第3話

 思ったよりも緊張していたようで、脈も少し速い気がする。


「いくら不慣れとはいえ……」

「何が不慣れなのです?」

「きゃっ」


 すぐそばから声が聞こえ、雪琳は驚きその場に尻餅をついた。その姿に――。


「ふっ……くくっ」

「え?」


 頭上から押し殺したような笑い声が聞こえた気がして思わず顔を上げる。その声の主だと思わしき秀峰は、口元に手を当て「んんっ」と咳払いをした。


「……失礼しました。大丈夫ですか?」

「今、笑いました?」

「いいえ? 雪琳様、お手を」


 真顔に戻った秀峰は、手に持っていたものを地面に置くと、尻餅をついたままの雪琳に手を差し出した。反射的にその手を取りそうになったけれど、笑われたことを思い出し恥ずかしくなる。結局、雪琳はその手を取らず顔を背けた。


「これぐらい、一人で起き上がれます」

「そうですか」


 雪琳の言葉に秀峰はあっさりと手を引く。そして、先程地面に置いた何かを手に取ると、尻餅をついたままの雪琳の隣にしゃがんだ。


 雪琳は慌てて起き上がると、秀峰の手元を覗き込む。どうやら持ってきたのは細い枝のようだった。それを手折られた花に添えると麻紐のようなもので器用に固定する。


「それは今、何をしているのです?」

「これは添え木です。このままだと根元から腐ってしまいますので、添え木をすることで折れたところを繋げ、生き返らせます」

「そんなことができるのですか!?」


 身を乗り出した雪琳の身体を避けるように仰け反った秀峰は、体勢を崩したのかその場に尻餅をついてしまう。その状況に雪琳はいたずらっ子のように笑った。


「手を貸しましょうか?」

「……結構です」


 秀峰は体勢を直すと、麻布の端を結び余った部分を鋏で切った。これで本当に大丈夫なのだろうか。先程までの無惨にも手折られた姿からは支えがある分、幾分かマシに見えるけれども。不安そうに花を見つめる雪琳に秀峰は口を開く。


「あとはこの芍薬の生命力次第です。生命力が強ければ折れた箇所が繋がり再び花を咲かせます。けれど、生命力が弱ければやがて枯れ落ち土に戻るでしょう」

「……シャクヤク?」


 秀峰の説明よりも、聞き覚えのない言葉に雪琳は首をかしげた。そんな雪琳に、秀峰はあからさまに呆れたような表情を向けた。


「この花の名です。ご存じありませんか?」

「恥ずかしながら……」


 後宮に上がるまで花になんて欠片も興味はなかった。養父は官吏だけれど実家はそれほど裕福なわけではない。見栄を張るような養母でもなかったから、質素倹約とまでいかなくても贅沢な暮らしはしておらず、庭には木々が生い茂っているだけだった。


 けれど、そんな雪琳の事情なんて後宮では誰も知るよしもない。必要最低限の知識は頭に入れたけれど、それでも今のようにわからないまま恥をかくことも多々あった。特に桂花宮に入っている女官たちは自分たちより位階の高い雪琳が自分たちよりも稚拙なことを嘲笑うこともあった。もしかしたら秀峰も。不安に思った雪琳は恐る恐る秀峰を見た。


「そうですか」


 けれど、秀峰は事もなげにそう言うと淡々と語る。


「芍薬は今の時期に花を咲かせます。白以外にも桃色のものもあり、甘く爽やかな香りがします。薬などの材料にも使われておりますが、このように観賞用としても人気が高い鼻となります。……何か?」


 呆けたように自分を見る雪琳に気付いたのか、秀峰は眉をひそめると説明をやめた。雪琳は慌てて顔の前で手を振った。


「な、何も。ただ」

「ただ?」

「その、秀峰は私の無知を馬鹿にしないのですね」


 秀峰は一瞬の間のあとため息を吐いた。


「誰かに馬鹿にでもされたのですか」

「それ、は」


 雪琳の脳裏を桂花宮の女官達が過る。クスクスと甲高い声で笑う声が聞こえてくるようだった。


 黙り込んだ雪琳に、秀峰は形のいい眉をひそめると口を開いた。


「後宮はそういうところですから仕方ないと言えば仕方ありません。皆、自分より上の者を煩わしく思い、機会さえあれば蹴落とそうとしている」


 秀峰の言うとおりだ。雪琳は手を固く握りしめると俯いた。そんな雪琳をよそに「まあ」と秀峰が言葉を続けた。


「知らないことなどあって当然なのですから気にすることはないのでは。それこそ雪琳様を馬鹿にした者たちにも知らないことはたくさんあるはずです。まあその者たちが天帝である、というなら話は別ですが」

「……ふふっ。そう、ですね」


 ぶっきらぼうな物言いではあったけれど、秀峰の言葉からはどこか暖かさが伝わってくる。思わず笑みをこぼした雪琳から視線を逸らすと、秀峰は手折られていた芍薬の周りに咲く他の花々を確認していく。まるで気まずさをごまかすかのように。


 無言になってしまった秀峰にどうしていいかわからず、雪琳も同じように目の前の花を見る。芍薬の隣には同じく真っ白な細長い花弁をもつ花が植えられていた。この花の名前はなんだろう。隣に植えられているということはこれも芍薬の仲間なのだろうか。疑問に思いつつも秀峰に尋ねるのを躊躇ってしまう。


「……それは百合です」

「え?」

「雪琳様が今、見ていらっしゃる花です。本来ですともう少しあとの季節に咲くのですが今年は日照りが続いたせいか少し早く咲いていますね。と、いっても一月ほどの差ですが」


 どうして聞きたいことがわかったのだろうか。不思議に思っていると、秀峰は咳払いを一つした。


「違いましたか? その花の名が知りたいのかと思ったのですが。違ったのでしたら出過ぎた真似を……」

「い、いえ。その通りです。今、この花の名を知りたいと思っていました。ですが、尋ねてもいいものか悩んで……」

「知らないことよりも、知らないことを隠す方が恥だと、私は父から教わりました」

「知らないことを隠す方が、恥」


 秀峰の言葉がストンと雪琳の胸に落ちる。今、大切なことを秀峰から教わった気がする。雪琳にとって一生ものとなるようなことを。


「……ありがとう、ございます」

「礼を言われるようなことは、別に」

「他の花の名も尋ねてもいいでしょうか?」

「この庭園にあるものでしたら」


 秀峰の返事に雪琳はパッと顔を輝かせると辺りに咲いていた花の名を次から次に尋ねる。そのたびに秀峰は名前と、それに纏わる小話を聞かせてくれる。


「秀峰は凄いわね。私の知らないことをたくさん知っているもの」

「たいしたことでは。知る機会さえあれば、雪琳様もすぐ覚えられますよ」

「……そう言った機会さえ与えられる者と与えられない者がいる。それが後宮ですもの」

「それ、は」


 諦めた笑みを浮かべる雪琳に、秀峰は言葉に詰まる。そんな秀峰から視線を手元に落とすと、雪琳はパッと顔を上げた。


「秀峰、これは? この花はなんていうの?」


 雪琳は奥に咲いていた真っ赤な花を指さした。その赤色は目を奪うほど鮮やかで思わず触れようと手を伸ばす。


「あっ、雪琳様! それは!」

「……っ」

「雪琳様!」


 雪琳がその花の茎に触れるのと、秀峰が止めようと手を伸ばすのがほぼ同時――けれど、ほんの少しだけ雪琳の方が早かった。気付いたときには指先にピリッとした痛みが走り、思わず手を引く。雪琳の右手の人差し指、その先端からは赤い血が滲んでいた。

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