CODE1 ぼくの世界(1)

 ぼくは椎名啓太。中学三年生だ。身長も体重も人並み。特に運動神経がいいわけでもなく、成績も中の上。顔だって普通の方。学校では、これまで平和に過ごしてきたんだけど、最近問題を抱えてる。



 朝日の射し込むリビングで、染みのある白い天井を見つめて、ため息をついた。

 既に両親は仕事に出かけ、一人だった。もう学校へ出かける時間だったが、どうにも気が向かず、椅子から腰を上げることができないでいる。

 昨晩、学校をずる休みしていたのを怒られたばかりだった。いつも、仕事ばかりでほうったらかしのくせに、世間体だか、先生の機嫌だかを気にして、登校することを無理矢理、約束させられたのだった。


 母さんは父さんが説教する間、ぼくのことを心配したり、気遣ったりするようなことも言っていたが、全く信用できない。いつもその場限り、表面ばかりで、本当は何を考えているのか、さっぱり分からないのだ。


「なんで、学校に行きたくないのか、聞きもしないくせに……」

 ため息をつくと、胸のペンダントに手をやる。亡くなったおばあちゃんの形見だった。続けて飾り棚に目を移した。家族の写真と並ぶおばあちゃんの写真と目が合う。


「男なんだから、へこたれちゃ駄目だ」

「おばあちゃん……そうは言っても駄目なもんは駄目だよ」

 幼い頃に、おばあちゃんに言われていた言葉が聞こえたような気がした。

 思わず弱音を声に出してしまったぼくは、深くため息をつくと、飲みかけの牛乳の入ったコップをテーブルに置いた。

 そして、ポケットに手を入れ、目をつぶった。


      *


「またかよ……」

 耳からイヤフォンを引っこ抜きながら文句を言う。

 イヤフォンからは、最近聴いている古いロックが漏れ出ていた。スマホのプレーヤーを止めると上履きを探すが、案の定どこにも見当たらなかった。


「嫌ってんなら、ほっとけよな」

 無駄だと思いながら、下駄箱のあちこちを探す。当たり前だが、上履きはどこにも見当たらない。

 あきらめて、硬く冷たい床を靴下履きのまま歩いていると、何かの罰ゲームをやらされているような気分になってきた。


 ちょっとだけだ。嫌になったらすぐ帰ればいい――

 ぼくは、折れそうな気持ちを無理矢理奮い立たせて歩いた。

 気がつくと教室の前にいた。ぼくは大きく息を吐くと、意を決して引き戸を開いた。教室に入ると、それまでのざわめきが明らかに消えた。


 ぼくの一挙手一投足に、クラスの皆が注目しているのが分かった。

 教室の空気を無視して、自分の机まで行って椅子に座ると、すぐに机の上の落書きが目に入る。

 黒の油性ペンで「死ね」とか「クソ」みたいな悪口が書かれていた。いつものことだったが、これだけのことが結構こたえた。


 いじめは、中学3年になった頃から始まり、段々エスカレートしていった。最初は冗談のような軽い嫌がらせだったのが、今ではクラス中から無視され、疎まれていた。


 落書きに反応すれば、いじめグループの奴らの思惑にはまることになる。いらっとする気持ちをかみ殺し、前を向いていると、かすかに何かが頭に当たる感触があった。振り返ると、いつもいやがらせをしてくる奴らがにやにや笑っている。

 小さな紙くずか何かをぶつけてきたのだ。

 無視して座りなおすと、その態度が気に入らなかったらしく、グループの中心、工藤が近づいてきた。背が小さく人なつっこそうな顔立ちのそいつは、見た目とは違い凶暴な性格の持ち主だった。


「何で無視すんだよ」

 無視してんのは、お前らだろうが。心の中で呟きながら、無表情、無反応を決め込む。

「全く、そんなんだからいじめられんだぜ」

 工藤の言葉に合わせるように、周りの奴らが笑った。

 体が熱くなった。工藤を睨み付け、椅子を鳴らして立ち上がると、出口へ向かった。これ以上、付き合ってなんていられない。


「おい!」

 工藤の呼ぶ声を無視して、歩いていると、後頭部に濡れた何かがぶつかった。床に落ちたそれは、びしょびしょに濡れたぼくの上履きだった。

 かっとなった。怒りにまかせて工藤の方を振り返ると、後ろから羽交い締めにされた。


「あらら、何? ぼくのことを殴ろうとした? 暴力はいけませんねえ」

 工藤があざ笑うかのような表情で舌をちろちろと出した。その瞬間、みぞおちに拳がめり込み、嘔吐きそうになる。あいつらのいつもの手だった。腹ならいくら叩いても、跡が残らない。


「さあ、さあ、お仕置きの時間だ。先公が来る前にやっちまおうぜ」

 工藤が、ひどく残酷な顔つきになって顎をしゃくった。それにあわせて、周りの奴らが一気に下品な笑い声を上げた。

「な、何を?」

 手足をばたつかせたが、工藤の取り巻きに机の上に押さえつけられた。工藤が、ぼくのベルトに手をかける。


「いいか啓太? 先に殴りかかったのはお前だ。きっちり、カタは取らせてもらう。腹いせに漏らして、ションベンかけたりするんじゃねえぞ」

 工藤が、下品な笑いを漏らしながらぼくのズボンを脱がせにかかる。

「お前ら、きっちり撮れよ」

 工藤が指図すると、取り巻きの何人かが笑いながらスマホを取りだした。

「や、やめ……や、め、ろ」

 目に涙が溢れ、唇を噛む。こいつら、ぼくの下半身の写真を撮って、新たないじめのネタにするつもりなのだ。


「あれ、これ……なんだ?」

 ぼくの右手を押さえている奴が、声を上げた。

 シルバーのネックレスをつまんでいる。体を動かしたせいで、おばあちゃんの形見が首元からこぼれたのだ。先端のハートのチャームを見て笑い声が上がる。


「女かよ。相変わらず気持ちわりーなあ」

 工藤が邪悪な顔で笑って言った。

「返してくれっ」

 必死に叫ぶぼくをあざ笑うかのようにそいつはネックレスを工藤に渡した。工藤はそれをひとしきり眺めると、床に落として足で踏みつけた。


 おばあちゃん!

 心の底に溜まったどす黒いおりのような感情が一気に溢れ出し、目の前が怒りで真っ赤に染まった。

 右手を押さえてる奴に思い切り噛みつく。

「痛っ。おま、やめろ」

 右手を押さえてた奴が慌てて手を離そうとした。


 やめない。噛みちぎってやる。お前ら、ぼくがやめろって言ってもやめないじゃないか。

 噛みついた口を離さずにいると、そいつが半分泣き声みたいにな声を上げながら、頭を殴りつけてきた。


 左手を押さえていた奴も加勢に来る。ぼくはそっちに目標を変え、がぶりと噛みついた。

「うわ」

 そいつが情けない声を上げた瞬間、足を押さえていた奴らも手を離した。

 周りの奴らを突き飛ばすと、机から降り立った。

「う、うわわおああー!」

 ぼくの口から、意味を成さない叫び声が上がった。


 床に散らばっている椅子の一つを握ると、思い切り工藤に放り投げた。

 派手な音を立てて工藤が倒れる。床に落ちたネックレスを拾いポケットにしまうと、そのまま教室の後ろにある鞄をひっ掴む。

 口を開けてぽかんとしている奴らを押しのけ、出口へ向かう。

 ぼくは後ろを見ずに大きな音を立てて引き戸を開けると、教室の外へと向かって駆けだした。


っ」

 こめかみを押さえ、コンビニの駐車場にしゃがみ込む。アスファルトのざらざらとした感触が、膝に食い込むように伝わってくる。

 目の前が、真っ赤になるほど怒ると、頭が痛くなるということを今日初めて知った。鞄を掴んだ後、どうやって学校の外まで出て来たのか全く覚えていない。


 椅子を投げつけた時の工藤の顔の表情が、頭に浮かんだ。

 あいつ、大丈夫だったのか?

 ――いじめの張本人を心配していることに気づいて、ぼくは自虐的に笑った。

 ふと、空を見上げると、青空に白い雲が浮かんでいた。電線には、たくさんの雀がとまっている。


 今のクラスになったばかりの頃は、あんな感じで何の心配もしてなかったような気がした。実際に、今のようにクラス中から疎まれる境遇になるなんて、想像したことも無かった。


 青空に浮かぶ白い雲が悠然と流れていくのを見ていると、何とも言えない空しさが押し寄せてきた。立ち上がると小石を蹴り上げる。ぼくの突然の行動に驚いた雀たちが空へと羽ばたいていった。

 頭の中から工藤を追い出そうとしたが、次から次へと怒りの言葉が頭に浮かび、気持ちは更に落ち込んだ。


 ふと、おばあちゃんが微笑んでいる顔が浮かんだ。

「男がいつまでもくよくよしてちゃ駄目よ」

 ぼくを諭すおばあちゃんの幻影に頭を振った。叫び声を上げたいのに、上げられない。誰も助けてなんてくれない。


 学校なんて行かなければ済むことだ。あいつらに付き合う必要なんてないんだ――あそこは、ぼくの世界なんかじゃない。

 ぼくは走り出した。

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