20

 俺は振り返らなかった。


 そいつはレイの役目だった。


 あいつがいた方をずっと見続けていた。それは姿が見えなくなってからも続いてた。


 目に焼き付けていてるのか。一人の人間の終わり方を。そうであって欲しい。そうであってくれ。あいつは確かにお前を好いていたんだから。


 誰も彼もが忘れ去ってしまってもたった一人が覚えているだけで救われる話だってあるはずだ。俺が勝手にそう思ってるだけでも。


『……タ。……ナタ』


 ざりざりと不快な音がする。途切れ途切れでひどく聞き取りづらいがそれは確かに、相棒だった男の声だった。


 通信機……!


 くそ、両手塞がって取り出せねぇ。


 でも止まるわけにもいかなくてもどかしいったらありゃしない。


 そのまま走っていると開けた場所に出た。小高い丘のような場所。人の姿もないし木の一本だって生えてやしない。見えるのはまん丸い大きな月だけ。


 だからだろう。途切れていた声がさっきより聞こえるようになった。声だけでなく、そこが壊れていく音もより鮮明に。


 通信機を取り出して怒鳴りつけても返事は帰ってこない。ああくそ。機械直すとかそんな知識俺にはないんだっつの。あっちからの一方的な言葉しか聞こえてこねぇ。


『…家………魔女……を…ハルさんに』


 だから、耳を澄ませて聞こうとした。通信機から聞こえてくる周壁やら岩やらが崩れる音なんかも全て閉めだして声だけを聴きとろうとした。


 ハル。ハルがどうしたって。ああもういつまで気絶してんだって責められねぇ。だってこいつ限界寸前だったもんなちくしょう。


 今の俺に出来る限り緩くゆすると気が付いてくれた。


「何も言うな。ただ聞いてくれていればいい」


 何が起きているのか。どうして自分はここにいるのか。一切合切聞きたいことだらけだろうがハルは黙って頷いてくれた。


『お詫びってわけじゃないけど、僕が集めた魔女の知識を君に託したい。出来れば、悪用しない形で』


 ハルの唇がその言葉を忘れまいと繰り返し口ずさみ、なぞっていた。


『レイちゃん。君はまだ何も知らなくて、何も分からないことだらけだろう。世の中には色んな人がいて、色んな考えがあって、色んな生き方があるんだ。


 例えば僕みたいな大切な人を失って生ける屍みたいな人間の生き方。これは本当にお勧めできないよ。後ろを振り返ってはため息ばかりで、笑うことも忘れる様な生き方になってしまうからね。


 だから、そうならないために、失わないために強く在ってほしい。君が僕みたいになるなんて耐えられないからね』


 その言葉の意味をすべては理解できていないだろうレイは、機械の先から話しかけている人の姿を声越しに見ようとしているようだった。無心に無音で言葉を身体の中に記憶し続けていた。


『笑うなんて忘れていたはずなんだよ。


 だけど君が、君が僕の手を握ってくれた。繋いでくれた。それは君にとってはなんの気なしのただの気まぐれだったのかもしれない。


 けれどその瞬間にどれだけが僕が嬉しかったか分からないだろう。


 たったそんなことでどれだけ僕が救われたのか分からないだろう。


 あの子の手を取れなかった僕にとって君は、真っ暗闇の道を照らす優しい明けの星だったんだよ。


 君は全く気にもしてないだろうけれど忘れないでいて欲しい。君の行いが一人の馬鹿に笑顔を取り戻したこと。一人の馬鹿を救ったこと。


 そして願わくは、これからの未来で、君自身が笑顔になれる様な、そんな風に生きていって欲しいかな。


 いや、元気でいればそれでいいかな。なにしろ、君は本当にやせっぽちで目を離すと不安になるからね』


 あいつが今、何を思い、何を考え、何を伝えようとしているのか。必死こいて考えても分からない。だってそいつはあいつが生きてきた道をそっくりそのまま辿りでもしないとどっかに欠けが出る。


 だけど分からないからと理由をつけて分からないままに切り捨てる。そんな真似だけは出来なかった。


 それは多分、レイも一緒だと信じている。


『カナタ。僕は今、胸を張っているぞ。歯を食いしばって立っているぞ。君の言う通りにするなんて癪だと少し思ったけど案外悪くない心地だよ』


 思わず声を上げそうになった。馬鹿かっていつも言ってるみたいに。肺が小さくなったみたいだ。声が上げられない。


 なに笑ってんだよあいつ。なに言ってんだよそんな時に。いつもと同じような口調で話しかけてくんじゃない。


 僅かに喉の奥から息を零した。出来たのはそれぐらいで。じっと届いてくる声に耳を傾けていた。


 あぁと、生きてきた年月全てに込めた思いを解放するような息が零れた。


『サラ。


 僕は君を救えなかったけど。


 君を取り戻せなかったけど。


 たくさん後悔したけど。


 たくさん間違えたけど。


 誓いを違えてしまったけど。


 それでも――僕は僕なり生きたって伝えたい。


 そうしたらまた僕の手を取って一緒に――』


 硬い宝石が甲高い音で砕け散る音。


 雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。雑音。


 だけど俺の周囲は風一つない無音。時は止まっていない。月の光は柔らかく注いでいる。あいつがなんとかやってくれたんだろう。


 レイは手に取った通信機を握りしめて見続ける。


 ハルはそんなレイを抱き寄せて。


 俺は――たぶん不愛想で不景気な面を晒してんだろうな。


 終わったんだ。


 全部。


 何も言葉に出来なかった。色んなものが渦巻いているのになんにも形に出来ずに身体の中で混ぜっては溶けて合わせてまた離れてを繰り返している。


 終わったんだからさ。


「よぉ」


 今更、出てくんじゃねーよお前、しつこ過ぎる。


「あの小僧。くたばっちまってやんの」


 そうだな。まだあの場所がどうなってるか分からないけど。たぶん、見に行くことも出来はしないけど。あいつはもういない。


「どうしたんだよ元気だせよ。お前らの敵がくたばったんだぜ。白の魔女も消えちまったしお前らは生きてるしで万々歳じゃねーか」


「……ろ」


「願いを叶えられもせずあげくに情に絆され流されて、あいつ、何のために生きてたんだろうな」


「…めろ」


「どこまで行っても中途半端。みじめな敗北者のままくたばった。なんの意味もなく価値もない奴だった。クソ受けるぜ」


「やめろっつってんのが聞こえねぇのか!」


 身体はとうに壊れる寸前のはずなのに、その拳は何よりも速く強かった。


 腹にめり込んだ。ただの力任せ。だけど肉を貫いて骨を砕いた感触が確かにある。


 ぐつぐつと煮え立つのは紛れもない怒りだ。そうだ。あいつの命を、生き方を、貶す権利なんてお前にはない。


「カハハッ。いいねぇ小僧。最初に殺りあった時よりも鋭くなってんぜ」


「なにをしにきたんですか」


 温度を感じさせない無感の声音はハルだった。


「後始末さ。お前は俺と来い。魔女の血はなくすには惜しい」


「お断りです」


「俺はいいんだぜぇ。手足の一本や二本もいだって死にゃしねえからな。お前、治せるんだろ」


「それが脅しになると思っているんなら程度が浅いと言わざるをえません。心臓の一つぐらいもぎ取るぐらいは言ってください」


「面白れぇ。その形のいい胸むしり取って食ってやろうか」


 ハルが冷たい怒気を滾らせて前に出た。


 ちょうどいい。俺もむしゃくしゃしてたんだ。後先なんぞ知らん。こいつは、こいつだけは、今、ここで殺しやらないと気が収まらない。きっと後悔する。


 星律を知らない? 同じ舞台にいない?


 一切合切知るかボケ。自信満々で俺は強いと全身で主張する糞野郎をぶちのめしてやる。


 何が何でも生きる。そいつは確かに大事だ。ここで退けば譲っちゃなんねぇ一線を譲っちまう。後ろを振り向いてああしたら良かったこうしたら良かった挙句にあの時に戻れたらなんて思っちまったらあいつに顔向け出来ん。


 なによりこの感情がぶちまけられるならもうなんでもいい。好戦的な気分のまま俺も踏み出した。


 だけど気づいた。


 この場の誰よりなにより嚇怒していたのは――。


「あ~ん? ガキがいっちょ前に怒ってますアピールか?」


 レイは答えない。


 ゆったりと、いつもと同じ挙措で。


 ゆらゆらと、いつも通りの危なっかしい足取りで。


 しかし目が違う。灰色の瞳に夜闇色の雷雲を宿らせていた。


 雰囲気が違う。全身から一つの意志を告げていた。


 レーヤダーナ・エリス。神さまになれなかった子ども。それはなぜか。一つの心だけは失えなかったからだ。


 もし女神が真に存在するというのならよりにもよってどうしてその心だけを宿らせたのか。


 心の名は怒り。


 レイを中心に光が集まって渦を為していく。巨大な一つの星を取り囲む天体のように見えた。幻想的で、幽遠で、荘厳で、なにより凄絶だった。


 その光に穢れの一つもない。


 俺もハルも、あの白の魔女とぶつかったアスベルですら言葉を放てずに目の前の何かを凝視するだけだった。


 レイが一歩踏み出すと、光が頭を垂れて付き従う。全ての光はレイの下僕で、レイは彼らの主だった。


「……やめろレイ!」


 俺の言葉は届かない。このままいけばどんなレイがどんな風になるか分かっていても止められない。


「それを使うな!」


 止まらない。止められない。止められるわけがない。


 ざ、ざ、ざ、と。世界が色を帯びる。世界が慄く声を上げていく。


「……どんな星の祈りだ。分かんねぇ、分かんねぇが」


 アスベルが向かい合わせに歯をむき出しにして笑う。


 レイは祈ってなんかない。動物も植物も祈りなんで行いはなない。祈りというのは願望だ。そこには大なり小なり混沌とした願望が混ざっている。


 ああなりたいこうなりたい。ああなってほしいこうなってほしい。俺はこうありたい。お前はこうなれ。こうであれ。そいつに宿る願望が。


 だけどそこには何もない。


 あるのは真っ白で透明なたった一つの――。


「は、は、は。なんだこりゃ見たことねぇ。笑えるぜ。エリスの奴らやりやがるじゃねえか。これが人の手で作った落とし子ってか」


 違う。レイは落とし子なんかじゃない。それはもっと別の何かだ。


 人というには外れすぎて、天使というには凶を宿し、悪魔というには清廉で、神の呼び名には相応しくない。


「……俺が引いたなんてあっちゃいけねぇ。たった一つの星になる俺が、こんな餓鬼に気圧されたなんてあっちゃいけねぇ」


 アスベルの声が低くなる。


 やめろ。それ以上、敵意や害意、殺意を見せるな。俺は知っている。人が、人に相応しくない神の性を宿した時に何が起こるのか。


「惨めな小僧一匹くたばってぶち切れたぐらいで俺がどうにかなると思うなよ」


 それが、奴が自分自身の処遇を決定づけた一言だった。


 レイを空を見上げた。満天の星空。雲一つない清澄な夜空。星々を従える満月。


 駆け出した。止めなくてはならない。あいつをあのまま行かせてはならない。


 閉ざされていた赤い唇が動く。


 焼け爛れた喉が開く。


 封ぜられていた声が響く。


 音のない音が世界に放たれる。


「     」


 ハルもアスベルも耳を抑えて倒れ伏した。きっと誰もがそうなる。耳が聞こえずともそうなる。そうならざるを得ない。


 俺はレイに縋りつくようにしていた。


 小さくて骨ばった体はそのままに、今は全く別の何かが宿っているように恐ろしく力強い。


 心が、意思が、魂が平伏するより他に無しと告げる。世界すらも恐れ戦き怯える様にどうして抗える。歯向かえない争えない。人であるのなら従う他に道は無し。


 俺の知る言葉ではない。古代文字を読み上げているわけでもない。俺が知るどんな言葉とも違う。そもそも本当に言葉なのかもあやふやで、音として響いているのかすらも不可知。


「     」


 遠い夜空の彼方に浮かぶ俺たちを見下ろす冷たい月とその供たる星々から落ちる光の雨。


 感じられたのは、真っ白で透明なたった一つの心。


 即ち、怒り。翻って覆滅の絶対意志。


 レーヤダーナ・エリスは己の内に宿した光を穢す者を赦さない。故にアスベルは破滅する。


「     」


 耳を劈く轟音と瞼の裏を焼く白い光。身体を襲う衝撃。ぶわりと分厚い空気の壁に包まれたような。だから揺れさほどない。


 時間にしてみれば一瞬で、恐らくは一秒そこらもなかったかもしれない。


 耳の奥でわんわんといつまでも獣の遠吠えが鳴りやまない。目は視界を失って真っ白なんだか真っ暗なんだか分からない。身体の感覚も消え去った。


 次第に取り戻されていく視界。けれど靄に遮られて何も見えない。


 次第に取り戻されていく音。けれど静かすぎて何も聞こえない。


 それはある意味、心が現実を受け入れる為の猶予を与えてくれたんじゃないだろうか。


 靄が晴れて現れた光景に身震いする。


 さっきまで俺が見ていたのは見渡せる空で月があって星があって、人の手こそ入ってないけど自然の造形そのままの綺麗な丘だったはずだ。


 それが今は無数の穴で無残に傷つけられていた。大きなもの小さなものがそこら中に開いていた。どれだけ深く穿たれのか穴の底はまるで見通せない。


 戦場とはまるで違う。爆弾が爆発したのならもっと破壊的で雑な景色が作り出されているはずだ。だけどこれは違う。破壊というよりも喪失。不自然すぎるのに元からそうであったみたいな静けさだった。


 空を見上げるとそこには変わらない大きな月と何かの影が落ちてくる。雲か鳥か。違う。かろうじて人の形を為した影。アスベルだった物だ。それが落ちてきた。


 あれはもう生きていないだろう。遠目ながら身体中が穴だらけだった。胸や腹は言うに及ばず頭の半分も吹き飛んで手足はほとんど千切れていた。それで生きていられるわけがない。


 それにあいつなんかどうでもいい。


「………………レイ!」


 この腕の中にいる小さな子ども。レーヤダーナ・エリスがぐしゃぐしゃに使い古されたボロ雑巾のように崩れた。


 身体から骨がなくなったみたいにくしゃりと潰れ、通っていた血も命と一緒に流れ出ていくようだった。


 傍目に見てもそれはどうあっても助からず死を待つだけの体に見えた。それでも息があった。あってしまった。


 それを俺はふざけるなとどうして楽にしてやらねぇと声を大にして叫びたくもあって、だけど生きている事実が何よりも嬉しくあって、馬鹿そのものに硬直しているしかなかった。


 レーヤダーナ・エリス。


 心を宿すゆえに神さまになれなかった子ども。


 人でなく、天使でなく、悪魔でなく、神さまでもない。


 全てが継ぎ接ぎされたようなそれ――曰く、怪物だった。

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