタブーなのだ。


母ひとり、子ひとり、という状況で育ってきた佳織はいつからか無意識のうちに、母の存在を背負うようになっていた。


たったふたりの家族だから、一日も早く自立して立派な大人になってお母さんを安心させなきゃ。


いつでも、自分のことは自分でして、心配なんてかけてはいけない。


泣いて困らせたり、怒らせたりしてはいけない。


いつからだろう。


母親は、甘えられる存在ではなくて、自分の守るべき存在になっていた。


この人だけは悲しませちゃいけない。


それなのに、恋に落ちた。


引き寄せられるように、真っ直ぐに躊躇うこと無く。


いつだって娘を第一にしてくれていた母を、一番ひどいやり方で裏切ったのだ。


恋が終わった今も、それだけが、痛みとして残る。


切りだせないまま、恋人と別れたことだけを告げた時の母のあの悲しそうな顔。


・・この人にこんな顔だけはさせちゃいけないのに


締め付けられるように、時がたつごとに鋭く突き刺さる痛みから目をそらすように。


佳織は彼との関係を忘れることに必死だった。


覚えていちゃいけない。


自分だけでなく、何も知らない母親さえも傷つけているような、言いようのない罪悪感。


”ありがとう”と思った。


好きになったことに微塵も後悔なんてしていない。


あの時間は自分に必要な時間だった。


彼と過ごした2年で知った沢山のこと。


それらを無かったことにしたいなんて思ったことなんてない。


大好きだった、彼しか見えなかった、本当にただそれだけだった。


恋しかなかった、現実も未来も捨てられると思った。


世界中敵に回しても、この人だけは、私が守ってみせると。


本気で思えた、本気の恋だった。


「・・・・報われるからってさぁ・・・人を好きになるわけじゃないじゃない?叶わなくても、届かなくても、好きになったし」


少なくとも24歳の佳織にはそれが全てで、満たされて、幸せな日々を送っていたのだ。


まっ白いマリアベールはかぶれなくても。


白いユリの花束をこの手に出来なくても。


それでもちっとも構わなかったのだ。






亜季と佳織は久しぶりに二日酔いになるまで飲んだくれた。


2人そろって憂鬱な顔で出勤してビルの前で別れる。


うだうだと愚痴をこぼしまくる佳織を引きずって家まで連れて帰ってくれた亜季には一生頭が上がらない。


母親は会社の社内旅行で家を開けていたのでタイミングとしては一番良かった。


・・まだ気持ち悪さは消えないけれど・・・


終わった恋の相手に再会した位でグラグラするなんて・・この胸の恋心は死んでなかったのか。


良く言えば、ちょっと眠っていただけなんだろうか?


それに加えて、飛び出してきた懐かしい名前。


亜季曰く”ダブルパンチを食らったような”一日。


目まぐるしく佳織の周りは動き始めたのだ。


これまでが静かに静まり過ぎていたのかと思うくらい、慌ただしくなった身辺にひとりついて行けないのは佳織だけ。


終わった恋と、はじまらなかった恋の間で、ズルズルと行ったり来たりを繰り返す。


永遠にヒロインにはなれない自分と向き合いながら。


でも、それでも良かったのだ、だって願ったのはごくごく平凡な毎日。


誰も傷つけない、泣かせない、そして自分も痛くない。


たとえば次に恋をするなら、みんなに優しく在れるような、そんな穏やかな恋を。


真夏の朝の静かな海のように、穏やかな恋を。



★★★★



「あれ!樋口さん!」


「よぉ久しぶりだなぁ、大久保。仕事どうだぁ?」


これから部下になる後輩を見つけて、紘平は足を止めた。何もかもが懐かしい営業部。


「見ての通り、日々頑張ってますよ」


肩をすくめて見せる瞬の頭を抱え込んで、紘平は快活に笑った。


「そりゃー良かった。上に挨拶行ったら戻ってくるから、さっそく営業展開の打ち合わせな」


「マジですか!?」


「明日から外回り俺も行くから。今日中にやんねーと間に合わんだろう」


「了解っス」


「頼むなー」


そう言って営業部長たちが打ち合わせ中のミーティングスペースではなく、廊下につま先を向けた。


それを見た瞬が慌てて呼び止める。


「っえ!?挨拶って部長は・・」


「そっちは済んだよ。総務行ってくるから」


「総務部!?備品かなんかですか?」


問いかけた瞬に、意味深な笑みを返して紘平は営業部のドアを開けて出て行った。


「え・・・まさか!?」


残された瞬が、一番に思い浮かべたのは最愛の彼女の姿だった。






「佳織ぃー!」


総務部にやって来るなりいきなり呼びつけられて、友世に仕事の指示をしていた佳織は飛び上った。


予記せぬ出来事に目を白黒させながらカウンターを見返すと、やっぱり紘平が立っていた。


2年前と少しも変わらないままで。


つくづくこっちの予定と予想を裏切ってくれる男である。


内心舌打ちしながら、佳織は重たい溜息を付いて友世の肩を叩く。


「ごめん。とりあえず、これで打ち込んでくれる?分かんなかったら後でいっくらでも訊いて」


「分かりました・・・呼ばれてますけど・・・?」


「あーうん・・ちょっと外すから後宜しく」


気遣わしげな表情を向けられて、佳織は不安を打ち消すように明るく振る舞う。


下の人間に動揺を見せたりしたらいけない。


キュッと表情を引き締めてカウンターに向かう。


待っているのは、その顔からは何の本音も読み取らせてもらえない厄介な男。


「・・・・名前で呼ぶなってば」


不貞腐れて眉根を寄せたままでつっけんどんに言い返した佳織を見て、紘平はにこりと笑う。


「何か俺に言うことあるだろ?」


「・・・・・・はい??」


腰に手を当てて言ってやると、彼は小首を傾げてからポンとひとつ手を打った。


「お前煙草やめたんだって?」


「それがなにか?」


「まあ、いいや。一服すっから付き合って」


「・・・・・あのね、こっちはしご」


仕事があって、と言い返そうとしたら、先に腕が伸びてきてカウンターから引きずり出されてしまう。


「心配すんな。俺も仕事は山積みだ」


「いや、私は自分の心配をね」


何を言うのかと言い返すも、紘平は全く気にした様子も無くすたすたと勝手知ったるビルの中を歩いて行ってしまう。


そうして行き着いた先は、喫煙ルームでは無く。


「・・・・ここ・・・」


「相変わらず、がら空きの喫煙所だなぁ」


ビルの裏口にある自販機の前。


「っていうか、ココ喫煙所じゃないからね。ゆっとくけど」


「固いこと言うなって・・・で?」


「・・・・で、ってなに?」


「・・・折角帰ってきたのに言うこと無いのか?」


にじり寄られて、佳織は2年前の感覚をようやく取り戻した。


それはすなわち、言っても無駄。


「・・・オカエリ」


佳織の言葉に、紘平は憎らしい位嬉しそうに笑ってから煙草を取り出した。


「・・・・あ・・・まだそれ吸ってんの?」


「好みはそう簡単に変わりません」


「あー・・・そう」


彼がいつも吸っていた銘柄を思い出してふっと佳織は笑った。


あの頃は煙草を吸う直純達に交じって、一緒に愛用のジッポで火をつけたものだ。


そんな佳織を眺めて、紘平が続ける。


「女の好みも変わんねーよ」


「・・・・・ああ。そう・・」


視線を逸らした彼女を視界に捕えたままで、目を細めて紘平が言った。


「・・・・ふっ切るには時間足りなかったかぁ」


「いえ、全然。煙草もやめたし、仕事一筋に生きてますし、人生謳歌してるのでご心配なく」


「・・うーわ嘘臭ぇ」


「五月蠅いなぁっ・・それであんたに迷惑掛けた?」


2年ぶりに会った同期に何を言うんだ。


頭の片隅ではそう言って苦言を呈する自分がいた。


思い出せばキリがない位、お世話になった時期があったのだ、確かに、間違いなく。


でも、それを素直に認められない自分もいる。


認めてしまったら、あの日泣いた嫌な自分も認めることになる。


もうあんな泥沼はごめんだった。


好きになればなるほど、気持ちは膨らんで幸せになって、1人になるたび泣くなんて。


めちゃくちゃ大事な記憶だけれど。


だけど同時に苦い、苦い思い出でもある。


恋した乙女の自分と、現実を受け入れられない醜い自分がこの体の中に共存していたこと。


・・・・ゾッとするほど、鮮烈な記憶。


紘平は自己嫌悪に入りだした佳織の表情を見逃さなかった。


良くも悪くも佳織は佳織のままだ。


「迷惑かけてもいいよっつってる人間が、ここにいんのにねー」


その言葉にゆっくり瞬きひとつして、佳織はげっそりと腕を組みかえる。


「・・・・役不足。もう戻るよ」


予想通りの反応に紘平は苦笑交じりで言い返した。


「相変わらず気の強ぇ女ぁ」


「悪かったわね。こうでもしなきゃ、ひとりで強くは生きてけないのよ」


そのことを誰より知っている人を、いつも間近で見てきたのだから。

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